満月の夜、その初老の男はいつの間にか店先に立っていた。常連の浩二と満代も自分たちの会話に夢中だったこともあるが、気がつかなかった。言い換えれば、存在事態を薄く感じたのだった。

「いらっしゃいませ」

 幸子が笑顔で出迎えると、その初老の男は

「何か食べさせてくれますか?」

 そう言って入り口に一番近いテーブルに座った。

「何にしますか?」

 男はメニューを一瞥したがその目は虚ろだった。その様子を見たまさやが幸子を手招きして呼び寄せた。

「大丈夫だ。考えがあるから」

 まさやの言葉にさちこは頷き、男の元に行き

「今日は、主が特別な料理をお出しします」

 そう言うと男は

「そうですか、お願いします」

 力なく返事をした。その様子を見ていた奥のテーブルに座っていた満代が浩二に

「ねえ、何かワケありな感じがしない?」

 興味津々で問いかける。浩二は

「そうだね。ありそうだけど、元気が無いのが気になるね」

 そう言って、チラッと男の方を見た。

 調理場ではまさやが何かを作っていた。座りながらも背伸びをして満代が調理場の中を伺う

「駄目、判らないわ。まさやさん何を作っているのかしら?」

 満代の表情を見た浩二は半分笑っている。

「もしかして、おすそ分けを期待しているのかい?」

「えへへ……少しはね。でも本当に何を作っているのか興味があるのよ。だって、まさやさんは何も訊かないで料理に取り掛かったでしょう。だから興味が湧いたの」

 確かに、まさやの行動は時として理解出来ない事もある。それは浩二も理解していた。やがてさちこが、お盆の上に大きめのお椀を乗せて出て来た。お椀からは湯気が立ち上っている。

「お待ちどうさま」

 男の前に置かれたのは白い汁の椀物だった。

「三平汁です。熱い内に食べてください」

 さちこに言われて男は箸を手に取り椀を手に取って口を付けた。立ち上る湯気の向こうで、その表情が柔らかくなるのが伺えた。

「美味しいです。それに亡くなった妻の味です。それにしても噂通りでした」

 男は更に箸を使って三平汁を食べていた。

「それにしても、どうして私が三平汁を求めていたのが判ったのですか?」

 不思議に感じた事をまさやに尋ねる。

「それに、この三平汁は粕仕立てです。三平汁でも粕を使うのは北海道でも限られています」

 その質問にまさやは、浩二と満代に

「酒粕は大丈夫ですか?」

 そう尋ねる。瞬時に満代が

「大丈夫です!」

 そう答えたので、さちこが二人に男と同じものを運んできた。二人が口をつけるのを確認すると、まさやは男に向かって

「何故、今日この料理をだしたのかですが、失礼ですが、あなたの言葉に北海道訛りがありました。それも北海道でも北の地域の訛り でした。粕仕立てにしたのはそこからです。それに、失礼ですが、あなたは放心状態に近い感じがしました。私の経験から言いますが、あなたの表情は連れ合い に先立たれた夫の目そのものでした。そこから推理したのです」

「でも、故郷の味は三平汁だけではありません。他にも色々とあります」

「温かいものを食べれば固くなった心もほぐれます。事実、あなたは食べてからは穏やかになりました」

 男はまさやに言われて、確かに自分でも気持に余裕が生まれたと思った。

「私と妻は、同じ街で育ちました。幼なじみと言っても過言ではありません。一緒に東京に出て来て世帯を持ちました。そして長年一 緒に苦労して来たのです。その妻が先日、癌で亡くなりました。発見が遅かったので、余りにも急に亡くなってしまったのです。幼い頃から常に一緒だった妻が 居なくなって、自分の心に妻がいかに多くの場所を占めていたのかが判りました。何も手につかなくなり、毎日ただ過ごしていました。そんな時に噂でここの事 を聞きました。それから初めての満月の今夜、探してやって来た次第です」

 男の告白を聞いてまさやは

「確かに、女房に先立たれるくらい辛いものはありませんからね。そこは私も良く判ります」

「それにしても良く、粕仕立てだと判りましたね」

「なに、そこは蛇の道は蛇です。個人的にも三平汁は粕仕立てが個人的にも好きですからね」

 二人の会話を聴いていた満代が

「三平汁って言うのですか! 初めて食べました。人参、じゃがいも、大根、玉ねぎ、それに鮭がたっぷり入って、さっぱりとした塩味で、そこに酒粕の風味が入ってと、私とても好きになりました。北海道をまるごと食べているみたいで……」

 嬉しそうに言うので、まさやは

「後でレシピを書いておきますよ。でも浩二さんは気に入りました?」

 浩二に尋ねる。

「はい、僕も好きになりました。それに、こんなに美味しそうに食べる彼女を見ているだけでも幸せになりますから」

 どうやら浩二も気に入ったようだ。

「この店は満月の夜しか開いていませんが、お気に入って戴けたらまたお寄りください」

「はい、必ず。今夜は妻との思いでを肴に一杯やります。俺は元気でやってるぞ、と伝わるように……」

 男は満足な顔をして帰って行った。それを見送った満代が、まさやに

「残っていたらもう一杯戴けますか?

 そう言って浩二を呆れさせた。

「いいですよ。まだまだ沢山ありますから」

 店の中に幸せの湯気が立ち上るのだった。

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※ 「三平汁」は北海道全般で食べられている料理です。人参、じゃがいも、玉ねぎ、大根に鮭を入れて汁仕立てにした料理です。味付けは、塩、酒粕、味噌などで味付けをします。地域により味付けが異なったり、また、鮭の他にニシン、タラ、ホッケ等を入れることもあります。