2019年12月

風に吹かれて 9

 「お久しぶりです。神山さん、佐伯さん」
 編集部の入り口に男が立っていた。
「師匠! どうしてここへ?」
 佐伯がそう叫ぶように驚いて立ち上がると、師匠と呼ばれた男は
「もう師匠ではありませんよ。噺家は辞めましたから」
 その男はそう言って編集部の中に体を入れて来た
「ま、立ってるのも何なので」
 佐伯が椅子を勧める。
「ありがとうございます!」
 そう言って座った。グレーのカーデガンにグリーンのタートルネック、下は黒いスラックスにスニーカーだった。頭は少し白いものが混じっていたが、きちんと整えられていた
「もう何年になります?」
 神山が男に尋ねる
「昨年、執行猶予が明けて保護観察処分も解けました」
「刑は何年だったっけ」
「懲役3年、執行猶予5年でした。釈放されてからは病院の薬物外来に通っていました」
「あの時は本当に驚いたよ。人気落語家だった三猿亭釉才師が覚せい剤所持で逮捕されたと聴いた時は」
 佐伯の言葉にかって三猿亭釉才と名乗っていた男は
「あの頃、仕事が立て込んでいて、余裕が無くなっていたんです。それである男から声を掛けられたんです『疲れに効く栄養剤がある』って」
 そう言って遠くを見た。神山が買って知ったる何とかで、給湯室からお茶を入れて持って来た
「すいません。お気を使わせてしまって」
「それで今は大丈夫なの?」
 神山の言葉にえは
「もう大丈夫だとは思います。でもこれは完治はありませんので一生戦いです」
 そう言って出されたお茶を口にした
「今はお茶が旨くて仕方ありません」
「そうか、それは何よりだ。ところで今日の要件は」
 佐伯の質問に
「先日の落語会、素晴らしかったですね」
 そう言ってこの前の会のことを口にした
「見に来ていたのかい?」
「ええ」
 釉才の返事に神山は
「楽屋に来てくれれば良かったのに」
 そう言うと
「とんでもない。私なんか顔を出せる場所じゃありませんよ。事件を起こして協会や師匠に迷惑をかけたのですから」
「でも禊は済んだのじゃないか。当時人気実力ともトップだったあんたは事件で何もかも失ってしまった。社会的制裁も受けた」
「そんなこと言って下さるのはお二人だけですよ」
「もう6年も前のことだろう」
 佐伯がそう言うと神山も
「どうだい。今度高座に出てみては」
 本気とも冗談ともつかぬ事を口にした」
 すると釉才は
「まさか……噺家は既に廃業しています。拘置所から協会に廃業届を出しました」
 そう言って否定した。だがそれを聞いた二人は顔を見合わせ佐伯が
「あんた、ウチの演芸年鑑見ていないな」
 そう言って編集部の本棚から今年の演芸年鑑を出して来た。
「東京の噺家ならこの前入った前座からもう死にそうな年寄りまで全員登録してある」
 そう言って年鑑を開いて見せた。そこには噺家協会の中堅の位置に三猿亭釉才の名と写真が載ってあった。写真はかなり前のものだが
「これは……。廃業したはずじゃ」
 釉才の言葉に神山が
「協会の事務員もアンタの師匠も廃業届を受理しなかったんだよ」
「と言うことは……」
「そうアンタは今もって噺家、三猿亭釉才なんだ」
 そう言って真実を告げた
「裁判が終わってから師匠の所には顔を出していませんでした。帰りに寄って詫びを入れて来ます」
「で、出て見る気は無いかい?」
「6年ぶりですよ」
 戸惑う釉才に神山は
「稽古すればいいじゃない。アンタの芸は素晴らしかった。もう一度聴きたいという客は多いと思うけどな。兎に角考えておいて欲しいな」
 そう釉才に告げた。その後連作先を交換して釉才は帰って行った。
「あれ、そういえばアイツ用は何だったんだ?」
 佐伯の言葉に二人は顔を見合わせて笑った。

