満月の夜にだけ、ひっそりと場末の街に現れる店。人呼んで「心の食堂」といつしか呼ばれるようになり、いつの間にかそれが店の名前になったという。
 果たして今夜はどんな人がこの店の暖簾を潜るだろうか……。
 
「すいません。遅い時刻ですが、何か食べさせて貰えますか?」
 暖簾を潜って入って来たのは歳の頃なら四十前後の女性だった。一目見てさちこはOLではないし、かと言って主婦にも見えなかった。大抵の場合は大凡だがどんな感じかは判るのだが、この女性には今までの感覚が当てはまらなかった。
「大丈夫ですよ。ウチは夜しかやっていませんから。この時間でもフルメニューが食べられます」
 さちこの言葉に女性は安堵の表情を浮かべた。
「良かった……珍しく友達と逢って喫茶店で話していたらこんな時間になってしまって……本当は母が待っているので直ぐに帰らないとならないのですが、お昼から何も食べていないのに気がついてお腹が減ってしまったのです」
 女性は店にあるテーブルに腰掛けると目を閉じてこめかみ押さえた。さちこには、その表情がとても疲れた感じに見えたのだ。
「お疲れのようですね。何にしますか?」
 さちこがグラスに水を入れて持って行くと
「ここでは、オムレツが出来ますか?」
 メニューも見ずにそう訊いた。それを見て調理場に居たまさやは、何か事情があるのかも知れないと思った。
「出来ますが、プレーンですか? それとも何か注文がありますか?」
 さちこが尋ねると女性は
「あのう……中にじゃがいもと、シメジ、それにベーコンに玉ねぎが入っていて、最後にチーズも中に入れる奴ですが……」
 女性の注文にさちこが
「まるでスペイン風オムレツみたいですね」
 さちこが丸く台形にケーキのように焼くスペイン風オムレツのことを言うと
「ちょっと違うんです。形は普通のオムレツなんです。良く母が作ってくれたのですが、急に食べたくなってしまって……」
 そこまで女性が話した時に、奥からまさやが顔を出して
「材料は全てありますから、作ってみましょう。お母さんと同じでは無いかも知れませんがね」
 そう言ってさちこに訳ありの顔をした。
「お願いします」
「判りました」
 そう言ってまさは調理場に引っ込んだ。
 暫くして、やや大きめの皿に、真ん中が膨らんで両端が細くなつた黄色いオムレツを乗せて運んで来た。
「どうぞ食べてみて下さい。オムレツは普通はナイフとフォークですが、今日は箸の方が良いのじゃありませんか?」
 まさやの言葉に女性は驚きながらも、さちこの用意した夫婦利休箸を手にした。
「さ、熱いうちに食べてみて下さい。冷めると価値が無くなります」
 まさやの言葉に女性は箸でオムレツの真ん中を割った。すると中から濃厚なチーズが湯気と共に流れだした。それを箸で摘んで口に入れる。
「美味しい! 母の作ってくれたモノと形は同じですが、比べられない程美味しいです」
 女性は卵の皮にじゃがいもと焼けたベーコン、それにたっぷりと乗ったチーズを一緒に口に入れた。女性の目に涙が浮かんだ。
 食べ終わると女性は自分の事を語りだした。
「母は今でも家に居ます。要介護になっていて、痴呆症が進んでいます。私が介護しています。ヘルパーさんもたまに頼むのですが、中々手が回りません。父は 既に亡くなり、弟がいますが、独身でしかも今は九州に居ますので介護を頼めないのです。かと言って有料の施設に入れるほど裕福ではありません。
 私も以前は一流と呼ばれる会社に勤務していましたが、母が倒れたので介護の時間を作り易いアルバイトに変えました。だからお金も生活費に消えてしまいます。介護保険などの費用は弟が仕送りしてくれますので何とかなっています。でも……」
「でも?」
 さちこがその先を尋ねると
