それから十分ほど後に俺と千反田は、ホテルの七階の部屋に居た。ドアを開けると部屋の右側にシングルベットが並んでいる。枕が部屋の右だ。その向こうは窓だが、そこに丸いテーブルに椅子が二脚備えてある。その左隣りには小さな冷蔵庫があり、その上はガラス戸のある棚になっていてそこに紙に包まれたグラスが並んでいた。
部屋の左側には金庫などと棚がありその上に小さな液晶テレビが置かれていた。壁は明るいクリーム色で窓に掛かっているカーテンは葡萄茶色だった。
「綺麗な部屋ですね」
千反田が先に入り周りを見回してから窓の所に行く
「夜景が綺麗です。何だかドラマの主人公になったみたいです」
千反田は仕事柄ホテルなどには余り泊まったことが無いのだろう。俺は仕事柄年中泊まっている。
「まあ日本のホテルはビジネスホテルでも綺麗だよ」
「そうなんですか。わたしは知らないことばかりです」
窓際のテーブルの上にハンドバッグを置くと、備えてあった椅子に腰掛けた。
「ここなら折木さんとわたししか居ません」
そう言って小さなため息をついた。
「そんなに人に聞かれたくないことなのか?」
俺にはそれが疑問だった。先程別れた事に対する蟠りは氷解したのではなかったのか。千反田は俺の方を向くと
「折木さんも座ってください。立っていると話難いです」
千反田の言葉に俺は上着を脱いでワイシャツ姿になってネクタイを外し千反田の向かいの椅子に座った。
「我儘ばかり言ってすみません。もしかしたら折木さんにはどうでも良い事かも知れませんが、わたしにとっては大事なことなんです」
千反田はまっすぐ俺の目を見ていた。それでこいつが本気なのかが判った。千反田はワンピースだとばかり思っていたが、どうやら袖を外してノースリーブに出来るみたいだった。今の千反田は俺が上着とネクタイを外す間に半袖から肩をあらわにしてノースリーブになっていた。真夏になるとノースリーブ姿の女性を見ても何とも思わないが初夏の頃にこれを見ると少しドキッとする。目の前には細いが艶めかしい千反田の肩があらわになっていた。
「俺と二人だけじゃないと言えない事って何だ?」
俺は棚からグラスを二個出して紙包を解いて、冷蔵庫からビールを出して二つのグラスに注いだ。
「ありがとうございます」
「ま、無理に飲めとはいわん」
そう言ったが千反田は一口口を付けて飲むと語りだした
「話したいことは、わたしの結婚に関することです」
千反田は訴えるような眼差しをしていた。
「結婚は俺の知らないことだから、俺には何も言う権利はない」
「違うんです。違うのです。折木さんはあずかり知らぬことでも、わたしには違うのです」
どういうことなのだろうか。俺には意味が理解出来ない。
「千反田、もっと判り易く言って欲しい」
物事を省略するのが千反田の昔からの悪い癖だ。
「すみません。わたしは折木さんとの関係が自然消滅して研究に打ち込んでいました。それはそれで大変でしたが、充実もしていました。会社はやればやっただけの評価をしてくれる所でした。だから楽しかったとも言えます。そんな時に元夫と同じ研究チームになりました。そして一緒に研究活動をしている内に彼に折木さんの面影を見たのです。今から思えばそれは、わたしの幻想に過ぎなかったのですが、当時はそうは思いませんでした」
千反田の話も理解出来なくは無い。だがそれは所詮幻想に過ぎない。その元夫だって、勝手に俺の幻想を見出されては迷惑だろう。
「そうなんです。それが過ちの始まりだったのです。そして勘違いしている間に関係が深まりました。やがて結婚の話も出ました。折木さんとの関係が断たれた当時のわたしには、異論はありませんでした」
「そして一緒になったんだな」
「はい。でもすぐにそれが間違いだと気が付きました。当たり前ですが彼は折木さんではなかったのです。本当にお笑いごとです」
一緒に暮らてみるとお互いに色々なことが判るという。俺は結婚の経験は無いが姉貴の結婚生活を見ていると、それが良く理解出来る。
「失敗したと思ったのだな」
「はい、そうです。考えが、生活の基盤設計が全く違っていたのです。本当は一緒になる前に決めておく事なのでしょうが、そんな事も考えませんでした。甘かったのです」
