惺子先生の話によると弟さんが亡くなったのは春休みに入ってすぐだという。きちんと一年間の授業を終えた後だったそうだ。
「こちらに来る前に三回忌を済ませてきました」
 そうだったのかと、改めて思う。惺子先生にしてみれば辛い事ばかりだったのだと……
 自転車に乗って家に帰る方向に走って行くと、僕は先を行く惺子先生に
「せっかく此処まで来たのだから、この近くに美味しいコーヒーを飲ませる店があるんですよ。御案内しますからどうですか?」
 惺子先生としてみても、そう言う店の一つぐらいは知っていたほうがこちらでも生活が楽しくなるだろうと思ったのだ。それに先生には未だ尋ねたい事もあった。

 この辺りでは僕が屈指だと思うコーヒーを入れてくれる店は『花ヶ崎』から程無い距離にある。ブレンドも旨いがキリマジェロ等の品名で頼んでも、一級の味を提供してくれる僕のお気に入りの店だ。
 ガラスのはまった木の扉を押して入ると昼前なので幾人もお客はいなかったが、僕が連れて来た連れを見て他の男の客の口が「ほお~」と動いていた。惺子先生はそれだけ注目を集める容姿なのだ。
「何にしますか?」
 店の奥まった席に座ると、テーブルの上にあったメニューを渡しながら尋ねる。
「そうですね。じゃあキリマンジャロにします」
 この時、惺子先生は実に嬉しそうな表情をした。
「私、キリマンジャロ好きなんです」
 僕の好みと同じだ。やはり僕はこの人に惹かれているのかも知れない。
「キリマンジェロ二つ」
 そう注文を取りに来たお姉さんに言うと顔見知りの彼女は小さな声をして僕の耳元で
「どうしたの? 凄い美人じゃ無い」
 そう言って笑って去って行った。正面の惺子先生を見ると何を言われたか判ったのだろう、何とも微妙な笑顔を見せた。

「美味しいです! さすが隆さんがお薦めのお店ですね。私も此処に来る様にしますね」
 ゆっくりとした動作でコーヒー、カップを口元に運ぶ仕草はそれだけで、一幅の絵になる様な感じだった。
「先生、先ほど弟さんが社交的な性格と言っていましたが、誠明で授業をしていたなら、女生徒から相当人気があったと思うのです。その辺はどう思いますか?」
 僕はコーヒーを飲む間に最初の疑問を尋ねてみた。惺子先生は言い難くそうだったが
「そうですね。詳しくは判りませんが、弟の事を追いかけていた女生徒がいたと言う事は聞いています。でもまさか、それで生き死にに関わる事になるなんて……」
 惺子先生の言う事は最もだと思うが、今の高校生なら判らないと思う。現に僕のクラスの生徒でも妊娠してしまった者がいて騒動になったぐらいだ。
「弟さんは3年も教えていたのですか?」
 ここが肝心だった。もし教えていたなら、3年生にその対象者が絞られると僕は思っていた。進路が決まった後ならば、開放感もあると思うのだ。僕がその時に開放感を味わうかは判らないが……
「はい、受け持ちは三年の文系のクラス三つと二年の文系クラスです。一年は違う先生が受け持っていたそうです。ああ、そういえば言っていませんでしたが、私も古文を教えます。私の場合は一年全部と二年の文系クラスだそうです。隆さんは文系ですか?」
 コーヒーを飲んだせいか、惺子先生が饒舌になってきた。僕としてはこの方が色々な事を訊きやすい。
「そうです。兄とは違う道を生きたいので文系にしました」
「そうですか、兄弟ならその方が良いかも知れませんね」
 そう言って惺子先生は悲しそうな目をしてコーヒーを飲んでいた。

 僕は今日「花ケ崎」の現場に行き、偶然釣り人の小父さんに会って、尋ねて、確信した事があった。
「先生、弟さんは釣りをなされますね? そしてその日はあそこに釣りをしに行っていた!? そうじゃありませんか?」
 僕の断言に惺子先生はうなだれて
「すいません、隠し事は止めます。もう本当の事を言います。あの日弟は「花ケ崎」に釣りに行っていたそうです。東京にいる頃はやらなかったのですが、こち らに来てからやる様になったそうです。あの日も学校が春休みなので釣りに行ったそうです。でも知っているのはそこまでです。その後どうして弟がああなった のかは分かりません」
 僕はあそこで転落したと聞いて、不思議だった。「花ヶ崎」の突端が危険な事は地元の人間なら誰も知ってる事だ。そこをあえて行くのは釣り人しかいないと思う。そこから考えたのだった。
 僕は問題はそこに一人で行ったのか? それとも誰かと一緒だったのか? と言う事だ。一緒だったなら、その人が真実を知っている訳だ。果たしてそれは誰なのか? 僕は未だ調べなくてはならない事があると思うのだった。

