2018年07月

「バイクと恋と噺家と」第10話

 駅に近づくにつれ街灯の数が多くなって街が明るく感じるようになって来た。わたしは駅のロータリーに入ってタクシー以外の車が無い一角にバイクを停めた。スマホの時計を見ると十時にはまだ少し間があった。
 ヘルメットを脱いでサイドミラーにかける。シートの下のメットホルダーにはヘルメットが一つ掛かっている。そう顕さんの分だ。彼を後ろに乗せて家まで送って行くつもりだからだ。あるいはわたしが後ろでもいい。
 わたしの住んでる街は東京のターミナルから伸びる私鉄が走っている。数年前から急行が停まるようになった。それまでは準急しか停まらなかったので、途中で乗り換えたりして不便だったのだ。でも急行なら乗って一時間ほどで東京に到着する。だから顕さんも噺家古琴亭小鮒として実家から通えるのだ。でも翠の彼氏である馬富さんはこの街の出身で顕さんの同級生だと言うことだけど、実家はこの街に無いのだろうか? 駅の改札口を眺めながらそんな事を考えていた。どうやら急行が到着してようだ。大勢の人が改札を抜けて街に散って行く。その中に顕さんがいた。大きなショルダーを抱えている。それを見た時にあの中に着物や扇子が入っているのだと直感した。あれを肩に掛けてバイクに乗れるだろうか? 少し心配になって来た。
「時間通りだったね」
「うん」
 顕さんの顔を見ると自然と表情が緩むのが自分でも判る。
「荷物あったのね」
「ああ、商売道具さ。これがないと困るからね。それより何処かに入ろうよ。十一時までなら開いてるでしょ」
 顕さんの提案で駅前のファストフード店に入った。ここは十二時まで営業してる。お腹は空いていないので飲み物だけを取った。わたしがカフェラテで顕さんがアイスコーヒーだった。二階の禁煙席に場所を取った。
「まさか今日も逢えるとは思わなかった」
 そう一昨日ツーリングしたばかりだからだ。
「今度はいつ頃行けるかな」
 楽しかったので次に期待が膨らむ
「うん、暑くなるまえに行きたいね」
 バイクは炎天下を走るので真夏はきつい。というのも高速道路を走る場合は風を完全に遮断する格好をしていないとドンドン体温を奪われてしまうからだ。街乗りでは半袖で良くても長距離になると完全防備でなければならない。これはバイク乗りの常識だ。でも高速走行の時は良くても、信号待ちで停まった時は暑さの影響をモロに受けるので出来たら季節の良い時期に行きたいのだ。顕さんの言葉にはそんな意味が込められていた。
「中間が終わったら行きたいな」
「そうか中間試験か、勉強しなくて良いの?」
「それはそれでやってるから大丈夫」
 本当は余り大丈夫とは言えなかったが、試験まではあと十日。これから始めても充分間に合うと思っていた。
「馬富さんと会った?」
 わたしは、果たして翠とのことを知ってるか顕さんに尋ねて見たかった。
「ああ、今日も会ったよ。連雀亭でね」
「馬富さんて東京に住んでいるのよね」
「ああそうだよ。実家が遠くに引っ越ししたからね。仕方なく東京で部屋を借りたんだ。東京といっても住所は都内だけど、二十三区でも外れの方でね。この沿線なんだ。終点から七つほど手前の駅だよ。だからここからなら四十分もあれば着く。神田までも同じぐらいかかるけどね」
 そうなのか。わたしは東京というと都心とばかり思っていたけど外れだったのか。
「じゃあ家賃もそれほど高くないの?」
「そうだね。アパートもそれほど新しく無いから世間の相場より安いらしいよ.
どうしたの気になるの?」
 そうか、顕さんも何れは一人住まいする予定だから色々と詳しいのだと理解した。
「そこに土曜日、わたし達がツーリングに行った日に翠が泊まったんだって?」
 このことは言うかどうか迷ったが、探りを入れて見た。そうしたら
「ああ、それね。気になるんだね。親友だしね。仕方ないよね。でもね、どう聞いたか知らないけど、本当は結構笑える出来事だったらしいよ」
「笑える出来事?」
 訳が判らないという表情をしているわたしに顕さんは
「じゃあ不肖わたくし古琴亭小鮒が馬富と翠嬢の一夜の顛末をお話申し上げましょう」
 顕さんは小鮒さんになってその夜のことを話してくれた
「土曜は馬富も仕事がオフだったのでデートの約束をしていたそうなんだ。それで東京に出てきた翠ちゃんと映画を見たり買い物をしたりして楽しんだらしんだ。夕食を共にして帰ろうかと駅に向かったら、あの夜は運悪く人身事故が起きて電車が停まってしまったんだ」
「あ、そういえば、そうだった」
 わたしはバイクを使うことが多いから電車の事は関心がなかったのだが、電車が停まって東京から帰って来られなくなった人が大勢いたらしい。
「そこで、電車が動き出すまでということで馬富の部屋に寄ったのさ。丁度あいつの部屋のある駅の少し先まで折り返し運転していたからね」
「そこで二人だけになってムードが出ちゃったんだ」
「さにあらん」
「え」