 よみうり版からの帰りに末広亭に顔を出した。この芝居では遊蔵が夜席のトリを取っていた。楽屋に顔を出すと既に遊蔵は来ていた。
「神山さん。どうしたのですか? 取材ですか」
 驚く遊蔵。確かに特別なことが無い限り評論家が寄席に顔を出すことは少ない
「いやさ」
 そう言って遊蔵を楽屋の外の通路に呼び出して先程のことを伝えた
「釉才師匠ですか! 正直もう高座には立たないとは思っていたのですが、出来るならまた見てみたいですね。二つ目の頃、高座の袖から夢中で見ていましたよ」
「まあ返事は未だなんだけどね。でもわざわざ編集部に顔を出したと言う事は、執行猶予が明けて一年。そろそろ落語の虫が疼いて来たのだと思ったんだ。
「確かにそれはあるかも知れませんね。一度でも高座で噺をしてウケたらもう忘れられませんよ。かぜとまんだらに封をして二度と高座には出ないと誓っても歳月が経つと考えも変わるものです」
 遊蔵はそう言って三猿亭釉才が復活することが濃厚だと語ったのだった。
 実は神山は例の「古典落語を聴く会」に三猿亭釉才が出られないかと考えていた。かっては一斉を風靡した噺家である。ブランクはあるが稽古次第で出られるのでは無いかと思っていた。そうすれば新作派に充分対抗出来る布陣となる。でも今日の段階ではそこまでは口に出来ない。60代の仙蔵、50代の釉才、40代の柳生、そして30代の遊蔵、20代の柳星と揃うのだ。
「面白くなって来た……後は根回しが肝心だな」
 この時神山は他のメンバーにも伝えておいた方が良いと考えたのだった。
 
 一方、編集部から出た三猿亭釉才は真っ直ぐに自分の師匠、三猿亭釉志のところへ向かった。手土産を買って東京の下町にある師匠の家を尋ねた。雷が飛んでくると思っていた釉才だったが師匠は思いの外優しかった。
「良く来てくれたな。この日を待っていたんだ」
「ありがとうございます! 本当に申し訳ありませんでした」
「間違いは誰にでもある。問題は、それをきちんと反省して次に繋げることが重要なのだ」
 暖かい言葉であった。釉才は心の底から師匠に感謝した。
「お前はかぜとまんだらに封印をして廃業したつもりだろうが、俺が許さなかった。どうだ、もう一度高座に立ってみたくは無いか? お前がその気なら協会にでも何処にでも口を効いてやる」
「ありがとうございます! 今日も神山さんにも言われました」
 釉才の言葉に釉志は
「そうか、神山さんがそう言ってくれたか、有り難いじゃないか。前向きに考えるんだろう?」
「考えても良いでしょうか? 自分にその資格があるでしょうか?」
 釉才はそう言って真剣な表情をした。それを見て釉志は
「お前のその目が本気だろう。それが答えだ」
 そう返事をした
「ありがとうございます!」
 畳の上に正座して両手を着いて師匠の釉志に感謝したのだった。
 数日後、神山の元に釉才から「お願いします」との連絡が入った。

風に吹かれて 8

 落語会が終わり、打ち上げで少し飲んでから神山は家に帰った。
「ただいま〜」
「おかえりなさい」
 妻の薫と娘の恵と一緒に迎え出てくれた。
「まだ起きていたのか?」
「パパの顔を見てから寝るんだって」
 薫が笑いながら言うと恵が
「パパの顔見たからもう寝る」
 そう言って抱きついた。そのまま寝室で薫と二人で寝付かせた。その後台所のテーブルに移った。
「何か飲む?」
「いいやコーヒーがいいな」
 そう言って椅子に座ると薫が
「今日の落語会はどうだった?」
 コーヒーを煎れながら尋ねる
「良かったよ。特に柳生さんと仙蔵師匠。それに遊蔵さんも良かったな、柳星くんも頑張っていたな」
「なんだ結局みんな良かったんだ」
 そう言って、コーヒーカップを神山の前に出しながらテーブルの角の隣に座った。ここが二人の定位置なのだ。
「でも乾先生って、最近演劇の評論も書いてるだけど、ウチの劇団の評論も書いていてね。結構厳しいんだ」
 薫は「劇団役者座」に所属いている。普段はテレビドラマや映画の出演が多いが、劇団の舞台にも立っている。
「演劇は専門外だからチェックして無かったな」
 コーヒーカップを口に運びながらそんな事を口にした
「そうそう今日は乾先生来ていたの?」
「ああ楽屋に挨拶に来たよ」
「へえ〜律儀な所もあるのね」
「律儀と言えばそうだけど、おまけがあってね」
 そう言って神山は楽屋での出来事を話した。
「そうなんだ。でも新作だけの落語会って誰が出るのだろう」
 薫の疑問に神山は
「そうだな。圓城師はトリだろうな。それから白鷺さんかな」
「一番弟子の?」
「そう。白鷺さんは古典派の俺でも認める存在だよ。今や師匠を超えてると思うな」
「後は?」
「柳亭喬一郎は外せないだろう」
「あ〜チケットの取れない噺家ね。でも彼は古典もやるでしょう」
 そうなのだ、柳亭喬一郎は柳家の噺家で一番の人気者で、その独演会はチケットが直ぐに完売するほどである。古典も評価が高く神山もよく取り上げていた。その一方で自作の新作も手がけて、そちらも高い評価を受けていた。
「新作落語だったら外せないだろうな。CDだって現役ではトップの売上を誇っているからな」
「新作といったら、柳家小艶さんは?」
「ああ、考えられるね彼も素晴らしい噺家だからな。天文だけじゃない」
 柳家小艶も新作で高い評価を得ている噺家で、ファンも多い。良く天文落語会等と言う名を冠した落語会を開いている。
「後は誰だろう?」
 名が出たのは三名だ。今日の落語会に対抗するにはもう一人必要だ。
「二番弟子に圓斉さんは?」
「残念だけど、この三名に比べれば落ちるしな。俺が乾だったら無いな。ま、考えても仕方ない。風呂に入って寝よう」
 そう言って二人での落語の噺は打ち切りとなった。
「あたしは恵と入っちゃたから」
「もう一度入ってもいいぞ」
「そう……じゃ」
 二人目が出来るのも近いかも知れない。

