2020年01月

風に吹かれて 18

 釉才の高座が続いていて、場面は後半に入っている。若旦那の徳さんが船頭になって船を操っているが、竿を流してしまい、仕方なく櫓で漕ぐのだが、慣れないことなので上手く操れない。岸壁に船が着いてしまい、客のこうもり傘で岸を突いて貰い、何とか船を出せるが客が傘を離してしまうと
「諦めてください。もうあそこには戻れません」
 と言う始末。
「見えてるんだけどな」
 と客が行っても「駄目」の一点張り。
 釉才は徳さんの駄目っぷりを鮮やかに演じて行く。また、不幸にも徳さんの船頭に居合わせてしまった客の不幸も鮮やかに対比させて行く。
 客席の喬一郎は、実は釉才の高座を見に来たのだった。それというのも、彼が前座の頃、既に釉才は若手真打として売り出しており、その人気が上昇していく頃だったのだ。前座の喬一郎からすれば通常なら、眩しくて、まともに口も利いてくれる存在では無いのだが、釉才は寄席の仕来り等を丁寧に教えてくれたのだった。また違う一門でありながら稽古も良く付けてくれた。だから釉才が事件で捕まった時は心を痛めたのだった。そんな関係から今日の高座は是非とも自分の目で見て置きたかった。
「いい出来だ。あの頃に戻っている感じだ。やっぱりいいなぁ〜」
 思わず呟いていた。そうしたら後ろから肩を叩かれた。振り向くと神山だった。
「神山さん!」
 思わず小さく叫んでしまった。
「仙蔵師は無粋だから『放おっておけ』って言ったのですが、まさかそうも行きませんでしょう。そこで私が出て来たのです」
 神山は自分の行動を説明した
「後で楽屋に顔を出してくださいよ」
「判りました。終わったら挨拶はしようと思っていましたから」
「それじゃ楽しみにしていますね」
 そう言って神山は帰って行った。高座では釉才の熱演が続いていた。
「モウ駄目です!」
「駄目って、そこまで見えてるんだけどなぁ」
「駄目と言ったら駄目なんです」
「どうしろって言うんだ」
「この当たりは浅いですから、ここで降りて歩いて桟橋まで行ってくださいな」
「おい酷えじゃねえか」
「だから、あたしは船は嫌だと言ったんですよ」
 客の片方がそう言ってむくれると
「悪い、今回は私が悪い!」
 文楽を始め、他の噺家はここで地の文言は入れないが釉才は
「本当に悪いのは徳さんですけどね」
 と文言を入れた。どっと客が笑う。噺の途中に地を入れると、客が噺の世界から現実に引き戻されるので、それを嫌う噺家も多い。だが自分の技量に自信がある噺家は得てしてやるのだ。かっての立川談志や春風亭小朝などが良い例である。
「お〜い船頭。上がったぞ!」
「お上がりになりましたか! おめでとうございます。そこで頼みがあるんですがな」
「頼み? なんだい?」
「へえ、船頭一人雇ってください」
 一斉に拍手が湧き起こる。中には立ち上がっている者もいた。それほどの出来だった。
 高座を退く釉才と次のトリの出番の仙蔵と高座の袖ですれ違う
「お先に勉強させて戴きました」
 釉才がそう言って頭を下げると仙蔵は
「戻ったな。いい出来だった」
 一言、それだけを口にした。釉才にはそれで充分だった。高座には「中の舞」が流れている。満員の拍手の中、仙蔵は高座の座布団に座り頭を下げた
「え〜やっとトリでございます。もう少しの辛抱で皆さんは開放されますので、頑張って戴きたいと願っております」
 ドッと笑いが起きる。
「え〜夏ですなぁ〜。夏ってのはこんなに暑かったですかねえ? なんか昔より暑くなってる気もしますがねえ。その昔ですが、我々庶民と違って上のクラスの方々は避暑に出かけたそうですな。軽井沢とか箱根とかね」
「鰻の幇間」に入るマクラを語り始める。この噺は幇間の一八が夏の暑い盛りに、置屋に挨拶に出向くが、生憎何処の置屋の女将も避暑に出ていて留守。一八は羊羹を手土産に挨拶に出向き、何がしかのお返しを期待していたのだが、目的が外れてしまう。このままだと昼飯も自前で食べなくてはならず、そんな事は幇間のプイライドとして許されないと考えていた。弱っていると、そこに見たことのある男が通りかかる。良く思い出せないが、一八は焦っていたこともあり声をかけようとする。
「旦那!しぱらくぶりです、その節は……」
「いよう師匠!」
 と男も乗りがよい。
 男はこの先に旨い鰻屋があるんだ。そこで昼飯でも、というので一八は乗ってしまう。
 客席の喬一郎は仙蔵の高座を見ながら
「やはり凄いな。一八の焦りがよく出ている。置屋を何軒も回って成果がなく焦っている感じが伝わって来る」
 そう思っていた。
「やっぱり古典はいいなぁ〜」
 圓城や乾が聴いたら目を剥きそうな事を呟いた。
 連れて行かれた鰻屋の二階座敷で蒲焼を肴に酒を飲みながら、一八は男がどこの誰だったか思い出そうとして、うなぎ屋を持ち上げる見え透いたお世辞の合間に「ぜひそのうちにお宅へ」
 などと探りを入れるが、男はのらくらとはぐらかす。
 客のことを忘れることは無礼になるため、一八もはっきり聞くことが出来ない。重を食べおわってから、男は便所へ行くと言って席を立ったきり戻って来ない。
 気になった一八が便所をのぞくと誰もいない。一八は
「あっしに気をつかわせないように、先に勘定を済ませて帰ったのか、なんて粋な旦那だ」
 とひとり合点する。
 座敷に戻って残ったうなぎを平らげていると、店員が
「お勘定をお願いします」
 と二階にやって来る。
「勘定済んでないの? 何かの間違いだろう」
 と驚く一八に、店員は
「お連れさんが、自分は羽織を着た旦那のお供だから、勘定は旦那からもらってと言って、先にお帰りになりました」
 と説明。騙されて、飲み食いの支払いを押しつけられたことに気がついた一八は居直り、前に男にしゃべったお世辞と裏腹に、店が汚い、蒲焼に添えられた漬物がまずいなど、鬱憤を店員に言いたい放題。
 ここで仙蔵は店員に諭すように話しをする。
 仕方なく、泣く泣く金を支払うことにする。しかし勘定が二人前にしては高額なので一八がただすと、店員は
「お連れさんがお土産を包んで持って帰りました」
 と言う。あきれ返るが、あきらめて払った一八が帰ろうとすると、今度は上等な自分の下駄がない。店員に聞くと、
「へい、あれでしたら、お連れさんが履いていかれました」
 誰が見ても見事な出来だった。高座の袖にいた遊蔵でさえも
「今日は凄い」
 そう感心せざるを得なかったほどだった。
「ありがとうございます。ありがとうございます!」
 お客が立ち上がって拍手をしてる中、座布団を外して仙蔵が頭を下げている中を緞帳が降りて行く。それを見ながら喬一郎は楽屋に向かった。

