とりあえずこれで終わりです。
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第3話 不安
夜の帳が降りて、あたりは静かになっています。わたしは、お布団の中に体を潜り込ませます。布団の中は冷えているはずですが、それが気にならないほどの喜びが体を巡っているのです。
今日は元旦でした。この日千反田家は親戚や親類それに各地からご挨拶にお見えになる方々に対して、父や母、それにわたしがご挨拶を致します。それ自体は平年の事なのですが、今年はその列に折木さんが並んでいたのです。
あの日――札幌で、お互いの誤解を解き、将来を誓い合いました。そして、その夏の終わりにお互いの両親に紹介をしたのです。
折木さんの事はわたしの両親もよく知っていましたので、とても喜んでくれました。折木さんの家では、供恵さんがやはり折木さんのお父様に取り繋いでくださいました。既に知った関係ではありましたが、やはりこのように将来に関わる事ですから筋を通したのです。
その後、東京と京都と離れてはいましたが、順調に愛を育んで来たのです。そして、大学も四年になり折木さんは農業流通関係に職を得ました。わたしは、大学院に進む道もありましたが、一日でも早く陣出の人々の役に立ちたくて、進学をしないで実家に戻る事になったのです。そして、翌年の元旦の今日、皆様にわたしの婚約者として紹介をしたのです。この時の嬉しさは言葉では表せないものでした。
『わたしの選んだ、愛した人を見て下さい!』
心の中ではそんな言葉でいっぱいでした。
夜になり、わたしと折木さんは例年通り、荒楠神社に御酒を持って父の名代として挨拶に出向きました。でも、今年は少し違います。折木さんはもう、列記としたわたしの婚約者なのです。
「える、本当に良かったわ。わたしも自分の事のように嬉しい」
かほさんも本当に喜んでくれています。今年は、わたしが口上を述べましたが、来年は……
折木さんはわたしを送ってくださると実家に戻って行きました。少し寂しかったですが、昨夜からずっと一緒に居た事を想うと自分でもおかしくなってしまいました。元旦の夜が静かに過ぎて行きます。
それから暫くしてでした、父の様子が普段とは違う事に気が付きました。この時期、大学へは殆んど行く用事が無いので、実家に留まっていました。今月末の卒業論文の発表会に向けての準備だけです。恐らく折木さんも日程は兎も角大差ないと思います。
「何かあったのですか?」
恐る恐る父に尋ねます
「いいや、なんでも無いんだ。お前は気にしなくて良い」
父は。そうとしか答えてくれませんでした。わたしは父の言葉を信用しようとしますが、どうも心に引っかかっていて自分でも納得出来ないのです。
でも、それは唐突にある日判りました。それから数日後、我が家に来客がありました。「新家」(しんや)と呼ばれている千反田家の分家の当主でした。
千反田家は古い家柄ですから、分家の数はかなり多いです。時代が経つに連れて関係が薄れ苗字を変えていまった家も多くあります。その中でも「新家」は明治の初めに分家した家で、その当時は、分家した場合はある程度の資産を持たせるのが恒例だったそうです。当時の資産とは土地です。すぐに暮らしに困らないように土地を分け与えたのでした。
「新家」が与えられた土地は神山に鉄道が通るようになると、商業地となり、価値が暴騰しました。自身でも事業を起こして成功して、神山でも有数の資産家になりました。その資産は一時は本家を凌ぐほどでした。
戦後庄之助お祖父さんが随分土地を買い戻してくれたお陰で、こうやって千反田本家で居られますが、一次は全く立場が逆転していたそうです。それに庄之助お祖父さんの投資の時も「新家」では随分相談に乗ったそうです。
そんな経緯もあり、分家とは言え「新家」は本家に対して色々な事を言って来るようになりました。
先年わたし達が「同期会」をしたホテルも「新家」の会社が事業を行っています。また、流通業にも進出して、農業関係とも関係が深いのです。今の当主は歳も父より若く「新家」始まって以来の「やり手」と噂されていました。
その「新家」の当主がやって来たのです。確か元旦にもお見えになり、ご挨拶をしたばかりでした。
