2019年11月

風に吹かれて 1

 神山は高梨が開いた雑誌のページに目を落とした。それには……。

 生憎と「生活文化評論家」などと言う肩書を持ってる為、仕事で結構寄席や落語会に顔を出すことが多い。無論生来の落語好きだから、そのことに関しては苦にならないのだが、気になることがある。
 私生活でもお気に入りの噺家が出る時や落語会を開く時はチケットを取って見に行く事も多い。だからという訳ではないが、以前から気になっている事をここに書かせて貰う。
 落語。特に古典落語の多くはその元が江戸時代。新しいものでも明治の初期に作られたものが多い。生活に根ざした落語は当時の風俗を噺の中に登場させている。
 その後の数多の噺家が改良を加えて新しい時代に沿うようにしていても、二十一世紀の今日に至っては流石に綻びが大き過ぎて継衛くなって来ているのでは無いだろうか? 事例を書いてみる。
 私はあるカルチャースクールで講師をしている。その生徒さんに質問を幾つかしたことがある。内容は、落語に関するものだった。
 私の講義を聴きに来るほどだからほぼ全員が比較的に落語に親しんでいる方々である。その年齢層は二十代が少し、殆どは三十代から四十代が多い、五十代の方もいらっしゃるし、少しだが六十代より上の世代の方もいらっしゃる。
 その生徒さんに「竃」(へっつい)が何か判るか問うてみたのだ。結果は六十代以上の方はほぼ全員が「判る」五十代の方も「理解している」と答えて下さったのに対して、四十代以下の世代の方は全員が「知らない」と返答があった。中には「知らないけど何か大事なもの」と答えてくれた方も居て、それはそれで間違ってはいないが、漠然とし過ぎている。私が
「竃とはかまどのことですよ」
 と言うと三十代以下の世代の方々はかまども知らなかったのだ。こんなことは幾つもあり、古典落語に登場する生活風俗が今となっては全く変わってしまった為に、多くの観客が噺の本質を理解出来ないままになっているのだ。
 勘違いされては困るが、落語は大衆芸能である。能狂言や歌舞伎みたいに見る前に予習が必要な芸能ではない。しかし、現代人の生活とかけ離れた世界を描いているのは同じである。このまま行くと落語は全く判らない価値の無いものに落ちて行く未来が見えるではないか。そのうちに「全く価値のないもの」になる前に、落語の関係者は大衆芸能の看板を下げて能狂言や歌舞伎のように古典芸能の仲間に入れて貰った方が良いと思う。そして大衆芸能として優れた新作落語がその座に座るべきである。