「いくら馬富がオオカミのような男だからといって、すぐにそんな気にはならない。最初はコーヒーを飲んで会話を楽しんでいたそうだが、いつまで経っても電車が動かないので翠ちゃんが
「明日は日曜だから泊まって明日の朝帰ると言い出したそうだ」
 翠ならそう言いそうだと思った。
「馬富はさすがにそれは不味いと思ったそうだが、彼女は言い出したら引き下がらないらしいね」
「うんそうなの」
「それで仕方ないと泊まって行くことを許したそうだ。そこで落語の『宮戸川』って噺にも出て来るけど、ベッドの上に線を引いて二人の領域を決めたそうだ。馬富は自分はソファーで寝ると言ったら翠ちゃんが手を繋いで寝たいと言い出して仕方なくそう決めたそうだ」
 落語にそんな噺があるとは知らなかった。
「ねえ、その『宮戸川』ってどんな噺なの?」
「え、聴きたいの?」
「うん。翠と馬富さんの物語と同じなんでしょ?」
「まあちょっと似てるかな……じゃあ少しだけだよ」
 そう言って小鮒さんは私服のまま落語「宮戸川」をわたしだけの為に話してくれた。
 噺はお花ちゃんと半七は霊岸島にある叔父さんの家に泊めて貰うことになったのですが、あいにく布団は一組しかありません。仕方なく布団の半分に線を引いて背中合わせに寝ることになったのですが、そんな状況では寝られるものではありません。お互いにもじもじしてると夏の夜なので雷が鳴り出します。その一つが近くに落ちたと見えて、物凄い音と光がします。
「ガラガラピシャーン!」
「キャー怖い」
 怖さで半七に抱きつくお花ちゃん。見ると真っ赤な緋縮緬の長襦袢から伸びるお花ちゃんの真っ白な長い脚……。
 「この先は本が破れて判りませんでした」
 あ、そういうオチなんだ。なんだ落語の時代の人も今の人も心の持ちようはそれほど変わらないんだと思った。
「じゃあ翠と馬富さんも同じように?」
「多分ね。馬富が言うには最高の『宮戸川』の稽古になったそうだから」
「へぇ〜」
 わたしは噺を聴きながら翠だったらと妄想していた。翠は脚はそれほど長くはないが、むっちりとしていて魅力的だし、胸もあるので抱きつかれたら男の人は嬉しいだろうと思った。
「どうしたの?」
 気がつくと顕さんが笑っていた。
「これは馬富が面白可笑しく脚色してると思うけどね」
 まあそうなのだろうけど、結局馬富さんと顕さんは、そんな事まで言う間柄なんだと思った。じゃあ、わたしとのことも話したのかしら? そんな想いが伝わったのか
「俺は里菜ちゃんとの事は親に紹介するまで茶化しては言わないつもりだよ」
 そう言った目が真剣だったので、少し安心した。それにしても顕さんはどうして、わたしの考えていることが通じるのだろう。やはり、わたしと顕さんは赤い糸で結ばれた人なのだろうか? そんなことも考えた。
 十一時も過ぎたので帰ることにする
「送って行くから乗って」
「ヘルメットは?」
「用意してあるわ」
 ヘルメットホルダーからヘルメットを外して顕さんに手渡す
「被ってみて、ジェットだから被れると思う」
「ああ、丁度良いよ。里菜ちゃんが前に乗るの?」
「うん。大丈夫だから安心して乗って」
 わたしはバイクに跨りエンジンを掛ける。顕さんが仕方ないと言った表情で後ろに乗って来た
「しっかり掴まっていてね」
 そう言ってバイクを走らせた。顕さんはわたしの胸とお腹の中間ぐらいに手を回している。後ろの手すりに掴まっても良いのだが、そうすると肩に掛けている大きなショルダーの荷物が台無しになるから前かがみの方が良いのだ。
 わたしはこの時
『顕さんの手が上がって来て胸に来たらどうしよう』
 とか
『まさか胸は掴まないよね』
 とか変な事を考えていた。でもきっと
『お前掴まるほど胸が無いだろう』
 つて言われるなぁ。とか考えていたのだ。冷静になってみればかなり変なのだが、この時にわたしは、好きな人と密着して気持ちが舞い上がっていたのだろう。
 楽しいランデブーは直ぐに終わってしまった。顕さんの家の前にバイクを停める。すると家から誰かが出て来た。
「あ、おふくろだ」
「え、お母さん! どうしようこんな格好で」
「大丈夫だよ。ただいま母さん」
「顕だったのバイクの音がしたから誰かしらと思ったのよ。そちらは?」
「今度交際することになった涌井里菜さん。この前話しただろう」
「あらそう! 顕の母の和子です。可愛い娘じゃない。あなたには勿体無いわね」
「宜しくお願い致します」
 そう言って思い切り頭を下げた。
「上がってお茶でもと言いたいけど、もう遅いからねぇ」
「いいえ大丈夫です」
 ここは遠慮しておく。すると顕さんのお母さんは少し考えて
「じゃあこうしましょう。今度一緒に皆で食事でもしましょう。ね?」
 そう言った。顕さんも乗って来て
「ああ、それはいいね。来てくれるよね」
 そう言ってくれたのでまさか嫌とは言えない
「あ、はい。宜しくお願い致します」
 それからは何を話したか覚えていない。
 顕さんのお母さんが家の中に入ると顕さんはわたしのヘルメットの顎の紐のロックを外して脱がせると唇を重ねた。今までで一番濃厚で長い口づけだった。

