2019年10月

「氷菓」二次創作 古典部の皆がコスプレをする

 今年も学園祭の時期がやって来た。神山高校学園祭、通称「カンヤ祭」という。但し、我が古典部ではこの名称は
禁句となっている。それは千反田の伯父であり古典部の先輩でもある関谷純に関わることだからだ。
 真実を知った時、伊原は黙り、里志は欺瞞だと言い、千反田は幼い頃言われた事を思い出し涙を流した。その全ての想いは古典部の文集「氷菓」に込められている。姉貴が言うには古典部の文化祭は昔から何か騒動が起きると言われている。昨年もそれに倣ったのか騒動は起きた。果たして今年はどうだろうか……。

「文集の売り子がコスプレをするのさ!」
「コスプレ言うな!」
 里志が叫び、その口を伊原が抓る
「痛いよ摩耶花!」
「だって、漫研ならともかく、古典部なんだから、それは禁句よ」
 伊原は何故「コスプレ」という言葉を嫌うのだろうか、昨年も少し思ったのだ。すると千反田が
「でも売り子に相応しい格好をさせて売ると言うのは良いアイデアだと思います。もしかしたら話題になるかも知れませんし、また新聞部でも取り上げてくれるかも知れません」
 確かに今まで古典部で文集「氷菓」を売る売り子が仮装していたという記録はない。
「でもやるなら、誰がどのような格好をするのかが重要ですよね」
 次期部長の大日向が尤もらしいことを言う
「発案者の福部先輩は腹案があるのですか?」
 里志は大日向の言葉を受けて
「まあ少しは考えていることがあるんだけどね」
 そう言って嬉しそうな表情をした。それを見た伊原が
「ふくちゃんがこうイタズラげな表情をした時は大抵危ないのよね」
 そう言って鋭い視線を里志に向ける
「さすが、付き合いが深いですね」
 大日向が妙な感心をしている
「まあ僕の勝手な考えなんだけどね。まず千反田さんが十二単の格好になって貰う。これが難しいなら取り敢えずお姫様の格好でも良いかなと思うんだ」
 里志の考えに千反田が
「十二単なんて何処から調達するんですか?」
 そう疑問を呈すると里志は
「衣装に関しては演劇部に協力を願うよ。知り合いが居るんだけど、使わない衣装が相当あるらしい」
 そう言って千反田を安心させた
「じゃあ他の部員はどうするの?」
 伊原が里志に尋ねると
「うん、そうだね。ホータローは旧制高校のバンカラな格好が似合うと思うんだ。破れた学帽やマントに下駄とかね」
 何故俺がバンカラが似合うのかは是非とも問い詰めたい所だ。
「それから摩耶花は江戸時代の町娘。大日向さんはメイド姿になって貰うつもりなんだ」
「ええ、わたしがメイドですか!」
「うん。案外似合うと思うよ。メイドと言っても、明治から大正に流行したカフェのメイド姿ね。古典部だからそこは」
 大日向自身も相当驚いたようだ。すると伊原が
「江戸時代の町娘って?」
「ほら時代劇なんかにも登場する黄色い着物に赤い帯締めてさ」
「ああ、黄八丈ね。それ演劇部にあるの?」
「あるそうだ。以前時代劇を文化祭でやった時に作ったそうだよ。使わないので貸してくれるそうだよ」
 千反田、俺、伊原、大日向と来て、自分はどうするのか、まさか己だけやらないと言う訳では無いよな。
「お前はどうするんだ?」
 直接里志に尋ねると
「僕は光源氏にでもなろうと思ったんだけど、その衣装は無いそうだから、僕は町奉行の同心の格好でもしようかと思ってるんだ」
「同心って頭はどうするんだ?」
「ちゃんと丁髷のカツラを借りるよ。紙で作った安物だけどね。それがあるそうだ」
 俺はここまで里志の説明を聞いていて、ある疑問が浮かんだ
「お前、何でそこまで演劇部の内情に詳しいんだ」
 俺の疑問に里志は、さも当然と言わんばかりに
「そりゃそうだよ。昔から、これらの衣装を作る時に僕たち手芸部が協力したんだから」
 そうか、こいつは古典部員でありながら手芸部員でもあった。
「今年は総務委員会はどうしたんだ」
「それもやるよ。一応副部長だからね」
 里志が当たり前のように言うと千反田が
「本当に十二単なんてあるのですか?」
 こいつは十二単を着ることに抵抗は無いのかと考えたが、ある訳がない事に気が付いた。
「まあ生き雛の時に千反田さんが着たような本格的なものではなく、それらしく見える衣装だね。動き易いしね」
 それを聴いて伊原が
「じゃあわたしが着る黄八丈もそれらしく見える衣装という訳?」
「そうさ、本格的に着物を着る訳じゃないよ」
 伊原はそれを聴いてホッとしたようだった。無理もない、千反田ならイザ知らず、伊原は恐らく一人では着物を自由に着たり脱いだり出来ないのだろう。
「わたしのメイドは簡単に着られますね」
 大日向も同じようなことを考えていたみたいだ。
「じゃあ皆異論は無いね」
 里志が確認を取る。いつの間にかコスプレをすることになっていた。
 そして担当の割り振りが決められた
 一日目  午前 千反田 折木  午後  伊原 福部
 二日目     大日向 伊原      折木 千反田
 三日目     大日向 折木      全員

