2018年09月

「バイクと恋と噺家と」第23話

「二人会?」
 東向島の顕さんのおばあちゃんの家で、落語の動画を見ながら、コーヒーを飲んでいた時だった。突然顕さんがぼそっと呟いた。
「ああ、俺と馬富の二人会」
「いつもやってる三人の会とは別なの?」
「そう。だからお互いの出身地の地元でやろうと思うんだ」
「馬富さんは?」
「時間さえ都合つけばやりたいとさ」
「何時もの会とは何が違うの?」
 わたしの疑問に古琴亭小鮒こと顕さんは
「まず、一人二席づつやるんだ。それも一席は大ネタ。時間もたっぷりと取っておく」
 そう言ってブラックのコーヒーに口を付けた。
「三人の会だとどうしてもネタ降ろし中心になるからさ。それとは別に得意ネタで勝負するんだ」
「じゃあ対決なのね」
「そう思って貰って構わない」
 わたしはブラックのコーヒーにクリームを入れてスプーンで溶かした。そしてそれを口にした。温かく少しの苦味が口に広がる。でもクリームの濃厚さがそれを次第に消して行く。
「地元って、市民会館?」
「そう。今度は大ホール」
「大ホール! だってあそこ七百人は入るよ。埋まらないでしょう」
 市民会館の小ホールは三百人ほど。三年前の「三人の会」はそこでやったのだ。今度は倍以上入る大ホールなんて……それに仕草も大事な落語には向かないと思う。
「落語には大きすぎるでしょう」
 わたしの疑問は既に考えていたらしく
「全席売ろうとは思っていないよ。後ろの方は売らずに、空席のままにしておくつもりさ」
「時期は?」
「馬富のスケジュール次第だな」
 わたしは色々と考え始めていた。市民会館だから、使用料はそう高くない。特に市民の場合はかなり割引で借りられる。でも、小鮒さんは兎も角、馬富さんはテレビにでも出ていて名が売れている。きっとマスコミの取材も少しは来るだろう。そこで空席ばかり目立ったらとか考えてしまった。
「大丈夫だよ。何だかんだって言っても様になると思うよ」
 顕さんは全く心配してなさそうだった。
 結局、暮れも近い十一月の終わりにやる事になった。それより遅いと馬富さんのお正月のテレビの収録があるから時間の都合が取れないからだ。演目だが、馬富さんが「大工調べ」と「笠碁」。「大工調べ」はお白洲の場面までやるバージョンでこれはかなり長い。「笠碁」は二十五分前後の噺だが仕草や目線が重要な難しい噺だ。わたしは演目を聞いて馬富さんが本気だと直感した。両方とも簡単な噺ではない。敢えてそれを小鮒さんにぶつけて来るという事は本気だと言う事だと思った。
 対する小鮒さんは「鼠穴」と「芝浜」だった。こちらも半端ない噺だ。顕さんが普段から稽古してるのは知っていたけど、まさかこの会にぶつけて来るとは思わなかった。

 秋も段々深まって来て、バイクを切る風が冷たく感じるようになって来た。実は来週には新しいバイクがやって来る。新車ではない。わたしと顕さんが整備を頼んでいるお店のオジサンが
「新古でいい出物があるんだ。新車に比べてかなり安いからどう?」
 そう言われたのだ。何でも同じ系列のメーカーのお店に下取りしたバイクだそうで、距離も三千キロしか走っていないのだそうだ。それで安いのは、実はそのバイクが、モデルチェンジしたので旧車になってしまったのだそうだ。オーナーは新しい方が魅力的に思ったので下取りに出して新車を買ったのだそうだ。
 実は旧車はちょっと不人気で人気が上がらないのでメーカーも早々と見切りをつけたという事だった。
 でもバイクとしてはバランスが取れていて尖った部分が無いので走りやすいという事だった。
「里菜ちゃんに向いてるかもね」
 バイク屋さんのオジサンはそう言って勧めてくれた。だからこのバイクに乗るのもあと僅かなのだ。
 このバイクはわたしが十六になって、すぐに自動二輪の免許を取って父から譲られたものだった。それ以来高校の三年間を通学に使い、卒業してからも大学に通うのにも使っている。癖も悪い所も全て判っているので、自分の半身のように感じている。
 百二十五だから、道で一緒になる大型バイクより出足だって負けるけど、わたしには丁度良いと思っていた。けれども最近は調子が悪くなる事も多く、お店のオジサンは
「そろそろ寿命かな。部品も入らなくなって来たしね」
 そんな事を言っていた。
 それに、たまにだが顕さんの二百五十に乗せて貰うと、やはりいい感じなのだ。こればかりは仕方ない。最初は新しいバイクが来るのが待ち遠しかったが、ここの所はこのオンボロに妙な愛着が湧いて、毎日用も無いのに近所を走り回っている。
 バイクは良い! こうやって走ってると季節の移り変わりも一番早く感じるし、何より走る喜びを感じる事が出来る。バイクに乗っていて良かったと心の底から思うのだった。