「お疲れさまでした!」
 楽屋に残っていた、柳星、遊蔵、柳生、釉才が出迎える。勿論神山もそこに居た。
「それしても気合が入っていましたね」
 柳生が今日の出来を言うと仙蔵も
「いやさ、釉才がいい出来だったから、こりゃ負けられないな。と思っただけさ」
 そう言って今日が特別な出来だと認めた。そこに喬一郎が顔を出した。来ると思っていた神山と仙蔵は涼し気な表情だが、事情を良く知らない他の者は一様に驚いた。
「喬一郎アニさん」
 遊蔵が声を掛けると喬一郎は
「少し話しがあるのですが……」
 そう言って真剣な表情をした。

風に吹かれて 17

 仲入りの休憩中に神山は、客席に喬一郎が来ているのを見つけた。マスクをして野球帽をかぶっているが、それが返って目立っていた。
「あいつ何やってるんだ」
 仙蔵が不思議そうな顔をしている。
「敵情視察か?」
「そうですかね。ならばもっと堂々としてると思うのですが」
 神山の言葉に仙蔵は
「そうだな隠れる必要なんか無いはずだしな。それにアイツ仕事はどうしたんだ。まさか抜いたのか?」
 そう言って心配をする。神山は「東京よみうり版」を出して喬一郎のスケジュールを確認すると
「今日は寄席も何も無いですね」
「へえ〜そうかい偶然か……」
「声かけてみます?」
「いやよしておこう。野暮だ」
 二人はそのままにしておく事にした。
 仲入りの後は柳生の「酢豆腐」となる。休憩が終わる旨のブザーが鳴ると緞帳が上がり「柳生の出囃子の外記猿」が鳴り出した。ざわついていた客席に緊張が走るのが判る。柳生が登場すると、その緊張が拍手に変わる。柳生は高座の座布団に座りお辞儀をする。
「え〜後半戦の開始でございます。今回は少し趣向を変えまして、私が後半戦のトップでございます。よろしくお願いします。昔は夏の暑い盛は仕事なんぞしなくて町内のたまり場に若い者が集まっていたものだそうでして、そんな時分のお話しでございます」
 柳生は「酢豆腐」の世界観から説明していく。行動の基準が、今なら信じられない基準でもあった時代の噺だからだ。
 頭数はそろったが、酒は兎も角、酒の肴が無い。一同考えた挙句糠漬けの底から古くなった漬物を取り出して「かくやのこうこ」を作ろうと決めるが、肝心のそれをやる奴がいない。そこで一同は色々と考える。そこに現れたのが町内一の色男と自負する半公だった。
「おっ、半公じゃねえか。そう言えばアイツみいちゃんに惚れてるんだよな。よし見てろアイツから何かふんだくってやるから。誰も横から口を挟むなよ」
 そう言って半公に取り掛かります。
「江戸っ子で、人の嫌がることを進んでやるし、みいちゃんも立て引きが強い所に惹かれたんだな」
「俺は神田っ子だ。人に頼まれたことはイヤだとは言ったことはねえんだ。みい坊もやっと俺の良さが判ったみたいだな」
「そこで、頼むんだが、糠味噌出してくれないか」
「う、う~、さようなら」
「半ちゃん、あんたは立て引きが強い」
「話がうますぎた。香香は出せないが、それを買う分銭を出すよ。二貫でどうだ」
 結局、みいちゃんが半公に気があるというニセの情報を与えておだてて幾ばくかのお金をせしめる事に成功します。するとそれを知った半公も
「じゃあ俺もご馳走になるかな」
 と用事があるのに仲間に加わろうとします。
 次に与太郎が夏の盛りに腐らせてしまった豆腐を持って来ます。捨ててしまえと一度は言いますが、思い直して、それを気障な伊勢屋の若旦那に食べさせる事を思いつきます。若旦那が通りかかると
「素通りしてはいけなませんよ若旦那」
 と部屋に上げます。そして町内の女湯では、バカな人気だとか、
「眼が赤いとこ見ると、昨夜は『夏の夜は短いね』なんてモテたんでしょう」