 家に帰って来て、惺子先生と別れて、自分の部屋で今までの事を箇条書きにして整理してみた。
 一.惺子先生と弟さんは双子で、しかも美男子だった。
 二.性格は開放的で、女性の友達も多かった。
 三.釣りをやり始めていて、当日は「花ケ崎」で釣りをしていた。
 結局色々な事が判った気がしていたが、事実はこれだけだった。情報が少ないと思う。
 本当は警察が当時、何故事故と断定したのかを知りたかった。まさか警察には訊けないので、こちらから調べるしか無い。明日春休みの最終日に図書館に行く事にした。地元の新聞か地方版を閲覧してくるつもりだった。
 
 翌朝、惺子先生は学校に行かなくてはならないので、朝早く出かけてしまっていた。僕はゆっくりと起きると朝食を採って図書館に行く為に自転車を出した。
 自転車を漕ぎながら色々な事を考えてみる。そういえば、あの日、惺子先生が離れを見に来た日、父は何故家にいたのだろう? 父は地元を中心に支店網を広 げている信用金庫の支店長だ。仕事の他に色々な場所に呼ばれるので昼間から家に居るなんて事は無いのだが、何故かあの日は家に居た。それもおかしな話だと 思うが、それがこの事件に関係しているのかは判らない。それに……惺子先生は未だ僕に言って無いことがあるような気がした。

 図書館に着いて、利用カードを出す。これは誰でも発行して貰えるのだが、これが無いと本もCDも借りる事はおろか、今回の様に過去のデータを利用することも出来ない。
 カウンターで一昨年の三月と四月のこの地方の地方紙と全国紙の地方版を見せて貰う様に頼む。
一々申し込み用紙に書きこむのが煩わしい。
 十分程待って、閲覧用のデイスプレイ、つまり端末の番号を知らされる。
「鈴目さん、三番の端末をご利用下さい」
 言われた通りに三番の端末に座り、操作を開始する。程なく事件の事を書いた記事は見つかった。
「高校講師、桟先ヶ崎から転落、死体で発見される」
 どの新聞も内容は同じだった。「釣りをしていた佐伯 稔さん(二十三)高校講師が桟先ヶ崎の突端から転落して海に投げ出されて、海岸で発見された」と言うものだった。
 その三日後の記事には稔さんが釣りに行って居たという事実だけを淡々と書いていて、釣りの時に同行者がいたかは書いていなかった。
 この時僕は中学生だったがこの事件は記憶に無かった。「花ケ崎」での事故は良くあるので、特別に意識しなかったのかも知れないし、最も当時通っていた中 学から「花ケ崎」は中学生には遠く、しかも学区外だったので、訊いても「ちょっと遠い地域の事」と思ってしまったのかも知れなかった。まあ、知っていたと しても今更どうしようも無いのだが……
 幾つかの記事をコピーして貰い持ち帰った。参考にはならないだろうが、帰って惺子先生に見せるつもりだった。
 明日からは学校が始まる。そう自由な時間がある訳では無いし、惺子先生は僕よりもっと忙しくなるだろう。やはり僕が調べ無いとならないと思った。

 家に帰り昼食を食べると、自分の部屋で情報を整理してみる。一番の収穫は名前が判った事だ。稔さんという、佐伯稔さんだ。何故惺子先生は名前を言わず 「弟」と言っていたんだろう? 深い意味は無いのだろうか……それと東京時代はやらなかった釣りをこの地方に来てから始めた事。
 恐らく誰かに勧められたのだろう……そこまで考えて、僕はあることに気がついた。稔さんに釣りを勧めたのは父では無いだろうか……父は釣りが趣味だ。もしかしたら二人は何処かで知り合ったのかも知れなかった。趣味が合うと言う事は実際にある事だからだ。
 そう考えると色々な謎が解きほぐれて来た感じがした。それと同時に僕の心に疑惑が湧いてきたのも事実だった。
 夕方になり惺子先生が帰って来たので、図書館でコピーした記事を幾つか渡すと先生は
「ありがとうございます。東京の新聞には乗らなかったから、記念になります。あ、記念と言うのはおかしいですね。国語の教師として失格ですね」
 やや、ハニカミながら笑う様は僕にとっては天使に見えた。この人の為なら真実を必ず解き明かしたいと思うのだった。