「なあ、何で俺が三日間出るんだ? お前は最初だけか」
 俺が一覧表を見て文句をつけると里志は
「僕は総務員会があるからね。少し減らして貰ってるよ。僕の代わりにホーターローに頼んだ形になってる。他の部員は二回ずつにしたよ」
 確かに組み合わせを見ると里志が苦心した後が伺える。それは千反田と大日向を組み合わせなかった事だ。わだかまりは無くなったとは言え、出来るなら二人だけにはしたくない。それらを考えると納得しなくてはならないだろう。
「判った。一つ貸しだ」
 俺の言いように里志が舌をぺろりと出した。了解済みということだろう。

 その後、演劇部から衣装やカツラが届いた。カツラを被るのは里志と伊原だ。千反田は地毛を整えるだけで済む。千反田の十二単はやはり本格的なものでは無く、それらしく見えるものだった。
「これなら夏物を着た上に着れば済みます。楽ですね」
 千反田はそう言って自分が思っていたより簡単になりそうなのでホッとしたようだった。それは伊原も同じで前を合わせてマジックテープで留めて、その上に帯を蒔いてこれもマジックテープで留めるだけで済んだ。カツラは被るだけでしかも遠目には兎も角間近で見るとハリボテが丸わかりだった。それを見た大日向が
「伊原先輩はショートカットだから髪はそのままの方がいい感じですよ。被らない方が良いと思います」
 そう言って千反田も同意したのでおかしなカツラは里志だけとなった。
「でも折木さんは良くお似合いですよ」
 千反田は、そう言って俺のバンカラな格好を褒めてくれた。そうしたら大日向が
「千反田先輩は折木先輩がどんな格好をしても、褒めるような気がします」
 そう言ったので他の皆が笑った。
 里志の同心の格好は実は自虐ギャグで、総務委員会といことで同心にしたのだと言う。これもマジックテープで留めるだけの着物風だった。羽織は一応生地は兎も角、見た目は本物に見えた。カツラだけが笑いを誘う
「里志、その格好で総務委員の仕事をすれば受けると思うぞ。学校をそれで見回ったりしてな」
 里志も、それは多少意識の中にあったのだろう
「いいね。そうさせて貰うよ」
 そう言って満更でもなかった。

 結局、印刷した文集「氷菓」は皆売り切れた。これは多少は古典部員が仮装をした事も影響したと思う。壁新聞の隅にも紹介された。
 それ以外に起こった事件に関しては何れ述べることもあると思う。今年は昨年に比べれば穏やかだったと言えるので無いだろうか。但し千反田の十二単姿が評判を呼んだのを付け加えたい。そうさ、あの格好を見れば誰だって……。


                <了>

彼女の秘密  第12話 秘密の真実

 翠は学校から帰ると幸子の居る台所に顔を出した。台所には幸子しか居なかった。
「ゆきちゃんは?」
「買い物に行って貰ってるわ。何か用なの?」
「そうじゃ無いけど、ゆきちゃんが帰っちゃうって聴いたから」
「お兄ちゃんから聴いたのね」
「うん。お兄ちゃんが、ゆきちゃんが向こうに帰る為に、今度の満月の夜に納戸の開かずの扉に入るって」
「まあ、試しよ。本当に書いてあった通りなのか。それに何時の時代に通じてるのか、確かめてみないと怖くて使えないでしょう」
 翠はそれを聞いて少しホッとしたのだった。
「そうか、満月の夜に帰っちゃうんじゃ無いんだ」
「一度向こうに行って様子を確認したら、扉から出ないで引き返して来る、と言う考えなんだけどね」
 幸子は自分でもそうは言ったが、それが上手く行くという確信は無かった。戻ってもこちらには通じていない事もある訳で、そうなったら二度と帰っては来られない。
「上手く行くのかな」
 不安を口にする翠に幸子は
「ゆきちゃんは本当なら今の時代には居ない人なんだから仕方がないわ」
 そこへ高志が帰って来た。
「どうしたの。二人で真剣な顔して」
 高志に幸子は
「あんた。翠が心配するような事言っちゃ駄目でしょう」
 そう言って窘めると
「ゆきちゃんは宗十郎さんが好きなんだよ。出来れば再会させてあげたいじゃない」
 そう言ってゆきの心の内を想った。
「次の満月って何時?」
 翠がカレンダーを確認する。
「来週の金曜か」
 翠がそう言ってカレンダーに赤い印をつける。その時ゆきが帰って来た
「只今帰りました。あれ、翠さんも高志さんも帰れられていたのですね」
 買ってきた荷物を幸子に渡す。それを見て翠は
「ゆきちゃんも折角こっちに慣れたのにね。今度の満月に帰るのね」
 そんなことを言う。高志は翠に
「ゆきちゃんは宗十郎さんに逢いたいんだよ。翠も乙女ならその気持ち判るだろう」
 そう言ってゆきの想いを代弁した。ゆきは自分が考えていたより二人が真剣に考えているので
「今度は試しなんです。試してみて、書物に書いてあることが本当なのかどうかなのです」
「じゃあ、今度は帰って来るの?」
 翠の言葉にゆきは
「私としては向こう側に通じていると判ったら、出ないでそのまま戻って来るつもりなのです」
「通じてると確信したら?」
「そうです。向こう側が見えたら何かを投げてみるという事も考えられます」
「何かって」
「私の持ってるものですね」
 それを聞いて幸子が
「ハンカチか何かにゆきちゃんの名前とか書いて、それを投げたら良いかも知れないわ」
 幸子は、それによってゆきを知る者が向こう側にいれば、それを拾ってくれるかも知れないし、知らなければ、ハンカチはそのままとなると考えたのだ。
「そうですね。何時の時代に通じるのか判らない訳ですからね」
 結局、幸子の提案通りに、白いハンカチに黒いペンでゆきの名前と年月日を書き、それを通じてる向こう側に投げ入れる事になった。