わたしは、客間に通された「新家」の当主にお茶を運びます。挨拶をして帰ろうとするわたしに
「えるさんも、本当にお綺麗になられましたな。将来が益々楽しみですな」
わたしは無言で礼をして下がりました。過去に幾度となく口は利いていましたが、挨拶以上は滅多にしませんでした。わたしは、胸騒ぎがして、次の間に控えていました。勿論両親にも秘密です。するとやがて……
「では本題に入らせて戴きます。元旦に紹介された、えるさんの婚約者と言う若者ですが、まさか本当にそのまま結婚して婿として千反田家に入れるつもりなのですかな?」
「新家」の当主は皮肉たっぷりに話を続けます。
「いいですか、もう一度良く考えてください。これからの農業は大問題ばかりです。TPPに始まる農業の自由化や流通の見直し。それに農協の解体とただならぬ事ばかりが待ち構えています。そんな状況で、何処の馬の骨とも判らない未知の男を婿に迎えるのですか? まさか、娘さんの恋愛ごっこに同化されたのでは無いでしょうね。だとしたら、バカバカしい話以外にありませんな。もう一度再考願えませんかな」
わたしとしては驚きでした。このまま何も問題が無く上手く行くと思っていたのです。
「えるの婚約者の折木くんは優秀な若者です。その人格、人柄、情熱、能力。どれを取ってもこの千反田の次期当主に相応しいと思います」
父の言葉は何時も通りです。婚約者として折木さんと言う存在に驚いた方に何時も言うセリフでした。
「ふん、バカバカしい……結婚とは単なる惚れた腫れたではありません。家と家との繋がりを強化する為のものです。恋愛は楽しめば良いと思っています。でも結婚は違う……更なる発展を願って家と家を結ぶもので無くてはなりません。えるさんには、わたしが、もっと相応しい人物を紹介しましょう……そうすれば、千反田本家もこの陣出の農業も何があっても安心出来ると言う事です」
そう言って、「新家」の当主はわたしでも知っている名家の名前をあげて行きました。そのどれもが県下に名高い名家ばかりでした。
「どうですか……驚かれましたかな。お望みなら……」
その時でした。父は
「もう結構です。お帰りください。もう既に決まった事です。この千反田の家に相応しいのは折木奉太郎くんです。それだけは間違いありません!」
そう強く言ってくれたのです。嬉しさがこみ上げて来ました。
「そうですか……予想はつきましたがね……では、これからの神山の農業に関しては千反田本家を抜かして考えて行きましょう。失礼しました……」
「新家」の当主はそう言って帰って行きました。
「お父様……」
わたしは思わず陰から出て父の元に走り寄ります。
「聞いていたのか……なら仕方ない。だが心配するな。お前は何も心配しなくて良い……」
父はそう言ってくれましたが、その表情にも声にも元気はありませんでした。
何と言う事でしょうか、先日の元旦では、喜びで眠れぬ夜を過ごしたのに、今日は不安と心配で心が押しつぶされそうで眠れないのです。夜も更けていて申し訳無いと思ったのですが、折木さんにメールをしてしまいました。
『心配事が出来てしまい眠られません……声が聴きたいですが、こんな時刻です。我儘ですよね』
送信ボタンを押すと、程なく返信が来ました。
『どうした? 俺も眠られ無いので論文の見直しをしていた所だ。何かあったのか? 何なら電話するぞ?』
文面を読んで、電話に切り替えます。最初のコールで折木さんは出てくれました。
『どうした?』
『こんばんは、こんな時間にすいません』
『わびなんかどうでも良い。本当にどうしたんだ?』
そこでわたしは、今日起った事を折木さんに報告しました。
『ああ、その事業を手広くやってる分家の千反田の事は色々と聞いて知っている。随分強引なやり方もしているみたいだな』
折木さんは既に「新家」の事も知っていました。
『曲がりなりにも千反田に婿に入るんだ。色々な情報は取り寄せて置かないとな』
さすが折木さんだと思いました。わたしの恋した人は只者ではありませんでした。嬉しくなります。現金なものです。
『今夜は遅い。明日は都合悪いので、明後日逢えるか?』
『はい』
時間を約束します。明後日の午前中に市内で逢う事になりました。
