新しい年が明けました。今年は歳女でもあります。本来なら神山に帰って水梨神社で歳女のお祓いを受けなければなりません。現に前の時は父に連れられてお祓いを受けました。それが千反田を継ぐ者の慣わしだったからです。
 でも今のわたしは、もうそんな事もしなくても良い身になったのです。家を継ぐ事がなくなり自由の翼を貰ったのです。でも、飛び方を知らないわたしは、幾つもの過ちをしてしまいました。
 現にお正月だと言うのにこうやって大学の研究室に閉じ篭っているのです。教授も
「千反田君、二三日なら実家に帰れるからどうかね」
 そう進めてくれましたが、気が進みませんでした。今更帰っても何があるのでしょうか?
 家の農業は組織化され会社組織となりました。株式会社「千反田農産」。
 これが今のわたしの実家なのです。そこには既に農業のプロと呼ばれる方が大勢入り、わたし等が入れる余裕はありませんし、父もそれを望んではいないと思います。
 そして、もう一つの大きな理由……わたしが神山に帰りたく無い理由。
 それは、高校時代に唯一と言って良い程心を通わせた人……その人が今は神山には居ないからです。いいえ、この事も今となってはわたしが言うべき事では無いのかも知れません。
 帰省を尋ねる父には「研究が忙しくて」と偽りの返事をしてしまいました。それがわたしの父に対する抵抗だとは判ってはいました。
 彼とは、高校を卒業する時に別々の進学先になり、離れ離れとなってしまいました。それは、心の何処かで高校を離れる時には充分考えられる事だと判っていた事だったのにです。
 進学にあたって、わたしは京都の国立大学の農学部に進みました。農業を継がなくても良い、と言われましたが、やはり自分には農業関係しか無いと考えたからです。
 想いを通わせた人もわたしの我儘を理解してくれました。その時わたしは、同じ地域の大学に彼が進むと思っていました。現に彼も同じ県にある大学を受験してくれました。誤算だったのは彼が希望の大学を落ちてしまった事でした。
 結果としてすべり止めの東京の大学に進む事になってしまったのです。その時、わたしは悟りました。
『わたしはいつの間にかこの人を縛っていた。本来ならもっと別な道があるのでは』
 と言う事を……。
 それでも彼は、京都と東京での離れ離れの暮らしの中で色々な提案をしてくれました。でも、それは返って彼を縛って辛くさせるだけでした。
『わたしが居てはこの人の為に良くない』
 そう結論づけました。その事を彼に伝えると彼は何も言わずわたしの元から去ってくれました。
 本当は納得できなかったでしょう。もし自分が立場が逆だったら怒り心頭だったと思います。でも、彼は私の思いを汲んでくたのです。本当に優しい人でした。今でもありありとその姿を思い出す事ができます。
 本当は互いに想い合っていることがわかっていました。でもわたしが彼の傍にいることを望んではいない。それだけを理解すると彼は去って行ってくれたのです。心の底では誰よりも彼に傍に居て欲しいと望んでいて、彼も同じ気持ちと理解していたのに……。
 わたしの勝手な我儘に彼は何も言わなかったのです。

 今でもわたしの心には彼が住んでいます。その人の名は……折木奉太郎……
 一見ぶっきらぼうで面倒くさがり屋な感じがしますが、本当は誰よりも人の事を心配し、相談されれば、その明晰な思考で必ず結果に導いてくれる人でした。

 新年の京都の街は人で溢れかえっています。研究の観察を記録すると、今日はお終いにしてアパートに帰る事にしました。途中で何か買ってそれを夕食にしようと思っていました。今年は修士課程の二年目です。来年は博士課程に進むつもりです。今はそれだけが僅かな希望です。そして、そのまま研究室に残れれば良いと考えています。帰る拠り所を失ったわたしにはそれしか希望がありませんでした。
 途中のコンビニで幾つか買い物をしてアパートに帰ります。
 アパートに着くと、ポストに年賀状が数枚入っていました。その中には摩耶花さんと福部さんからのもありました。昨年、大学を卒業した二人は結婚したのです。「わたし達結婚しました!」の文面が踊って喜びを表していました。
 あとは古くからの付き合いのある方ばかりでした。でも、その中に一枚、思いがけない方からのものが混じっていたのです。
 思わず差出人を見てしまいました。その方の名は「折木奉太郎」と書いてありました。既製の文字入りの年賀葉書に自分の住所と名前だけを書いた簡単なものでした。
「どうして……ここの住所なんか知らないはずなのに」
 懐かしい名前を見て心が揺れたのでしょう。何も考えられなくなってしまいました。それを同時に淡い期待が浮かびます。
『もしかしたら、もう一度逢える時が来るかも知れない』
 でもすぐに否定的な想いが浮かびます。
『自分の我儘で別れていて、それは余りにも虫が良すぎる』
 両方とも間違いなくわたしの心でした。
 でも、許されるなら、もう一度逢いたい。逢ってこの胸の内を聴いて欲しい。それだけでいいのです。それ以上はわたしに望む権利なぞありません。
 飲めなかったコーヒですが、一人暮らしが長くなり、アメリカンなら飲めるようになりました。インスタントですが、マグカップに少量入れてお湯を注ぎます。楽しい語らいには紅茶を、一人の時はコーヒが似合う気がします。
 居間の方に、先程コンビニで買ったサンドイッチとサラダを持って行来ます。テレビを点けるとお笑い番組がやっていました。幾つかチャンネルを変えますが結局ニュースを選択してしまいます。
 ニュースでは各地のお正月風景を放送していました。偶然ですが、神山の様子も映されていました。そのせいでしょうか、その夜は高校時代の夢を見ました。懐かしく、とても幸せだった三年間でした。自分の人生であれほど楽しくて輝いていた時代はもう来ないのでは無いでしょうか。そんな事も考えました。
  朝起きると枕を濡らしていました。鏡を見ると酷い顔をしています。
 