「バイクと恋と噺家と」第9話

 教室に入って自分の席にカバンを置くと翠がすぐさまやって来た。
「その顔じゃ上手く行ったのね」
 上手く行くとはどのような事なのだろうか?
「上手く行ったとは、わたしと小鮒さんが交際するってこと?」
「当たり前じゃん。どうだったの?」
 本当は大声で自慢したかったが少し意地悪をした
「馬富さんに訊いてないの?」
「だから訊いてるんじゃん」
「あのね……」
「うん」
「三回キスした」
「え、もう? わたしだってキスしたのは二回目の時だったのに」
「濡れてるわたしを抱きしめてキスしたの」
「それってファーストキス?」
「うん」
「だよね……なにか凄いね……展開が」
「結城顕って言うのが本名なんだよ。それで家まで送って来てくれた時にお母さんに紹介したんだ」
 翠は少しあっけにとられて聞いていた。
「何だか本当に手回しが良いというか、展開が早い」
「翠の方はどうしたのよ。その後」
 最初の時に一緒に東京まで行ったことは知ってるが、その後も逢ってるはずだからだ。正直わたしは自分のことに精一杯で翠の事まで余裕はなかった。
「もう三回デートしたわ。里菜がツーリングに行った土曜日に東京でデートして彼の部屋に一泊したのよ」
 恋人の部屋に泊まる。それがどのような意味を持つかは、わたしだって理解してる
「越えたんだ」
 黙って嬉しそうに頷く翠。その姿はわたしより先行してるという余裕が感じられた。正直どうでも良いとは言わないが、それは彼女の問題だからわたしには余り関係なかった。というより、わたしもいつかは顕さんと結ばれるはずだからその心構えだけはしておこうと思った。
「良かったね」
「うん」
「今は幸せ?」
 わたしの問いに笑顔で頷いた。そこまで来た時に始業のチャイムが鳴った。
「あとでね」
 軽く手をひらひらさせて翠は席に帰って行った。
 今夜、顕さんに翠と馬富さんのことを知ってるか訊いてみよう。そう思いながら教科書を出した。先生が入って来て授業が始まった。

