満月の夜だけひっそりと開く食堂。今夜も色々な思いを持った人が扉を開いて暖簾を潜ります。
「こんばんは、こんな遅い時間ですが、まだ大丈夫でしょうか?」
 かなりの年輩と思われる女性だった。
「はい大丈夫ですよ。夜明けまでやっています」
 さちこが、にこやかに迎え入れるとメニューを差し出した。
 女性はそれを受け取ると静かなため息を吐き出した。
「実はここが不思議な食堂だと聞いてやって来たのです。どうしても確認したいことがありまして……」
 何やら訳がありそうな感じに思えると、奥の調理場からまさやが出て来た。
「よろしかったら、事情をお話してくれませんか?」
 まさやが女性に話しかけると
「はい、訊いて戴けるだけでも本望だと思ってやって来ました。私は郊外に住むものです。先日、長患いの主人を見送ったところです」
「そうでしたか、それはご愁傷さまでした」
「ありがとうございます。主人は六十代の中頃に脳血栓の発作で倒れました。その時はリハビリで何とか戻ったのですが、それから十年後にまた発作で倒れました。今度は重傷でした。ほとんどの事を自分では行えず。私の介護が必要になりました。食べることが好きだった主人は自分の好きではない薄い味付けのものばかりを食べることになり、食も進みませんでした。言語傷害が出ましたので、話すことも億劫みたいでした。枕元にメモ帳と鉛筆を置いていたので、それで会話をしていました。
 それでも症状は段々進みました。家では面倒を見きれなくなりまして、病身に入院させました。その時、私は夫に病院暮らしをさせる事を謝りました。
 主人はその答えに首を振って答えてくれました。その時です。やっとの想いで主人が『もういちど、おまえとあれがたべたかった』と言ったのです。その時はもっとたどたどしく話したのですが、他の人には兎も角、私にはそう聞こえました。
 それから主人は病院で亡くなりました。最後は意識もあったのか分かりませんでした。子供も来てくれて、良い最後だったと思います。でも、あの時主人が何を私と食べたかったのかが遂に分かりませんでした。それだけが心残りなのです」
 女性の長い告白が終わった。まさやは、女性に
「旦那さんは病になってから、あなたに感謝していましたか?」
「はい、それは口が利ける内は毎日口癖のように話していました」
「そうですか……ご主人は心の底から感謝していたのでしょうね」
 さちこがしみじみと答えると
「旦那様は濃い味付けが好みでしたか?」
 まさやが料理を作る為の質問をし出した。
「はい、お酒が好きだったので濃い味付けを好んでいました。それが良くないとは分かっていたのですが、案外わがままなところもありまして」
 血圧系の病気で倒れる人は殆ど濃い味付けが好みなことが多い。
「ところで、あなたは何が好きですか? 例えば旅行や外食をした時にはどのようなものを食べられましたか?」
 自分の夫のことなのに、何故自分の好みを訊くのか、女性は理解できなかったが
「はい、私は主人とは全く反対で、さっぱりしたものが好きなのです。とりわけ豆腐が好きで毎日でも良いぐらいです。生前に京都に行き、湯豆腐を食べた事が良い思い出です」
 遠い目をして女性が語るとまさやは
「その時旦那様はどうしてました?」
 まさやの問いかけに、その時のことを思い出したのか、
「はい、珍しく主人も一緒に食べていました。尤もその時もお酒を呑んではいたのですがね」
 懐かしそうに語る女性を見て、まさやは
「少々お待ち願えますか? 材料を調達いたしますから」
 そう女性に言うと
「え? 今の話であの時主人が何を食べたかったのかが分かったのですか?」
「はい、分かりました。お任せください」
 まさやは、何処かに電話をした。
「京都の醍醐寺の豆腐が欲しい。持って来てくれ!」
 電話を終えるとまさやは調理場から小鉢を出して来た。
「葱ぬたです。すぐに豆腐が来ますので、それで繋いでおいてください」
 女性は出された葱ぬたを口にして驚いた。味噌とお酢のバランスが抜群なのだ。酸っぱ過ぎず。味噌の風味が濃厚で葱の甘さを引き立てていた。それに感心をしていると、店の扉が開かれ黒ずくめの男が入って来て、まさやに荷物を渡した。宅配業者だろうか?
「さ、豆腐と水が手に入りました。あなたの旦那様があなあともう一度一緒に食べたかった料理を作りましょう」
 まさやはそう言って調理場に入った。さちこが、空の小鉢と卓上の陶製の焜炉。中には炭が真っ赤に起きていた。それに木杓子を添えた。間もなく大き目な土鍋をまさやが持って来て焜炉の上に置いた。蓋を取ると湯気が立ち登る。土鍋の中には出汁昆布が敷かれ、その上には四角く切られた豆腐が入っていた。さちこが薬味が入った小さめの小鉢を脇に置いた。
「これが、あなたが好きで、旦那様がもう一度食べたがった京都の湯豆腐ですよ。たった今、醍醐寺の傍にある豆腐屋から取り寄せました。水も京都の名水です。豆腐はやはり地元の水で食べると、より美味しくなります。お好みの薬味で食べてみてください」
 まさやに言われた通りに小葱や色々な薬味で豆腐を掬って口に入れた。
「美味しいです! あの時主人と一緒に食べたお豆腐の味です! でも、どうして分かったのですか? 私はてっきり、主人は自分の好きなステーキや明太子を食べたいと思っていたと考えていました」
 女性の質問にまさやは
「自分が最後に食べたいと思う料理、この場合、ご主人があなたに感謝していたら、あなたが喜ぶことをなさりたいと思うのではないでしょうか? それだけ京都の旅が印象に残っていたのでしょう。だから自分の好みでは無く、妻であるあなたの喜ぶ顔を見てから、入院したいと思ったので無いでしょうか。旦那様はそれが最後だと感じていたではと思いました。心の底から感謝していたからこそ、あなたの笑顔を見たかったのかも知れません。私にはそう思えるのです」
 まさやが自分の心根を言うと女性も
「そうでしたか……そういえば旅行から帰って来て、もう一度京都に行こうと語っていました。倒れてそれは叶いませんでしたが……」
「さ、暖かいうちです。食べてください。きっと向こうで旦那様も喜んでいると思いますよ」
 まさやに勧められ、女性は最後まで食べてから帰って行った。まさやとさちこに感謝しながら……。

 今夜も色々な人がそれぞれの想いを持ってこの店の暖簾を潜る。ここは「心の食堂」。
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