「その通りで、初会ぼでベタぼで寝かしてくれない」
 などと惚気が終わると本題に入ります。
「貴方は御通家だ。昨今はどんな物を召し上がりますか」
「割烹物は食べ飽きてしまったから、人の食べない物が食べたいねぇ」
「ここに到来物の珍味なんだが、何だかわからねえ。若旦那ならご存知でしょう」
 と見せると、若旦那は知らないともいえないから器を顔の前にすると、眼がピリピリとし、ツーンと酸っぱい匂いがする。
「これは食べ物ですか」
「モチリンです。拙も一回やったことが有りますが、これは皆さんの前では食べられない」
「そんなこと言わないで、他で恥をかくといけないから、どうぞ食べ方を見せてください。皆も頼め。箸じゃなくて匙で如何です」
 若旦那の周りを囲んで食べ方を拝見。間違った能書きはいっぱい出てくるが、顔の前にはなかなか器が上がらない。目をつむって、息を殺して一口、急いで口に入れたがたまらず扇子で扇ぎだした。目を白黒させながら吐き出しそうになるのを無理に飲み込んで
「いや~、オツだね」
「いや〜若旦那食べたね。さすがお見事! ところで、これは何という食べ物ですか」
「酢豆腐でしょう」
「酢豆腐とは粋だね。若旦那たんとお食べなさい」
「いや、酢豆腐は一口に限りやす」
 下げが決まってお客が堪らずに拍手をする。終わったからする拍手ではなく、拍手せずにはおられない、という感じなのだ。
「上手いとは思っていたが、これほどとは」
 仙蔵が驚くと神山は
「彼は師匠の次に天下を取りますよ」
 そう言ってニヤッと笑った。仙蔵も
「そうかも知れねえな。俺だってこれほどの出来はそうはねえからな」
 そう呟いたのが神山の耳に届いた。
「お疲れさまです」
 柳生が楽屋に帰って来ると一同が声をかける。
「いい出来だったな」
 仙蔵がそう言うと柳生は
「ありがとうございます。今日はお客も良かったですからね」
 そう言って時分の手柄にはしなかった。高座では釉才の出囃子「千鳥」が鳴り出した。これは元は琴の曲だが、出囃子にする為にオリジナルよりアップテンポにしてある。当時人気抜群だった釉才の為に琴の曲の作曲者が編曲してくれたのだった。出囃子を聴きながら釉才は、彼の為にも今日はしっかりやらないとならない、と思っていた。
 タイミングを取りながら高座に出ていく、客席からは少し淀んだような、それでいて暑い熱気が起きるのを感じていた。
「え〜膝は、わたくしめでございます。どうぞよろしくお願いします。今あまり聞かなくなったのが若旦那という人類ですな。ほとんど聞かない。大抵は若手実業家などと紹介されますな。昔なら若旦那の一言で済ませられましたね。その若旦那、特徴はというと……」
 釉才は自分流のマクラから噺に入って行く。
 若旦那の徳三郎は遊びが過ぎて勘当になる。仕方ないので出入りの船宿に厄介になるが
「あたしはお前のところで船頭になるって決めたんだよ」
 そう言って船頭になることを告げる
「駄目ですよ若旦那。ああたなんか船頭になれる訳はありませんよ。夏は暑いし、冬は寒い、我慢出来ますか?」
「駄目なら隣の船宿でなるからいいよ」
「それはいけませんよ。そんな事されたら出入りを止められてしまいます。仕方ありません。いいでしょう」
 こうして船頭になったが、教える方もいい加減。教わる方もいい加減だから基礎が出来ていない。そうこうしているうちに
「お江戸は四万六千日を迎えます」
 かって桂文楽の一言で季節が一変した言葉でもある。釉才はそれに、『お江戸』と、『迎えます』。という言葉を加えたのだった。
「いい出来だな」
 仙蔵が高座の袖でポツリと呟いた。
「本来ならこのぐらいは出来るんだ」
 そう言って楽屋に戻って行った。その後姿は今日の高座に掛ける決意が漲っていた。