 そして「二人会」が近づいて来た。顕さんはここの所毎日実家に帰って来ている。夜になると美咲公園で稽古をしている。わたしは、温かいコーヒを持って行ったり、軽い夜食も持って行ってあげている。コンテストでは負けてしまったけど、今度は「小鮒は良かったねぇ」と言われたい。今度の会はプロダクションが絡んでいるので雑用はスタッフがしてくれる。これは有難かった。噺の稽古に集中出来るからだ。そんな時に翠から電話が掛かって来た。
「どう小鮒さんの出来は?」
 翠はこちらの様子を探るような問いかけをした。
「順調よ。そっちは?」
「大丈夫! コンテストの時とは比べ物にならない完成度よ」
「それは楽しみね」
「それはそうと結納オメデトウ」
「ありがとう。晴れて婚約者となりました」
「すぐに子供が出来たりして」
「バカ、そんな訳無いじゃない。そこまでだらしなく無いわよ」
「冗談よ」
「里菜はどうするの?」
「わたしは後二年あるから」
「でも気持ちは固まっているのでしょう」
「今はね。でも将来変わる可能性もあるし」
「え、それどういう事?」
「わたしの存在が顕さんの為にならないと感じたら」
「そんな事考えないの! 判った?!」
 翠の大きな声がスマホから響くように聞こえる。
「判ったわ」
「じゃお互いに頑張ろうね」
 翠はそう言って通話を切った。わたしはスマホを置きながら、時計を見る。そろそろ顕さんが美咲公園で稽古を始める時刻だった。わたしは作っておいた、サンドイッチとコーヒーの入った保温の水筒を、ショルダーに入れてバイクを出した。夜の冷たい風が身を切って行く。でも美咲公園には顕さんが居ると思うとスロットルを捻る力も湧こうと言うものだった。
 やがて当日を迎えた。