 翌日からは新学期だ。惺子先生と一緒に家を出る。実はこの時間が僕にとっては一番大事な時間だ。誰にも邪魔されない時間なのだ……
 惺子先生は今日からは髪を纏めてポニーテールにしている。余りにも良く似合うので褒めたらば「授業で黒板に振り向いたりして髪がバラけると授業しづらいので纏めたのです」
 僕は世界で一番ポニーテールが似合う人だと思ったが、事実は事務的な事だった。
 校舎の前で先生と別れて、クラス分けの張り紙を見ると2年A組だった。腐れ縁の村上も一緒だった。
 教室に入ると、村上が近寄って来て
「今日から惺子先生が勤務するんだよな。俺達の古文の授業も見てくれるんだよな。楽しみだよ俺」
 全くこいつは何を言っているのだろう。確かに惺子先生の授業なんて本当に眼福ものだが、「先生が教え方が上手いとは限らない」そう村上に言うと
「お前は夢がない」
 そう言ってむくれてしまった。
 
 全生徒が集まる始業式で正式に惺子先生が紹介されると、在校生の男子が一斉にざわついた。それほどのインパクトがあったのだ。村上が小声で
「もう、一部ではお前とウワサになってるらしいぞ」
 そんな事を教えてくれるが、確かにこの前の喫茶店に入った時も目立っていたかも知れないと思う。だが、今は真相を解明する事が先だと思う。
 今日は授業が無いので早々と帰ろうと自転車置き場に行くと見知った顔と出会った。父の信用金庫の行員さんだ。
「こんにちは、今日は早く終わったのですね」
 そう挨拶され、特別親しい訳では無いがたまに家に来る人なので
「そうなんです。授業は明日からですから。ところで、この学校に用事ですか?」
 僕は以外な場所で出会ったと思い疑問を持ち、尋ねてみると
「ええ、誠明学園はウチのお得意様ですから。学費の納入や校舎等の建て替えの融資とか、お世話になってるのですよ」
 それを聞いて、そうか、そう言う繋がりなのだと理解した。

 学校の帰りに今日もコンビニに寄る。漫画雑誌の発売日だからだ。今日も肉まんを食べながら漫画を読んでいると既視感を感じた。そういえばあの日もこうやって同じ事をしていたっけと思い出した。
 そうしたら、僕は恐ろしい事に気がついてしまった……あの日の父の顔が思い出される。そして、誠明と父の信用金庫との関係……間違い無い、稔さんに釣りを教えたのは父だ! そしてもう一つの事実にも気がついた。
 だが、それを推理して得られる事実の訳が判らなかった。これでは推理とは言えない。父は僕に何かを隠している。それが何なのか、そしてそれが判れば真実が見えて来ると僕は思うのだった。

 父に訪ねたくても月の初めは金融機関は忙しい。当然毎晩父の帰りは遅い。
 僕は父に訊く機会を中々取れなかった。ならば、その時間が取れるまで、別な謎に取り組まなくてはならない。それは、この鈴目の家と佐伯の家の関係だ。兄に電話をして確かめた。
 すると惺子さんのお父さんは祖父の教え子なのだそうだ。そしてその教え子が兄と言う関係だという……両家は繋がりがあったのだ。兄弟では僕だけがその繋がりの外に居たと言う訳なのだ。
 そして兄は、大事な事を僕に教えてくれた。それは父もこの系列に加わって来ると言う事を……つまり、惺子先生のお父さんと父は大学時代の友人だったと言う事だ。
 これは何を表すのだろうか? もしかしたら、父と惺子さんはそれこそ惺子さんが生まれた頃から知っている仲では無いのだろうか? 
 ならば、どうしてあの時に僕には初対面の様なふりをしたのだろう? あの時は確か母もいた。母はその事を知らないのだろうか? 
 母も知っていたのでは無いだろうか? それでいて僕だけを騙す理由は何なのだろうか?
 その事を兄に尋ねてみようかと思ったが止めた。恐らく兄は詳しい事は知らないだろうし、僕に正直に言うとは思えなかった。