※来週の中頃まで更新が出来ませんので今日更新しました。

風に吹かれて 16

 季節は七月になっていた。前回の「古典落語を聴く会」は五月だったので、その季節に相応しい噺が並んだのだが、今は真夏である。当然夏の噺となる。
「みんな、足元の悪い中よく集まってくれたな、感謝するよ。次が俺達が七月で、向こうは九月かい。偶数月か……まあ、一月が無いからいいか」
 仙蔵はそんなことを言って集まったメンバーを和ませた。今日は、仙蔵の家で来月の中頃に開かれる第二回の「古典落語を聴く会」の打ち合わせなのだ。
「さあ、何をやる」
 仙蔵が皆に問うと、弟子の遊蔵が
「会場は同じですよね」
 そう基本的な事を確認した。仙蔵の隣に座っていた神山が
「そう、これからも新宿駒込の『箪笥会館』でやる事にしたから」
 そう言って『箪笥会館』をホームにする事を告げる。すると仙蔵が
「今回から釉才師が参加してくれる事になった。それでだが、このメンバーはレギュラーとして参加してくれる事を確認しているが、次の会からゲストを呼ぼうと思ってる」
 そう言って皆を驚かせた。柳生が
「するとレギュラーから一人休みが出る訳ですか」
 そう仙蔵に問い正す
「さすが噺が速い。実は、俺も参加させてくれって奴が思いの外多くてさ。その処理に困っていたんだ。それに皆も暇な噺家じゃない。どうしても都合がつかない時もあるだろう。だから一名は交代で休んで、その枠にゲストを迎えようと思うんだ。どうかな?」
 仙蔵は事の経過を説明した。釉才が
「実は今回は私が参加したと言う事で事実上私がゲスト枠なんです」
 そう言って予め説明をされていたことを告げる。柳生も
「それは良いかも知れませんね。メンバーが完全に固定されてしまっては、マンネリになりかねません」
 そう言って賛成した。
「僕も賛成です。でも僕なんか二つ目ですけど。良いのですか?」
 流星がそう言って恐縮すると遊蔵が
「若い噺家の参加も必要なんだそうだ」
 そう仙蔵と神山の考えを代弁した。
「ゲストですが決まってるのでしょうか?」
 柳生が先の事を心配すると仙蔵が
「実は圓海師と盛喬が出してくれって煩いんだ。圓海師はいい年なのに血気盛んでさ」
 仙蔵の言葉に同じ高座に出たことのある柳生が
「休んでいた期間があるから話す量が不足してるんですよ」
 そういうと皆が笑った。
「そこで何をやるかだが」
 神山が演目の調整に乗り出す。釉才が
「私は『船徳』をやらせて貰えたら」
 そう希望の演目を口にした。
「手応えを掴んだんですね。じゃあ私は『酢豆腐』を」
 柳生が釉才の心内を読んで自分の希望の演目を口に出した。
「じゃぁ僕は『たがや』を」
 柳星も希望を出すと遊蔵が
「じゃあ僕は『夏の医者』で」
 そう言って希望を口にすると仙蔵が
「出来たのかい?」
 そう尋ねる。遊蔵は
「はい、圓盛師匠からも許しを貰いました。寄席に掛けてから出そうと思っています」
 そう言って自信を漲らせた。この演目は仙蔵の得意演目でもある。
「そうかいなら俺は『鰻の幇間』でもやるかな」
『鰻の幇間』八代目桂文楽師が十八番とした演目で、師の存命中は、遠慮して余りやり手が居なかったほどだ。
「師匠のは圓生師の型ですよね」
 遊蔵がそう言って他の者を感心させる。それは六代目三遊亭圓生師は自身の「圓生百席」でこの演目を残したのだが、それには文楽師が省略してしまった部分をきちんと残しておくという意味があったのだった。
 こうして第二回「古典落語を聴く会」は開口一番が柳星「たがや」、遊蔵「夏の医者」、柳生「酢豆腐」仲入り、釉才「船徳」そしてトリが仙蔵「鰻の幇間」と決まったのだった。