「バイクと恋と噺家と」第22話

 コンテストが放送されてから変わったことがあった。優勝者の文杏さんが全国的に有名になったことと、優勝は逃したが、その出来が良かった馬富さんの評価が上がったことだった。
 元からテレビでは多少売れてはいたが、その実力が認められたということだ。日曜の夕方やってる大喜利番組の前座的なものをBSで放送しているのだが、若手大喜利」と呼ばれている番組に、メンバーとして参加することになった。BSは地上派ほど視聴者が多い訳ではないが、それでも噺家としての仕事でテレビに出ることになったのだ。勿論、それまでのレポーターの仕事を無難にこなしていたこともあると思う。
「凄いね馬富さん」
 翠と電話をした時に素直に言葉が出た。
「うん、ありがとう。急に忙しくなちゃってね」
「体調管理なんかちゃんと、してあげてるの?」
「それはちゃんとやってるよ。栄養とかね。不規則な仕事だからさ。ああ、それから、今度結納交わして正式に婚約することになったんだ」
 わたしは、とっくに婚約してるものだと思っていた
「結納するんだ!」
「うん。賢ちゃんが、『そういうことはちゃんとしたいから』って言うから」
「お父さんとお母さん喜んだでしょう」
「お母さんは素直に喜んでいたけど、お父さんはやはり少し寂しいみたい。今と変わらないのにね」
 翠はそう言っていたけど、お父さんとしてみればやはり感じる部分もあるのではと思った。
「そうか、おめでとう! 式には呼んでね」
「ありがとう! 勿論! でも卒業してからだよ式は」
「先に成人式か」
「そうだね。里菜はもう二年だよね。ご苦労様」
「こっちは、ノンビリやりますわ」
 そんな軽口を言って通話を終えた。
 ノンビリと言ったけど、本当にノンビリやるつもりは無いのだが、そう言うより仕方無かった。顕さんの噺家としての仕事は少しづつ増えては来てるが安い仕事ばかりだ。この業界では二つ目のギャラは驚くほど安い。数をこなさないと食べて行けない。顕さんはやっと、何とか食べて行けるぐらいにはなった。だから必然的にわたしと逢う時間が減っている状態なのだ。
 逢えない日は寝付きが悪い。色々なことを考え過ぎてしまう。噺家としての小鮒さんの将来。そして二人の今後の関係。自分の進路のこと。幾らでも考える事はある。逢っている時は幸せな気持ちなので、そんな事は考えない。でも一人でベッドで布団に包まっているとそうも行かないのだ。
「ああ、逢いたいなぁ」
 独り言が思わず口から漏れる。意識しない自分の言葉に少なからず驚く。自分は弱い人間だと感じてしまう。
 こんな夜はバイクに乗りたくなる。ベッドを抜け出して着替えて表に出てバイクを車庫から出す。憧れの250ccを買うまでもう少しだ。それまではこのポンコツにも頑張って貰わねばならない。
 深夜なので表通りまで押して行く。エンジンを掛けて実咲公園を目指す。公園に着いて園内に入って行くと、何時ぞやの吾妻家に顕さんが居た。やはり落語の稽古をしていた。わたしは、もしかしたらとは思ったが、まさかこの前みたいに本当に稽古してるとは思わなかった。
「顕さん……」
 顕さんの稽古の声にわたしの呼び掛けの声が交じる
「里菜かい。こんな遅くどうしたの?」
「眠れないので、もしかしたらと思って来てみたの」
「そうか」
「稽古邪魔して御免ね」
「ああ、構わないよ。コンテストが終わってから、この時間は毎日ここで稽古してるんだ」
「毎日!?」
「ああ、そうさ。今日も帰って来たのは遅かったけど、必ず寝る前にここで稽古をすると決めてるからね」
 わたしは知らなかった。顕さんは古琴亭小鮒として必死にここで毎日稽古をしていたのだ。それなのに、わたしは逢えないから寂しいとか自分で自分に甘えていた。それを思うと涙が流れた。それを見て顕さんは
「どうした涙なんか流して」
「ううん。嬉しくて。顕さんは、ちゃんと地面に脚が着いているんだと思って嬉しくなったの」
 わたしの言葉を聞いて顕さんは少し笑いながら
「もしかして翠ちゃんあたりから馬富のこと色々と聴いたんじゃ無いのかい?」
 ずばり当たりだった。
「うん」
「馬鹿だなぁ。人は人、己は己だよ。花だって早咲き遅咲きってあるだろう。かの名人の名を欲しいままにした六代目三遊亭圓生師だって、若い頃は全く売れなかったそうだよ。志ん生師だって売れだしたのは戦後だしね。若い頃から売れる人もいれば、その逆もあるんだよ。要は焦らないで実力を貯めておく事だよ」
 顕さんは凄い、わたしより四つしか歳上でないのに、そんな考えを持っていたなんて。
「まあ、師匠の受け売りだけどね。でも本当だと思うんだ。人の事を見て焦っても仕方ない。特に噺家は先が長い商売だからね」
 顕さんはそう言って、わたしが微笑むと稽古の続きを始めた。わたしは、それを聴いて顕さんの隣に座る。秋の夜の風が少し冷たい。隣に座った顕さんの体温を感じる。恐らく同じように顕さんも、わたしの体温を感じているだろう。
「翠と馬富さんが正式に婚約するんだって、翠が卒業したら式を挙げるそうよ」
「そうか、それは目出度いな。里菜も卒業したら考えてくれるかい?」
 それってプロポーズですか! 
「未だ二年あるから、どうしようかなぁ〜」
 そう言ってイタズラぽい表情をすると、思い切り抱きしめられた
「俺が頑張れるのも里菜が居るからだ」
 その言葉を聴いて、わたしはこの人にずっと付いて行くと決意した。