 それから数日後のことだった柳生から連絡が入った
「どうした?」
「今日夜にでも逢えますか?」
「ああ良いけど。寄席は?」
「今日は昼トリだけですから」
「じゃあウチに来いよ。薫も逢いたがっていたから。鍋でも突きながら飲もう」
「それじゃお邪魔します」
 翌日の夕暮れ柳生が神山の家を訪れた
「あ〜柳生さんお久しぶり!」
 薫も喜んで出迎えた。
「あ柳生のおじさん!」
 恵も喜んでいる。早速寄せ鍋を突きながら飲みだす。すると柳生が
「今日伺ったのはウチの一門が大変なことになりそうなのです」
 そう言って今日電話した内容に言及した
「大変なこと?」
 正直、今の柳生の一門、春風亭柳太郎一門に特別な問題は起こっていないはずだった。
「今の一門には特別な問題は起こってないと思うけど」
 神山の言葉に柳生は
「それがこれから起こるんですよ」
「これから?」
 神山は訳が判らないという感じだった。それを見て柳生は思い詰めた様子で
「実はウチの師匠が例の新作の落語会のメンバーに誘われているのですよ」
「え、柳太郎師匠が?」
 春風亭柳太郎は先日、噺家芸術協会の会長に就任したばかりだった。実現すれば超大物の登場となる
「そうか、柳太郎師はもともと新作派だったな。迂闊だった。まさかこちらの土壌を荒らされるとは…・・・。それで師匠は出る気なのかい?」
「満更でもない感じです」
「惣領弟子がこちら側に居るのに反対に回ると言うのか」
「まさかです……でも判る部分もあります」
 柳生の言葉に神山は
「判るって?」
 柳生に尋ねた
「もし、私も柳星が将来落語界を背負う程の噺家になったら、勝負してみたい感じになるかも知れません。師匠もそんな気持ちを持ったのかも知れないと思います。まあこれは確かめなくてはなりませんけどね」
 柳生の言葉に神山は
「柳太郎師は今は古典の方が多いでしょう。新しい新作は作っているのかな?」
 今や古典派とも言って良い柳太郎のことを考えた。
「実は作っています。既に幾つかは自信作が出来てるようです。師匠はそれを披露する場所が欲しいのかも知れません」
 柳生の事に神山は一度柳太郎の元を尋ねてみようと思っていた。
 数日後、協会の会長室に神山の姿があった
「ではやはり……」
「ええ、出る事に決めました。僕も今は古典やってますが、元々は新作派ですからね。それに仙蔵師やウチの柳生ともやりあえるのは楽しみですよ。僕もまだまだ納まる歳でもありませんからね」
「そうですか。考えるとそうですね。古典と新作ががっちりぶつかり合えば落語の将来には良いかも知れませんね」
 柳太郎の言葉に神山はそう言って応えた。
 協会を出ると柳生に連絡を入れる
「もしもし、今噺家芸術協会を尋ねて柳太郎師に直接尋ねた」
「で、どうでしたか?」
「やはり、誘われているそうだ」
「出るということですね」
「ああ、勝負をしたいそうだ」
「そうですか。それならこちらもメンバーを補強しないとなりませんね」
「そうだな柳星くんも悪くは無いがもう一人いれば心強いな」
「それとなくあたってみますよ」
「悪いが頼む。こっちも考えておくから」
 そう言って話を終えた。その後、「東京よみうり版」の編集部に編集長の佐伯を尋ねる為に寄った時のことだった。今日までの事情を話していると
「神山さん、編集長。お客さんです」
 編集員がそう告げた。
「お客さん?」
「はい。是非お二人に逢いたいと」
 その声が終わらないうちに
「お久しぶりです。神山さん佐伯さん」
 その声の方向を見て二人は驚いた。
「師匠! どうしてここへ……」

