天が市場から帰って来た。メガネが出来てからは前のように市場には天一人で行くようになった。市場の口の悪い者からは
「天さんの代わりに鈴ちゃんがずっと来れば良かったのになぁ……鈴ちゃんだったら勉強するんだかなぁ」
 などと本気とも冗談とも取れぬことを言われていた。
 市場から天が帰って来る時刻に鈴は朝食の準備をする。ご飯を炊き、味噌汁を作る。それに天の好きな納豆や胡瓜のぬか漬けを用意する。たまに干物が並ぶ時 があるが、それは天が市場で買って来たものだった。鯵なんかは軽く炙るように火を通して出す。皿の上で『ジュウジュウ』と音を立てて身が弾けている。
 二人で食卓に向かい合わせで座り
「いただきます!」
 と手を合わせて食事にかかる。
「ねえ、井上のラーメンまた食べに連れて行ってね」
 鈴が若芽とジャガイモの味噌汁に口をつけながら言うと天が
「ああ、食べたくなったら何時でも言いな。お安いご用だ」
 そう言って、大粒の納豆に箸を立ててかき回す。箸に糸が絡みつくのを見て鈴が
「その納豆、この前市場に行って値段見て驚いちゃった。三百円もするのね」
 天が、たれと辛子を納豆に入れ更にかき回す。
「でも、量がパックの三倍入っている」
「パックも三個ついてるじゃない」
「味が全く違う。毎日食べるものじゃ無いから、このぐらいは贅沢したいものだ。お前だって美味しいって食べるじゃないか」
「そうだけど、でも値段を知らないで食べるのと、知って食べるのでは有り難みが違うわよ」
 天は鈴の言っていることも良く判っていた。
「で、今日は食べるのか?」
「勿論貰うわ」
 鈴はそう言って自分のご飯茶碗を天に差し出した。天がそれに納豆を入れて行く。
 口をつけると、納豆独特の臭いが鼻を突く。パックの納豆は臭わない豆を使っているそうだが、あれは納豆では無いと鈴は思っていた。やはり臭いがあり、辛子を入れて食べるのが納豆だと思うのだった。
「今日は、何がお勧めなの?」
 仕入れた魚のことを尋ねる。今日のお勧めの品は確認しておかなくてはならない。
「ああ。今日は鮎だな。鮎の良いのが安かったので纏めて仕入れた。焼き物で出す。『鮎焼き定食』だな」
「鮎か、時期だけどウチで昼出すのは珍しいね」
「ああ、何でも大口がキャンセルされたらしい。それで捨て値で買った訳さ」
「人が良いから押しつけられたんでしょう?」
「お互い様さ。今度はこっちが無理な注文を聞いて貰える」
 鈴もその辺は判っていたが、もし今日自分が行っていたらどうなったか、考えていた。もっと値切ったかも知れない。でも、そうすると信頼関係が崩れるのかも知れないと思った。

 その日は珍しいという事もあり鮎がよく出た。「採」の鮎は鮎蓼(あゆだて)という草を鮎の下に敷いて、別な小皿に「蓼酢」という蓼ともち米を良く練り、 酢でのばした調味料で食べるやり方だ。「蓼」とは「蓼食う虫も好きずき」と言われるあの「蓼」だ。勿論、鮎は塩焼きしてある。その珍しさもあって、昼の時 間が終わる頃には殆ど出てしまった。
「二匹しか無いから昼に食べてみるか?」
 天が鈴に声を掛けた。
「いいの?」
「ああ、一匹は母さんに供えて、残りは食べればいいよ」
「じゃあ、食べてみる」
 今日の昼は鮎と決まった。
 鮎は尾を押さえて、箸で身を軽く叩く、そして、頭を押さえて尾を一気に引き抜くと、『するり』と骨が抜けるのだ。このやり方を知らない者は多い。鈴は母 からこれを教えて貰った。結婚前に勤めていた料亭では、鮎が出ると仲居さんがこうやって食べやすくしたそうだ。そんな事も教えてくれた。だから鮎は鈴に とって母の思い出の魚でもあるのだ。
 実際、鈴は鮎の身をほぐし、蓼酢につけて口に運ぶと、鮎独特の香り……何だろうか、すいかに似た香り……それに蓼の爽やかな苦みが絡まって酢と合わさり何とも言えない味を感じた。
「なんか、鮎って、川と野の恵みを沢山受けている感じがする」
 鈴の感想を聞いて天は
「まあな、それが判れば一人前だな」
 そう言って目を細めた。
「でもな、鮎が本当に脂が乗って美味しいのは『落ち鮎』と言って十月なんだ。それは覚えておいた方が良い」
「ふ~ん。そうなんだ。鰹と同じだね」
「そう言事だな」
「ねえ、旧盆の頃にお店休むんでしょ?」
「ああ、市場も休みだし、常連は田舎に帰ってるからな」
「ウチは田舎無いものね。その時に美紀と旅行に行ってもいい? 一泊なんだけど」
「構わんよ。好きにすればいい。海でも行くのか?」
「判った? そうなんだ」
「せいぜいナンパされてこい!」
「そんな軽くないよ!」
 天は冗談めかして言っていたが、自分が本当に帰ることになったら、どうするのだろうかと思う鈴だった。