翌朝、泰造は市場に行く時より早く家を出た。とは言っても目と鼻の先の千住市場だから百二十五ccのカブに乗って走ったと思ったらもう着いていた。
 日光街道が千住大橋の袂で旧道と新道が合流する地点より若干千住寄りに松尾芭蕉の碑がある。それは奥の細道が事実上ここから出発したからだ。芭蕉はここで船を降りて歩き出したとされている。それを記念して碑が立っているのだ。それよりも更に二三軒千住寄りに「石川」の倉庫兼自宅があった。千住に店を出している仲買の殆どはこの辺りに自宅を持っている。「石川」もその内の一軒だった。
 泰造はカブをその前に駐めた。ヘルメットを脱ぐと、「石川」の倉庫の前にターレーが横付けされており、顔なじみのオヤジが今日店に出す荷物を積んでいた。すぐに泰造に気が付き
「あれ、どうしたの?」
 そう尋ねて来る。当然だろう。毎日市場に行く店はそう多くない。一日置きあたりが一番多いのでは無いだろうか。
「いやさ、ちょっと訊きたいことがあってさ」
 泰造よりも若干年齢が上の「石川」のオヤジなら泰造が知らない事も知っているかも知れなかった。
「なんだい、俺が知ってる事なら何でも話すよ。いつも買って貰ってるからさ」
 そうなのだ。この「石川」は泰造が店を持つ前から出入りしていた仲だった。
「あそこの芭蕉の碑の向かいにあるビルだけど、最近誰か出入りがあったかな?」
 出入りしていた「花村」のオヤジさんの事は伏せておいた。
「あのビルねえ……気が付かなかったな。店に出ちゃうと倉庫にはたまにしか来ないからねえ」
 確かに、そう都合よく見ているとは思わなかった。
「あのビルは空き家なのかな」
 泰造が気がついた時は仲買の場外の店が一階に入っていたが、その前は知らなかった。
「ああ、泰造さんは知らないかぁ。そもそもあそこは『北魚』の持ち物だしさ」
 全く知らない事だった。北魚は半官半民の会社でこの千住の市場の大卸をしている。水産会社や、食品メーカーから品物を仕入れて、仲外に売るのだ。東京都の市場はこうした半官半民の大卸の会社を通さないと市場で売る事は出来ない。千住では場内の中でも入り口に近い場所に大きな保冷の倉庫というよりビルを持っている。丁度芭蕉の碑とは塀を境にして裏表の場所にある。
「知らなかった。あそこが『北魚』の持ち物だったなんて」
「いや、確か今でもそうだよ。一階は貸し店で二階三階が事務所だったんだ」
「何で今は使っていないんですか?」
「ほら、やっちゃ場が入谷に移ったろう。場所が空いたので、場外より場内の方が便利だから中に移ったんだよ」
「そうだったのかぁ。全く知らなかった」
「でね。これについては面白い話があるんだ。ここだけの話だから他所では絶対に言ってくれるなよ」
 オヤジは嬉しそうな表情を浮かべると
「あそこのビルは地下があって、通路で場内の『北魚』の倉庫と繋がっているんだ」
「はあ? それ本当ですか?」
「確かだよ。ほら、休みの前とか土曜とか出庫かけると、時間が掛かるじゃない。下手したらお客が帰ってしまうから、事務所を通じて頼むと、俺らは「裏から」と呼んでいたけど、地下を通じてこっそり先に出してくれるんだよ」
 泰造の全く知らない事だった。市場では仲買が在庫の無い品物を頼まれた場合、「北魚」の倉庫に「出庫」と言って注文を出すのだ。出された「北魚」は順番に倉庫から品物を出して仲外に届けるシステムだが、これが休みの前とか土曜なのでは時間が掛かるのだ。
「あ、時間だから店に行かなくちゃ。泰造さん乗ってよ。走りながら先を話すから」
 オヤジに言われて時計を見ると四時半になろうとしていた。そろそろ早い客なら買いに来る時刻だった。
 泰造はオヤジさんが運転するターレーに載せて貰い場内に入って行く。
「引っ越す時に通路は閉鎖されたと言っていたけど、管理は今でも『北魚』が行っているんじゃ無いかな」
 「石川」のオヤジさんは顔見知りと挨拶をしながら場内を走って行く
「だから、その通路がらみで点検とかしてる可能性はあるよ」
 店に着いて荷物を降ろしながら、そう泰造に答えた。
「いや、知らない事ばかりだった。ありがとう」
 泰造はそう言って上物の鯵のひらきを一枚(この場合二十枚入り)を買った。
「まいど! また倉庫に行くからバイクの場所まで送って行くよ」
 泰造は、バイクを倉庫に置いて来た事を思い出した。
「ああ、頼むよ」
 再びターレーに乗せて貰いバイクの場所で降ろして貰うと礼を言って店に帰って来た。店では美菜が起きて朝食の準備をしていた。
「お帰り。どうだった?」
 興味津々で訊いて来るので、今先程聴いたことを話した。
「ええ! あのビルってそうだったんだ!」
 無理も無い美菜が生まれた頃は既に千住には魚河岸しか無かったからだ。既に場内に移転していたからだ。
「凄い! 凄い凄い凄い!」
「そんなに驚くことかぁ」
「だって、それ秘密の地下通路じゃない! ダンジョンになっていたりして」
「ダンジョンって何だ?」
「地下迷路の事だよ。知らないの」
「そんなもん知らん! それに迷路にはなっていないと思うぞ。目の前だしな」
「何だがっかり……でも、きっと今でもその通路って生きてるんだよ。「花村」のオヤジさんは地下通路に用があったんだよ」
 美菜の言う事はもしかしたら正しいのかも知れなかった。その前に電話では無く実際に「花村」に行って昨日の電話の内容が本当か確かめて来ないとならないと思っていた。