風に吹かれて 7

「落語研鑽会」は明治の頃、新作落語が隆盛を極めたのだが、それに危機感を抱いた噺家有志が共同で立ち上げた会で、それ以来主催者が変わっても戦中を除き連綿と続けられて来た会であり、今持って会の趣旨は古典落語の伝統的な保存と技術の向上にある。だから新作落語は未だかって掛かったことが無いし、新作落語を演じる噺家もこの会では古典をやるのだ。毎月一度、国立小劇場で行われている。今では多少価値が落ちたが、かっては、この会に出られるだけで噺家としては名誉だとされていたのだ。
 今日の会では、仲入り後の食い付きで柳生と仙蔵の対談となった。テーマは「古典楽語のこれからの展望」というものだった。今日の会の趣旨としては最適な題だと神山は思っていた。勿論彼が司会進行を努めている。
 当然話には古典落語に登場する言葉や生活習慣の違いを認識した上で、如何にして噺を楽しむ為の障害としないかと言う事が二人によって語り尽くされた。お客の中には
「仙蔵や柳生が落語に対してここまで考えているのか」
 と感心をした者も多く居た。
「要は、その噺の本質を演者もきちんと理解した上で演じる事が大事なのですね」
 柳生の言葉に仙蔵が
「そう。表面だけでは無く本質を捉えることが大事なのだね」
 そう締めくくって対談が終わった。すぐさま椅子が片付けられ端に置かれていた毛氈が敷かれた高座が舞台の真ん中に戻された。そして出囃子「中の舞」が鳴る。一旦袖に下がっていた仙蔵が出囃子に乗って登場すると、割れんばかりの拍手が降り注いだ。仙蔵が座布団に座り頭を下げる
「え〜只今は随分と生意気なことを語りましたが、何時も考えている訳じゃないんですよ。普段はね、やってると夢中になっちゃうんですよ。ホント」
 仙蔵のひょうきんな言い方で笑いが起きる。
「今は無くなった遊びに郭遊びというものがありますな。やりたくったって、もうやれない。無くなっちゃったものですからね。でも、その昔は、『遊び』というと郭遊びのことを言ったものでしたな」
 早速マクラに入って行く。このあたりの噺の持って生き方は抜群だ。この噺は江戸後期の初代柳枝師の作なのだ。だから出来た時は新作なのだ。良く新作派の噺家が「古典も出来た時は新作」というのはこのような事を言うのだ。
 噺は佐平次が仲間と品川に遊びに行くのだが、遊んだ翌朝に仲間を集めて、
「自分は胸を病んでるのでここで暫く居続けをしようと思う、それについてはここに集めた金をおふくろにやってくれ。それだけあれば暫くは困らないだろうから」
 と言って皆を帰るように言う。仲間が心配すると
「大丈夫だ心配するな」
 と言って帰してしまう。勘定の精算に来た若い衆に
「勘定はさっきの仲間が持ってくる」といい居続け。翌日も「勘定勘定って、実にかんじょう(感情)に悪いよ」とごまかし、その翌日も居続け、しびれを切らした若い衆に、
「金? 持ってないよ」
 と宣言。店の帳場は騒然。 佐平次少しも応えず、みずから店の布団部屋に篭城する。
 さてここからが佐平次の本領発揮で、夜が来て店は忙しくなり、店は居残りどころではなくなった。
 佐平次は頃合を見計らい、客の座敷に上がりこみ、
「どうも居残りです。醤油もってきました」
 等と客に取り込み、あげくに小遣いまでせしめる始末。花魁がやってきて、