 高志は、ゆきが現れた時の事を思い出していた。確か、あの日は火鉢を貸し出す為に、普段は入らない納戸に入ったのだ。火鉢は丁度秘密の扉を隠すように置かれていたので、その存在を母親や祖母から聞いてはいたが、意識としては普段からは思ってもいなかった。
 それが、火鉢を車に乗せて帰って来たら、自分が置いたサンドイッチも牛乳も無くなっていたのだ。そして扉が開かれ、中に誰がが居たのだ。それがゆきだったと言う訳だ。もし、あの時ゆきは一旦は帰ろうと思って帰ったが、扉が閉まってしまって開かなかったと言っていた。今度もそのような現象が起きればゆきは二度と帰って来られなくなる可能性がある。
「そうなったらどうするんだろう?」
 高志はゆきに直接尋ねた。そうしたら
「その時はその時です。深く考えても仕方ありません」
 ゆきは意外とあっけらかんとしていた。
「だって……」
「こちらに来てしまったのも偶然です。私はあの時、閉じ込められてしまったと思っていました。暫くはその場に留まっていたのですが、何度やっても扉が開かないのいで、それでは反対側に行ってみようと考えたのです。そうしたらサンドイッチと牛乳がありました」
 ゆきは最初の頃の事を楽しそうに語る。それを見て高志は『ゆきちゃんは楽天的なのだと』思った。だってそうだろう。もし自分なら違う時代でこうまで早く対応は出来ない気がした。元の素養が高いから適応力も高いのだと考えた。
 そして金曜がやって来た。夕食は全員が揃った。雄一も今日は早く帰って来ている。陽子は旦那がハワイから帰って来るというので、自分の家で待っている。
「全く、私だってゆきちゃんとお別れがしたかったのに」
 昼のうちに来て散々ゆきと話し込んだのだ。だから今は居ないのだ。
 高志が表に出て空を確認すると天空には満月が登っていた。
「満月出たよ」
「そうですか。では確認して来ます」
 今日のゆきは来た時と同じ格好をしている。梅の柄が染め抜かれた絣の着物姿だ。だが懐にはこの時代の絹のハンカチを持っている。それには今日の年号と日付。それにゆきの名前が書かれている。
「何かあったら直ぐに帰って来るのよ」
 幸子の言葉に深く頷くゆき
「では行って参ります」
 ゆきはそう言って、四つん這いになり、少しずつ進んで行って闇の中に溶け込んで行った。そして二度と帰っては来なかった。

 暗い闇の中を少しずつ進んで行く。あの時もこんなに長かったろうか、と思った。やがて灯りが見えて来た。ここでゆきはおかしいと思った。普通なら扉が綴じているので、こちらから開けないと暗いままだ。しかし近づいて見ると扉が開いていたのだ。だから灯りが見えたのだった。
 ゆきは戸惑ったが、計画ど通りに懐からハンカチを出して灯りの先に投げ入れた。暫くは変化が無かったが、やがて
「ゆき、ゆきなのかい?」
 それはゆきが知っている限り宗十郎の声だった
「宗十郎さま!」
 懐かしさと嬉しさと愛しさで胸がいっぱいになった。
「そこに居るなら出ておいで」
 宗十郎の声に誘われるように扉から姿を現した。
「ゆき!」
 そこには間違いなく宗十郎が居た。だがそれは現代で写真で見た宗十郎の姿だった。
「お前を待って三十年以上過ぎてしまった。お前は昔のままだが、私はこんなに歳を取ってしまった」
 そう、宗十郎は既に五十を過ぎていた。でもゆきには関係が無かった
「そんなの関係がありません。わたしにとって宗十郎様は宗十郎様です」
 宗十郎が両手を広げるとゆきは吸い込まれるように腕の中に落ちたのだった。
 ハンカチを使用人がすぐに見つけ宗十郎に伝えたので直ぐに宗十郎が現れたのだった。

