二学期が始まりました。今年は八月の末になって急に涼しくなり、野菜の管理が大変でした。このまま季節が早く過ぎて行けば「早霜」の恐れもあります。父もその辺を心配していました。
「大丈夫だ。お前が心配する事はないよ」
 そう言ってくれましたが、やはり気になります。でもこればかりは幾ら気になっても折木さんに尋ねる訳には行きません。今日は文化祭で売る文集「氷菓」の 最終編集会議です。昨日摩耶花さんは自分のマンションに福部さんを招き、原稿を描き上げるまで帰さないと言って帰って行きました。
 摩耶花さんは事情があり、ご両親と離れてマンションに一人暮らしをなさっています。福部さんもたまには摩耶花さんのマンションに寄る事はあるそうです が、今まで泊まった事は無かったそうです。昨夜が初めてだと言う事は、もしかして、甘い夜になったのでしょうか? わたし、それも気になってしまいまし た。
 わたしと折木さんはお互いの気持は確認したものの、その後の進展具合は進んでいません。だから、先輩でもある摩耶花さんと福部さんのカップルがとても気になるのです。

 HRが終わり地学講義室に向かいます。途中で鍵を持った折木さんに逢いました。
「おう、千反田。早いな、さすがだ」
「いえ、折木さんこそ職員室に寄って貰いすみませんでした。本来なら部長であるわたしが行くべきなのに……」
「まあ、細かい所はいいよ。俺の方が職員室に近いだけの事なのだからな」
 やはり折木さんは素敵な方です。自分のやった事を自慢したりする事のない人なのです。
「昨夜、福部さんは原稿を書けたでしょうか?」
「まあ、伊原があれだけ真剣に言っていたんだ。書かせたと思うけどな」
「そうですよね。でも二人だけで一夜を過ごしたんですよね……」
 わたしの言葉に折木さんも意識してしまったようで
「ま、それは、あいつらは交際して長いからな……そんな事もあるんじゃないかな……」
「正直、わたし、少し羨ましいと思ってしまいました」
「ち、千反田。それは……」
「すいません! 今のは聴かなかった事にして下さい」
 自分の言った事の恥ずかしさに耐え切れず小走りに走ってしまいました。
 地学講義室の前に行くと、既に摩耶花さんと福部さんが待っていました。
「あら、お早いですね」
 わたしが声を掛けてもお二人は頷くだけで、返事をしてくれません。それにどうも顔色が悪い気がします。
「どうなされたのですか?」
 わたしが摩耶花さんに尋ねると福部さんが
「摩耶花は気が動転しているから、中に入ったら僕が説明するよ」
 後ろから折木さんがやって来て部屋の鍵を開けてくれました。それぞれが何時もの席に座ると、福部さんが鞄から原稿を出して
「昨日、夕方から書き始めて、八時頃には書き終えたんだ。ご飯を一緒に食べてね、帰ろうとしたら摩耶花が引き止めるんだよね。初めは僕も変に勘違いしてい たんだけれども、摩耶花の様子が段々おかしくなってきてね、理由を問い正したら『幽霊が出るから今夜は一緒に居て欲しい』って言うんだよ。それで家に電話 して摩耶花のマンションに泊まる事を伝えたんだ」
「それで幽霊は出たのですか?」
 わたしの質問に今度は摩耶花さんが
「出たのよ! 間違いないの!」
 そう言って、両手で頭を抱え込んでしまいました。それを見て福部さんが
「まあ、出たと言うより確かに聴いたと言う感じかな……あれは人以外の何かだとは思うけどね」
 福部さんは以外に冷静な分析をなさる方です。その方が「人以外」と言うからには何かあったのだと思いました。すると黙って聴いていた折木さんが
「里志、どんな音を聴いたんだ? 人の声らしきものでも聴いたのか?」
 そう言って会話に割り込んで来ました。折木さんなら何か判るかも知れないと思い、わたしは黙って折木さんの隣に席を移しました。
「そうだね。隣の部屋から音がするんだよ。それも『ドン』とか壁が『ギンギンギン』って言う音がするんだ」
「伊原、その音はいつ頃からするようになった?」
 折木さんの問に摩耶花さんは震える声で
「隣の人が引っ越して行って、空き部屋になってから聴こえるようになったの。それも夜とかが凄いの。最初は隣の部屋に誰か物件を見に来たのかと思っていた ら、隣は相変わらず空き家だし、誰も部屋に来た人は居ないし、同じ階の部屋は誰もそんな音を出したりしていないと言っていたし、それに同じ階の人もその音 を聴いているのよ。だから、これは幽霊の音なんだと思ったの! 間違いないわ!」
 摩耶花さんは無闇に幽霊だとは言っていないと、主張しています。わたしは出来るならその音を聴いてみたいと思いました。
「伊原、確かめるが、その隣の部屋には誰も入ってはいないんだな?」
「うん、音がした時は誰も居ないわ。わたしが居ない昼とか管理人さんが入っているかも知れないけどね」
「マンションの高さは何階建だ?」
「七階建てよ。それが何か……」
「屋上に給水塔が備わってるな?」
「当たり前じゃない。無かったら水道が使えないじゃない!」
「そうか、そうだな……」
 それだけを言うと折木さんは右手で自分の前髪を触り始めました。わたしは知っています。ああして、折木さんが右手で前髪を触り、目の焦点が纏まりなく なった時は、あの人の頭の中は灰色に覆われた頭脳の細胞がフル回転しているのです。その出す答えにわたし達古典部の皆はどれだけ助かった事でしょう。
「伊原、もう一つ教えてくれ、隣が空いたそうだが、マンションの住民そのものは増えているんじゃないのか?」
 折木さんの質問に摩耶花さんは少し考えて
「そう、そう言えば、そうなの。でも折木何でそんな事まで判るの?」
 折木さんは摩耶花さんの言葉を聴きながら
「やはり、そうか……」
 凄いです! 折木さんは既に何か判ったみたいです。現場を見た訳でもないのに判るなんて……
「折木、何か判ったの?」
 摩耶花さんは真剣です。
「ああ、大凡はな。まず間違い無いと思う。マンションは七階建てで、屋上に給水塔が備わっていた。伊原の隣の部屋は空いたがマンションの住民そのものは増 える傾向だった。そして夜に多く音が発生した。そこから導かれる結論は幽霊の音などではない。それは、人工的に引き起こされた『ウオーターハンマー現象』 だ」
「『ウオーターハンマー現象』って何よ?」
 驚く摩耶花さんに折木さんは
「里志の方が詳しいかもしれんが、昨夜気がつかなかった所を見るとデータベースには入って無いみたいだな。では説明しよう……」
 折木さんはそう言って地学講義室の黒板の前に立ちました。そして図解入りで説明をしてくれました。
「『ウオーターハンマー現象』とは水圧管内の水流を急に締め切ったときに、水の慣性で管内に衝撃と高水圧が発生する現象と言われている。弁の閉鎖や配管の 充水時、ポンプの急停止といった急激な圧力変化によって生じるとされている。つまり、水道管に強い圧力が加わっている時に急に水道を止めた時に起こる音だ な。伊原のマンションは七階建てで屋上に給水塔がある。そこまで水を組み上げるので水道管の水圧は高い。最近住人が増えて来て益々高くなっていただろう。 そこに急に伊原の隣の部屋が開いてしまった。今までバランスが取れていたシステムが崩れてしまったんだ。伊原、お前の家もそうだが、住人の殆どが、全自動 洗濯機だろう? それに乾燥機能も付いているだろう?」
「うん、そうだと思う。でもそれが……ああ、そうか! あれは急に水が止まる!」
 驚いている摩耶花さんに折木さんは
「それも、今は夜に洗濯をする家が多い。一斉とは言わないがマンションの住民のうちかなりの家がそれを行なったら『ウオーターハンマー現象』ぐらい起こると思わんか?」
 折木さんの推理は鮮やかでした。
「でも、どうすれば止める事が出来るの?」
「何でも、それを防止する装置があるらしい。五千円ほどらしいが、そんなのを買わなくても、水道局で配ってる節水コマを各家庭で取り付ければ直るそうだ。 これは管理人さんに言うかマンションの管理組合に頼めば良いだろう。他の住人も気にしているなら、直ぐに対策してくれるだろうさ」
 その後、摩耶花さんが管理人さんに言って組合で節水コマを取り入れ、各家庭に配ったそうです。その結果、深夜の謎の音は止まったそうです。
「ほんと、折木の頭の中、ちーちゃんと一緒に覗いてみたいわ」
 摩耶花さんが半分感心して、半分は呆れています。「氷菓」も今年は間違いなく発注しました。後は出来上がって来るのを待つばかりです。