 学校では惺子先生の授業は好評で、今まで古文の授業なぞ寝ていた奴らまでも真剣に黒板に向き合ってる。ただ、授業を真面目に聞いてるのじゃ無く、惺子先生を見ているのだ。
 学校側は講師ではなく、正式に教員として採用したいと考えている、とかウワサされていた。当然僕の家の離れに暮らしていると言う事も次第に判って来て、僕の周りには惺子先生情報を聞き出そうとする奴らが何時も居る様になった。
 これでは元から諦めていたが、学校で先生と接触するのは無理だった。
 それでも授業をしている惺子先生は活き活きとしていて、はつらつとしている惺子先生を見るのは嬉しかった。
肝心の授業も評判が良く男子生徒は無論のこと女生徒にも人気があり評判が良かった。何だか女生徒からも手紙を貰っているらしかった。当然男子は手紙だけでは収まらず、先生に対する熱い想いは膨らんで行くばかりだった。
 
 そんな事を繰り返しているうちに、四月も中盤になり、どうやら父の仕事にも余裕が出て来たみたいだった。
 その日は母が友達と逢うと言う事で出かけていた日曜のことだった。僕は今日しか無いと決意した。
 遅く起きた父はあくびをしながらダイニングで新聞を読んでいた。初夏と言っても良いくらいの暖かさで、薄い上着一枚で過ごせそうだった。
 僕はそんな父に近づき
「父さん、訊きたい事があるんだ」
 そう言うと、父は僕の言葉に反応して
「なんだ、言えない事以外は話してやるぞ」
 多少の誇張を含めながら父は僕に向き合ってくれたので、僕は腹を決めて
「まず、惺子先生と父さんは昔からの知り合いだったという事。そして、惺子先生が離れを下見に来た日なんだけど、僕が学校から帰った時に、寿の小父さんと帰らずに先生は母屋にまだ居たんでしょう?」
 僕がそれを訊いて来るのが判っていたのか父は驚きもせず
「良くそこに気がついたな……確かに俺と惺子先生は旧知の間柄だ」
 そう言って僕を見つめた。
「父さん、本当の事を言うとね。母屋の一部からは離れの中が覗けるんだよ。だから掃除しながら僕は母屋に誰かがあの時居たと言う事を知っていたんだ」
「そうか……と言う事はその先の事も判ってると言う事だな」
 父は新聞を折りたたんで、手元にあったお茶を一口飲むと
「そうだ、あの時惺子さんは母屋にいた。だが彼女のお願いで、お前から隠したんだ。それはお前には見せたく無いものを渡す為だったのだが、惺子さんの希望でもあった」
「どんな?」
「実はな、惺子さんは今年の二月に誠明に見学に来ている。四月からの講師の話をするためだがな。その時にお前を見ていて思ったそうだ。鋭い子だと……」
 そんな事があったのは知らなかった。二月に惺子先生が来ていたなんて……
「僕は鋭くなんか無い……」
「だが、そうは思わなかった。そうだろう? 成績だって優秀と言っても良いし、周りの評判も良い。まして惺子さんには人に言えない秘密があった。その事はとっくに気がついているのだろう?」
 父は淡々と僕に言う。まるで「お前ならこのぐらいは判って当然と言外に言われている様だった。
 「母さんはそこまで知ってるの?」
 僕の訊き方がおかしかったのか、父は笑いながら
「知らないよ。あの時に母さんと惺子さんは初対面だった。何も知らない」
 それだけが救いだった。あんな事は誰も知らない方が良い……本気でそう思った。
「その時何を渡したか、大体想像がついているのだろう? お前の想像通りのものだよ。あれは世間に出してはイケないものだからだ。惺子さんだけが持つべきものだからだ」
 父はそう言って二杯目のお茶を飲み干した。その味は苦かっただろうか?
「それだけでは無いんでしょう? 金庫の為でもあるのでしょう……」
 それを言うと父の顔色が若干変わった。
「そして、寿の小父さんも事情は知っていたんだね?」
 あの日、素知らぬふりをした寿の小父さんも父はきっと抱き込んだのだろう……秘密を守る為に……
「父さん、寿の小父さんも事情は知っていたのでしょう?」
 僕は繰り返し言うと、父は顔色ひとつ変えずに
「ああ、稔さんの死体が海に流れたか一緒に確認した。あいつにはそれだけの事情があったからだ」
 ならば僕の周りで知らなかったのは僕だけだったと言う事なのか……