 その後のことだけを簡素に書いておく。
 ゆきが帰ったのはかなり時代が下がっていた。宗十郎は、ゆきの戸籍をつ作ることになり、土地の権力者だった彼は、役場に掛け合ってゆきの戸籍を作った。その時に名を「ゆき」ではなく「雪子」としたのだ。これは宗十郎の配慮で、明治の初年から、数十年も行方不明になっていた篠山ゆきと同一人物である証明が出来ないので、その子としたのだ。ゆきの私生児扱いとし、新たに「篠山雪子」としたのだった。
 翌年、雪子は宗十郎の三番目の妻となり、更にその翌年に男子を産んだ。この赤ん坊が陽子の旦那の高一郎の祖父なのだ。全ては繋がっていたのだった。
 
一方、現代の深山家では、ゆきが扉に消えた翌日に陽子と高一郎がやって来て、雪子の以前の名がゆきだったと証言したのだった。
「おお父さん。なんでそれを早く言ってくれないのよ」
 幸子が怒って言うと高一郎は
「だって俺ハワイで知らなかったし、それにこれは深山家の秘密だからって親父から言われていたしな。親父も爺さんから言われていたそうだ」
 そう言って自己弁護した。でもそれを聞いて幸子はゆきが自分の曾祖母である雪子であることが判り、あの時時代は下がっていても宗十郎に出会えたのだと判って、心の底から良かったと思った。高志と翠が帰って来たらちゃんと教えてあげようと思った。
 仏壇から雪子の位牌を取り出して亡くなった日付を確認する。
『昭和四年五月十九日』
 と書かれてあった。没年齢五十三ともあった。宗十郎が亡くなったのが大正十年だから、ゆきは明治の終わり頃に戻ったと判った。
 一つだけ以前と違ったことがあったのが、納戸にあったあの古いアルバムで、大正時代に撮影した宗十郎の写真の隣にあった写真が剥がされていたのだが、写真が戻っていたのだ。そこには宗十郎と雪子が一緒に写っていた。それを見た高一郎は
「俺が聞いた限りでは、雪子おばあさんは、『向こうでも一緒に居たいからこの写真を一緒に焼い欲しい』って頼んだそうだが、何で戻っているんだ」
 そう言って不思議がったが幸子はその理由が判る気がした。きっと、戻ったゆきは宗十郎と強い絆で結ばれていたのだと。だから写真は必要無かったのだと。
 幸子は時々、スマホで撮影したゆきと一緒の写真を取り出して眺める。あの頃はまさかゆきと自分が繋がってるとは考えた事もなかった。そう思うと何か特別貴重な体験をしたのだと思うのだった。

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参考 家系図

宗十郎-------幸子の曾祖父-------幸子の祖父------高一郎--------幸子-------高志 翠
 │                    │    │
雪子                   陽子   雄一