 翌日は、昼過ぎに研究室に顔を出し、研究の観察結果を記録すれば良いので、午前中の昼近くに、わたしも近くの神社に初詣に出かけます。何時もは殆ど人も居ないのですが、お正月なので結構な人で賑わっていました。
 お願いする事は沢山あります。両親の健康。研究の成功。それにわたし自身の健康です。でも夢を見たせいか、もう一つお願いをしてしまいました。でもこれは無理な願いかも知れません。
 神社を出て研究室に向かいます。今日はお弁当を作って来ました。それを昼食にするつもりです。
 研究室での仕事は直ぐに終わります。お正月ですので大学も休みですし、学内に居るのはわたしの様な研究をしている者だけです。学食も休みなのでお茶を入れてお弁当を広げます。研究室でも外の見える窓の所でお弁当を広げます。食べながら帰ったら何をしようか考えます。思えば研究だけの毎日になっていました。
 記録も終えたので帰る事にします。今日は何時もとは違う道順で帰ろうと思いました。そんな事を思ったのはやはり昨夜の夢のせいかも知れません。
 学内で気がついたのは講演会の立て看板があちこちに立っていました。わたしが師事している教授ではありませんが、学内でも有名な教授です。その教授が外部の農業の専門家を招いて講演会や対談をするのだそうです。それを見て時間が合えば覗いてみたいと思いました。
 学内を出ようとした時の事でした。誰かが人を呼び止めていました。振り返ると大学の事務員さんが誰かを呼び止めていました。その名前に思わず振り返ります。
「……さん。……木さん。折木さん」
 間違いなく折木さんと呼んでいます。その名前を耳にした途端に体の血が動き出すのを感じます。聞き間違いではない……。
 呼び止められた折木さんは建物の中から出て来ました。その姿はスーツ姿に身を包んだ折木奉太郎その人でした。
 この時ほど今朝ほどの初詣の時にお願いをした事を感謝したことはありません。折木さんは事務員さんと何か打ち合わせをしていました。簡単な確認だったようです。すぐに終わりました。わたしは自分の姿を整えます。髪も手ぐしで整えます。こんな事態になるなら、もう少し良いものを着てくれば良かったと思いました。
 期待と不安が心を過ります。わたしに気がついてくれるでしょうか?
 それとも気が付かずに去ってしまうでしょうか?
 わたしを見つけ、以前の事をなじるでしょうか?
 出来れば、出来れば……。

「千反田か?」
 その声は穏やかながらも戸惑いと期待が感じられました。
「はい……えるです」
 それだけが精一杯でした。胸が一杯になって声が出ませんでした。
「元気そうだな……こんな時期に大学に来てると言う事は研究か……続けていたんだな」
 昔と同じ、穏やかな表情。昔と同じにわたしを気遣った物言い。何もかも昔のままでした。
「どうした? 何か俺の顔についているのか。そんなに見つめていて」
「怒っていませんか? わたし、酷い事をしたのに」
「別に怒ってはいないよ」
「今日は何故ここに」
「ああ、仕事だよ。今度の公演会だがウチの会社と大学の共催なんだ。俺が使いで打ち合わせに寄越されたんだ。でもここでお前に逢えるとは思ってもいなかった」
 何時の間にか頬を熱いものが流れていました。
「この五年間一度もお前を忘れた事は無かった。神山に帰ってもお前は殆ど帰って来ないと聞いたが、何時の日か逢える時が来ると信じていたんだ」
「じゃあ許してくれるのですか?」
「許すも許さぬも無いさ。離れて如何に俺はお前の事を想っていたのかが判った。お前はどうだ?」
「卒業してから折木さんの事を考えない日はありませんでした。今朝も高校の時の夢を見て泣いていたんです。今朝神社に初詣に行って折木さんに逢えるようにお願いしたのです」
「そうか、じゃお礼参りに行かなくてはな」
「はい!」
 折木さんが左手を出しました。わたしは右の手をそれに添えて一緒に歩き出します。もう、この手を離してはならないと強く想うのでした。

       
                                                             <了>