「どうするんだ? 惺子さんに言うのか? すべてを、彼女に……」
 父は僕を試しているのだろうか? 
「父さんは惺子先生とは子供の頃から知っているの」
 その事に対して父は驚くべき事を僕に告げた
「名付け親だ。惺子と言うのは俺がつけた。反対に悟は佐伯がつけた。お前の名は誰がつけたと思う?」
 まさか……父の口調から感じるのは一つだけだった。
「当時、小学生だった惺子さんが、俺と佐伯が書いた幾つかの名前から選んだのだ」
 そうか……惺子先生は僕の名付け親だったのか……そして生まれた時、いいやその前からの付き合いだったんだ……
「だから、お前に対しては特別な感情を持っていたのさ……そう言う事だ」
 特別な感情……僕は惺子先生に特別な感情を持っている。だが、今までそれは僕だけだと思っていた。
 惺子先生は何故その事を僕には知られたく無かったのか? 
 父は黙って庭を見ていた。恐らく言いたくは無かった事で、僕には秘密にしていたかった事なのだと思った。そして、今となっては全てを惺子先生に訊くしか無いと思った。そして真実を語り、認めて貰う事を……
 思いを巡らす僕に父は驚くべきことを口にした。
「隆、稔さんの子を身ごもった生徒のことを調べたか? それが判らなければこの事件の真相には辿りつけない」
   自殺した女生徒って……稔さんとの……まさか……
 振り返った僕に父は意味ありげに頷く。僕はその意味に気がつくのに時間はかからなかった。すぐにでも誰だったのかは想像出来た……まさか……嫌な予感が頭を駆け巡った。
「全てはそこから始まったんだ」
 父の言葉が重くのしかかった……

 僕はそれからもすぐにでも惺子先生に尋ねたかったのだが、学校の行事が色々とあり、纏まった時間が取れないので延び延びとなっていた。グズグズしている間にもう明日からゴールデンウイークという日になってしまった。
 その日、僕は遂に惺子先生に言う決意をした。夕食後に離れに向い、声を掛けると
「隆さん、どうしましたか?」
 そう言って先生は出て来てくれた。
「どうぞ上がって下さい」
 僕は言われて六畳の部屋に案内される。かって何も無かった部屋は今では本棚や机と椅子があり、ちょっとした書斎の雰囲気が漂っていた。
 惺子先生は今日はメガネを掛けていて、その姿も良く似合う。どうやら今日行った小テストの採点をしていたらしい。きっと返却は連休後になるのだろう。その後は中間試験がある。
「お仕事中すいません。どうしても訊いて欲しくて無理を言いました。これから僕が言う事で違っていたら指摘して下さい」
 そう言うと惺子先生の表情が引き締まった。美しいメガネを掛けたその姿を僕は正直、そのままいつまでも眺めていたかった。でも今日は言わなくてはならない……
「まず、先生と父との関係です。先生が離れの物件を見に来た時のことですが、珍しく父がいました。僕はその時は深く考え無かったのですが、実は重大な事でした。
 結論から言いますと、僕は「寿不動産」の車に乗って先生がウチに行くのを見ています。僕は海岸沿いを自転車で走っていました。車は僕を追い抜いて行った のです。そして帰りですが、僕は海岸沿いのコンビニで漫画を読んでいた。その前を車が帰って行きましたが、その時は寿の小父さんだけでした。つまり、先生 は乗っていなかった。なら何処に居たのか? 当然母屋でした。父は家に帰った僕を家に入れない様に、庭先に出て来て、離れに入居者が決まった事を言いまし た。そして掃除の事を言い出した。
 僕は、まんまとその策略に乗り、その日から離れの掃除を始めました。父の計画通りでした。そしてその時先生は母屋の何処かに居たのです。何故か……それは、あるものを父から受け取る用事があったからです。それは稔さんの日記の様なものだったのですね」