 一時限目は英語だったのだが、今日は先生の言ってることが余り頭に入って来なかった。こんなことで己を失うなんてだらしないぞと、もう一人の自分が叱責する。判ってるって! でもこれは理屈じゃないんだよ。ちょっと連想というか妄想してしまう。あの時キスされた時に顕さんが、その気だったら、どうなっていただろうか? そのまま結ばれただろうか、それとも何も起きなかっただろうか?
 幾度も頭の中でシュミレーションしても答えが出て来ない。それはわたしにとって未知の領域だからだろうか?
「ねえ、お昼だよ」
 翠の声で我に返った。
「あ、うん」
「どうしたの今日おかしいよ」
「そうかな?」
「だってずっと何か考えているし」
 授業はちゃんと聞いていたしノートも録った。だがそれが頭に入ってるかと言うと怪しい。
 翠は自分でお弁当を作って来る。お母さんが働いているので、両親の分と三つ作るのだそうだ。弟が居るが中学生なので給食だそうだ。それだけでも母に作って貰ってる自分より偉いと思う。家の手伝いはするけど、お弁当は作って貰っているのだ。
 翠の今日のお弁当は唐揚げだった。小判型の黄色いお弁当箱の上におかず、下にご飯が入っている。サラダ菜が敷かれミニトマトが二個入っていて唐揚げが並んでいる。その奥にはチーズ竹輪が綺麗に並んでいた。彩りが綺麗だ。こんな所は翠はセンスがある。下のご飯の上には卵と鶏肉のソボロが掛かっていてこちらも綺麗だ。
「相変わらず凄いの作って来るわね」
 わたしのお弁当箱も同じように小判型だが色は青い。女子が持つ色では無いと母に言ったのだが
「じゃあこっちにする?」
 そう言って出されたのが黒い奴だった
「いいわよ青で」
 そう答えるしかなかった。母のセンスを疑った。多分、父のと一緒に買ったのだろう。
 そんなわたしのおかずはミニハンバーグだ。こちらはケチャップで炒めたスパゲッティの上に乗っている。半分がバランという良くお寿司に入ってる緑色の人工の笹みたいな奴で仕切られていてその向こうにはポテトサラダとハムが並んで入っていた。やはり二段になっていて下のご飯には真っ赤な梅干しが一つ入っていた。ありがたいのは小袋のふりかけが一緒に包まれていたことだ。ふりかけは「のりたま」だった。
「ねえ、結ばれた時ってやはり嬉しかった?」
 お昼を採りながら、およそ全く方向違いの話をしている
「それは当たり前じゃん」
「そうだよね」
「里菜だってキスされた時にどう思った?」
 そうか結局は同じことなのだと理解した。そうしたら胸にあった何かがスーツと降りて行った。