「バイクと恋と噺家と」第21話

 本選が「みんなの広場ホール」という所で行われた。ここは某放送局の公開スタジオで、凡そ三百名の観客が入る事が出来る。その模様は録画され一週間後に全国放送される。当然、それまでには結果は判っている。
 というより、関係者や落語ファンの間では、瞬く間に伝わってしまう。当然、その結果はわたしや顕さんの耳にも入った。
「東京で行われたのに優勝は桂文杏だってさ」
 賢さんは通話を切るとわたしに、少し無念そうな顔をして言った。
 
 夕方、仕事が終わって一緒に向島のおばあちゃんの家に向かっていた顕さんのスマホが鳴った。顕さんはスマホの画面を一瞥してから電話に出た。
「もしもし。ああ、俺だよ。どうした……そうか、賢のヤツ駄目だったか」
 少し会場の模様や雰囲気を聴いて通話を切った。そして電車に乗る。
 電車が東向島の駅に到着して、ホームに降りて顕さんの後を付いて行く、ここのホームは狭いので並んで歩くには狭すぎたからだ。
 改札を抜けると並んで歩く。顕さんは、わたしが追いつくのを待って
「凄かったらしいよ」
「その桂文杏さんが?」
「そうだって」
「何やったの?」
「紙屑屋。向こうだと『浮かれの屑より』と言うけどね。内容は同じさ」
 わたしは「紙屑屋」という噺をちゃんと聴いたことが無い。顕さんの持っていた音源で聴いただけだ。だから、その噺の基準が良く判らない。
「何処が凄かったんだろう?」
 わたしは、馬富さんが「大工調べ」を本選前に聴かせてくれたので、どのぐらいの水準なのか少しは判っているつもりだった。
「噺の中に出て来る歌舞音曲の全ての水準がとんでもなかったそうだ」
「芝居とか浪曲とか、講談なんかのこと?」
「そうさ。電話の小船の話じゃ全部本職の師匠の所に稽古に行ったそうだ」
 小船というのは弟弟子の名前でコンテストの前座をやっていた。顕さんの言葉を聴いて、わたしは自分の甘さを悟った。恐らく顕さんも同じ気持ちだったのだろう。表情で判る。顕さんの心の中まで感じることが出来る。
 明日は十一時半から連雀亭で「ワンコイン寄席」に出て、出番は浅いが浅草の夜席に出る事になっている。わたしも、お昼前に講義があるから夜席が終わってから合流する予定だった。
 おばあちゃんの家の格子戸を開けて家の中に入る。おばあちゃんは、今日は静岡で着物の着付けの講習会があって、それに呼ばれている。おばあちゃんは着付けの先生でもあるのだ。わたしも着付けを教えて貰っている。来年の成人式には、自分で着たいと思っているからだ。それに将来のことだけど、もし噺家の女将さんになれば、着物ぐらい着られないと様にならない。
 居間のソファーに座り、考え事をしてる顕さんに、勝手知ったる家だから、コーヒーを入れてテーブルに置く
「ありがとう」
 そう言って一口だけ口を付けた。
「来週になれば本選の模様は放送されるから録画して何回も見よう。それからさ。全ては」
 やはり顕さんは、わたしが思っていた通りの人だった。
「おいで」
 顕さんが手招きをする。わたしはソファーに座ってる顕さんの膝の上に、後ろ向きに滑り込む。背中越しに顕さんの体温を感じる。
 態勢が落ち着くと顕さんは両腕で、わたしを後ろから抱きしめ、背中に顔を着けた。
「暫く。しばらくこのままで居させて」
 顕さんの気持ちが判ったわたしは、返事の代わりに顕さんの手の甲を優しく撫でるのだった。