 惺子先生は大きく瞳を開き驚愕している。六畳の部屋からは月が顔を出していた。
「そこまで判っていたのですね。隆さん凄いですね……やはり私の勘は当たっていました」
 僕は続きを言う
「父は、稔さんと親しかったのです。子供の頃から知っていたのでは無いですか? そして稔さんに釣りを教えたのは父だったのでしょう。父は惺子先生のお父 様である佐伯教授と実は大学の同窓生だったのですね。二人は友達だったので、その縁で兄も同じ大学へ行き佐伯教授のゼミに入ったのです。
 だから、父は稔さんが行方不明になった時に、事件が公になる前にすぐ、稔さんのアパートに赴き日記を持って来たのです。なぜならその日記には稔さんの交 友関係が赤裸々に書いてありました。それよりも大事だったのは、惺子先生が頻繁に稔さんのアパートに来ていて、稔さんに色々と注意していたからです。それ は教師としては公に出来ない行為だったのでは無いですか? その事実も書いてあった。当日あたりの記述にも東京から姉が来る。と書いてあったのでしょう。 それを知っていた父はこの日記を隠す必要があったのです。万が一の事があれば大騒ぎになる、なぜなら事実は絶対に公にしてはならないからです。そしてあの 日、あの現場に先生も居たからです!」
 
 そこまで僕が言うと、惺子先生は下を向き、うなだれて聴いている。
「どうして私がこの地に何回も来ていると判ったのですか?」
 惺子先生は苦しげに僕に問い正す。それに答えなくてはならない……
「初めて先生と会った時に先生は『桟先ヶ崎』と言わないで「花ケ崎」と言いました。この名前は地元の人間で無ければ使わない名前です。そこで僕は実は何回も来た事があるのでは無いかと思いました。全てはそこから疑問を持ったのが始まりです」
 この時は口にしなかったが、思えば初めて学校に一緒に行った時、惺子先生は僕よりも先に自転車を走らせていたし、あの日学校帰りにスーパーで買い物をし て来た……あのスーパーは通学路からはかなり離れていて、この地に不慣れな人が気軽に寄れる場所にはなかったので、あの日に気がついても良かったのだ。
「そうでしたか、それが疑問を与えてしまったのですね」
「そして、先生は事実を知っていた。警察にも秘密にした事実を……先生はあの場所で稔さんと話をしていたのですね。あそこに居ました。父も居た。そしても う一人の人もそこに居た。三人で稔さんを説得していました。自殺しないようにと……だが、そこで間違いが起こった。稔さんは崖から足を踏み外して海に転落 してしまった。慌てた三人はすぐに下に降りてみたけど稔さんの体は海に流されてしまっていた。そこで、事故として、警察には届け出たのです。そうすれば、 警察に詳しい事情を調べられたら困る事があったからです。それは……」
 そこまで僕が言うと先生が
「そこから先は私が言います。弟は、ある女生徒を妊娠させて結果として、自殺に追い込んでいたのです。父や理事長の力で騒ぎが表沙汰にならない様にしたのです。私は二人を随分説得したのですが……
 あの時も一人で「花ケ崎」に行くと言うので私は東京から来て、鈴目のお父様ともう一人の方と説得していたのです。それが……」
 その先はまた僕が引き継ぐ
「表沙汰になると本人はともかく、学校にも迷惑が掛かる。父にとってもそれは由々しき問題でした。なぜなら誠明は父の信用金庫の上得意な顧客だったからで す、この事が明らかになると、学校の評判が落ちて生徒が減るのは大問題だったからです。だから普通の事故扱いとして、学校には影響が及ばないようにした」
 頷いた惺子先生に僕は決定的なことを言った。
「先生、その場に居たのは寿の小父さんで、その自殺した女生徒は、寿の小父さんの娘さんだったのですね」
「それを知っていたのですね……」
 惺子先生は驚き、そして僕の次の言葉を待っていた。
「寿の小父さんの娘さん。貴子さんと言ったそうですが、実はこの貴子さんは稔さんや先生の兄弟だった……

 僕の母や寿のおばさん、そして佐伯教授も含めて大学当時、グループで交際していたそうですね。六人は本当に仲が良かった。やがて、卒業して三組のカップルは結婚した。
 順番は一番早かったのが佐伯教授、そして僕の両親、最後が実家の家業を継いだ寿の小父さんでした。佐伯教授と僕の両親には子供が生まれた。だが、寿の小父さん夫婦には生まれなかった。色々と調べたそうですが、当時の事ですから原因が良く判りませんでした。
そんな時に佐伯教授夫人が予定外の子供を身ごもった。佐伯教授としても当時は助手で家計は苦しかった。
 そこで六人はある事を企んだのです。教授の知り合いの産科の医師を巻き込み、佐伯教授夫婦に生まれた女の子を寿の小父さん夫婦に生まれたことにしたのです。つまり、赤ん坊のあっせんです。寿夫婦も喜んだそうですね。
 18年という間は何事もありませんでした。でも事態は稔さんが誠明にやってきて大きく動き出しました。過去の事情を知らない二人は、いつの間にか交際をしていたのです。そして貴子さんは稔さんの子を身ごもった。
 当初は稔さんも喜び、二人は結婚の約束をしたそうです。でもそれを両方の両親に告げると顔色を変えた。当然です。二人は正真正銘の兄妹だったのですから……」