彼女の秘密  第11話 扉の真相

 ゆきは毎日午後に時間が出来ると、納戸から出して来た書物を読みふけっていた。少しずつ読んで行くうちに、深山家の事も色々と判って来た。
 それによると、この深山家は元は平家の配下の武士で、かって源平の戦いに参加してそうだ。そして、負けてこの地まで同僚と三人で一緒に逃げて来たそうだ。当時の関東は未開の地で、しかも当時の利根川下流は湿地帯で畑や田圃に利用出来る地は少なかった。要するに人の住めない地だった訳だ。追手が来ないような地域だったのだ。
 そしてこの地に住み着く事を決めたのだった。この地に住み着き、同僚と一緒に開梱して行ったのは言う間でもない。
 ゆきが注目したのは、開梱が進むうちに同僚の二人が相次いで亡くなったことだ。当時の深山の祖先は自分の家の隅に祠を立てて亡くなった同僚の冥福を祈ったそうだ。書物にはその場所は明記されていなかったが、ゆきは
『もしかしたら、その場所は納戸の場所だったかも知れない』
 そう考えた。当時誰も住まなかった場所である、この地に何か無ければ時空が歪むような場所は現れないと思ったのだった。勿論、彼女が時空云々と言う言葉は知らない。少なくともそれが霊的な効果を産んだ可能性はあると考えた。そのことをゆきは食事の時間などに深山家の家族に話してみた。
 すると夕食に呼ばれて来ていた陽子が居て
「お爺さんは、ハワイが気に入ったから暫く滞在するそうよ」
 そんなことを言っていた。そして
「それで納戸の秘密は判ったの?」
 そうゆきに尋ねた。
「それが、その部分は未だなのです」
「そうか。でも未だ読んで無い所もあるのでしょう?」
「はい。あと一冊ありますから」
 ゆきの前向きな返事を聴いて幸子が
「命からがら一緒に逃げて来た仲間だものね。祀られた方も喜んだと思うわ」
 そんなことを言ったので陽子が
「だからあそこだけ特別になったのよ」
 そう言って一人で頷いていた。ゆきは、そんなこともあるかも知れないとは思ったが、今は出来た理由よりも、その仕組みを解明する事の方に興味があった。
 書物は最後の一冊に入っていた。これに書かれていなければ、全てが無駄に終わる。ゆき自身は月の満ち欠けが何か関係がるのでは、と思っている。それはこちらに来た時に幸子に言われた事もあるし、あの日、お祝いの夜が新月だったからだ。新月は月が出ない。言い換えれば新しい月の誕生する日でもあるのだ。だからこの夜に祝の宴を催したのだ。そのことを確かめたかった。
 もう最後の書物も後半に入ったところだった。ゆきは遂にその記述を見つけた。その部分を意訳すると
「この家の納戸部屋にある扉は開けてはならぬ。もし開ければその者、その場に居ること叶わず。新月の夜には己の見果てぬ場所に、満月の夜には祖先の地へと向かうことなり。このこと決して口外ならず」
 ゆきは興奮していた。やはり月の満ち欠けが関係していたのだ。しかも新月の夜には未来に。満月の夜には過去に行く事が出来るのだ。だが、書物には最後にこう書かれてあった。
「その時、その時で何処に通じるのかは神の召すままとなる」
 つまりどの時代に通じているのかは判らないのだ。だから、ゆきがこの次の満月の夜に納戸の扉を開けて入っても、何時の時代に行くのかは判らない。明治より前の江戸時代かも知れないし、つい十年ほど前かも知れない。でも、例えば慶応三年あたりだと篠山ゆきという人物が二人現れることになる。それを考えると、同時代に二人が存在する時空には通じていない気もするのだった。
「まあいいか。正体が判っただけでも良しとしましょう」
 ゆきは書物を納戸に返すと幸子の居る居間に顔を出した。高志も翠も珍しく一緒にテレビを見ている
「何か特別なことをやっているのですか?」
 ゆきは正直、このテレビというものが良く理解出来ない。空を電波が飛んでそれをこちらで受けて色々なものが見られるという事だが、理屈では理解しても感覚が追いついていないのだ。
「ああ、ゆきちゃん。面白いものをやってるのよ。過去から来た人だって。自称、幕末から来たと言ってるんだって。ゆきちゃん見たことある?」
 翠が画面を指しながら言うので、ゆきも画面を見て見る。すると
「ああ、この人は幕軍の格好をしていますね」
 画面を見ると確かにその人物は黒い軍服を身にまとい、腰には二本の刀を挿していた。本当は銃も持っていたそうだが、取り上げられてしまったそうだ、多分、腰の刀も取り上げられるだろう。
「ええ!じゃあ本物?」
「それは判りませんけど。私みたいに次から次に過去から人が来るという事があるとは思いません。それより、あの扉の秘密が判ったのです!」
「ええ! 判ったんだ?」
 幸子が興奮して反応した。自身も一度過去に行った事があるから尚更だった。
「はい、新月の夜は未来に。満月の夜は過去に通じるそうです。でも何処の時代に通じるのかは判らないそうです」
「そうかぁ。それが判れば、ゆきちゃんも帰れるのにね」
 幸子がそう言ったが、自分が帰ってこられたのは運が良かったからなのか、その日の内だったので未だ通じていたからなのかは判らなかった。
「次の満月ってもうすぐですよね」
 ゆきが、そう言ってカレンダーを見つめるので幸子が
「え、いきなりやって見るの?」
 驚いてゆきに尋ねる。
「まあ、それもありかなと思いまして……わたし本当の想いを告白しますと、宗十郎様に逢いたいのです」
 その如何にも少女らしい想いに幸子も高志も翠も同情するのだった。
 
 数日後、幸子はゆきと納戸にあった古いアルバムを見ていた。
「この人が宗十郎さん?」
「はいそうですね。もう六十ぐらいですかね。でも若い頃のままです」
 ゆきが写真の説明をして行く。
「でもこの隣にある写真はどうして剥がしてしまったのかしら」
 幸子の疑問に
「私の想像ですが、ここには宗十郎様の奥様の写真があったのではと思います」
「うん? だって前の所に二人はそれぞれ写っているじゃない」
「だから三番目の奥様です」
「ああ、私のお爺さんを産んだ人ね。私たちと直接血が通じてる人。もしそうなら見てみたかったし、出来れば逢って色々と話してみたかったな」
 幸子はこの深山の一人娘だから尚更祖先に対する想いが強い。
「やっぱりこの次の満月の夜に一度行ってみようかと思います。駄目なら戻ってくれば良いのでは無いでしょうか?」
 幸子はゆきの想いに
「そうねえ。私としてはゆきちゃんに何時までも居て欲しいけど、そうも行かないか。最近良く訊かれるのよね、あの可愛良い娘は誰ですかって。適当に誤魔化しているけど、それも何時まで続くか判らないしね」
 二人で相談した結果、次の満月の夜に一度は試してみる事にしたのだった。