 翌週。わたしは顕さんと自分の部屋で録画されたコンテストの本選の模様を見ていた。
 最初に立川談々さんで「幇間腹」だった。少し緊張していたのが判った。これでは多分駄目だろうと感じた。ちゃんと出来ればかなりの人だろうと言う事は判った。次が西からで笑艶亭笠松さんで「天王寺詣り」だった。長い噺を上手く纏めていたが、一門に伝わる大ネタだそうだが、コンテスト向きでは無いのではないか。そんな気がした。
 そして三番目が馬富さんだった。
「いよいよね」
「ああ、どの程度だったのかな」
 出囃子に乗って馬富さんが出て来た。座布団に座りお辞儀をして噺に入る。マクラものんびりとはやって居られない。すぐに噺に入った。出来は良さそうだ。与太郎の下りも上出来だと感じた。
「いい出来だったと感じたけど、どう?」
 素人のわたしが感じた事とプロの目で見た顕さんでは違うかも知れない。
「ああ、悪くなかった。期待出来る出来だったと思う」
 そうなのだ。その馬富さんの出来を消してしまった文杏さんの出来が楽しみだった。
 四番目が文杏さんだった。座ってお辞儀をすると、ゆっくりと噺に入って行く。余裕があるのだ。コンテストで話してるというよりも、自分の芸を皆にきちんと聴いて欲しいという感じを受けた。
「凄い……ここまでとは……」
 素人のわたしから見ても素晴らしい出来で、これなら仕方ないと納得させられた。
「馬富の奴、相手が悪かったな」
 そうなのだ。事実、その後、最後に出て来た三圓亭遊五楼さんの「紙入れ」が霞んでしまったぐらいだった。
 実は翠は当日会場に居たそうで、当日の夜に電話が掛かって来て、半分悔しがり、もう半分は諦めの口調だった。負けず嫌いの翠をも、納得させてしまうほど素晴らしい出来だったのだ。
「紙屑屋」のあらすじは、
 道楽のし過ぎで勘当され、出入り先の棟梁のところへ居候している若旦那。 まったく働かずに遊んでばかりいるため、居候先の評判はすこぶる悪い。とうとうかみさんと口論になり、困った棟梁は若旦那にどこかへ奉公に行くことを薦めた。
「奉公に精を出せば、それが大旦那様の耳に届いて勘当が許されますから」
 若旦那が行かされた先は町内の紙屑屋。早速いろいろとアドバイスを受け、主が出かけている間に紙の仕分けをやらされる事になった。
「エート……白紙は、白紙。反古は、反古。陳皮は陳皮」
 早速仕事をやり始めるが、道楽していた頃の癖が抜けずに大声で歌いだしてしまいなかなか捗らない。挙句の果てには、誰かが書いたラブレターを見つけて夢中になって読み出してしまった。
 主に怒られ一度は正気に戻って仕事を続けるが、今度は都々逸の底本を見つけて唸り出してしまう。
 また正気に戻って仕事を続けるが、今度は義太夫の底本を見つけ、役者になった気分で芝居の真似事を始めてしまった。そこへ主が現れて
「何をやっているんですか? まったく、貴方は人間の屑ですねぇ」
そう云われて若旦那は
「屑? 今選り分けているところです」
 そう落とすのだが、文杏さんは義太夫、浪曲、芝居、と三つに絞り込み完璧にこなしたのだった。
「来年こそ、ここに出る。そして優勝する」
 顕さんが画面を見ながら静かに決意を口にする
「うん。わたしの出来る限りの応援をするから頑張ってね」
「ありがとう。俺は幸せ者だ。里菜が傍に居てくれるから」
 顕さんは、そう言って抱き締めてくれたのだった。