 離れの縁側から月の明かりに照らされて庭の木々が見えている。温かいこの地方なので皐や藤も咲いている。僕の目の前の人はその花にも負けないくらい綺麗な人だ。その人が顔を歪めている。
「二人から真実を聞いた時、目の前が真っ暗になりました。二人共苦しんでいました。私はせめてお腹の子だけでも堕ろすように説得しました。でも聞きいれてくれませんでした。
『どうしても一緒になりたい。子供も産みたい。戸籍上は問題無いのだから、産んで見なければ判らないし、不自由な子なら自分達が一生面倒を見る』そう言ったのです。
 当然、誰一人として賛成するものはいませんでした。それを悲観して貴子さんは自殺してしまったのです。
 あの日、弟も後を追って死ぬつもりで「花ケ崎」に行ったのです。私と鈴目のお父様と寿のお父様と三人で稔を説得していました。でも……弟は発作的に飛び込んでしまったのです」
「私は犯罪者です、罪に問われるべき人間です。すぐに警察に届け出れば捜索して貰えば見つかって助かったかも知れ無かったかも知れないのに、見捨てたので す。実の弟を……それまで、にも問題を起こして来ました。弟の尻拭いは何時も私がやって来ました。それは本当に私にとって嫌な事でしかありませんでした。 でも、貴子さんとのことは真剣だったので、私も本当に困惑してしまったのです。結局助けられなかった私は酷い人間です。生きる価値の無い人間です」
 惺子先生はそう言うと涙を流し始めた。僕はハンカチを先生に差し出した。
「涙を拭いて下さい。今言った事は何の証拠もありません。確かに不作為の罪と言うのもあり得るかも知れませんが、例えば転落して即死だったらどうしようも無い訳ですし。稔さんが助かっていたという証拠が無い以上何も証明出来ませんよ先生」
 惺子先生は悲しそうな表情で、黙って僕の言う事を訊いていた。僕は先生に一つだけどうしても確かめたい事があった。
「先生、父と共謀してまで僕に事件を隠そうとしたのは何故ですか? それに途中から真相を解明して欲しいと言った理由を訊かせて下さい」
 僕としてはこの方が大事な事だった。先生は顔をあげると恥ずかしげな表情を浮かべて
「笑って下さい。私、隆さんが学校の成績も良く、しかも勘の鋭い人だと言う事を悟さんやお父様を通じて知っていました。そして実際二月に学校で拝見して見 るとその通りだと思いました。そして私は思ったのです。この人が傍にいれば、何時かきっと事件の真相に気がついてしまう。知られてはならない事を知ってし まう……そうお父様と相談したのです。
 それで、私は、最初貴方を誘惑しようとしました。誘惑して貴方を私のものにしてしまえば良いと思ったのです。
 言い換えれば私の色香に迷わせ何でも言う事を聞く人間にしようとしたのです。もうお聞きでしょうが、私はあなたの名付け親です。赤ん坊の頃から貴方は可 愛かった。天使だと思いました。だから今回、貴方の全てを私のものにしてしてしまう事は私にとっては本望だったのかも知れません。そうすれば怖いものは無 くなり、全ては明らかになることは無いはずでした。
 もうお判りでしょうが、お風呂を戴いた時にわざと忘れ物をして、貴方に持って来て貰いました。私はパジャマのボタンを外して貴方に胸が良く見える様にし誘惑したのです。貴方は私の目論見通りになりそうでした」
 あの時にそんな思いがあったとは正直思わなかった。訊かなければよかった。あのまま誘惑されていれば幸せだった……
「それに、お茶を頼んだ時も実は私は着替えの最中で上半身は何も身につけていませんでした。あの時に隆さんが玄関に下がらなければ、私は貴方に裸身を晒そ うと思っていました。あなたが私の裸を見てそれを脳裏に焼き付ければ、必ず貴方は私の意の侭になると思ったのです……私は汚い女なのです……でもどうして も誘惑出来ませんでした」
 先生は苦しそうに事実を言うが僕はどうすれば良かったのだろうか?
「じゃあ、その後で、どうして僕に解明を頼んだのですか?」
 僕としてはそこが訊きたかった。
「それは、あなたが既に事件のことに気が付き始めたと判ったからです。あなたを傍に置いておけば事件ことにどれだけ近づいたが判ります。そして何より、あ なたに好意を持ってしまったからです。いいえ好意以上の感情です。おかしいでしょう、ここのつも年上の女がそんな感情を持つなんて……だから打算ずくでの 身体の誘惑は出来なかったのです……心の底から貴方を好きになって仕舞ったのです。好きな方の前で汚い女にはなりたく無かったのです」
 惺子先生はメガネを外してその瞳からは大粒の涙を流している。
「一緒に解明してくれれば、少しでも隆さんとお話が出来る。逢う口実が出来る。隆さんが私の居る離れを訪れてくれる……そんな浅はかな考えだったのです。 わたしが講師として働き出せば、きっと教師としてしか見てくれなくなる……それは嫌でした。ならば解明を頼む事で、隆さんを自分のものにしてしまいた い……その感情の延長でした」
 先生はうなだれてその場に座り込んでしまった。

