四月も数日が過ぎてここ神山にも遅い春がやって来た。桜もポツポツと咲き出していた。今頃からは農家にとっても重要な時期だ。それぐらいは俺でも判る。
 個人的には新学期が始まっていたが、果たして今年は入部してくれる新入生がいるだろうかと考えた。通常なら部長だって下級生に譲っているはずだったが、今日現在、古典部の部長は千反田がやっている。そんな事を考えながら古典部部室の特別棟四階の地学講義室に向かう。
 扉を開けると千反田の他に里志や伊原も揃っていた。俺が来たのでこれで古典部は全員揃ったと言う事になる。特に里志が居るのが意外だった。総務委員会の仕事があるのかと思ったからだ。
「やあホータロー。授業が終わってから随分時間が経っていたから、今日は来ないのかと思ったよ」
「ふくちゃん。きっと何時もの気まぐれよ。そうに違い無いわ」
 里志の隣で伊原が相変わらず鋭い事を言う。そう、正直に言うと今日、ここ古典部に寄ったのは気まぐれ以外の何物でもなかった。
「まあまあ摩耶花、何でも四人が揃うのは悪い事では無いよ」
 里志がそう言って伊原をなだめた。
「お前は総務委員会はいいのか?」
 先程の疑問をぶつけると
「ああ、もう三年だからね。もうすぐ役員の改選があるから、僕の副委員長もお役御免なのさ。形だけは三年生も残ってはいるけど、殆どOB扱いなんだ」
「そうなのか、もう三年生か……早かったな。この前の事だと思っていたがな」
 考えていた事が口をついて出てしまったみたいだった。
「入学したことかい? それはそうだけど、未だ早いんじゃ無いかな。少なくとも卒業の時に言う言葉だよね」
 里志の言葉を耳にして、自分の言葉が外に出ていた事を知った。
「あ、いや何でも無い」
 実は俺が思っていたのは、入学からの事ではなかった。何時もの自分の席に座る。すると、それまで黙っていた千反田が自分の荷物から何かを取り出した。見ると何やらオレンジ色の球体だった。
 千反田はそれを一つ一つ里志や伊原に手渡した。そして俺の所にやって来た。
「実はこれはオレンジの新種なんです。アメリカのバレンシアオレンジよりも甘く、何より簡単に皮が剥けるのです。試験的にウチのハウスで育てていたのですが、この春に採れたので皆さんに食べて戴いて、感想を戴けたらと思って思って来ました」
 千反田は昨年の夏に色々とあって、俺も多少それに関わったが、本題の本質は未だに解決してはいない。何より千反田の方向性が未だはっきりと決まっていないのだ。相変わらず農業関係に進みたいそうだが、今更進んでどうなると言うのが俺の正直な想いだ。
「折木さんも食べてみて下さい」
 千反田は俺の前に立つと、紙袋から二つのオレンジを机の上に並べた。
「何で俺だけ二つなんだ」
 何でも無い疑問だったが千反田は少し狼狽えて
「あ、あのお姉さんの分です。お姉さんにも食べさせてあげて下さい」
 そう言ったが、それなら里志にだって妹は居る。
 まあ兎に角食べてみないことには感想も言えないので、早速食べさせて貰う事にする。
 確かに皮はすぐに剥ける。みかんと同じぐらい簡単だ。これは評価出来る。バレンシアオレンジも良いがナイフが必要なので、みかんがあれば、そっちを選択してしまう。
 続いて房を一つ分けて口に入れる。確かに甘い。それに口の中でオレンジの香りが広がり鼻に抜けて行く。そのおかげで口の中が甘いのに爽やかさが広がるのだ。
「うん! 千反田さん。これはいいね。甘くて爽やかで、その上簡単に食べられる。僕は好きだな」
 里志が目を輝かせて感想を言うと伊原も
「うん本当に美味しい。しかも驚くほど食べやすいから、あっという間に食べてしまうわ」
 そう言って夢中で食べていた。三人の視線が俺に向かられる。俺にも何か感想を言えと里志と伊原が無言の圧力を掛け、千反田は目を輝かせて俺の感想を待っていた。
「そうだな……ほんと、食べやすくて甘いのに香りが鼻に抜けるので妙に爽やかなんだ」
「折木、妙に爽やかって言い方はおかしく無い?」
「そうか?」
「まあ、摩耶花の言う通りだね。妙にと言うのはこの場合は使うのには相応しく無いと僕も思うね」
 二人に攻撃されてしまった。横を見ると千反田が笑っている。
「でも、折木さんのその気持判ります。わたしも最初に食べた時は同じに感じました」
「ちーちゃん。折木を甘やかしては駄目よ」
 伊原の隣では里志が笑って頷いている。それを眺めながら俺は残りのオレンジを口に入れた。甘酸っぱくて切ない感触が襲う。これはこの爽やかが俺には似合わないからだろう。
「千反田。このオレンジの名前はあるのか?」
「まだ正式な名前は決まっていないそうです。いずれ発売が決まれば名前を公募すると思われます」