「バイクと恋と噺家と」第20話

 コンテストの結果が発表された。それは、わたしと顕さんこと古琴亭小鮒さんにとって、残念な結果となった。
「次点だってさ」
 大学の傍の喫茶店で二人は逢っていた。
「そうかぁ。仕方ないね。また来年だね」
「それはそうなんだけど、馬富が本選に出ることになったんだ」
 顕さんはそう言って複雑な顔をした。
 本選に出られるのは東西合わせて五人。東からは宝家馬富、三圓亭遊五楼、立山談々の三名。東京の落語の団体は全部で四つあり、小鮒さんや馬富さんが所属してるのが噺家協会という一番大きな団体。次が噺家芸術協会といって、これも古くからある団体。この二つが寄席を十日間交代で出演している。その他には噺家協会から分裂した、落語立山流と圓洛一門会とがある。この二つは寄席には出られないが数多くの人気者が居る。テレビ等でも顔見知りの噺家さんも多い。三圓亭遊五楼という人は噺家芸術協会の所属だ。
「西はどれぐらい集まったの?」
「俺が聞いた限りでは四十五人ほどだったそうだよ」
「そうか全部で百十五人かぁ狭き門だね」
「そうさ、その内栄冠に輝くのは一人だけさ」
 顕さんはそう言ってテーブルの上のコーヒーに口を付けた。
「コーヒー苦いでしょ」
「この苦いのが良いのさ」
「西は誰と誰が出るの?」
「確か、桂文杏と笑艶亭笠松だったと思う」
 このコンテストは東京と大阪で交互に開催されている。今年は東京での開催となっている。これはあくまでも噂だが、東京で行われる時は東の方から、大阪で行われる時は西の方から優勝者が出るのが恒例となってるそうだ。調べて見ると唯一の例外を除いて、そうなっていた。
 馬富さんの本選出場が決まった時の翠の喜び様は激しかった。わたしに電話を掛けて来て嬉し泣きしたのだ。それも二時間もだ。わたしは本当に複雑だった。顕さんが落ちてるので、心はわたしも泣きたかったからだ。
「馬富は『大工調べ』の啖呵の部分にも手を入れてね。判りやすくしたのが評価されたそうだよ」
 古典落語を演じる場合に、昔ながらのやり方で殆ど変えずに演じるやり方と、今の人に判りやすく直して演じるやり方があり、顕さんの師匠は前者で馬富さんの師匠は後者だと言う。顕さんが次点になってしまったのはその辺りなんだろうか?
「でも次点だって考えれば凄いことなんだよ」
 顕さんはそう言ってにこやかな顔をしている。悔しいはずなのに……。
「来年は関西だから優勝は向こうだよね。するとチャンスは再来年か」
 何気なく言ったわたしの言葉に顕さんが
「それは判らないよ。今年だって上方から優勝者が出るかも知れないしね。特に桂文杏という人は凄かったらしいからね」
「凄かったって?」
「聞いた話だけど、真打顔負けの出来だったそうだよ。尤も上方に真打制度は無いけどね」
 そうなのだ。見習い、前座、二つ目、真打、というのは東京だけの制度なのだ。その昔は上方にもあったそうだが、戦後に上方落語が全滅しそうになった時に無くなってしまったという。それ以来、大きな名前の襲名がそれに代わって行われている。名前が変わったら出世したことなのだそうだ。
「ま、俺が来年の優勝を目指すことに変わりはないけどね」

 そんなことがあった数日後のことだった。夜も遅くなって翠から電話が掛かって来た。
「もしもし、どうしたの?」
 日付が変わろうかという時刻に電話をして来るなんて珍しかったからだ。
「うん、健ちゃんがピリピリしていてね」
「コンテストが近いから?」
「そうなの。どうもね、これはわたしが感じただけなんだけど、多分賢ちゃんは今回、本選に出られるとは思って無かったみたいなの」
「どういうこと? だって出たいから予選に出たんでしょ」
「そうなんだけど、まさか今年出られるとは思っても見なかったと思うの」
「だから悩んでるの?」
「うん。悩んでるというか、のめり込み過ぎちゃって、他の仕事にも影響が出てるんだ」
「他の仕事ってテレビなんかの?」
「うん。レポーターの仕事とかね」
 わたしから言わせれば、贅沢な悩みだと思った。
 わたしは小鮒さんの師匠の栄楽師匠が、小鮒さんと親子会をした時に打ち上げで語ってくれた言葉を思い出した。
『稽古というものは直ぐに身につくものもあるが、大事なものは後からついて来るものなんだ。だから今の稽古は将来の自分の為にやるものなんだ。若い時の稽古が歳を取ってから生きて来るんだ。だから稽古惜しみをしてはならないよ』
 若い噺家さん達を前にして、そう言っていた。わたしは、その言葉を翠に伝える
「そうか、栄楽師匠いいこと言うわねぇ。賢ちゃんにそのまま言うわ。ありがとう」
 翠はそう言って電話を切った。実は翠も必死なのだと感じた。振り返ってわたしは顕さんに何かしてあげられているだろうか? 返ってわたしという存在が重荷になっているのでは無いだろうか?
 わたしは翠から掛かって来た電話で色々考えて眠れなくなってしまった。そっと寝床を抜け出し、着替えてバイクを出す。家から離れるまで押して行き、表通りに出たところでヘルメットを被りエンジンを掛ける。実は新しいバイクが欲しくてバイトを始めたのだ。今度は顕さんと同じ二百五十が欲しいと思ってる。新車が無理なら程度の良い中古でも構わない。
 深夜の国道は殆ど走ってる車も無く、まるでわたし専用のコースみたいだ。すぐに実咲公園に着いてしまう。駐輪場にバイクを置いて公園に入って行く。すると公園のあずま屋にあるベンチに誰かが座っているのが判った。男の人だ。わたしは、少し後悔した。こんな深夜に一人で来てはいけなかったのだと思った。
 その男の人は座って首を左右に降りながら何か話してる。あれ、これって落語をやってるの? だとしたら……。
 わたしは、そっとその影に近づいてみる。シーンとして虫の声に混じって言葉が耳に入って来る。
「……旦那、待っていてくださいよ」
 このセリフ聞き覚えがある! そうだ、「愛宕山」の一八のセリフだと思いだした。
「金は?  ああ、忘れて来た!」
 やっぱり「愛宕山」だ。すると
「顕さん?」
 そっと声を出して見た。
「あれ、その声は里菜かい?」
 やっぱり顕さんだ。
「稽古していたんだ」
「ああ、来年の為にね」
 わたしは嬉しくなって顕さんに抱きついてキスをした。安堵感と信頼感とそして希望……。その全てが混じった感情だった。
「どうしたんだこんな深夜に」
 驚く顕さんに翠の電話のことを話す
「そうか、馬富のやつ必死なんだな。圓馬師匠は『好きにやれ』って言う方針だそうだからな」
 そうなのか、師匠の考え方一つでも違いがあるのだと思う。
「寝られなくなったら無性に走りたくなって」
「そういう気持ち判るな」
 顕さんはもう一度「愛宕山」を通しで稽古してから
「里菜の膝枕が恋しい」
 そんなことを言う。わたしは仕方なく膝枕をしてあげた。
「ああ、気持ちよいなぁ」
 顕さんはそう呟いて目をつぶった。と思ったらもう寝息を立てている。わたしは暫くこのままでいようと思った。