彼女の秘密  第10話 書物の秘密

 ゆきは朝起きると朝ご飯の準備をする。深山家の朝はパン食なので、ゆきが出来ることは少ないのだが、それでもハムエッグや生野菜のサラダぐらいは出来るようになった。たまにご飯の時は本領発揮で、だし巻き卵等も作る。
 雄一や高志、翠が出て行ってしまうと、家の掃除にかかる。これも、ゆきからすれば手抜きに感じられるものだ。掃除機で埃やゴミを吸い取り、必要な場合は雑巾がけをするのだが広いこの家は全部を使っている訳では無いので前の時と比べれば簡単に感じるのだ。
 掃除をしている間に洗濯機が洗濯をしてくれる。最初は戸惑っていた洗濯機の使い方も慣れた。洗剤や漂白剤の使い方、それに柔軟剤等も使いここなせるようになった。
「前の頃はむくろじが洗剤でしたからね」
 ゆきはそう言って現代の洗剤の効果に驚く
「むくろじ、ってなぁに」
 翠が尋ねるとゆきは
「羽つきの羽根に付いてる黒い玉がありますでしょう」
「ええ、あるわ」
「あれは、むくろじの実なんです。あれは洗剤として使えるんですよ」
「それは知らなかったわ」
「まあでも泡ばかり立つんですけどね。水を張った、たらいに二三個入れて揉むと泡が立つんです。それで洗濯をします」
 ゆきにやり方を聞いて翠は昔の洗濯の大変さを想うのだった。
 こんな感じだから、家事は午前中の早い時間に終わってしまう。昔では信じられない事だった。その空いた時間を使ってゆきは、納戸に仕舞われている、この家に関する書物を探して読んでみることにした。もしかしたら、帰れる可能性を見つけられるかも知れないのだ。
 ゆきは幸子の許可を貰って納戸に入った。灯りを点けると棚を調べ始めた。幸子に聞いたところでは、今で言うA4位の大きさの和紙に書かれたものを表紙を付けて綴じたものだという。
「表紙は茶色ね。納戸のどの辺りかは忘れちゃった」
 確かに恐らく一度か二度開いて見ただけの昔の書物なぞ、どこに仕舞ったかは忘れてしまうだろうと思った。
 手前の棚には見つからなかった。そこで棚の前の荷物をどかして奥を確認する。そんなことを繰り返していたら黒い紙が使われた古い写真のアルバムを見つけた。表紙には大正十年と書かれてあった。捲って行くと手が止まった。ゆきの視線の先のアルバムには一人の老人が椅子に腰掛けていた。場所はゆきも知っている、かってあった深山家の庭園だった。後ろには池が写っていた。景色も懐かしかったが、ゆきにはその老人の方が重要だった。
「宗十郎様……」
 写真の下には
「宗十郎、米寿の祝」
 と記されていた。
「長生きされたのですね」
 その他はゆきが知っている人物は写っていなかったが一枚だけ剥がされた後があった。そこには誰が写った写真があったのか判る由もなかった。
 そんなことを繰り返しているうちにお昼になってしまった。急いで台所に向かう。台所では幸子がお昼の用意をしていた。
「すいません。何度で夢中になってしまって」
「何か良いものがあった感じね」
 幸子の表情を見ながらゆきは
「はい、宗十郎様の米寿のお写真を見つけてしまいました」
 ゆきの言葉に幸子は記憶を手繰らせながら
「ああ、そう言えば古いアルバムよね。そう言えば、あのアルバムに一枚剥がした後があったでしょう」
「はいありました」
「あそこにあった写真には誰が写っていたのかしらね」
「幸子さんも知らないのですか?」
「うん。私のお母さんなら知ってるかな? こういう時には来ないのよね。ま、それよりお昼食べちゃいましょう。食べたら私も少し出かけて来るから、ゆきちゃんは夕方までゆっくりと探すと良いわ」
「ありがとうございます!」
 お昼は幸子が作っておいたサンドイッチだった。無論高志と翠も分も作ってある。冷蔵庫の中を見せて
「これとこれは子供たちの分だからね。ま自分で見つけるでしょうけどね」
 そんなことを言いながら昼食を終えた。
 幸子が出かけるとゆきは再び納戸に入った。結局手前の棚からは奥からも見つけることが出来なかった。次に奥の棚に取りかかる。
 同じように探していたが、思ったよりも重い物があり、ゆきの力では動かせなかった。
「何かここが怪しい。こんなものを置いてその奥にあったりして」
 独り言を言うと後ろから
「僕が手伝おうか」
 高志の声がした
「あ、お帰りなさい。もうそんな時間ですか?」
「いいや今日の午後の授業が中止になったので帰って来たのさ」
「中止ですか?」
「ああ、今日は外の講師の授業だったのだけど、講師が急遽来られないので中止になったんだ。その分は何処かでやる事になるだろうけどね」
 高志はそう言って説明をした。
「それより、それ重いんでしょう。手伝うよ」
 高志はそう言って納戸の奥に進み棚に鎮座してる箱に手を掛けた。
「こら重いね」
 今度は更に力を入れる。そうすると少しだけ動いた。
「おっ、この後ろに何かある本みたいだ」
 高志の言葉にゆきも手伝ってやっと動かすことが出来た。
「これかも知れないよ」
 高志は数冊ある書物を全部出してゆきに見せた
「五冊ですか」
 一冊が二センチ程の厚みがあった。その一冊をゆきが手に取り開いた
「これですね。『深山家記録帳』としてあります」
「それだ。僕が見てもさっぱりだけどね。ゆきちゃんには判るんだ」
「はい一応読めます」
 二人は数冊の書物を納戸から出して埃を叩いた。
「部屋でゆっくり読めばいいね」
 高志がそう言ったので、ゆきが
「高志さんは興味がありませんか」
「読めないからさ。ゆきちゃんが読んだら教えてよ」
「判りました」
 結局、ゆきは自分の部屋に書物を持ち込んで、そこで読み始めた。高志からメモ帳と鉛筆を借りた。何かあれば書き写しておくつもりだった。
 幸子が帰って来て高志から書物を見つけたことを知らされると
「そう。良かったわ。秘密の扉の事が判れば、高志も昔に行ってみたくない?」
「僕はどうせなら未来に行きたいな」
 その日は夕方までゆきは自分の部屋から出て来ることは無かった。
 やはり自分の息子だと幸子は思った。かっては自分もそう考えていたのだ。