翌日の事です。とんでも無い情報が入って来ました。「新家」の家では農業生産物を流通する会社を作っています。そこには名前だけですが神山の名家も役員に名前を連ねていました。父も名前だけですが役員の一員になっていたのです。それが、この日臨時の役員会が開かれ、父を役員から外す動議だ出され、それが可決したのです。父はその会社から追放されてしまったのでした。
わたしの不安は大きくなるばかりでした。
続く
翌日、市内の喫茶店で折木さんと逢います。わたしが折木さんに伯父の件で最初に相談したあの喫茶店と同じ名前のお店です。マスターの事情で遠方に店を移されたのですが、やはり長く続けていた場所が良いと言う事で、全く同じ場所ではありませんが、すぐ傍にお店を開いてくれたのです。店名も以前と同じ「パイナップル・サンド」と名付けられました。これには勿論神山高校OB会も応援させて戴きました。
カランと言う音を立てて入口のドアを開けると折木さんが丁度コーヒーカップを持ち上げるところでした。わたしの姿を目に止め片手を挙げてくれます。
「すいません。待たせてしまって」
「いや、幾らも待ってはいないし、丁度本を読んでいた所だ」
折木さんの傍らには厚い専門書が置いてありました。きっと農業経済関係の専門書だと思いました。
「昨夜も訊いたが、役員を外されたと言う事だが、事実上何も変わりは無いのだろう?」
わたしは、昨夜電話で、役員解任の事を話したのです。
「はい、単に名前だけですし、報酬もありませんでした」
そうです。この辺りの個人経営の会社には規模を大きく見せる為に地元の名士を役員に登録したりしている事は良くあることです。所謂「社外取締役」です。それも殆ど経営には関与せず名前だけですし、中には役員会の議事録も架空で済ませる所も以前はあったようです。
「ならば、そんなに気にする事もあるまい。調べてみたのだが、あの会社は未だ、そう規模も大きくは無いみたいだ。自分の経営しているホテルと言えば、美濃太田にもビジネスホテルを持っているそうだな」
「折木さん。そんな事まで調べていたのですか?」
わたしは驚いてしまいましたが、折木さんは笑って
「俺が調べたんじゃ無いんだ。姉貴さ……想像がつくだろう」
わたしはこの時まで自分も関係している会の事を忘れていました。
「OB会ですか?」
「ああ、その縁を使って、ひと通りの事は調べてくれたよ。何でも『わたしの可愛い義妹を悲しませる奴は許せない』のだそうだ。逆にハッパを掛けられたよ」
そう言ってにこやかにコーヒーを飲む折木さんを見ていると、わたしは『この人について行き一緒に協力すれば良い』と思っていました。
「三月に入れば会社の研修が始まる。会社は全国規模だが、俺が採用されたのは『現地採用枠』という奴だから赴任はここ神山になるんだ」
多分、そうなるとは思っていましたが、これで安心出来ました。これからは同じ神山の地で一緒に暮らせるのだと思うと嬉しくて気持ちが熱くなりました。やはり京都で暮らした月日は寂しいものがありました。
「だから暫くは、具体的な動きは無いと思う。何か動きがあれば、俺の研修が終ってこっちに赴任してからだと思う。その時は俺も十二分に動く事になると思う。だから心配しなくても良いよ」
その言葉がとても嬉しく感じるわたしでした。
その日は時間もありましたので、二人で買い物に行きます。スーパーに寄ると野菜売り場に自然と足が向きます。折木さんは大きな台に積み上げられた玉ねぎを手に取り
「これは、淡路産か、北海道産はやはり神山には余り入って来ないのかな?」
そうつぶやきました。わたしは、地元の事ばかりに目が行って、神山で売られている野菜が何処の産かは余り気にしませんでした。殆どの野菜が自分の家で作っているという農家ならではの見落としでした。
そんなわたしの表情に気がついたのか、折木さんは
「まあ、お前の家の野菜が一番旨いけどな」
そんな事を言って、片手でわたしの肩を抱き寄せます。こんなひと目につく所では恥ずかしいです。でも折木さんは耳元で
「ここは『新家』が半分資本を出しているスーパーだ。いわば敵の陣地でもある。俺達の事が噂になれば、それはそれで結構だと思わないか?」
そうです! 折木さんはそこまで計算していたのでしょうか?