「バイクと恋と噺家と」第19話

 若手落語家のコンテストとは、某放送局が主宰しているもので、東西の噺家がそれぞれ予選を行い、勝ち抜いた者だけが本選に出場出来る。その模様はテレビ中継される。
 その昔、このコンテストで優勝して三十二人抜きで真打に昇進した師匠もいる。若手が対象なので入門十年以内の噺家だけが出場出来る。顕さんこと古琴亭小鮒も入門してからもう八年目に入った。今年を入れて後三回しかチャンスはない。
「ねえ、優勝したら真打にしてくれるのかな?」
 横浜での落語会の帰りに、わたしのバイクの後ろに乗って、実家に帰る時に寄った実咲公園で訊いてみた。
「まさか、多少は早まるだろうけどね。それより本選に出るだけでも大変だよ」
「東からはどのぐらい出るの?」
「予選には今年は七十人かな。本選にはその中から三名。西が二名だね。同期だと馬富も出るしね」
 そうか、二人は同期だった。翠の顔が浮かぶ
「彼には負けないでね。でもそんなに多いんだ」
「それはそうさ、ウチの協会だけではないしね」
 そうか、東京には四つの協会があったのだ。
「演目は決めたの?」
「ああ、『愛宕山』をやろうと思ってね」
「愛宕山」は八代目文楽師匠が得意にしていた演目で元が上方落語なので西でも演じられる。
「馬富は『大工調べ』だそうだ」
「大工調べ」は大工の棟梁が啖呵を切る噺で啖呵の所が難しい噺だ。
「どうした急に」
 考えごとをしてるわたしに顕さんが心配して顔を覗き込んだ。
「うん、正直、翠には負けたく無いって思って」
「あいつは今人気があるからな。でも噺の上手さでは負けないつもりさ」
「頑張ってね。応援に行くから」
 わたしは予選の会場まで応援に行くつもりだったのだが
「それが予選は非公開なんだ」
「非公開?」
「そう。毎年、都内の某スタジオでやるんだ。仕込みの客が十人程居るらしいけどね。出場者でも終わった後は会場の廊下にあるモニターで他の出演者の出来を確認する始末さ」
「厳しいんだね。なんでだろう」
「結果発表の時に講評をするんだけど、その時にかなり厳しい事を言われるそうだよ。とても部外者には聴かせられないとか言う噂なんだ」
「結果はその日に出るんだ。すぐに判るんだね」
「それは無いね。人数が多いから後で知らされるそうだよ」
 わたしは会場のところまで一緒に行くつもりだった。一秒でも早く結果を知りたいがそれは無いのだ。
「まあ優勝した先輩でも予選で何度か落ちてるからね。最初で予選を通るとは思ってないよ」
「でも、一回で本選に出た人もいるんでしょう?」
「ああ、過去に二人だけいる」
 そう言って顕さんは三十二人抜きの師匠の名を口にして
「もうひとりは」
 上方落語の人気者の師匠の名を口にした
「なんか納得してしまうわね」
「だろう。だけど俺が三人目にならないと言う保証はない。優勝はともかく、本選に出るつもりで頑張るよ」
「頑張ってね」
 そう言って応援のキスをした。