 僕はここまで、この美しい人を困らせて、父の行為を暴き、過去の犯罪を暴き、家族を路頭に迷わせ、自分の母校を経営難に追い込み、それでも真実を暴いて、告発しなければならないのだろうか?
 そうでは無い、そうじゃ無いはずだ。真実だけが皆を幸せにすると言う事は無いはずだ……ならば、僕も腹をくくろう。そう最愛の人の為に、虜になったって良いじゃ無いか。僕は勇気を振り絞って告白する。
 「ちっともおかしくなんかありません。だって僕は、全てを知っても先生の事が好きなんです!」
 とうとう告白してしまった。まともに先生の顔さえ見る事が出来ない。心臓が苦しくなる。 僕は先生にお願いをした。
「当初の目的の通り、稔さんの代わりに誠明で講師をして下さい。それが供養になるんじゃ無いですか? あれは事故でした。釣りに行っての事故だったのです」
 恐らく割り切れない考えだと思うが今となっては仕方ないと思う。この先一生、先生はこの想いを持ったまま生きて行かなくてはならないだろう。例えそれが結果だけ見れば、惺子先生の目論見通りになろうとも僕は構わない。

「辛いかも知れませんが、それしか無いと想います。そしておこがましい様ですが、これからは僕が傍についています。そして僕も一生この事実を胸に仕舞って生きていきます。先生が望むならば……」
 今となっては僕にはそれしか言えなかった。今後僕も惺子先生の「罪」を背負って行こうと思う。それが僕に出来る事だからだ。
「それで良いのでしょうか? それならば私は一生このことを抱いて弟の冥福を祈りながら暮らして生きて行きます。隆さん……信じて良いのですね……」
 そう言うと先生は近寄って、僕をギュッと抱きしめた。顔に胸が当たって実は心地良かった。僕も両の手に力を入れて愛する人を抱きしめた。
「わたしの……わたしのかわいい人……」
 惺子先生の甘い声が耳元で囁かれる。
 僕は、ここに至り、もしかして、佐伯教授夫婦の子を寿の小父さん夫婦の子にあっせんしたのは、誠明の理事長ではなかったかと思っていた。……確か理事長は医者あがりで、ドクターだったと思い出した。
 そこまで考えて、僕は考えるのを止めた。そんなこと突き詰めてどうするつもりなのか? 何の得になるのだろう……今は、惺子先生の腕に抱かれていることの方がよっぽど大事だ。
 僕は心地よい感触を味わいながら、この美しい人が僕と血縁が無いことを祈るのだった。だってそうさ、母と僕と父との間には何かある……父は未だ僕に秘密を隠している。それが何かは判らないが、僕と惺子先生に関することだけではないことを祈るのみだった。
疑えば、惺子先生だって、稔さんの名前を最初から何故呼ばなかったのか、他人行儀に「弟」などと呼んでいた。それだって……二卵性双生児ということだって、疑えば……止めた、もう考えない! 僕はこの人の為にこれから暮らしていたって良いじゃないか!
 真実だけが人を幸せにするとは限らない……誰も知らなければ、稔さんと貴子さんだって……こう思う事は良く無いのだろうか?
 僕はこのことが原因で不幸が訪れるなら、甘んじてそれを受けようと考えていた。
 
   了