「正直言って疲れてしまって……朝は母にご飯を食べさせ、洗濯、掃除をしてからアルバイトに出掛けます。お昼になって急いで帰って来て、朝作ってあったお昼を母に食べさせ、下の世話をして、自分も急いでパンをかじってアルバイト先に戻ります。
 夕方、買い物をして帰って来て、母の世話をします。それから夕食を作って母に食べさせ、それから自分も食事をします。
 その後、母をお風呂に入れ、自分も入浴します。寝床を綺麗にしてあげて母を寝かせます。それから自分の事をして寝るのはもうかなり遅いんです。
 夜中に二回母の下の世話で起きます。これが辛いんです。熟睡出来ません。こんな生活があとどれ位続くのかと思うと、何もかも嫌になってしまって……今夜 は友達と逢っていたなんて嘘なんです。母を早く寝かしつけてから、ふらふらと出歩いたんです。そうしたら、何時かネットで見た不思議な食堂の話を思い出 し。この辺りだと見当をつけてやって来たのです」
 今まで心に貯めていた思いを一気に話したのだろう。言い終わると女性はハッとして
「違うんです。だからと言って母が嫌いだとか、憎いなんてことは無いんです。呑んだくれでろくに家にお金も入れなかった父の代わりに、母は働いて私と弟を 育ててくれました。感謝こそすれ、そんな想いなんて全く無いのです。ただ、少し疲れてしまって……そんな時に母が作ってくれて、子供の頃に一番楽しみだっ たオムレツをもう一度食べてみたかっただけなのです」
 それまで言うと泣き出してしまった。さちこがハンカチっを差し出した。
「涙をお拭きなさい。泣いていると料理の味が判らなくなりますよ」
 さちこに言われて女性はハンカチで涙を拭く。まさやが
「ここは満月の夜にしかやっていませんが、時間が作れたら、またいらして下さい。何時でもあなたが元気になれる料理をお作りします。夜中でも営業していますから」
「ありがとうございます! 夜なら来れると思います。実は色々と母が作ってくれた料理があるのです。私は料理が下手なので作っても同じ味にならないのです」
 女性はそう言ってオムレツの残りを口に運んだ。
「あなたが子供の頃にこんなチーズをたっぷりと使った料理を作るなんて、お母さんはよほどの料理上手だったのですね」
 まさやがそんな感想を言うと、女性は少し微笑んで
「母は北海道の生まれで、酪農家の家に生まれたのです。だからチーズは毎日食べていたそうです」
 遠い目をして語った。まさやはそれを聞いて
「そうですか、ちょっと待っていて下さい。お母さんにおみやげを作りましょう。持って帰って明日の朝でも食べさせて下さい」
 そう言って、調理場に戻って、少し経って戻って来た。手には十センチ四方のタッパを持っていた。
「開けてみて下さい」
 まさやに言われて蓋を取って見ると、そこには烏賊が姿のまま煮たものが二杯入っていた。
「烏賊飯です。今はどこでも買えますが、これは特別の烏賊と滅多に手に入らないもち米で作りました。食べさせてあげて下さい」
 女性は驚くばかりだった。「烏賊飯」は母の好物だったからだ。それに、まるで自分が今夜この店に来るのが判っていたような事も驚きだった。。
「良いのですか? 何だか……」
「代金は戴きますよ」
「え?」
「五百円です!」
 さちこの言葉に女性は半分笑って半分泣いて良く判らない感情のまま財布から五百円玉を取り出した。
「ありがとうございます! また来月お待ちしています。介護は辛いですが、必ず終わる時が来ます。そしてお母さんは、あなたに心の底から感謝してると思いますよ」
「ありがとうございます! 何とかやって行けそうです。辛くなったら必ずここに来ます。また美味しものを食べさせて下さい!」
「何時でも歓迎致しますよ」
 まさやとさちこは笑顔を見せる。女性は明るい表情で一礼すると帰って行った。

「あの人、誰にも言えないので色々な想いが溜まっていたのですね」
「ああ、そうだな。そんな時はたまに吐き出さないとね」
 今夜も空には満月が煌々と照らしていた。