春の暖かい日を選んで千反田が俺のアパートに引っ越して来た。元々俺はロクな荷持も無いので部屋の空間という空間は千反田の荷持で埋め尽くされてしまった。
「嫁入りみたいなものですから」
真顔でそんな事を言う千反田に
「籍も入れたら式や披露宴もやらなくてはな」
そう言ったところ
「そうですね。父があんなに簡単に許してくれるとは思ってもみませんでした」
そう言って少し憂いた顔をした。
先日、雪の残る陣出の千反田家に赴いて、鉄吾さんに正式に挨拶をしたのだ。その席で
「えるさんとの結婚を認めて下さい」
そう申し込んだのだ。鉄吾さんはすぐに
「不束かな娘ですが、よろしくお願い致します」
そう言ってくれて、一番大事な問題は思ったより簡単に片が付いた。少なくとも俺はそう思ったのだが千反田はそう考えていないらしい。それからの千反田は何か考えている表情を見せるようになった。俺はそれについて思い当たる事もあるが、確信は持てなかった。
「来年、博士過程に進んだら籍も入れて式も挙げましょう」
一応はそんな約束をした。俺は実は鉄吾さんが簡単に一人娘を嫁に出すとは思えない事が千反田の考えている事では無いかと思っている。
俺は、一応「家を継がなくても良い」と述べたとは言え、本当は千反田の名は残したいのではと思っている。
「跡を継がなくても良い」の真の意味は「農業を継がなくても良い」ではなかったかと思うのだ。俺は千反田が研究室から帰って来て一緒に食事をしながら、その事を問うてみた。
「やはり折木さんも、そう思いますか? じつは、わたしも同じなんです。家業の農業と名前を存続させるのは父は別物と考えているのでは無いかと思うのです。その場合、折木さんの家にもご迷惑を掛けてしまうと思うのです」
やはりそうだったと思った。茶碗を持つ手を食卓に置いて千反田は暗い表情を見せた。
「心配するな。俺は千反田奉太郎になっても一向に構わない。折木の家はどうでも良い。特別由緒ある家でもないしな」
「そうなんですか? お家(うち)の方はそれで良いのですか?」
「当たり前だろう。旧家の一人娘と一緒になるんだ。それぐらいは考えているさ」
確かに、地方の資産家で旧家の一人娘には婿候補を探すのは大変らしい。この前帰省した時も、神山市役所に勤務している里志が、
「過疎と言う側面もあるけど、今は本当に旧家の大農家と言えども婿のなり手が無いからね。市役所も色々イベントを仕掛けてはいるんだけどね」
そんな事を言っていた。
「それはきっと今は言いませんが、当然そう考えていると思っています。でも、わたしは折木家に嫁ぐ気持ちですが、きっと父は折木さんに形だけでも千反田を名乗って欲しいと言い出すと思うのです。それを考えると少し憂鬱になります」
シチューを口に運びながらそんな事を言う千反田をテーブルの反対側に座って眺めていると、一緒に暮らしてると言う実感が湧く。
「折木さん。そのままにしていて下さい」
不意に千反田がそんな事を言ったかと思うと、脇に置いたティシュで俺の口元を拭ってくれた。
「あ、ありがとう」
「ふふふ、折木さん。ちょっと子供みたいでした。口の脇にシチューを付けて、何か話してるのは、何だかちょっと可笑しかったです」
一転して笑顔になった千反田に
「そんなに心配するな。俺なら何時でも千反田を名乗ってやるよ。俺にはわだかまりは無い」
「ありがとうございます! 嬉しいです」
これは俺の個人的な想いだが、恐らく俺はこのまま行けば、折木から千反田に姓が変わる事になると思っている。千反田農産を経営しなくても、鉄吾さんが亡くなった後に千反田の人間が誰も居なくなるのは良くない事ぐらいは俺でも判る。千反田の心配もその辺りだったのだと思う。
食事の後片付けを千反田がやろうとしているので
「片付けは俺がやっておくので、今日は遅かったから疲れているのじゃないのか? 風呂を沸かしておいたから先に入ったらどうだ?」
そう言って先に風呂に入らせる。年度が変わり、研究も新しい分野が増えたらしい。千反田は詳しくは言わないが、顔に出る質なので簡単に判る。
「ありがとうございます! いいのですか?」
「ああ構わない」
夕食の器を洗っていると浴室から千反田の鼻歌が聴こえて来た。何の歌かは判らないが気分良く歌っている。千反田の気持ちが晴れたならそれで良いと思った。
千反田が上がって来た。頭にはタオルを巻いている。パジャマのボタンの一番上が外されていて、胸元が紅く染まっているのが判った。俺の視線を感じたのか
「あまり見つめないで下さい。上はパジャマの下は何も身につけていませんから……。それより折木さんも入ったら良いですよ」
もとより千反田の胸元を見たかった訳ではない。第一その気になれば……よそう。
「判った。入るよ」
そう千反田に告げてタオルを持って風呂に入る。頭や体を洗いシャワーを浴びて湯船に入る。湯の中に疲れが溶け込んで行く様だ。
湯から出ると千反田が新しい着替えを用意してくれている。こんな時に一緒に暮らしている幸せを感じる。
着替えて部屋に戻るとアイスコーヒーを用意してくれていた。自分はアイスティーを飲んでいた。
何もかもが俺の事を考えていてくれている。一緒に暮らすと言う事は、この様な事なんだと理解した。
寝る時は独身の頃はパイプベッドを使っていたが、千反田が来てからは布団を引いて並んで寝ている。尤も朝になったら一緒に寝ているのだが……。
幸せを感じるのは、朝、俺の方が早く目を醒ました時に目の前に千反田の寝顔がある事だ。これを見られるのはこの世で俺だけだと思うと悪くないと思う。
布団の中で俺の胸元で千反田がため息混じりに呟く
「わたし、怖いぐらい幸せです。昨年の十二月までは一人で研究だけの暮らしをしていたのに、春にはこうなってるなんて本当に怖いぐらいです」
「それは俺も同じさ。でも怖がらくても良い。これからは絶えず俺が傍に居るから」
「はい。嬉しいです」
千反田はそう呟くと両手を俺の背中に回した。
春になった今宵は短く感じるだろうと想像した……。
<了>
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