彼女の秘密  第9話 秋刀魚の苦さ

 お昼に、にゅう麺を食べた後で幸子はゆきに
「ゆきちゃん一緒に買物に行く?」
 そう問いかけた。ゆきも今の世ではGUに服を買いに出ただけだから、今の世界の街並みも見てみたかったので
「はい! 喜んで!」
 そう答える。陽子にも
「お母さんも行く?」
 そう尋ねると陽子は
「今夜は何にするの」
「そうねえ、やっと秋刀魚が安くなったので秋刀魚にしようかしら」
 幸子の答えに陽子は
「ならワイドショー見ながら楽しみに待ってる」
 そんな事を言ってテレビの前のソファーに横になった。それを見て幸子は
「じゃあお留守番していてね」
 そう言ってゆきに着替えさせて連れ出した。格好は先日GUで買った服である。
「何だか膝から下がスースーして落ち着きません」
 ゆきはそんな事を言って膝に手を宛てている。幸子は
「今日は下着着けてるから平気」
 ゆきはその意味が良く判っていなかった。
「平気ってなんですか?」
「下着を身に着けているからスカートが捲れても見えないということよ」
「ま!」
 それを耳にしてゆきは耳まで真っ赤になるのだった。今日は歩いて近所のスーパーまで行く。ゆきは道の両側に並ぶ家々を興味深く見ていた。
「一軒の家々に塀があって独立しているのですね。それに小さいけど庭もあります」
「庶民の家ね。この辺りも今じゃ都会になってしまったからね。ビルなんかも結構立ってるしね」
「ビルというのは石で出来た高い建物ですか?」
「そうよ良く判ったわね」
「なんとなくです」
 そんな事を言いながら歩いて十分ほどのスーパーに到着した。
「ここはスーパーと言って、野菜から肉から食材なら大抵のものが買える場所よ。食材の他には少しだけど日用品が置いてあるわ」
 ゆきは幸子の言った内容の半分以上を理解した。
「さ、入るわよ」
 店内に入る時に自動ドアが開いたのに驚くゆき
「ひとりでに開くのですね」
「ここに『自動ドア』って書いてあるでしょう。お店によっては『押してください』って書いてある所もあるから、その場合は押してあげると開く仕組みになってるのよ」
 ゆきは覚える事が沢山あると感じた。何れ何なく感じては行くのだろうとは思った。
 スーパーは入った所が大抵野菜売り場となっている。
「ゆきちゃん籠を持ってね。重ければカートに乗せて」
 幸子はそう言って他の客を指した。
「ああ、なるほど」
 ゆきも真似をしてカートに籠を乗せる
「秋刀魚には大根ですね。私、おろすの得意なんです」
「そう。じゃ後でおろして貰おうかな」
 幸子はそう言いながら大きく、ひときわ太い大根を手に取った。するとゆきが
「それは多分、鬆(す)が入っています。未だ冬の前ですから余り太いのは止めた方が無難です」
 幸子はゆきの助言に
「そうかぁ。なるほどねぇ~」
 そう言って感心をしている。やはりゆきは台所番だったのだ。
「あとは何にしましょうか」
 ゆきが興味深く野菜を見ていると幸子が
「胡瓜を買って竹輪の中に入れましょう。それと蓮根のキンピラね。人参はあるから蓮根を買いましょう。味噌汁は茄子がいいかな」
「茄子の味噌汁好きです。深山家は茄子の皮は剥かないで作っていました」
「あら今でもそうよ。それと、明日の朝のサラダの材料でトマトとレタスも買いましょう」
 そう言ってゆきの押しているカートの籠に入れて行く。
 次に来たのは魚売り場だ。ゆきは普通の魚屋のように魚が並んでいるのかと思っていたが、並んではいるが、全て発泡スチロールの皿に載せられてラップで包まれていた。
「はあ、何だかお魚さん苦しそうです」
「え、だって死んでるわよ」
「でも何か苦しそうです」
 ゆきがそんな事を言ってると幸子が
「秋刀魚はあそこよ」
 指を指した先には、大きな発泡スチロールの箱に氷を沢山入れられてその中に秋刀魚があった。値札が付いていて「一匹百八十円」と書かれていた。今年は例年より高目だ。
 ゆきが横のビニール袋に人数分だけ入れて行く
「六匹で良かったですか?」
「一匹多く買っておこうか。何があるか判らないしね。余れば明日甘露煮にするから」
 次には肉売り場に向かう。ゆきは正直この時が一番期待をした。ゆきの時代では未だ肉屋は無かったからだ。
「ここが肉売り場よ。どう感想は」