 夜になって顕さんからLINE電話が掛かって来た。
「今までお仕事だったの?」
「うん。連雀亭という神田にある二つ目専用の寄席に出ていたんだ」
 そんな寄席があるとはこの前聞いていた
「おつかれさま」
「ありがとう」
「じゃあ今は家?」
「いやこれから電車に乗って帰るところ」
「こっちから通うのじゃ大変だね」
「まあね。売れてくれば東京に部屋を借りようとは考えているんだけどね。まだ無理だから実家住まいさ当分は」
「そうか、将来引っ越す時には手伝ってあげるね」
「ありがとう。そうなるように頑張るよ」
「ねえ何時頃駅に着くの?」
「そうだね、スマホで検索すると十時頃かな」
「駅まで行ってるね」
「え?」
「顔が見たいから」
「ありがとう。実は俺も逢いたかったんだ」
 その後通話を終えてから時間を見てバイクを出して駅に向かった。夜の風は冷たかったけど、顕さんに逢えると思うと寒く感じなかった。
 街路灯に照らされた道を駅に向かって走って行く。走りながら中学の頃に翠の家で彼女のお父さんが好きだという映画の事を思い出した。確か一緒に見た「あの胸にもう一度」という映画だった。確か人妻が恋人に逢いに早朝バイクを走らせる話だった。朝と夜の違いはあるけど、似てるシュチュエーションだと思い可笑しくなった。
 やがて駅のロータリーが見えて来た。

「バイクと恋と噺家と」第8話

 表では雨の音が激しく響いている。小鮒さんの家には縁側がありそこの庇がビニールの板なのでそこを叩く雨の音が煩いぐらいに響いて来るのだ。
 でも、今はそんな音も気にならない。というよりわたしの頭を通過してまってる。今、わたしの頭の中には目の前にいる小鮒さんだけ……。
 キスして抱きしめられただけだけど、わたしの中では一番大きな出来事だ。多分、あの日……バイクを修理して貰った時にこうなる予測はしていたかも知れない。というより妄想の一つとして心の何処かに作り上げてしまっていた気がする。だからいきなりだったけど対処出来たのだと自分なりに結論を出す。
「本当はもっとゆっくりと進めるはずだったんだけど……濡れた里菜ちゃんを見たら我慢出来なくなってしまって……」
 そう言えば、何処かの女子コミック誌に「ずぶ濡れの男子に告白されたい」とか特集があったのを思い出した。
「濡れたわたしは小鮒さんを虜にしたの?」
「ああ、でも最初からそう思っていたんだ。一目惚れというか、そんな単純なものじゃ無いけど」
 制服の下にスパッツを履いたバイクに乗った女子高生に惚れるとは、やはり噺家を目指すだけのことはあるのかも知れない。
「本当にわたしでいいの? わたし今まで告白された事も無いのよ。告白した事はあるけど実った事は無いの……そんな、わたしで良いの?」
 こんな事いちいち訊かなくても判ってる事だとは思うが、やはり確認しておきたかった。それはわたしが女だからかも知れない。
「過去なんて関係ないよ。今の里菜ちゃんは素敵だ。だから自分のものにしたい」
「自分のもの?」
「ああ。俺のものにしたいんだ」
 ひとのものになる、と耳にして心と躰がゾクッとした。そうか交際するって、こういう事なんだと理屈ではなく理解出来た。
「もう一度キスしよう」
 今度はわたしから誘ってキスをした。過去二回より濃厚で長いキスだった。小鮒さんに抱きしめられていると温かい。心と躰両方が温かいのだ。好きなひとにこうして抱きしめられているだけでも喜びを感じるのだと初めて判った。
 今更だがこの時小鮒さんの本名を初めて知った。結城顕(ゆうきあきら)というのが親から貰った名前だそうだ。