 そうなれば、この新種が神山で栽培されれば良いと思った。だが採算的にはどうなのだろうか。新種で珍しいとは言え、柑橘類は日本では山ほどある。しかも安価で輸入物のバレンシアオレンジやネーブルオレンジが出回っている。この新種にそれらを打ち破る力があるのだろうか? いつの間にかそんな事を考えていた。

「どうしましたか?」
 千反田の声で我に返る。気がつくと里志と伊原が帰る支度をしていた。
「ホータロー。千反田さん。今日は摩耶花の買い物に付き合うので、お先に失礼するよ」
「ちーちゃん、折木また明日ね」
 二人は手をひらひらさせて帰って行った。
 二人だけになると千反田は俺の隣に越して来て、袋からもう一つオレンジを取り出した。
「折木さんに二人あげたのは、二人だけで一緒に食べたかったからなんです」
 千反田は俺と並んでオレンジの皮を剥きだした。そして房をつまむと
「折木さん口を開けて下さい」
 いきなり、そんな事を言う。何をするかは判った。つくづく里志と伊原が帰っていて良かったと思った。仕方が無いので言われた通りに千反田に向かって口を開けると、その口にオレンジを入れた。先ほどと同じような爽やかな感触が体を抜けて行った。
「どうですか?」
 千反田は自分の分はさっさと食べてしまった。俺も房の一つぐらいは千反田に食べさせたかった。仕方ないので感想だけを言う。
「ああ、お前に食べさせて貰うと先ほどより美味しい気がするよ」
 正直に言うと千反田は喜んでから何か意味ありげな表情を浮かべて別な紙袋から何やら取り出した。
「折木さん。今日は何の日かご存知ですか?」
 突然突飛な事を言う
「今日は四月十四日だ。平凡な日常だが、それがどうした?」
 二月や三月の十四日なら特別な日なのだろうが、それでも確か千反田家では多分何も無い日なのだろう。
「今日はオレンジデーです」
「オレンジデー? そんなものがあったのか。全く知らなかった。それで、それはどのような日なんだ」
 俺が知らないと言う事は千反田には判っていたのだろう。嬉しそうな表情をした。
「オレンジやオレンジ色のプレゼントを贈り、愛し合う二人の愛を確認し、より高める日なのです。ヨーロッパではオレンジは花と実を同時につけることから愛と豊穣のシンボルとされオレンジの花は花嫁を飾る花として頭につけるコサージュに使われるのですよ。それで……」
 千反田は先程の紙袋から白い花の花束を取り出した。
「これは先程食べた新種のオレンジの花です。先程も言ったように、オレンジは実と花を同時につけるので、実を採る時に花も戴きました。折木さん。わたしは先程オレンジを折木さんに贈りました。今度はわたしのことを想ってくださるなら、この花束をわたしに贈って下さい」
 俺はこの時になって初めて千反田の真意を理解出来た。
「判った。千反田。喜んで贈らせて貰うよ」
 俺は机に置かれた花束を千反田に贈った。千反田は嬉しそうにそれを受け取ると
「オレンジの花言葉を知っていますか?」
「いいや。知らない。何か特別な意味があるのか?」
「オレンジの花の花言葉は『花嫁の喜び』です」
 そう言った千反田の嬉しそうな表情は一生忘れないだろう……。
OrangeBloss_wb
 あれから随分経った。今日俺は改めて最愛の人にオレンジの花束を送った。
 階段を静かに白いベールを被り白いドレスを身に纏った千反田が降りて来る。手には俺の贈ったオレンジのブーケがあった。
 そう、今日は二人の結婚式なのだ。俺と千反田は千反田の農業は継がなくても良かったが、やはり名前は出来たら千反田を名乗って欲しいと鉄吾さんに言われた。
 元よりそのつもりだったから、構わなかった。千反田奉太郎を名乗る事に抵抗はなかった。
「おまたせしました」
「ああ、でもやっとこの時が来たな」
「はい。そして本当にオレンジのブーケを贈ってくれるとは思いませんでした」
「あの時の事を覚えているかい」
「はい。はっきりと覚えています。正直、奉太郎さんは忘れていると思っていました」
「あんな大事な事を忘れはしない」
 この先、辛いこともあるだろう。涙を流すような出来事もあるに違いない。でも俺はお前の涙もろとも受け止めてやりたい。そう、喜びも悲しみも、お前のすべてを……素直にそう想った。
 そっと手を出すと千反田がそれに応える。式場の前では鉄吾さんがバージンロードを歩く準備をしていた。
『花嫁の喜び』……この言葉を改めて胸に刻む。
 いずれ水梨神社での式も行うが、どうしても俺はこの四月十四日に千反田にオレンジのブーケを贈りたかったのだった。


                    このシリーズ 終わり