 七月の中旬。東京では、お盆と言う時期に第二回「古典落語を聴く会」が開かれた。牛込の「箪笥会館」には昼から長い列が出来ていた。前売りは指定だが当日券でも良い席を取ろうとファンが列を作ったのだった。神山は長く続く列を眺めながら
「今回も完売だな。下手すれは入りきれないかも」
 そんな事を思っていた。実は大手出版社から「東京よみうり版」を通じてDVD化の噺が来ている。だが仙蔵が反対してるのだ。
「映像は無い方がいいな」
 そんなことを言っている。神山が
「じゃあCDならば」
 そう尋ねると
「CDならまあ良いかな。映像付きは想像力を奪うからな」
 そんなことを言っていた。だが新作派の「革命落語会」の方は早々とDVDの発売が決まっている。それも今月の末に発売されるのだ。それがこちらの気勢を削ぐという意味を含んでるのは言う間でもない。
 前座に続いて柳星が「藤娘」に乗って高座に登場する
「え〜本日は第二回『古典落語を聴く会』に」ようこそいらっしゃいました。お後お楽しみにどうぞ最後まで楽しんで行って下さい」
 そんな挨拶をして噺に入って行く
「今は七月の最終土曜日に隅田川で花火大会が開かれていますが、その昔は旧暦の五月に『川開き』を告げる為に両国で開かれていました」
 早速「たがや」に入って行く。柳星は結構稽古をしたのだろう。たがやの啖呵もよどみ無く演じている。
「血も涙もねえ、目も鼻も口もねえ丸太ん棒め、二本差しが怖くて焼き豆腐が食えるか!」
 噺はたがやが侍の刀を取り上げて次々と武士を切って行く、最後は殿様の首がハネられ、宙に舞うと
「たがや〜」
 下げが決まり拍手の中柳星が降りて来る。交代に遊蔵が高座に出て行く
「お先に勉強させて戴きました」
 柳星が楽屋に戻って来ると柳生が
「良かったね。今日ぐらい出来れば文句ないな」
 そう言うので仙蔵が
「師匠は怖いねえ〜」
 と言ってニヤニヤする。
「さてウチのはどうかな」
 仙蔵はそう言って目を綴じた。それを見て釉才は小金亭の厳しさを感じるのだった。
「え〜お次は私めでございます。暫くの間おつき合いを願います」
 遊蔵は挨拶をして噺に入って行く
「今も無医村なんてのが結構ありますが、その昔は百姓をやりながら、ついでに医者をやってるなんて人が居たものでして」
 田舎の医者の噺なので、急ぐ必要はない。逆にゆっくりと演じる事が求められる。
 勘太は、ちしゃの食べ過ぎで腹痛を起こした父親を見て貰おうと医者玄伯を呼びに行く。真夏の暑い盛り、やっと医者の所へたどり着く。医師玄伯を伴って帰路につくが、途中で一休みしてると、大きなうわばみに呑まれてしまう。ところが玄伯はうわばみの腹の中で下剤の「大黄」を振りまいたから大変。うわばみが痛くて暴れ出したので二人は助かる。勘太の家で診察をすると、ちしゃの食べすぎだと判る。「夏のちしゃは腹にさわる」
 薬を与えようとしたが、薬箱をうわばみの腹の中に置き忘れて来た事を思い出し、うわばみの所に戻るとうわばみは完全にグロッキー。「腹に忘れ物をしたので、もう一度飲み込んで欲しい」と頼むとうわばみ曰く
「夏の医者(ちしゃ)は腹にさわる」
 下げが決まり拍手が湧き起こる。自分でも良い出来だと遊蔵は思った。「お仲入り〜」の声の中楽屋に帰ると師匠の仙蔵が
「何時からそんなテンポで出来るようになったんだ。俺の知らねえ間に」
 そう言って睨んだ。遊蔵はしくじったかと思ったが神山が
「師匠はこの噺を自分が教えてあげられなかったのが悔しいんですよ」
 そう言って笑っていたので、少しホッとした
「圓盛師じゃしゃぁねえ」
 その表情を見て遊蔵は弟子一同に見せたいと思った。