 いつの間にか雨は止んでいて夕日が顔を出していた。お陽様を見て一気に現実に引き戻された感じがした。
「送って行くよ。挨拶もしたいし」
 そうか、ちゃんと交際するって、そういうことか。わたしは一つ大人になった。
 雨上がりの国道をわたしの家に向かって走って行く。実咲公園からわたしの家まではそう遠くない。なんせ毎日学校に通う道だからだ。そうか、これからは通学の度に小鮒さんの家の傍を通ることになるのだと思った。
 ゆっくり走っても十分もかからない。そうバイクは結構速いんだよ。家の傍の信号で国道から脇道に入る。そこから少し走ると右側にわたしの家がある。家の横が車庫になっていて、そこの屋根はやはりビニール製だ。
「ここがわたしの家なの」
 小さな鉄の門扉を開けてバイクを入れる。
「ここに止めてね」
 小鮒さんにそう言う。恐らくこれから必須になると思うからバイクの置き場をちゃんと教えたのだ。
「ただいま~」
「おかえり」
 出て来たのは母だった。
「こちらは今日一緒に行った結城顕さん」
 彼が噺家だとはこの時言わなかった。母にとっては噺家古琴亭小鮒より結城顕の方が大事だからだ。
「結城顕と申します。今日は里菜さんと一緒にバイクでツーリングに行きました。よろしくお願いします」
「あらあらそうですか、里菜の母親の涌井雅子と申します。これからよろしくお願いしますね。どうぞお上がり下さいな」
 どうやら母は一瞬でわたしと小鮒さんの関係を見抜いてしまったみたいだ。応接間に案内して飲み物を出す時に、台所でわたしに
「やっと彼氏出来たんだ。何してる人?」
「か彼氏というより交際することになっただけよ」
「それを彼氏って言うのよ」
 そうか、わたしは何を言っているのだろうか
「あのね噺家なの。噺家って知ってる?」
「知ってるわよ。なんて名前なの?」
「古琴亭小鮒って言うの二つ目になったばかりなの」
「これからなのね。将来性はどうなの?」
 正直そこまでは判らないが
「大丈夫だと思う」
「わたしが好きになったから?」
 図星を突かれた。
「噺家としては判らないけど人間的には信用出来そうね」
「もうそんな事が判るの!」
「判るわよ。口のきき方や話す時の目の座り方でね」
 さすが歳の功だと思った。

 それからは世間話や二人の馴れ初めを話して小鮒さんは帰ることになった。車庫の所で小鮒さんの背中に抱きついて
「わたしも一緒に付いて行って顕さんのお母さんに挨拶する」
 そう言ったら小鮒さんが
「それは今度で良いよ。今度逢う時に紹介するから」
 そう言うのでこの次のデートの時に紹介して貰う約束となった。
「じゃ連絡するからね」
「うん」
 本当は人が見ていても、もう一度キスしたかったが諦めた。小鮒さんがフルフェイスのヘルメットを被ったからだ。
 こうしてわたしの生まれて初めての彼氏は帰って行った。
 日曜も沢山電話で話をした。勿論お金が掛からないLINE電話だ。少し声が隠るが仕方ない。
 月曜学校に行くと翠が目を輝かせて待っていた。