                 生活文化評論家  乾 泰蔵

 ある落語会が終わり、神山孝之はホールで、旧知の「東京よみうり版」の記者の高梨によびとめられ、彼が出した雑誌のコラムを読んだところだった。それをテーブルの上に置く。神山は先年、長年勤務していた演芸情報誌「東京よみうり版」を退社しており、フリーの演芸評論家として活動していた。
 退社した理由は、一人娘の恵が保育園に通うことになり、その送迎を普段は神山が担当することになった事もあるし、元から会社以外から原稿を依頼されることが多く「よみうり版」としても基本的にそれを許可していたこと。それは中小出版社である「よみうり版」としてもそれほど多くの報酬を支払えない事もあり、神山がフリーになることを勧めたのだ。無論、会社を離れても神山は「よみうり版」に記事を連載しており、それは読者にとって好評なようだ。
 妻の薫は女優、橘薫子(たちばなきょうこ)として芸能活動しており、ドラマや映画には常連のように出ている。時間があれば妻の薫が子供の恵の送迎をするのだが、いかんせん売れっ子なので、中々時間が取れない。そこで夫の神山が担当することになったのだ。
「どうですかそれ、神山さんはどう思います乾さんは結構テレビにコメンテーターとして出ていますけどね」
 高梨に言われて神山は
「どうって言われてもな。そもそも門外漢が何を言ってるんだというのが正直な感想だが、言葉や生活の違いは痛いところだな。無論噺家の中にはそれを理解して噺をわかり易くをモットーにしてる奴もいるけど、そう言う噺家ほど」
「評価が低いですよね」
「何だ判っているじゃないか」
「それは神山さんの後輩ですからね」
 高梨はポケットからタバコを出して火を点けて神山にもタバコの箱を差し出して勧めた
「いや、子供が出来てから電子たばこに変えたんだ。女房が嫌がってね」
「薫さんらしいですね。確かに吸いませんからね」
「子供に悪影響があるからだろう」
 電子たばこを吸いながら神山は
「今度、我こそは落語通という連中を集めて、特に通じない言葉や用語が多い噺を聴かせる落語会を開いたら面白いな」
 神山の冗談のような提案を聞いた高梨は
「それ面白いですね。編集長に提案してみますよ。編集長もこの雑誌の記事に対して腹に一物ありそうでしたからね。それにそのレポートを神山さんが書けば更に面白いですね」
「どこが主催するんだ? よみうりでやるのか、佐伯が許可出すか?」
 佐伯とは神山の同期で今は「よみうり版」の編集長をしている者のことだ。神山の言葉に高梨は煙を吐き出しながら
「実力のあるふたつ目さんでやれば、それほど経費は掛かりませんし、場所はウチの社の二階のホールで出来るでしょう」
 神山は二階のホールの様子を頭に描いてみた。
「高座を作って、パイプ椅子を並べてか?」
「まぁそうなりますね。最低でも三十人は入るでしょう」
 神山も頭の中で描いてみて、三十人は最低だと思った。詰めれば四十以上は入りそうだと思った。出演するふたつ目を二人にしてたっぷりと演じて貰う。入場料を二千円として四十で八万円。経費を引いた残りをギャラに充てれば何とかなりそうだと考えた。
「兎に角、このコラムは編集長も読んでいますから、落語会の話は提案してみますよ。神山さんも乗り気だって言って」
「そうか、具体的なことが決まったら柳生に声かけてみるよ。生きの良い奴を知ってるだろうしな」
 神山の言葉に高梨は
「柳生師と言えば弟子の柳星くんが二つ目になっていましたよね。彼も結構評判が良いんですよ」
「ああ、身近に居るので存在を忘れていたよ」
 神山はそう言って遠い目をした。


氷菓二次創作 「出会いと別れ」

 千反田と初めて逢ったのは神山高校に入学間もない頃だった。
 OGの姉貴のたっての願いで「古典部」に入部する事にしたのだった。その入部願いを出しに「古典部」の部室である特別棟の四階にある地学講義室を訪れた。もとより「古典部」には部員はおらず誰も居ないのを見越して職員室から鍵を借りて出向いたのだった。
 だが俺の考えとは違い地学講義室の扉は鍵が掛かっていなかった。不思議に思いそっと扉を開くと教室の窓際に一人の髪の長い少女が外を見て立っていた。少女は俺が扉を開いた音に反応して振り向いた。その瞳を見た時何故だか俺は吸い込まれる様な気がした。そして初対面の俺に向かって
「折木奉太郎さんですね」
 そうハッキリと言ったのだ。俺は何故初対面の人間の名前が判るのか疑問に思ったが、少女が言うのは隣の組との芸術科目の合同授業で一緒になったらしい。しかし、この授業は入学してから一度しか行われていなかった。凄まじい記憶力だと思った。
 少女の名は千反田える。後から里志から聞いた限りでは北陣出の旧家で豪農だそうだ。そこの一人娘だった。そして俺は不思議な縁に導かれて「古典部」に入部した。部員は千反田える、折木奉太郎、福部里志、そして少し遅れて伊原摩耶花の四名となった。

 同じ部活をしている間に、俺は千反田の頼みを聞き入れ、彼女の忘れていた記憶を取り戻す切っ掛けを手助けした。後から思えばこの時にある程度信用されたのでは無いだろうか? 今ではそう考えている。
 千反田は段々と学校の外の事にも俺に同道を求めるようになって行った。当初俺はその意味を深く理解していなかった。俺がその事を理解したのは、二年になった四月の初めの「生き雛祭り」だった。
 艶やかに着飾った千反田の姿を見、その後ろから傘を差して行列をしたのだった。この時俺は自分の気持ちに気がついた。それからと言うもの俺は次第に千反田の考えを推理するようになっていく。言い換えれば千反田の立場で物事を考える事が多くなった、と言う事でもある。
 下級生との行き違いをマラソン大会の最中に整理したり、音楽コンクールで姿を隠した千反田を雨の中迎えに行ったりもした。昔の俺なら到底考えられないことである。でも俺は選択してしまった。何処まで行けるか判らぬがこの道を行くと言うことを……。