「ま、偶然だけどな。でもこれからはこの様な事も注意しなくてはならない。それは覚えておいた方が良い」
そうです。今は静かですが、「新家」の当主は言いました。『千反田本家を神山の農家のメインストリームから外す』と……
でも、今日は特別です。何の予定もありません。二人だけでずっと一緒に居られるのです。この日わたしと折木さんは遅くまで一緒に過ごしました。
会社の研修が終わり、俺は予定通り神山支社に配属された。元より「現地採用枠」だったので、これは既定の事だった。
最初の仕事は農協や大型スーパー等に挨拶回りだった。廻って見て感じたのは、思ったより「新家」の勢力がはびこっていた事だった。
農協も解体され新しい組織に再編される事になっている。「新家」はそこにも食い込む算段をしていた。千反田の親父さんが睨みを効かせているから表立った動きは無いものの、何かあれば判らない感じだった。裏で話が通じてると疑った方が良いと思った。
スーパーに関してはウチの会社も相当食い込んでいるので「新家」が手を出しているのは、自分の系列だけだった。
俺は地道に得意先を回りながら情報を集めて行った。そして、支社長から
「今まで取引の無いところに攻勢をかけてみろ!」
と命令を受けて、取引に関して場合によってはこちらのマージンを若干削って交渉しても良いとの許可を貰った。ある程度以上なら支社長に出て貰い決済すると言う訳だった。
農家は、簡単に言うと、最初に農協に降ろす分以外は、残りを自由に売る事ができる。尤も農協に加入していない農家も最近は出て来ていて、それらの農家は直接流通業者と取引をするのだ。
俺は、一軒一軒農家を廻って、交渉をして行った。其の結果、今まで「新家」の流通業者と取引をしていた農家を幾つか奪う事が出来た。僅かな金額だが買い上げる価格を上積みしたのだ。農協を通していてはこうは行かない。
農協の方でも解体後に設立させる新組織に自分の会社を参加出来ないか模索していた。千反田の親父さんにも相談をすると
「新しい組織は今までの農協のやり方では通用しない。他の民間の会社の力を借りても、神山の農家を支えて行かなくてはならない」
そう言ってくれて、アドバイザー契約も考えると言ってくれた。全ては順調だった。俺の会社は全国組織なので、例えば北海道の食材でも簡単に入手する事ができる。そこで、スーパー等には北海道直送の食材を紹介して好評だった。神山で他の地方の産物を手に入れるにはネット等を通じなければならなかったが、スーパーで本物を見て選べると言う事はやはり強かったのだ。
このことが評判を呼んで、取引先は増えて行った。そして、ある日……一本の電話が俺のところに掛かって来た。
それは何と「新家」が経営するホテルの食材を調達する部門からからだった。『北海道の食材を入手したい』との事だった。勿論「新家」の流通業者も入手は出来るが鮮度や品質、それに値段が全く違う。規模が違うから全く比較にならないのだ。
『勝負あったな』
俺は電話を置いて、そう思ったのだった。
折木さんが会社の研修を終えて神山に戻って来ました。会社のオフイスは市内の目抜き通りに面した場所にありました。
わたしは、お昼休みに待ち合わせてお昼も一緒に食べられるかも知れない。と思っていましたが、とんでもありませんでした。折木さんは毎日、外回りをしていて、社に帰るのは暗くなってからでした。
「新家」の当主は度々やって来ては、見合いの写真を置いて行きました。経済力で千反田本家を上回っているせいでしょうか、その態度はわたしから見ても高圧的でした。
「なにか、新しい若者が色々な場所を回っているみたいですが、どこまで通じますかな。神山は縁故が強い地域です。新参者がどこまで通じますか……」
来る度にそのような事を言って帰って行きます。
ある時でした。母がわたしを呼んで
「える。大丈夫よ。今は詳しくは言えないけれど『女郎蜘蛛の会』でも折木君に協力しているのよ。『新家』の当主は西高出身でしょ。ならば神山高校は負けられません。何としても折木君の素晴らしさを見せつけてあげます。それから晴れてあなた達は一緒になれば良いわ」
わたしは、OB会が協力しているのは知っていました。でも、今は折木さんの行おうとしている事が上手く行くように祈るしか無いのでした……
休みの日に、こっそりと折木さんの家に伺います。呼びのチャイムを押すと供恵さんが丁度出かける所でした。運が良かったです。
「あら、えるちゃん。奉太郎なら寝ているわよ。疲れているみただけど、きっとえるちゃんの顔を見れば疲れも取れるわね。わたしは出かけて来るけど、ゆっくりして行ってね」