「居残りがなんで接待してんの?……ってやけに甘いな、このしたじ(醤油)」
「そりゃあ、蕎麦のつゆですから」
 「おいおい、どうりで!」
 などと自分から客をあしらい始め、謡、幇間踊りなど客の接待を始めた。それが玄人はだしであり、しかも若い衆より上手かったから客から「居残りはまだか」と指名がくる始末。
 この辺りを仙蔵は実に愉快に演じて行く。実際の芸が生きてくる。見ている客にも、自分が品川の見世に上がっているかのような錯覚を感じさせていた。
 高座の袖で見ていた柳生は
「やはり上手いな。見事と言うしかない」
 そう感心していると遊蔵も
「師匠の得意演目の一つですからね」
 そう言って目を細めた。
「遊蔵さんもやるんでしょ?」
「やりますけど、まだまだです。そう言えば柳生師匠もおやりになりますよね」
 遊蔵の質問に
「私のは仙蔵師匠とは趣が大分違います。師匠のは佐平次目線で語られていますよね。私のは若い衆目線なんです」
 そう答えた。すると遊蔵は
「ああ、そうか。そういうやり方もあるんですね。今度稽古お願いしても良いですか?」
 そう言って稽古を頼んだ
「いいですけど……少し違いますから参考になるかどうか」
「佐平次目線と若い衆目線が交互にくれば面白さも倍になるのではと思ったのです」
 遊蔵の考えに柳生は、このような若手が出てくれば古典落語の行く末も安心だと思うのだった。
 やがて噺は若い衆が旦那に文句を言って佐平次を追い出そうとするが、旦那に佐平次は、自分はお上に追われている身だと言う。旦那は出て行って欲しくて佐平次に着物やお金まで与える始末。
 やっとの思いで佐平次を見世から出したのだが、近くで掴まっては困ると若い衆に様子を見にやらせる。すると
「てめえんとこの旦那はいい奴だが、言い方を変えると馬鹿だな。いいか、覚えておけ、俺は居残りを業(なりわい)にしている佐平次ってんだ。あばよ」
 と言って消えてしまう。若い衆は驚いて見世に帰り
「旦那、あいつは居残りを業にしている佐平次て奴ですよ」
「何だって! じゃあ、あたしをおこわにかけたのかい」
「へえ、あなたの頭がごま塩ですから」
  もう明治の頃には判らなくなっていたサゲを言って打ち出しとなった。
「ありがとうございます! ありがとうございます!」
 仙蔵が座布団から降りて頭を下げる。割れんばかりの拍手の中緞帳が静かに降りて行く。こうして第一回「古典落語を聴く会」は無事に終わったのだった。
 仙蔵が楽屋に戻ると神山の他、柳星、遊蔵、柳生が揃っていて
「お疲れ様でした」
 と挨拶をした。仙蔵は
「いや〜やってて楽しかったな。今日の客は最高だよ」
 そう言って上気した顔を綻ばせた。すると乾が楽屋に顔を出した。
「皆様、お疲れ様でした。しっかりと拝聴させて戴きました。感想は来週号の私のコラムに書きますから楽しみにしていて下さい。それから、私と圓城師匠が主催する新作落語の会も楽しみにしていて下さい。神山さんにはお伝えしてありますけどね。それじゃ失礼します」
 そう言って楽屋を出て行った。遊蔵が
「コラムにですか、直接言えばいいのに」
 そう言って頬を膨らませると柳生が
「ま、言葉より筆が立つ人もいますからね」
 そう言うと、仙蔵が
「言葉が自由に操れない奴が新作の噺家の味方なんだ。こりゃ苦労するぜ」
 そう言ったので皆が笑った。
 