風に吹かれて 15

 神山は仙蔵に連絡を入れた。仙蔵は旅の仕事で富山に居た。向こうでの落語会も終わり、今は宿屋か街の何処かで飲んでいるはずだった。神山は仙蔵から終わったら様子を入れる事になっていた。
「もしもし神山です」
「ご苦労様、どうだった?」
「お客が、それぞれのファンだったという事を差し置いても中々の出来でした」
「そうかい。そりゃ良かった。まあ、これで駄目なら目も当てられないけどな」
「まあ、それは無いでしょう。でも気になることがあります」
「なんだい」
「根多降ろしが柳太郎師の一本だけだったことです。華々しく打ち上げた割には手慣れた噺ばかりでした」
「それは仕方ないかもな。乾だっていきなりつまずきは避けなければならないしな」
「まあ記事の依頼を受けているので何か書くつもりです」
「そうか、帰ったら飲みながらでも相談しようじゃない」
「そうですね」
 仙蔵とはそんな事を言って通話を切った。目の前には柳生が酒を飲んでいた。
「仙蔵師匠どうでした?」
「いや普通だったね。動じずと言う感じ」
「やはりね。恐らく師匠の想定内という事なんでしょうね」
「確かに」
「でも、私個人としては、少し安心しました」
 柳生がそんなことを言うので神山は
「師匠の柳太郎師のこと?」
 そう問うと
「ええ、この頃はすっかり古典ばかりになっていたので、新作は書いても発表する気が無いのかと思っていました」
 そう言って安堵した表情を見せた
「元々は新作派だからね」
 神山ではないが、龍太郎は元々は新作で売り出した人なのだ。今でこそ古典をやってるが、口調も完全な古典派とは言い難い。そこが評論家等から突っ込まれる所以でもある。
「出来そのものよりも、そういう気力があるのが弟子として嬉しいんですよ」
 師弟とはそんなものなのかと神山は思うのだった。

 数日後の発売の夕刊のタブロイド紙に神山の「革命落語会」が記事載った。一部を引用すると
『白鷺「血煙旭山動物園」喬一郎「噺の大学」圓城「ヤクルト少年」小艶「どくどく」柳太郎「不幸な同居」と言う演目が並んだ。トリの柳太郎以外は手慣れた演目でどれもが好評な評価を受けている噺でもある。根多降ろしが一本だけだった事がこの会の目的を語っているような気がしてならない。いわば、この会は何がなんでも、成功を納めなければならなかったのかも知れない、と言うことである。それはこの会に先立って開かれた「古典落語を聴く会」との関係でもある。「革命落語会」の主催者でもある評論家の乾泰蔵氏が「古典落語は時代に合わなくなって来ている」という考えを公にして、これに反する考えの古典楽語の一派が立ち上げたのが「古典落語を聴く会」だからなのだ。つまりこの二つの会は対抗する宿命を背負って生まれたのだ。
 その視点から見ると、この日の「革命落語会」は冒険は出来なかったのかも知れない。出来の良さは確かに素晴らしいものがあったが、新作落語故の時代を先取りし、観客に落語の未来を見せるような噺が無かったのが惜しまれる』
 と言うようなものだった。本編にはそれぞれの噺の講評も載っている。
 乾はその紙面を見て圓城に向かって
「まあ、痛い所を突かれましたな」
 そう言って苦笑いをした。
「まあ、でも最初ですからね。問題は次ですよ。次は皆根多降ろしをするように言ってあります」
 圓城はそう言って、神山がこのように言って来るのを、ある程度予想していたみたいだった。
「さすが師匠。それを聴いて安心しました」
 乾はニヤリと笑うと
「さて向こうさんは間に合うのでしょうかね」
 そう言って釉才のことを口にした。
「色々な会に出ていますよ。付け焼き刃にならなければ良いですけどね」
 圓城の言う通り釉才は色々な会に毎日のように出演していて、必死にブランクを取り戻そうとしていた。