供恵さんはそう言ってわたしと入れ違いに出かけて行きました。勝手知ったる何とかです。わたしは、そっと家の中に入ると二階の折木さんの部屋に向かって階段を昇って行きます。
ドアをそっと開けると、僅かに折木さんの寝息が聞こえます。音を立てないように室内に入りベッドの脇にひざまずき、折木さんの寝顔を眺めます。その顔は、安らかに、そして無心に寝ています。
その寝顔の頬をそっと撫でて
「お疲れですよね。本当ならわたしも一緒になって頑張ら無いといけないのに、すいません」
そう静かに言って、唇を重ねます。すると、驚いたのか、折木さんの瞼が動き、その目が開きました。
「ごめんなさい。起こしてしまいました」
折木さんは眩しそうな顔をしながら
「天使がやってきたと思ったよ」
そんな事を言ってくれました。社会人になると口も上手くなるのでしょうか、思わず頬が綻ぶと折木さんも笑っています。
手を差し伸べるといきなりベッドに引き込まれました。そして情熱的な口づけをします。熱い折木さんの想いがわたしに伝わって来ます。
「千反田、朝からで悪いが、お前が欲しい……ここ数日仕事しながらも、お前の事ばかり考えていた……いいかい?」
わたしは黙って頷きます。その想いはわたしも同じだったからです。
「せめてシャワーを浴びさせてください」
そうお願いすると
「じゃあ一緒に入ろうか」
実は一緒にシャワーを浴びるのは久しぶりですので、恥ずかしいけれど嬉しくもありました。わたしは静かに頷くと折木さんの腕の中に落ちて行きました……
その後の経緯を簡単に書いておこう。
「新家」の流通会社は事業を縮小して最終的には俺が勤務する会社に併合されてしまった。これについては、俺が「新家」の会社を潰した感じだが、遅かれ早かれいずれこうなっていただろう。最初から規模が違い過ぎたのだ。今まで全国的な運営をしていた俺が勤務する会社だが、神山地方は特に重要視していなかったのだ。それがTPPに始まる色々な環境の変化で、体制に見直しがあり神山支社が作られたのだ。だから、いずれは誰かがぶつかる事になっただろう。
農協が解散した後の新会社も俺の勤務する会社と業務協定を結ぶ事が決まった。農協はいずれその箍が外され自由に事業を行う事が出来る。その時に俺が勤務する会社が少しでも役に立てば良いと思う。
そんな事になり、やっと落ちついて仕事が出来ると思っていたら、千反田の親父さんから呼び出しを受けた。
「嫌なら断ってくれても良いのだが『新家』の当主が折木君に一度会いたいと言って来てね。良かったらウチに来て欲しいのだが」
要は自分を凹ませた相手を見ておきたいと言うつもりだと思い了承した。約束の日時に千反田邸に出向いた。
「折木さん!」
千反田が真っ先に飛び出して、俺に抱きついて来た。毎回思うがこれ自体は悪くない……が、千反田の両親の前ではやめて欲しいと思った。
「大丈夫だ。取って食われる訳では無いだろう。こっちも武器を用意して来たから心配するな」
そう言って背中を優しく撫でると落ち着いたのか
「武器って何ですか?」
キョトンとした顔で尋ねたが
「まあ、使わない事を祈るよ」
それだけを言って中に入って「新家」の当主を待っことになった。
それから幾らもしないうちに相手がやって来たので、俺は客間に移動した。千反田が「新家」の当主を連れて部屋に入って来た。歳は四十代半ばだと思った。五十を少し超えた親父さんより若い。
俺の向かい側に座る。千反田がお茶を出して下がって行った。
「初めまして折木奉太郎です」
「千反田清太郎です。今日はわざわざありがとうございます! こうやって会って見て、何となく判りましたよ。只者では無い事が……どうやらわたしはあなたを見くびっていたみたいですな」
「ありがとうございます!でも、只の駆け出しの若造です。この際ですからお訊きしますが、何故畑違いの農業流通の分野に進出したのですか? この分野では本家があると言うのに」
俺のストレートな質問に清太郎は
「焦り……それに驕りもありましたかな。でも、一番は不安ですな。神山の将来に対する不安ですな。それが大きかった」
「事業を起こせば上手く行くと思っていたのですか?」
「まあ、当初は、そう思っていましたな。だが、あなたが表舞台に出て来て計画が全て狂ってしまった。あなたが、ここまでやるとは思っても見なかったのです」
清太郎はお茶に口を着けると
「農産物は天候や収穫高で値段の変わる産物です。そのリスクを考えて行動しないとなりません。だから先が読みにくい。それが、あなたは、まるで物語の先を読むようにドンドンとこちらの先を行ってしまった。端から勝ち目は薄かったのですよ」