 二年の夏休みの初日の夕刻、俺は南陣出の横手さんの家の蔵に居た。降り出した雨に濡れながら佇んでいると、蔵の扉がそっと開かれた。薄暗い蔵から現れたのは白いブラウスに黒いスカート姿の合唱団の制服を身に纏った千反田だった。しかしその表情には精彩が無く顔色は蒼白だった。
「折木さんありがとうございます!」
「どうするんだ? 行けるのか。無理しなくても良いんだぞ」
 千反田の様子を見ると、とても舞台で独唱しろなどとは言えない。
「でも皆さんに迷惑がかかってしまいます。千反田の娘としても行かなくてはなりません」
 千反田はそうは言ったが明らかに無理をしてるのが判った。
「千反田。もう一度言う。無理しなくても良いんだぞ」
 今度はゆっくりと口にした。すると千反田は
「折木さん……わたし怖いんです。何も無かったら怖くも何とも無かったと思います。でも、でも今はあそこで独唱するのが怖いんです」
 初めて見る千反田の怯えた表情だった。恐らく家族以外……いいや今まで誰にも見せたことの無い千反田の心の弱さだった。
 薄暗い蔵の中に一歩踏み入れて千反田をそっと抱きしめた。そこには成績優秀で旧家の一人娘の千反田えるはいなかった。多くの重圧から突然開放され行き場を失った一人の少女だった。
「おれきさん」
 何も言葉は出なかった。ただ、しっかりと抱きしめた。千反田もその躰を俺に預けてくれた。自然と唇を重ねる。何も言わなくても理解していた。この場に留まれば俺も非難の対象になる。それを理解した上での言葉だと言う事を。俺の気持ちはお前と一緒なんだと言う事を……。