「はい色んな肉が置いてあるのですね。こっちが羊、こっちが牛で向こうが豚ですか。その先が鶏肉なんですね」
 色々な肉を見て回っているゆきに幸子は
「何か欲しいものはある?」
 そう尋ねるとゆきは
「蓮根のキンピラにひき肉を入れたら美味しくなるかと思いまして」
 この時ゆきの頭の中にあったのは、鶏のひき肉だったが幸子は
「じゃ合挽き買っていこうかしら」
「合挽きって何ですか?」
 ゆきは合挽きが判らない。
「ああ、牛と豚の挽肉を混ぜたものよ。両方の旨味が出るから美味しいのよ。ハンバーグなんかにも使うしね。ハンバーグというのはひき肉のステーキね。正式にはハンブルグ式ステーキと言ってドイツのハンブルグで発明された料理法なのよ」
 幸子の解説を聴きながらゆきは、今の世で肉料理を覚えて明治に帰れば宗十郎にも喜んで貰えると考えた。
「そのうち、そのハンバーグの作り方を教えて下さい」
 そう幸子に頼み込む
「お安いものよ。じゃ明日はハンバーグにしましょう。決まりね」
 幸子はそう言うと大きめの合挽きのパックを手に取った。
「もう一つかな」
 二つを籠に入れた
「ま明日買っても良いけどね。ついでだからね」
 幸子は他の材料は明日買うらしい。それは明日もゆきを連れて来たかったからだ。体験は多い方が良い。会計をしての帰り道。買った材料をバッグに入れて、それをゆきが持って歩く
「ごめんね。重たいでしょ」
「平気です。寧ろ軽いぐらいです。向こうではもっと重たいものを持って歩いていました」
 確かにゆきは軽々と持っている。それを見て幸子は、今の子とは体幹が違うのだと思った。ゆきは多分、明治期の娘としては大柄な方だろう。普通の子は恐らく百五十センチ前後だったのではと思った。それは自分が昭和の初期に遊びに行った時でも当時の子は背は余り大きく無かったからだ。
「ゆきちゃんは女の奉公人では大きい方だったの?」
 幸子が尋ねると
「そうですね。私より大柄は、まきという方でした。
「まきという人?」
「はい。私よりこのぐらい大きかったです」
 そう言って片手を十五センチほど自分の頭の上に伸ばした。
「全体に大きかったです。それで子供の頃から大女と言われていたそうです。だから早くから深山家に奉公したそうです。歳は私より十上でした」
 幸子は昔だからそのように色眼鏡で見られる事もあったのだろうと考えた。
「ねえ、宗十郎という人はどんな人なの?」
 幸子が尋ねるとゆきは嬉しそうに顔を崩して
「宗十郎様は優秀でして、今は慶応義塾に通っておられます。村では初めてのことです。それに文武に長けており、千葉周作道場にも通っておられます」
 幸子は当時の深山の家が相当なものだと思った。当時のこの地は江戸の在であり郊外だった。田畑が広がるだけの場所だったのだ。無論栽培されていたものは江戸市中に送られていた。
「ねえ、間違ったら御免なさい。もしかして、ゆきちゃんはその宗十郎という人に好意を持っていたの?」
 幸子はこの前から何となく感じていた事だった。確か高志も気が付いて自分に言っていた。幸子の言葉にゆきは更に顔を真赤にさせて
「あの、私は奉公人ですし、身分が違いますし、貧乏御家人の娘ですし……」
 最後は消え入りそうな声だった。
「そうなんだ。でも向こうが好きだったら、どうするの断る訳?」
「そんな事あり得ません。宗十郎様にはきっと何処かの大地主の娘さんが嫁いでいらっしゃいます。同じぐらいの家の格の所からです」
 当時の結婚事情は当人の感情よりも家の付き合いが重要視された事は幸子も聞かされていた。
「まあ、もしもの事で求婚されたら?」
 更にゆきに問い詰めると
「正直言いますと、私、宗十郎様から求められたら、陰の身でも嬉しいと思います」
 そう言って女心を覗かせた。
「そんなに好きなんだ」
 幸子が感心すると
「はい。ですから私が作った食事の数々を宗十郎様が食べて下さるのが、心の底から嬉しいのです」
 そう言って下を向く
「じゃあ本当は一刻も早く帰りたいのね」
「帰りたいのは山々ですが、自分で勝手に決められる事でもありませんし」
「ま、帰るまでには色々と覚えて帰ってね」
「はい!」
 ゆきは嬉しそうに返事をする。その夜の秋刀魚の苦さは、ゆきの居た明治の頃と変わらなかった。
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