確かに、作物の状態は、色々な情報を手に入れて、それを元に推理して半分掛けの要素もあったが、俺は構わず買い付けて行った。農家も良い値だったので喜んで契約してくれた。だが一番大きかったのは、千反田本家の婿になるという信用だった。『あの鉄吾さんが認めているなら大丈夫だろう』と言う信用だったのだ。逆に言うと俺はそれをとことん利用したのだ。これは本当は千反田には言いたく無かった事実でもある。
「わたしが鉄吾さんに言った前言は取り消します。あなたは千反田の次期党主として相応しいと認めますよ」
清太郎はそう言って苦笑いをした。俺はそれを見て大きめの封筒を鞄から取り出して清太郎の前に置いた。
「これは?」
「俺が独自に調べたものです。いざという時はこれを流そうと思っていました」
中の書類に目を通して行くうちに清太郎の顔色が変わった。
「どうして、これが判ったのですかな? 誰にも知られていないと思っていましたよ」
その中身は千反田清太郎には愛人が居ると言う情報だった。清太郎自身は独身なので別に構わないのだが、その相手の地位が問題だった。自身が経営しているホテル、それも美濃太田のホテルの支配人だったからだ。自分の部下を愛人にしているとなれば、これはスキャンダルになる。俺の最後の手だったが、もう使う事は無いと思ったからだ。
清太郎は資料を最後まで読んで
「どうして判ったのですかな? 誰にも秘密にしていたのですよ」
「不思議に思ったからです」
「何をですかな?」
「神山は今、白川郷の世界遺産などが人気を呼んで、かってない程の観光ブームです。外人観光客もうなぎのぼりに増えています。あなたがホテルを作ったのも聡明でした。むしろ足りない程です。直ぐにでももう一つ建てても順調な経営が見込めたでしょう。それなのにあなたは、美濃太田にホテルを持った。持ったと言ったのは従来からあるビジネスホテルをリニューアルさせたからです。そこで、俺は不思議に思い調べさせて貰ったのです」
俺は、調べた経緯を説明した。清太郎はそれを聞いて
「なら、全ては判っていたのですな。理恵……支配人の名前です。彼女はわたしの古い先輩の娘でした。わたしより一回り以上若い。先輩は美濃太田でビジネスホテルを経営していました。だが、彼女が大学に通っている時に病に侵され亡くなりました。わたしは彼女を援助しました。当然でした。先輩からは多くの事を教えて貰ったからです。
卒業して家業のホテルを経営し出しましたが、学校出の娘が直ぐに通用するほど甘くはありません。当然経営が傾きました。そこでわたしは事業の方にも支援したのです。結果としてウチの傘下になりましたし、彼女は支配人と言う形で残って貰いました。その過程でわたし達は結ばれたのです。だかこれは禁断の愛でした」
報告書にはもっと色々な事が書かれていたが、それは言わない事にした。その最大の事が、千反田が清太郎の進める縁談を全て断った時は、自分が千反田本家の婿になる腹づもりだったと言う事を……その為に、理恵さんに渡す手切れ金まで用意してあった事などだった。
とりあえずは手打ちをして会見は終わった。恐らく襖の陰では千反田を初め、親父さんやお袋さんも耳をそばだてて聞いているだろう。
「終わったよ」
その言葉に三人が出て来て、和やかな雰囲気になった。清太郎も刺々しさは無くなっていた。本来はこれがこの人の本分なのだろう。そうで無ければ人は付いて来ないし事業も上手く行くはずが無い。帰り際に清太郎が
「今度市内にもう一つホテルを建てます。食材の方はお願いしますからな」
そう言って帰って行った。
とりあえず、これで決着は付いたのだった。
その後、千反田の分家の当主が若い嫁を貰ったと噂になった。
わたしと奉太郎さんは離れに住んでいます。先月式を挙げて、あちこちに挨拶回りをしている最中です。奉太郎さんは吉田さんと一緒に陣出の農家を一軒一軒回って話し込んでいます。
勤務していた流通の会社は嘱託扱いになりました。今後は千反田家として色々な面で協力していく事になりました。だから、奉太郎さんは精力的に陣出を回っているのです。
「何処の馬の骨とも判らぬ俺だ。せめて話を沢山聞いて信用ぐらいつけんとな」
そう言って暇を見つけては回っているのです。
でも、それでも暇がある時は二人だけの時間を楽しんでいます。わたし達は晴れて夫婦になったのです……
最近困るのはエプロンを付けてお料理をしていると、後ろから奉太郎さんが抱きしめて来るのです。
「きょうは何を食べさせてくれるんだ?」
そう言って来るのです。そんな時は本当に困ってしまいます。だって、どう言えば良いのでしょうか?
「だめです……まだ明るいですよ……」
いつも、こう返事をしてしまうのです。
奉太郎とえる~その愛~ 了