「あれ、あなたは、この前の満月の晩に、鯖味噌定食をお食べになった方ですね」
 厨房の奥から店主で調理を担当している、やや背の高い色白の男が出て来た。
「そうです! 覚えておいてくれましたか」
「一度お見えになったお客様は忘れませんよ。もしかして、あれから毎日この辺りを探していたのですか?」
「はい、毎日仕事が終わると、この辺りを探していました。でもどうしても見つけられなかったのです」
 浩二が今までの事を説明すると、店主は謎めいた表情をして
「この店は、満月の晩しか現れないのです。それ以外はそれを必要とする方しか来られないのですよ」
 店主の説明に浩二は頭を振って
「そんな馬鹿な……それならこの店はこの世のものでは無いと言う事になってしまうじゃないですか?」
 そう言って店主に食い下がった。
「もし、そうならどうしますか?」
 店主は相変わらず謎めいた表情をしている。
「どうしても、そうは思えません。だって自分はあの晩に素晴らしい鯖味噌を食べさせて貰った。あれが幻である訳がありません。それに今だって……」
 浩二はどうしても店主の説明が納得出来なかった。
「やれやれ仕方ありませんな。では本当の事をお教えしましょう。他言無用ですよ。これからも満月の晩にここで食事をなさりたければですがね。尤もこれから言う事を他所で話しても信用されないでしょうけれど、秘密は守って戴けますね?」
 店主は一転凄みを増した表情になって、浩二は思わず唾を飲み込んだ。
「守ります。守る事でここで食事が出来るなら誰にも言いません!」
「そうですか。それを聞いて安心しました。今何か作りますから、それを食べながらでも説明しましょう」
 店主はそう告げると厨房に入って行き、作業を始めた。浩二は何を食べさせてくれるのかと興味津々だった。
 出されて来たのは、豚の「生姜焼き定食」だった。一見何の変哲もない只の生姜焼きに思えた。
「どうぞ、お食べになってみてください」
 女将さんがにこやかに言ってくれる。浩二は鯖味噌の事もあるので、それなりの生姜焼きなのだろうと思って箸を着けた。
 まず、添えられたキャベツの千切りを口に入れる。柔らかい! ふわっとした食感にキャベツ本来の甘みが感じられる。噛むとキャベツの繊維が口に残らなかった。トンカツ店でもキャベツの千切りは良く食べるがこんな感触は初めてだった。
『切り方に秘密があるのだろうか?』
 そう思いながら次は本命の生姜焼きに進んだ。箸で切ろうと動かすと難なく左右に別れた。
『……!』
 別れた片方を口に運ぶ……何とも言いがたい感触が浩二を襲った。豚肉に絡まった生姜焼きのタレの味が半端無かった。複雑で浩二には何が入っているのか判 らなかったが、これが生涯で一番の生姜焼きだと断言できた。更に驚いたのが、幾らも噛まないのに喉の奥に消えてしまった事だった。
『豚のロースなのに何と柔らかいのだろう!』
 前回の鯖味噌の事を考えれば、このレベルで驚く事は無いのだろうが、それでも驚いてしまったのだった。
 味噌汁は和布とじゃがいもで、お新香は白菜だった。これは昌江に出したものと同じだった。
 食べ終て、厨房から店主が出て来た。
「如何でしたか? お気に召しましたか?」
「はい、大満足です。どうしてこんな味が出せるのですか?」
 店主は浩二の問に
「今日の事を説明すると、まず豚肉は、国内の健康的に育てられた豚を選びました。ロースの部位を切る時に豚肉の繊維を完全に切断しました。その為柔らかく なっています。生姜焼きのタレですが、国内産の最高級の生姜や醤油とお酒をベースに自家製の梅酒を加え、更に本来は味醂を加えるのですが、味醂はタンパク 質を引き締める効果があります。煮物等には良いですが、この場合は使えないので、足りない甘みに梨を摺り下ろして入れました。キャベツは国産の無農薬のも のを使っています。上半分は繊維に沿って、下半分は繊維を切断するように切っています。だからシャキシャキで柔らかいのです。他にもありますが、こんな感 じですね」
「道理で、俺なんかには判らなかったんだ……でも、どうしてこれほどの腕があるのに普通に営業しないのですか? やったら大繁盛間違いなしなのに」
 浩二の言葉に店主は笑いながら
「私と妻はその昔、こんな店を持っていました。そこそこ繁盛していましたが、妻が事故で亡くなってしまいましてね。その後、私は暫く経ってフリーの料理人 となりました。弟子も出来ましたが、親から受けついだ体質とも言うのですかな、癌にかかりましてね。この世から去ったのです」
 あっさりととんでもない事を言っていると浩二は思って
「何言っているんですか! 現にこうして俺と話してるじゃないですか」
 そう言って食い下がったが
「満月の晩に月の力を借りて一晩だけ蘇るのですよ。そして、この店を必要とされる方に食事を作っているのです」
「それは、誰かの命令なんですか?」
「それは答えられません。あなたもいずれは判る事ですからね」
「でも、さっきは、『それ以外はそれを必要とする方しか来られない』って……」
 浩二の質問に店主は笑ってしまった。代りに女将さんが
「実態の無い店に来られるのはやはり実態のない方だけですよ」
 そう説明してくれたのだった。
「では、普段は向こうの世界で営業してるのですか?」
「若干違いますが、分かり易く言うとそうですね」
「そうかぁ、だから必死で探していても来る事が出来なかったのか……じゃあ、今日俺に生姜焼きを出したのは何故ですか?」
 浩二は、驚異的な味も勿論だが、その日こちらが求めている物を、どうして判るのかが気になった。
「それはですね。私達は人の心の中に入る事も出来ます。まあ、私達の場合は食に関する事だけなのですがね。だから、今日もあなたが、朝から『生姜焼き定食』を食べたかったと判ったのです」
 店主の説明に全て納得した訳ではなかったが、嘘は言っていないと感じた。嘘をつくならもっと本当らしい嘘をつくと思ったからだ。それに、悪人にはこんな味は出せないと思った。
「さっき、弟子の方が居るって言っていましたけど、店を持っているのですか?」
 浩二は、出来るならそこでも食べて見たかった。
「生憎と、店は持っていません。フリーの出張料理人をしてますよ。べらぼうに高いです」
「そうですか、そんな人も居るって噂では聞いた事あります。俺ぐらいでは無理ですね。じゃあ、満月になる度にここに来ても良いですか?」
「勿論です。歓迎致しますよ。先ほど帰った方も常連ですからね」
 女将さんの嬉しそうな笑顔が印象的だった。
「ごちそうさまでした! また次の満月に来ます! あ、でも雨だったらどうなるんですか?」
 浩二の心配に店主が
「雲の上にはお月様が出ていますから大丈夫です」
「それを聞いて安心しました。じゃ」
 そう言って浩二は帰って行った。二人はそれを見送りながら
「少しずつ常連さんが増えて行きますね」
「ああ、増えて行くのが良いのか悪いのかは、判らないがな」
「どうしてですか?」
「だってさ、ここに来る人が増えて行くと言う事はそれだけ食に対して不満を持っている人が多いと言う事だろう?」
 夫、まさやの言葉に妻のみちこは静かに頷くのだった。

  
                                     続く