 その後はやはり大変な事となったし、俺と千反田の関係も世間に知られる事となった。何れ判ることなのでここには記しない。俺と千反田は学校以外でも自然と一緒に居る事が多くなった。
 千反田は俺にそれまでは語ることの無かった自分の本音を言う事が多くなった。それらは他愛ないものもあったが、自分の将来についての事柄も含まれた。
「折木さんはもう進学先を考えていらっしゃいますか?」
 千反田が俺の家に来て、昼食を作ってくれて一緒に食べていた時のことだった。
「まあ凡そはな。俺の成績なら入れる所優先だよ」
 お世辞にも俺は成績の良い方ではない。かと言って特別悪い方でもない。所謂普通なのだ。
「お前は決めたのか?」
 千反田の作ってくれた野菜ソテーを取皿に盛りながら問うた。
「はい、やはり京都の京大に進もうと思っています」
「農学部があるからか?」
「はい。そうですね。許されるなら日本でも有数の所で学びたいと考えています。東京大学もありますが、京都の方が家に近いもので、父の許しも出そうなのです」
 神山から東京は遠い。神山線の特急で名古屋まで出てそこから新幹線となる。時間にしては四時間半ほどだが事実上半日以上が潰れてしまう。岐阜羽島まで迎えが来たらかなり楽にはなるが、それでも名古屋で乗り換えが必要になる。富山まで出て新幹線という手もあるが時間が掛かるのは変わりない。それに比べ京都ならこだまで直ぐだ。一時間かからない。比べれば京都という結論が導かれるはずだと思った。
「わたし、将来は農学博士の資格を取って神山と陣出の農業に尽くしたいんです」
「嫁に行っても良いと鉄吾さんは言っていたけどな」
「それとこれとは別です。例えばわたしが折木えるになっても農業の道には進めます」
 うん? 今何か大変な事をさらりと言った気がするが。
「あ、これは例えです。はい」
 千反田は真っ赤な顔をしている。俺はここはツッコミどころかとも思ったが
「おれきえる。オレキエル。俺消えるだな」
 詰まらないベタなダジャレでしのいでしまった。
「折木さん。将来もこうやって毎日一緒に食事が出来れば良いですね」
「ああ、そうだな」
 その時は普通にそう思っていた。かなり現実味のある未来だと……。
 千反田は京大に合格し、京都に住まいを移した。俺は東京の三流大学に進学した。俺と千反田は離れ離れとなった。
 当初はそれなりに連絡を取り合っていたのだが、やがて千反田の実験が始まるとそうも行かなくなった。段々と連絡が途切れがちになった時だった。夜遅く千反田から電話が入った。思えば久しぶりの電話だった。
「よう暫くだな。元気にしていたか?」
「はい元気でやってます。こんな遅くにすみません。どうしても伝えたい事がありまして」
 思い詰めたような千反田の声だった。思わず姿勢を正す。
「何があったんだ?」
「はい実は留学のチャンスが訪れたのです。わたしが師事してる教授が交換留学生の相手にわたしを推薦してくれたのです」
「留学か……。どのぐらいなんだ?」
「とりあえず二年です。わたしが希望して成績が良ければ延長出来ます」
「そうか、好条件だな。行くのか?」
「出来れば 行きたいです。でも折木さんと別れるのは辛いです」
 正直言えば日本に居る限りは都合さえ付けば何時でも逢えると思っていた。でも留学となるとそうは行かない。
「留学先はアメリカか?」
 バイオ関係の研究が進んでるアメリカなら得るものも多いだろう
「はいそうです。ニュヨークです。あそこは生活費も高いので裕福な家の者でないと……。授業料は兎も角。そんな事情もあったみたいです」
 アメリカの田舎ならイザ知らず。ニュヨークは家賃も高いと聞く。千反田家ならそこら辺は問題ないのだろう。
「良いチャンスじゃないか。世界最先端の研究が出来るんだろう。大きくなって帰ってくれば良いさ」
 思っていた事と反対の言葉が口から出た。本音では俺が京都に移り住みたいぐらいだった。でもその言葉を飲み込んだ。
「行っても良いですか?」
「ああ」
「本当に行っても良いのですね。翼を使っても良いのですね」
「ああ、その翼で飛んで行けば良い、そして大きくなって帰って来い」
「ありがとうございます」
 その言葉は涙声だった。
 その後は経過を書いておく
 千反田は向こうでも優秀な成績を収め留学を延長するように向こうから求められた。最終的にはアメリカで博士論文を提出して農学博士の資格を得た。神山高校のOB達の間でも話題になった。
 アメリカに行った当初はメール等もあったが、いつの間にかそれも無くなった。それはそうだろう。異国の地での勉学はそれほど甘くはない。俺は大学を卒業して中規模の商社に入社した。主に農産物を扱う商社だった。

 今年久しぶりに高校の同期会が開かれることになった。普段は東京住まいだが休暇を取って神山に帰って来た。会場のホテルに向かう前に母校に寄ってみる事にした。出来れば思い出の教室である古典部の部室、地学講義室をこの目でもう一度見ておきたかった。
 受付でOBである胸を告げ、用紙に書き込んで特別棟の四階に向かう。鍵を借りて来るのを忘れたと思ったが、使用中かも知れないと思いそのまま階段を登った。校舎はそのままで、まるで時間が逆行した感じだった。
 四階は静かだった。もしかして今は使っていないのかも知れないと思った。誰も居ない廊下を歩いて行く。受付で借りたスリッパの音が静かに響いている。地学講義室の扉は鍵が掛かっていなかった。そっと開く。
 教室の中には窓際に一人の髪の長い女性が校庭を見ながら立っていた。俺はその後ろ姿に見覚えがあった。声をかけようとしたら女性がこちらを振り向いた。
「こんにちは折木さん。わたし帰って来ました。あなたのところに」
 その言葉は俺の空白を埋めるのに充分だった。
「おかえり」
 ありったけの想いを込めて……。

                            <了>

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