朝の見回りが済み、家に帰る道すがら、田圃に咲いた花菖蒲を切って持ち帰る。もう梅雨に入る時期が迫っている。雨が降るのを待って田植えをする。昔から変わらない農家の行いだ。
「ただいま。田圃に咲いていたから切って来た。床の間に活けてくれないか」
 そう言って妻のえるに三輪の花菖蒲を差し出す。
「あら、今年はもう咲いたのですね。例年より早いですね」
 えるは、そう言って受け取って
「この時期は本当に綺麗ですからね」
 そんな事を言いながら花瓶に活けて床の間に持って行った。帰って来ると
「朝ごはんの支度が出来ていますから、ご飯にしましょう」
 そう言って鉄吾さんとお義母さんの名を呼ぶ。その後で娘の部屋に娘の恵を起こしに行く。すると恵はえると一緒にやって来て
「もう起きてました」
 そう言って少し頬を膨らませた。今年で小学校4年生になる娘は地元の小学校に通っている。成績は俺に似ずかなり良い。恐らく妻のえるに似たのだろう。
 食事を済ませると少し休んでから裏の作業場に向かう。既に「千反田農産」の社員が来ていた。
「専務。おはようございます」
 それぞれが挨拶をする。俺も皆に
「おはよう! 今日もよろしく!」
 そう返して行く。農作業の事では俺は一番の新参者だ。それが会社の専務なのだから笑える。
「今日は田植えの用意をして行こう。今週の末には梅雨に入るそうだ。来週の末の田植えには丁度良いだろう」
 俺がそう言うと、社員でも古株の者が
「今年は花などが早く咲いているので、少々心配しましたが、例年通りに田植えが出来そうで安心です」
 その言葉に皆が頷く。準備が出来たら田圃に向かう。田圃に行く小径を歩いて行くと、えるがラボに向かって行くのは見えた。
 俺は鉄吾さんにえると結婚する時に小さくても良いからラボを作って欲しいと頼んだ。ラボは千反田邸から田圃に行く小径の途中にある。プレハブの建物で大きさは20畳ぐらいだろうか。そこに実験室と温室などの植物を栽培する所がある。表には「千反田農産研究所」と書かれた看板が掛かっている。
 当初は、える一人で作業していたのだが、えるが妊娠して研究を中断しなくてはならなくなった時に大学の後輩の女性が手伝ってくれるようになった。今では立派な研究員として勤務して貰っている。農業の研究には二人一組でやる事が多いのでその意味では大いに助かっている。
 田圃で作業をしていると娘の恵が登校するのが見えた。この辺りは家々が離れているので集団登校が早くから行われている。俺の育った神山市内ではそんな事が無かったので新鮮だった。
 お昼は普通はお義母さんが拵えてくれるが、えるも研究に余裕がある時は作る。夢中で作業しているとスマホが震えた。昼飯の時間の通告だった。基本的には社員一緒になって食べるのだが、中には弁当を持って来る者もいるし、家から特別なものを持って皆に振る舞ってくれる者もいる。例えば食後の果物とか、あるいは三時のおやつに蒸した薩摩芋等だ。
 手を洗って作業場で食べる。今日は握り飯に鶏の唐揚げ。沢庵に南瓜の煮物。それに筍と和布の酢味噌和えだった。酸っぱさが体に心地よい。少し遅れて、えると研究員の子も加わる。えるは
「この酢味噌和えは昨夜わたしが作っておいたのですよ。味は如何ですか」
 そう言って味を尋ねて来た。それで納得いった。味が俺好みだったからだ。
「ああ特別に美味しいよ」
 そう答えると、えるは照れ隠しか
「頬にお弁当付いていますよ」
 そう言って俺の頬からご飯粒を取って自分の口に入れた。それを皆がニヤニヤしながら笑っている。
 小一時間の休憩もそこそこに農作業に戻る。えるも研究員の子と一緒にラボに戻った。研究は結構成果を挙げており、先日はこのラボが改良を加えた野菜の種がえるが以前勤務していた種苗会社に権利を買い上げられた。結構な金額だったという。千反田農産としてはこの陣出では余り育たない種類の野菜だから権利ごと売った方が利益になる。その資金を元手にして地域に色々な事が出来ると、鉄吾さんと俺、それにえるが同意したのだ。
 えるが以前勤務していた種苗会社からは色々な研究の要請を受けている。大手では手が届かない分野の研究依頼だそうだ。これも研究費共々となる。
 そのような事で、ラボ単体では結構な黒字になっている。えるとの結婚が決まり、彼女が退職する時は会社の上役達が惜しんだものだ。俺はえるより遅くまで会社に勤務していたので、随分と言われたものだ。
 陽が西に傾く頃に作業から上がる。社員達も作業場で着替えるとそれぞれ帰路に着く。俺も着替えると湧いている風呂に入る。結婚当初はえると一緒に入ったものだが、最近はご無沙汰だ。尤もその分は夜に廻している。
 風呂から上がると夕食の用意が出来ている。夕食は結婚当初は鉄吾さん夫婦と一緒に採っていたのだが、娘が生まれると食事のサイクルが合わないので
「無理に合わせることも無いだろう」
 そう鉄吾さんが言ってくれたので、それからは無理に合わせることは無くなった。勿論朝などは一緒に採ることが多いのは言う間でもない。きょうは、二人は夕刻に出かけたので夕食は夫婦と子供だけとなった。
「今夜はカレーにしました」
 カレーは娘の恵が好きな料理だ。但し辛くない奴だが。テーブルの上には大盛りの野菜サラダが大皿に乗せられている。脇には揚げ物が乗せられた皿がある。揚げ物はコロッケ、エビフライ、それと一口カツだ。それらを自由にトッピングする趣向だ。鉄吾さん夫婦と一緒ならこんな献立は出来ない。子供に合わせた献立だからだ。
 席に座ると前は娘の恵で右側にえるが座る。えるは冷蔵庫からビールを出して来てグラスに注ぐ。俺もえるの小さめのグラスにビールを注ぐ。最近は一口ぐらいなら大丈夫になった。娘の恵には既にカレーがよそわれている。
「いただきま~す」
 手を合わせて感謝すると恵はカレーをスプーンで掬って食べ始めた。俺とえるは軽くグラスを交えてビールを口に運ぶ。冷えた刺激が心地よい。
 ビールを飲み終わるとカレーがよそわれた。俺自身、家で晩酌の習慣は無いのでこのぐらいが丁度良いのだ。
 家族で今日あった事などを話し合う。恵が学校で起きた出来事を夢中で話している。それを楽しそうに聴いてやってる妻は本当に幸せそうだ。こんな光景を昔の俺が見たら何と言うだろうか。そんなことを考えていたら、えるが
「どうかしましたか」
 不意にそんなことを訊いて来た。俺は首を左右に振って
「幸せってこんな感じなのかな。なんて思ってさ」
 そんな返事が口をついて出た。
「そうですね」
 そう言ったえるの表情は輝いていた。