「それで?」
「わたしは勝手に折木さんの幻想を持ち出して人の人生までも壊してしまったのです。そんなことは誰にも言えません。本当は久しぶりに逢った折木さんにでも言ってはならない事かも知れません。でも、でも折木さんに触れた今夜は是非とも聴いて欲しかったのです」
確かにそうなのだろうと思う。こんな事は人に言うべきものでは無い。でも俺になら言えるという事は……。
「同期会とかクラス会って不思議ですね。再会した瞬間に気持ちが当時に戻ってしまいます。あの頃の十八の頃に戻ってしまいます。だから今夜だけは昔みたいに折木さんに甘えて見たかったです」
「千反田。人には誰でも後悔することはある。殆どの人間はそれを隠して生きている。お前だって他のことなら俺には言えないだろう。それはそれで意味のあることだと俺は思う」
「では……。」
「ああ、俺はお前の気持ちをしっかりと受け止める事にするよ」
「ありがとうございます! 嬉しいです」
俺は立ち上がって千反田の腕を取って立ち上がらせた。そして両腕で千反田を抱き締めた。あの頃と同じように少し華奢な肩が俺の胸に包み込まれた。
「折木さん……。」
「千反田……。」
嬉し涙で滲んだ瞳に唇を這わせ雫を拭う。やがてその唇はお互いの唇と重なった。千反田の豊かな胸が俺に当たる。その心地よさを感じながらもう一度、今度は濃厚なキスをする。千反田から小さなため息が漏れる。
「わたし、まさか今日こんなことになるなんて考えてもいませんでした」
「どうしてだ」
「だって折木さんには嫌われてしまっていると思っていたからです」
「それは思い違いだ」
右手を千反田の豊かな左胸にあて包み込むと
「あのシャワーを浴びて来ます。折木さんも汗を掻いているでしょう。シャワーを浴びた方が良いです」
「一緒に入ろうか」
そんな冗談を言うと千反田は真面目な物言いで
「どうやらここは二人では狭いみたいですよ」
そんなことを言ったので笑ってしまった。それに気がついた千反田も一緒に笑う。
部屋は明かりが落ちて、薄暗くなっている。お互いにシャワーを浴びた後、再び冷蔵庫からビールを出して一杯だけ飲んだ。冷蔵庫の明かりが千反田の姿を妖しく映し出している。
千反田も俺も部屋に備え付けの浴衣に袖を通している。俺はベッドに座ると千反田に
「おいで」
と手招きをした。
「はい」
千反田が小声で応えると俺の胸に滑るように入って来た。右手で千反田の右肩を抱いて左手で千反田の浴衣の紐をゆっくりと解くと前が開いて豊かな双丘と白い肌が露わになった。輝くような千反田の素裸だった。
「生まれたままの姿を見るのは久しぶりだな」
「恥ずかしいです。早くベッドに」
抱きしめながらベッドに潜り込み唇を重ねる
「今、こうして折木さんに抱かれていることが信じられません」
「すぐに信じさせてあげるさ」
「ああ、悪いひとです」
「そうさ。今夜俺は悪いひとになるのさ」
「嬉しいです。いっぱい悪くなってください」
「ああ」
その後は会話らしい会話もしなかった、久しぶりに抱いた千反田は何回も俺の下で果てた。俺も喜びを千反田の中に果てさした。
その後再びシャワーを浴びてお互いのベッドに潜りこむ。だが気が高ぶっていて眠ることが出来ない。何回も寝返りをしていると、隣のベットから
「折木さん。そちらのベッドに行っても良いですか。何だか眠れなくて」
「ああ、おいで」
俺はそう言って毛布を上げると千反田が何も身に付けずに、生まれたままの姿で毛布に入って来た。
「わたし折木さんに喜びを教えて貰った頃のことを思い出しました」
そういえば、あの頃は俺も夢中だった。
「お願いがあるのですが」
千反田が俺の裸の胸を弄りながら
「茨木の研究所に移動になっても、また逢ってくれますか?」
「当たり前だろう。あそこは良く行くところだし、俺は千葉の柏市に部屋を借りているから、車なら小一時間で着く距離だ」
「嬉しいです。今日は本当にわたし幸せです。こんなに幸せで良いのだろうかと思いました」
俺はキスをしながら優しく千反田の髪を撫でる。
その後夜明けまで、お互いを求めあった事は二人の秘密だ。
<了>