 その釉才は確実に何かを掴もうとしていた。それはかって自家薬篭中のものだったはずで、まさか取り戻す為にこれほど苦労するとは思ってもいなかった。でも、少しづづだか何かが見えて来ていた。それは波のようなもので、高い時もあれば低い時もある。それは毎回変化し、同じ事は無い。だから絶えず自分の方から合わせて行かなくてはならなかった。その塩梅がやっと思い出しそうな所まで来ていたのだった。
「釉才師匠、何だか今日は前のような感じでしたね」
 今日の若手真打の個人的な会にゲストで出ていて、後輩の若手真打から言われた言葉だった。
「そうかい? なら嬉しいけどな」
「自分が二つ目の頃、師匠はドカンドカンと沸かしていましたよね。あの感じが見えて来たと思いました」
 自分でも今日の出来は良かったと思ってはいた。が、後輩とは言え、客観的に言われるとやはり嬉しい。馬鹿な事をして落語から遠ざかってしまったのは自分が悪いのは十二分に判っていた。だからこそこのチャンスを掴みたかった。その意味でも失敗は出来なかった。
「良かったじゃないですか?」
 気がつくと神山だった。
「神山さん……いらしていたのですか?」
「師匠のだけですけどね」
 釉才は神山の嬉しそうな表情を見て、何とか間に合うのではと思うのだった。
「少し飲みながら話しましょう」
 神山は帰りに釉才を誘った。行きつけの居酒屋で
「何とか間に合いましたね。実は間に合わない場合は今回は止めて他の方を頼む事も考えていたのですよ」
 神山に真相を告げられて釉才は
「そうでしたか。確かにあの出来では出られませんからね。その代役とは誰だったのですか?」
「三遊亭盛喬さんか圓海師です」
 釉才はその名を聴いて驚いた。盛喬はこのところ進境著しい噺家で注目されている。圓海は三遊亭の大御所でかっては「まぼろしの噺家」と言われていたこともあった。その二人が代役と言う事は自分がそれだけ期待されていると言う事なのだと自覚した。
「演目を決めないとなりませんね」
 神山の言葉に釉才は自分が如何に期待されているのかを知るのだった。