風に吹かれて 6

 万雷の拍手の中、柳生が高座の座布団に座った。柳生を見に来ている客も大勢いるのだ。そんな熱い視線を感じていた。
「え〜麗麗亭柳生と申します。どうぞお付き合いを願います。今は台所といっても、すっかり近代的になりまして、電化が進んでいますが、昔はそうではありませんでしてね。火を起こすところからやらねばなりません」
 柳生は、現代と昔の台所の違いから枕に入って行った。なんせ乾に尤もダメ出しをされた演目である。いつものようにやれば、それで良いとは言え、客席に居る乾に向けて答えのような高座を見せねばならない。少なくとも柳生はそう考えていた。
「今使わなくなった言葉に『へっつい』というものがありますな。これは『かまど』のことなのですね。火を炊いて煮炊きする場所ですね。今だと『コンロ』ですかね」
 笑いを取りながら言葉の説明をしていく。これは噺の仕込みとしても必要だった。喋りながら柳生は
『乾ならこう説明しなくちゃならないのが駄目なのだと言うのだろうな』
 と考えていた。やがて噺は本編に入る。この「竃幽霊」という噺は博打にあたって大儲けした左官長五郎は、お金を自分の家の竃に塗り込める。しかし、ついでにふぐに当たってしまって亡くなってしまう。熊はこの世に残したお金に未練があり成仏出来ない。古道具屋に売られた竃が買われると、夜にその持ち主の所に出たのだが、誰も怖がって話を聞いてくれない。しかし、新たに持ち主になった熊は逆に幽霊の長五郎を脅かす有様。
 柳生の噺は三木助や圓生の上方の噺に近いやり方ではなく、ストーリーを整理して判りやすくした古今亭志ん生の型だった。これは柳生がこの噺を習ったのが志ん生の息子の志ん朝からだからだったからだ。
 今日の客はよく笑っていた。筋の良い客だと思った。この噺の本質を理解しているのが伺えた。それは、この噺は竃が何か判らなくても、お金を隠した場所が判ればそれで良いのであり、竃が何か判ればその後は重要ではない。重要なのは熊と長五郎のやりとりなのだ。お金に未練たっぷりの幽霊と幽霊なんざ怖くも何ともないという肝の太い男とのやりとりが楽しいのだ。そこだけを見れば充分に現代でも通用する噺なのだ。表面的な事だけを見ていては噺を理解出来ない。
 少なくとも柳生はそう考えていた。先ほどの楽屋で仙蔵と二人になった時にも話したことだった。仙蔵も
「そうなんだよな。本当の面白さは、普通は怖がる幽霊と博打を打つという信じられない事が面白いのであって、そこが重要なんだよな。俺がやる『居残り佐平次』も昔の品川の宿場女郎のことや仕組みが判らなくても、要領の良い奴が居残りになって、お客を取り巻いて売れて行く様が痛快なのであってさ、そこが大事なんだよな。今だって要領よく生きてる奴は居るし、殆どの人はそう出来ないから噺を聴いて楽しむんだよな」
 仙蔵も柳生も考えは同じだった。
 噺は後半に入って行った。幽霊の長五郎が熊に頼むシーンとなっている
「親方、ねえ良いじゃありませんか。どうもねえこの金に気が残ちゃって、このままじゃ浮かばれないんですよ」
「そうか、じゃあおれも男だ受けてやろうじゃねえか。それで幾ら掛けるんだい」
「へえ、百五十両行きます」
「お、凄いねえ」
「いや、ゆっくりやってると朝になっちまうんで、すると帰らなくちゃならないんで」
 ドッと客に笑いが起きる。そして噺は勝負のシーンとなる。目が出たのは熊が張った半となった。長五郎は負けたのだ。このシーンをかっては熊がイカサマで金を巻き上げたとやる噺家もいたが今は少なくなった。時代に合わなくなったのだろう。古典はこんな所も変わって行くのだ。
「ウゥーン…」
「幽霊がひっくり返るの初めて見たぜ」
「親方、もう一勝負…」
「それは勘弁。てめえには、もう金がねえじゃねえか」
「親方、あっしも幽霊です。決して足は出しません」
 ドッと笑いが起き、拍手が湧き起こる。柳生は頭を下げると
「おなかいり〜」
 と柳星の声が入り緞帳が降りた。

