市場から帰って来るとやることは多い。昼のランチタイムに向けて、仕込みをしなければならないからだ。
 まず市場で買って来た魚の下処理をする。頭を落としてお腹を裂いて腸を出して、綺麗に洗う。それから刺し身にするものは三枚に卸してキツチンペーパーに丁寧に包んでバットに並べてラップを掛けて冷蔵庫のパーシャル室にしまう。
 焼き魚や煮魚用の魚はその用途に合わせて筒切りにしたり、二枚卸にして半分に割ったりして塩を軽く振っておき同じように冷蔵庫にしまう。違うのはこちらは普通の冷蔵室だ。煮魚用に筒切りにした魚は魚によって味噌煮にするか醤油で煮るかに分けて煮ていく。味が染み込む為には煮た魚が一旦室温まで下がらないとならないため、時間が掛かるからすぐに煮るのだ。
 天が何時もと同じことを始めたので鈴も洗濯機を廻す。洗い上がるまでに、天の傍でその日に使う大根おろしを作ったり、刺し身に使う山葵をおろすのだ。天は粉山葵だけだと風味が足りないので、本当は全部本物の山葵を使いたかったが、値段の関係でそれは出来ないので粉に本物を混ぜて使っているのだ。食堂を始めた時は
『前なら経費の事なぞ考えたことは無かったな。妥協しなかったのだがな』
 そんなことを思っていたが、今は割り切ることにした。そっちが足りないなら別な方法でお客を喜ばせれば良いと思うようになった。
 例えばご飯の炊き方や、定食に付けるお新香に神経を使ってみるとか、料亭の頃には人任せだった部分にも気を使うようにした。
 鈴は大根をおろす時は左手で真鍮の大根おろしを持って自分に対して平行に持つ。そして右手で大根を持って円を描くようにおろすのだ。これは普通におろすより倍の力が必要だが、何にしろ出来上がった大根おろしの味が全く違うのだ。均一に力が入っておろされた大根は味がマイルドで辛味さえまろやかに感じるのだ。これは天がいつもやっていて、手伝っていた母親の菜も同じようにしていたのだ。鈴はそれを見て何時の間にか覚えたのだった。
 山葵も同じで、サメの皮で作られた山葵おろしも円を描くように、そして山葵おろしの上に溜まって来おろされた山葵を練り込むようにして行く。こうすることで空気が沢山山葵に入り込み、これもマイルドでありながら風味が強く爽やかな辛味を出すのだった。TVなどで力任せに前後運動でおろしてる芸能人を見ると、底の浅さが良く判ってしまうと鈴は思っていた。

 天が大根の妻を作る為に桂剥きを始めた。鈴はその余った大根もおろすのだ。無駄なものは何も無い。
 調理場に「たんたんたん」と包丁を刻む単調な音が響く、その音を聞きながら鈴はお米を研ぎ始める。毎日炊く分量は決まっている。この店の場合は四升だ。大きなボールに四升分のお米を図ると、大きな笊に一旦お米をあける。ボールに水を張り、笊に入ったままのお米をボールの水に浸す。すぐに引き上げて、ボールの水を捨てて、笊のお米をボールに移して、左手でボールを抑えながら右手でお米を研ぎだす。
 力いっぱいに、それでいてお米が壊れないように加減して研いで行く。数回水を入れてすすぎ、透明になったら、もう一度お米を研ぐ。そしてまた水ですすぐのだ。これを笊に上げて炊飯器に移して行く。今のお米はここで完全に水を切るということはしない。精米の時に乾燥化が進んで、この時に完全に笊で水を切ると、お米が再乾燥して割れてしまうからだ。だから今は研ぎ上がったら、すぐに炊飯器に移して水を張る。
 そこまで手伝うと鈴はホールや店先の掃除を始める。梅雨の合間の太陽が顔を覗かせて、今日も暑くなると鈴は思った。
「お茶入れたよ」
 仕込みが終わると、鈴は天に声を掛ける。
「おう、今行く」
 天がそう答えて調理場からホールに出て来た。カウンターが五席に四人がけのテーブルが四つという満席でも二十人ほどしか入らない小さな店だった。
 ここは鈴の母である菜と天が一緒になる時に持った店だった。それまで格の高い料亭で花板をしていた天は、その店で仲居で働いていた菜と恋に落ちたのだった。
 何か他の女性とは違うものを感じた天は決死の思いで交際を申し込んだ。正直、自分でも異性にモテる容姿ではないと思っていたので、ダメもともと言うつもりだった。だが、以外にも菜の答えは「よろこんで」と言うものだった。この時の天の気持はまさに天に昇るような気持だったと言う。
 その時、交際していて何時しか二人の夢は「自分の店を持つこと」になったのだ。

「はあ~ 旨い。お前お茶を入れるのが上手になったな」
 天が感心をすると鈴が呆れながら
「お母さんが死んでもう三年だよ。毎日入れていれば上手くなるわよ」
「それもそうか」
 天もそんなことは百も承知だった。だが口下手な天はこんな言葉でしか娘の鈴に感謝を伝えられないのだ。無論、鈴も父親のそんな気持は十二分に理解している。こっちも照れくさいので、こんな答えをするのだ。
「四回忌来るね」
「四回忌という言葉は無い。言うなら四回目の命日だ」
「そっか、でも通じたら良いじゃない」
「まあな。よそでは言うなよ。恥をかく」
「判ってるって」 
 半分飲んだ天の湯のみに鈴がお茶を足す
「お前、卒業したら、どうすんだ?」
「まだ一年以上あるから考えてない。夜間は四年制だから、これから考える。それに、もしかしたら向こうから誰か誘いに来るかも知れないし……お母さん、亡くなる前に私にそんな事も言っていたし。だから先のことは判らない! 今日を一生懸命やるだけだよ。それから、メガネが出来るまで、一緒に市場に行ってあげるからね」
「お前、今日ちやほやされたんで味をしめたな」
「違うよー、親が心配なだけだよ」
 そう言って鈴は天の湯のみに更にお茶を入れた
「腹がガバガバになってしまうだろう」

 そして、店は開店の時刻を迎える。