風に吹かれて 14

 仲入りになったので神山は、菓子折りを下げて楽屋に挨拶に出向いた。
「おやおや神山さん。今日はおいで戴いてありがとうございます」
 乾が入り口まで出迎えた
「凄い盛況ぶりですね。それにどれも抜群に面白かった。記事にさせて戴きますね」
 神山がそう言ったので白鷺が
「あれ神山さんは古典派だったのでは無かったのでは」
 そんな疑問を口にした。
「それは私は『古典落語を聴く会』の発案者ですが、それとこれは別です。面白い落語があり、演者がいれば取り上げるのは当たり前だと思っています」
 神山の正論に乾は
「さすがですね」
 そう言って目線で白鷺をたしなめた。
「後半は小艶師と柳太郎会長ですか。楽しみですね。聴かせて戴きますね。それとこれはお茶菓子です。皆さんで食べてください」
「わざわざすみません」
 乾のお礼の言葉を受けて神山は楽屋を後にした。席に帰ると柳星が
「どうでした」
 そう尋ねて来たので
「何、普通だよ。あんなところで腹の中は見せないよ」
 そう返事をすると柳星も
「そうですね」
 そう言って笑った。
 休憩が終わり小艶の出囃子「ぎっちょんちょん 」が鳴り出す。会場の空気が一変して行くのが柳星にも判った。小艶が姿を表すと一斉に拍手が湧き起こる。
「え〜後半戦の開始でございます。柳家小艶と申します。よろしくお願いします。さて最近はドラマの影響もありフランス料理ブームなんだそうですな。誰ですか、『グランメゾン東京』だなんて言っているのは……まあ、そうなんですがね」
 客の期待を掴むのが上手い、どっと笑いが起きる。
「普通、フレンチのコース料理だと、ワインなんぞはペアリングと言って、店の方でその料理に合うワインを選択してグラスに注ぐのですが、ワインに煩い方だとご自分の好みのワインを頼むのが良くあるそうで」
 小艶はフランス料理の解説をしながらも上手く噺を運んで行く。
「だから店にはワインを保管してあるワインセラーがあるのですが、今日はそこで起きた悲劇のお話です」
 噺の本編に入って行く。この噺は店の中でも特に高級なワインの噺で、抜群の味を誇るのだが、高すぎて誰も注文する者がいない。ワインは眠らせれば良いとは言え、やはり飲み頃がある。それを過ぎると澱が発生するのだ。こうなると味が下がる。それを好む通も居るが稀である。小艶はその辺りを噺に盛り込みながら進めて行く。
「お、ギャルソンが来たぞ。今度こそは俺かな」
 ワインが期待して待っていると、入って来たギャルソンは
「この安い奴でいいな」
 そう言って昨日入ったばかりの安物のチリワインを持って行ってしまった
「お先に〜」
 チリワインはニコニコしながら出て行ってしまった。
「畜生!あんな下品な奴に負けてしまうとは……俺はフランスのブルゴーニュ産だぞ。お前らとは生まれが違うんだ」
 そう言っ虚勢を張るが、中々注文して貰えない状況が続く。そして遂に……
「あれ、このワイン、澱が出てるな。こりゃ売り物にならないなぁ〜仕方ないビネガーにでもするか。高いから注文する客がいないんだよな。これからはこんな高いのは仕入れないようにしよう」
 そう言ってギャルソンはその高いワインを手に取った。そうとは知らぬワインは
「お!遂に俺の出番か!」
 そう思って興奮するのだが、行き先は客席ではなく厨房
「あれ場所が違うよ。俺の行き先は向こうでしょ」
 ワインが、そう思ってるとギャルソンがシェフに
「このワイン澱が出ちゃったからビネガーか料理にも使ってください」
 そう言ってシェフに手渡した
「なんだって! 飲まれるんじゃ無かったのか!」
 そうガッカリしてると、厨房の隣に置かれた別なワインが
「まあここでビネガーになるのも悪くないぞ」
 そう言うと、高いワインが
「ああ酸っぱい(失敗)してしまった]
 下げが決まり頭を下げると拍手が湧き起こる。小艶は手応えを掴んでいた。客が良かったせいもあるが、今日の出来は自分でも満足の行く出来だった。
「お先に勉強させて戴きました」
 小縁がそう言って楽屋に戻ると楽屋の連中が
「お疲れ様でした」
 と声を掛ける。乾が
「小艶師匠、今日は抜群の出来でしたね」
 そう言って今日の出来を認めてくれた。
「はい。今日は満足行きました」
 小縁もそう返事をすると喬一郎が
「兄さん。この噺ですが完成の域に近づきましたね」
 そう言った。喬一郎は同門であることもあるので小艶と一緒になることが多い。だからこの噺も数多く聴いているのだった。
「喬ちゃんにそう言われたら自信がつくよ」
 小艶はそう言って笑った。高座では柳太郎の出囃子「ローンレンジャー」が流れていた。「古典落語を聴く会」ではトリは「中の舞」が流れるが乾は敢えてそれを止めて、全て自分の出囃子を使う方針にした。乾によると、それぞれの噺家が自分の出囃子を持っているのに、何故落語会等ではそれが使えないのか。トリが違う出囃子を使うのは昔の寄席の風習の名残であり弊害である。その昔は前座は前座の出囃子、二つ目は二つ目の出囃子と決まっていた時期もあった。その弊害の名残なのだ。と言う考えだった。
 柳太郎が高座に現れると今よりも増して大きな拍手が起きる。「まってました!」「たっぷり!」の声も聞かれる。
「え〜私で最後でございます。もうね、皆さん疲れたでしょう。もう少しの我慢です」
 柳太郎はこう言って客を笑わせた。
「今日の演目は、実は根多おろしなんですね。つまり、どういうことかと言うと、この噺を聴くのは皆さんが人類で初めてなんですね。何が起きるか判らない! そうなんです。果たして生きてこの会場を出られるのか?……楽しみでしょう?」
 柳太郎はこう言って客を掴むのに成功した。この辺りはベテランだから無理が無い
「マイホームを建てるというのは、今や男の仕事でも最大のものになりますね。どういう家を建てるのかが大事になって来ますね。そこで流行ってるのが二世帯住宅なんですね」
 柳太郎は静かに噺に入って行く
「よくあるのが娘夫婦と二世帯住宅で同居すると言うパターンですな。これが息子夫婦だと少しギクシャクしますね。理由は敢えて言いませんけどね。納得される方もいらっしゃるじゃないですか」
 会場は完全に柳太郎のペースになっていた。協会が違う為に普段一緒になる機会が少ない喬一郎は、袖で見ていて
「凄いなアッという間に自分のペースに持って行ってしまった。さすがだな」
 そう呟きながらも眼差しは真剣だった。
 噺は、二世帯住宅で同居した娘夫婦だが、婿さんが父親さんよりも出世してしまう。それも婿さんの会社は牛乳の製造会社で、親父さんの会社の上得意先だったという展開なのだ。噺の筋も良く出来ていてお客は完全に噺に取り込まれている。
 やがて噺は、婿さんは親父さんと家でも仕事の話が多くなり、それに怒った娘と母親に追い出される展開となる。
「判った! 判った。仕事の話はもうしないから勘弁してくれ」
 婿さんと親父さんがそう言うと母親と娘が
「もうしない? ウソばっかり」
「モウ〜しないよ!本当だよ。だって仕事の内容が牛乳だから」
 下げが決まり柳太郎が頭を下げると物凄い拍手が湧き起こった。その中、緞帳が降りるまで柳太郎は座布団を外して頭を何度も下げた。それを見ながら神山は柳星に
「行くよ。皆に報告しなくゃ」
 そう言って会場を後にした。
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