 その日は折木さんが送ってくれる事になりました。今日はそれも嬉しいのです。バスに揺られながら、わたしは摩耶花さんが味わったであろう恐怖の事を口にしました。
「福部さんが居て本当に良かったですね。一人だったらどんなに怖かったでしょうねえ」
 すると折木さんは半分笑いながら
「なあ、本当に伊原が言った事が全てだと思うか?」
「え、本当じゃないのですか?」
「まあそれなら、、それでも良いけどな」
 折木さんは何かを知っています。知っていてわたしに隠しているのです。それがとても気になります。何を隠しているのでしょうか?
「折木さん、わたし気になります!」
「はは、それが出てしまっては仕方ないな。伊原は前から『ウオーターハンマー現象』に悩んでいたと思うな。まあ、それほど気にする程度では無かっただろ う。あの日は里志を自分のマンションに連れて来た。初めてでは無いのかも知れんが、夜に二人きりになれる。伊原としたらこれを利用しない手はない。怖がれ ば、里志が慰めてくれて、朝まで抱きしめて守ってくれるかも知れない、と言う程度は考えたとは思わないか?」
 ああ、そうだったのですね。わたしは、そんな思惑が隠れているとは気が付きませんでした。
「考えての行動だったのですね」
「思惑違いだったのは、里志まで本気で怖くなってしまった事。あの夜の音が何時もより大きかった事だな」
 折木さんの説明を聴いて、わたしは折木さんに尋ねてみました。
「もし、わたしが摩耶花さんのように怖くなったら、福部さんのように朝まで一緒に居てくださいますか?」
 わたしの言葉に折木さんは尤もらしい顔をして
「当たり前だろう。でも、お前がそんなに怖がる事なぞ何かあったか?」
「はい、最近、一人で寝るのがとても怖いんです!」


                 了