 高座の袖に下がると裾で見ていた遊蔵と柳星が
「お疲れ様でした」
 と頭を下げる。柳生は軽く頷き楽屋に下がると仙蔵に向かって
「お先に勉強させて戴きました」
 と頭を下げた。仙蔵は
「今日の客は筋が良さそうだな」
 そう言って嬉しそうな顔をする、柳生も
「そうですね。判ってる者ばかりと言う感じですね。やり易いですよ。だからこっちもノリますよね」
 そう答える
「ちげえねえ」
 仙蔵もそう言って笑った。会は二十分間の休憩に入る。少し長めなのはトイレの数とお客の数を考慮したせいだ。
 仙蔵が食いつきの対談に合わせて着物を着始めた。遊蔵が手伝ってるのは言う間でもない。そこに神山がやって来た。
「良かったですね。柳星君も遊蔵師や柳生師も良かったですよ。良い原稿が書けそうです」
 そんな事を言ってから
「そう言えば、乾先生が来て挨拶されたのですが、圓斉が付き添っていましたよ。それで自分たちも新作派の会を開くから来て欲しいと言われました」
 先ほどの事を伝えると仙蔵が
「圓斉? なら本山は圓城か。あいつは一癖あるからな。神山さん是非、その会の模様を教えて下さいね」
 そう言って神山に頼みこむと、神山も
「それはもう」
 そう言って事が次第に大きくなる事を感じるのだった。すると遊蔵が
「でも、向こうの目的は何なのでしょうね」
 そう言って、乾の最終的な目的を考えた。
「それは私の考えですが、もしかして『落語研鑽会』に新作で出ることなのかも知れません」
「『落語研鑽会』!!」
 柳生の言葉に柳星と遊蔵が声を揃えて叫んだ
「お前らふたり漫才も出来そうだな」
 仙蔵が笑って茶々を入れた
「なるほど、今まで新作派の噺家はあの会には出られなかったからな」
 仙蔵の言葉に柳生が
「もともと、研鑽会は古典の保存、向上を目的として続けられている会ですからね。新作が高座に掛かった事は無いかも知れません」
 柳生が返事をすると遊蔵が
「じゃあ、それこそ新作が板に掛かるということは……」
 そう疑問を口にすると柳生が
「そう、古典に変わって新作落語も保存、向上の範疇に入るという事なんだ」
 それを聴いて仙蔵は苦い顔をし、若手二人は顔を見合わせるのだった。

風に吹かれて 5

 今日の会について神山は主催者ではないが、提案者なので主催者側の人間となる。だから乾にも神山名義で招待状を送ったのだ。
 楽屋に挨拶をした後で、開場してお客が入って来るのをホールの隅で眺めていたら、後ろから声を掛けられた
「神山さん。今日はお招きに預かりありがとうございます。折角ですのでやって参りました」
 振り向くと乾だった。
「これは乾先生。お忙しいので、まさか来て戴けるとは思ってもみませんでした」
 乾は神山より歳上であり、しかも評論家としての格は遥かに上なのでこのような言葉遣いになるのは仕方なかった。
「いやいや。これでも私は落語は大好きですからね。だから落語の将来が不安で堪らないのですよ」
 乾の言い方は一見何でも無いようだったが、神山は腹の底に何かを隠してるのを感じていた。
「今日は楽しみです。演目を見たら、判り難い噺ばかりですからね。名人の仙蔵師や達者な柳生師が難題の古典をどう演じるのか興味が尽きないですよ」
 神山は乾の言葉に返答する。
「まあ今日は特に、そのような会ですからね。乾先生にもご覧戴いて、今でも古典が立派に通用するのを見て戴けるなら嬉しいですね」
 神山は今日の会が先日の乾のコラムに対する答えの会だという事を暗に言葉に出した。すると乾は
「神山さん。勘違いされては困るのですが、私は古典も好きですよ。でも今は未だ判る世代の方もいらっしゃるけど、あと二十年も経ってご覧なさい。今の三十代が五十を超えてる。その世代が全く判らない言葉や生活様式を下敷きにした噺が通用するのか? ということなのですよ。だから私は今のうちに古典落語は大衆芸能から保存を目的とした古典芸能に看板を付け替えるべきだと思うのです。このままならやがて古典落語は見向きもされなくなる可能性もあります。今は盛り返しましたが一時はお客が本当に入らなくなってましたよね。今やチケットが取れない噺家さんがトリをとってもその頃は半分もお客が入らなかった」
「確かにあの頃はそうでした」
「それは古い新作が幅を利かせていたからです。いつもでも、『おい木村くん。何だい佐藤くん』じゃ通用しませんよ。それを打破したのが三猿亭圓城師ですよ。彼の『革命落語会』は落語界に衝撃が走った。曰く、落語は今を描かなければならない。と言うテーマのもと斬新な新作が集まって演じられました。それからです。お客が新しい新作を聴きに集まって来たのは。勿論、それに対抗して古典落語も復活しました」
「それを再びやろうと言うのですか?」
 神山の質問に乾は
「再びというより、新たに現代を抉るような新作を出したいですね。それでこそ古典落語は古典芸能の立場を確立出来る」
「と言うと、何かおやりになるのですか?」
 神山の質問に乾は
「そうですね。この会に対抗する訳ではりませんが、新たな新作の会をやろうと考えています。精鋭のメンバーを集めて、今までに無い新作落語を披露しようと思っています。日時は未だ未定ですが、判ったら神山さんにも招待状をお送りしますので是非にも聴きに来て欲しいと思っています」
 乾の言葉に神山は
「それは楽しみにしております」
「それでは」
 乾はそう言って神山の前から遠ざかった。角を曲がる時に乾に寄り添ったのは神山の目が確かなら三猿亭圓城の弟子の圓斉だった。神山はそれを見て、仲入りの時でも楽屋の皆に伝えておこうと思った。