 それからはデートも何処かに行くようなことはせずに、向島のおばあちゃんの家とか顕さんの実家とか、たまにはわたしの家とかで稽古を行うことが増えた。わたしは一緒に居て顕さんの噺を聴いて、何か気がついたことがあれば感想を言う役目に徹した。
 顕さんと交際するまで落語なんて殆ど聴いた事もなかったけど、今は多少なら判るようになって来た。それは本当の落語ファンに比べれば頼りないものだろうけど、黙っているよりかはマシだと思うのだ。
 そして予選会の当日となった。わたしと顕さんは前日に向島のおばあちゃんの家に泊まって準備をした。そして少し早めに会場に出向いた。
 会場の前で翠と馬富さんと出会った。
「あら里菜じゃない。やっぱり一緒に来たんだ」
 翠が嬉しそうに言う
「そりゃそうよ。顕さんの勝負の日だもの」
「そうよね。でもウチの賢ちゃんは確実に行かせて貰うからね」
 翠も自信満々だ。この自信は何処から来ているのだろう。そんな翠が少し羨ましかった。
「じゃあ早めに会場に入るから」
 顕さんはそう言って馬富さんと一緒に会場に入って行った。わたしはその姿を見送りながら翠に
「どうする? 近くでお茶でもする」
「そうね。それしか無いものね」
「どれぐらい掛かるのかな?」
 わたしの疑問に翠が
「一人の持ち時間が本選と同じで十一分だと思う。昔は十三分だったらしいけどね」
「それが七十人なんだ」
「今日だけでは無いと思うよ。時間的に無理だし」
 そうか十一分ならどんなに詰めても一時間に五人が限界だろう。七十割る五なら十四時間にもなってしまう
「じゃあ発表は後なんだね」
「そう思うよ。まあ賢ちゃんは決まりだと思うけどね。この為に幾つか仕事を断ったんだしね」
 翠の鼻息は荒い。わたしは顕さんを信じるだけだった。
 その後はたっぷりと翠の惚気を聞かされた。翠曰く
「写真集の撮影の時の事だけど、出来上がった写真を見て賢ちゃんが物凄く嫉妬したのよ」
 なんでも翠の水着の過激さに嫉妬したのだと言う。それを嬉しそうに口にする彼女を見て正直、わたしとは違うと感じた。わたしは翠みたいに、あっけらかんとは出来ない。どうしても色々と考えてしまう。顕さんは
「そこが里菜の良いところだよ」
 そう言ってくれるのだが……。
 二人の出番というか審査はお昼近くに終わった。最初にスタジオの玄関に現れた馬富さんを翠が見つけ駆け寄って行く
「賢ちゃんどうだった?」
 翠に抱きつかれながら馬富さんは
「まあ出来たと思うよ。自分としては出来るだけやったという感覚だね」
 そう言って手応えを感じたようだった。
「じゃまたね!」
 翠は馬富さんと手を組んで駅の方に向かっていた。わたしは手をひらひらさせながらその後ろ姿を目で追った。その時後ろから肩を軽く叩かれた。振り向くと顕さんだった。
「おかえり。今日は仕事無いのでしょう?」
「ああ今日は仕事入れてないよ。それより出来を訊かないのかい?」
「信じてるし。顕さんの顔を見れば精一杯やったのは判るから」
「そうか、結果は後で発表されるんだ」
「そう、じゃぁ一緒に帰ろう。バイクで来れば良かったなぁ」
「どうして?」
「思い切り走りたい気分だから」
「そうか気が合うな。俺もそんな感じなんだ」
「じゃあ帰ってバイクに乗りましょうよ」
「そうだな。走りに行こう」
 その日、二人は実家に帰って斉所山に走りに行った。二人にとって思い出の所だった。
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