 遊蔵は自分の出囃子「小鍛冶」に乗って高座に出て行った。この会場は何回か使った経験があり、噺家にとってはやり易い会場だった。声の響きなども満足出来るレベルものだった。
 遊蔵が高座に姿を表すと一斉に拍手が沸き立った。若手真打として名が登りつつあった。将来を嘱望される噺家の一人になっていた。師匠の娘を妻に迎えて、将来は仙蔵を継ぐのではと思われている事も事実だったが、本人は今の名を大きくするつもりでいた。
「え〜お次は、わたくしでございます。小金亭遊蔵と申します。今日は根多出ししております通り『金明竹』をやるのですが、この噺は判らない言葉の連発ですので、どうか付いて来て欲しいと思っております。今日は寄席と違って待っていませんので、そこのところ宜しくお願いいたします」
 遊蔵がそう言うと、ドッと笑いが起きた。この噺は前半は与太郎が叔父の店の店番をしているが、ことごとく失敗を重ねる。しかし与太郎は叔父に言われた通りの事をやってると思っているので、何故怒られるのか理解出来ない。そんな後半で問題が起きる。遊蔵は前半の傘のくだりも、猫のくだりも笑いを上手く取って後半に繋げて行く。
 神山は高座の袖から見ていて「上手いものだな」と思っていた。かってはこの噺は三代目金馬師の独壇場で、ラジオでも人気を得ていた。噺は後半に入って行った。叔父が帰って来たが、与太郎の対応の不始末に再び出かける羽目になる。今度は女将にも言いつけて間違いの無いようにして出かけて行くのだが、そんな時に問題の人物が来店する。
「わては、中橋の加賀屋佐吉方から使いに参じまして、先度、仲買の弥市が取り次ぎました、道具七品のうち、祐乗・光乗・宗乗、三作の三所物。ならび、備前長船の則光。四分一ごしらえ、横谷宗珉の小柄付きの脇差……柄前な、旦那さんはタガヤサンや、と言うとりましたが、埋もれ木やそうで、木ィが違うとりましたさかい、ちゃんとお断り申し上げます。次はのんこの茶碗。黄檗山金明竹、遠州宗甫の銘がございます寸胴の花活け。織部の香合。『古池や蛙飛びこむ水の音』言います風羅坊正筆の掛物。沢庵・木庵・隠元禅師貼り混ぜの小屏風……この屏風なァ、わての旦那の檀那寺が兵庫におまして、兵庫の坊さんのえろう好みます屏風じゃによって、『表具にやって兵庫の坊主の屏風にいたします』と、こないお言づけを願いとう申します」
 と言うのだが与太郎はさっぱり判らない。単なる乞食芸人だと思ってしまう始末だった。幾度も言い直されてて使いは怒ってしまうが、ここで女将が登場してもう一度言って貰うがやはり判らない。そのうち使いは帰ってしまう。その後旦那の叔父が帰って来て、何か無かったかと女将に問うが、しどろもどろで何を言っているのか全く判らない。唯一分かったのが、使いが中橋の加賀屋佐吉から来たものだと言う事。旦那は
「あそこにはあいつに道具七品を買うように手金を打ってあったんだが、それを買ってかい?」
「いいえ買わず(蛙)」
 と下げた。
 この噺は途中で出てくる言葉が関西なまりがもあり、そもそも専門用語だらけなので殆ど判らないのだが、判らないことを前提として噺が作られているので問題無いのだ。むしろ乾に言わせると昔の商家の習慣が、今では全く無くなってしまったのが問題だとされるのだろう。
 サゲを言って遊蔵が拍手に送られて高座から降りて来ると
「お先に勉強させて戴きました」
 と自分の師匠と柳生に挨拶をする。柳星が「お疲れ様でした」と言って高座返しに出て行く。この後は柳生が「竃幽霊」を演じて仲入りとなる。その後は食いつきで仙蔵と柳生の対談となり、トリの仙蔵の「居残り佐平次」となる。
「今日は時間もあるから、たっぷりやるからな」
 そう予告していた。
「いい出来だったじゃねえか」
 仙蔵が遊蔵にそう声を掛ける。柳生も「良かったね」と言って、出囃子の「外記猿」の鳴る中楽屋を出て行くのだった。

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