「バイクと恋と噺家と」第7話

 小鮒さんは唐揚げをつまんで口に入れた。そして噛み締めていると
「この唐揚げは臭くないね」
 そんなことを口にした。
「ブロイラーの安い鶏肉だと脂が臭いのがあるからね」
 わたしはこの時ほど材料選びで良かったと思ったことはなかった。
「うん無名だけど一応地鶏なんだ」
「やはりね。美味しいもの」
「沢山あるから食べてね」
「ありがとう」
 今日の唐揚げの出来は我ながら良い出来だと思った。これなら誰にでも食べさせること出来ると密かに思っていたのだ。だから小鮒さんから褒められてとても嬉しかった。
『小鮒さんていい人なんだな』
 そんな感情が芽生え始めていた。
「食べたら展望台に行ってみようよ」
 そうなのだ。斉所山は展望が良いのが有名だった。確か遠足で来た時も展望台に行った記憶があった。
「有名ですものね」
 食後、一休みすると目と鼻の先の展望台に向かった。
「うわ〜本当にいい景色!」
 展望台からは遠くの山や海以外にもわたしの住んでる街が一望出来た。
「家見えるかな?」
 そんなことを言うと真に受けた小鮒さんが
「どのへん?」
 そう訊いて来るので
「冗談ですよ。見えるはずがないですよ」
 そう言うと
「双眼鏡持って来れば良かったなぁ」
 そんな事を言って残念がるので
「それは次にしましょう」
 思わず口にしてしまった。聴いた瞬間、小鮒さんは少し驚いた表情をしていたが直ぐにニコッとして
「そうだね。次は忘れないでおこう」
 そう言って景色を眺めていた。
 それから付近を少しブラブラして帰ることになった。やはりわたしが先で小鮒さんが後になった。下りは登りより軽快でバイクを倒すのが楽しくなって来た。古い言葉だと「人車一体」とでも言うのだろうか、それともこんなファンライドでは言い過ぎだろうか。そんなことを考えて下って行く。ヘアピンで速度を落としてカーブを曲がりながら後ろを確認すると小鮒さんも楽しそうにライディングしていた。何故判るのかと言うとその走りぷりで何となく判るのだ。理屈ではないと思った。
 登って来た時と同じようにやはり途中で休憩することにする。これはブレーキやタイヤを冷やす目的もあるからだ。下り始める時に小鮒さんが、そう言っていた。
「下りのが上手いんじゃない」
「そんなことないですよ。でも楽しそうに感じました」
「判った? 楽しいよね」
 やはりそうだった。わたしの目も満更でもない。
 休憩後に再び走り出す。下って来ると何だか黒い雲が出て来ていた。家に帰るまで降り出さないと良いと思った。
 完全に下って国道に出る実咲公園まで、あと少しの所で突然大雨は降って来た。後ろからホーンが短く二回鳴った。緊急の合図だ。公園の入口でバイクを停めた。すぐに小鮒さんが隣に停まって
「家がこの近くだから、雨が止むまで休んで行くと良いよ」
 そう言ってくれたが、いきなり初対面の女子が押しかけるのも問題じゃないかと頭を過る。
「大丈夫、今は多分誰もいないから」
 その時『それなら良いか』と思ったのも事実だった。走り出した小鮒さんの後を追う。
 
 小鮒さんの家は本当にすぐ近くで三分とかからなかった。ちゃんと屋根のついた車庫もあり、そこにバイクを並んで停めた。小鮒さんが玄関を開けてくれて
「さ、中に入って、体が濡れているから少なくとも雨にかからないところが良いよ」
 それもそうなのでありがたく入らせて貰う。小鮒さんの家は近代的だが旧家らしく結構立派で由緒ありげだった。
 玄関先でも良かったのだが、小鮒さんが上がるように勧めてくれた。案内された先は居間のようだった。ソファーに座るように促される。すると小鮒さんが乾いたタオルを持って来てくれて
「頭や濡れているところを拭いた方が良いよ」
 そう言ってくれたヘルメットを被っていたので頭は濡れていなかったがそれ以外の顔などはずぶ濡れだった。上着は撥水性の生地のパーカーを着ていたが下にも雨が染みていた。
「あ、脱いで拭くなら部屋を締め切って出て行くから」
「大丈夫です。パーカーの下はそれほどじゃ無いと思うから」
 下の薄手のトレーナーは思ったほど濡れていなかった。それは早く小鮒さんの家に入ったからだと思う。
 借りたタオルで丁寧に顔や手足を拭いて行く。気がつくと小鮒さんがコーヒーを出してくれていた。コーヒーの香りが鼻を突いた。
「ありがとうございます」
「飲んだらいいよ。結構体が冷えていると思うよ」
 小鮒さんが言ってくれたことは事実でコーヒーを口にしてみると自分が思ったより疲れていると感じた。
「走るのに夢中だったけど意外と体が疲れていたんだなと」
「そうでしょう。最初は感覚が判らないから無理してしまうのだけど、思ったより体は緊張するからね」
 わたしは、そこまで考えが及ぶ小鮒さんが頼もしく思えた。ソフアーの上に体育座りになって両手でコーヒーカップを持ちながら色々な話をした。殆どがバイク関係の話で、それはわたしにとってとても有意義なことだった。
 楽しい笑い声が止む。気がつくと小鮒さんの顔が目の前にあった。目が真剣だった。何故かわたしは目を瞑る。唇に柔らかい感触を感じる。小鮒さんの唇だと判った。唇ってこんなに柔らかいんだと実感する。一旦それが離れる。わたしは目を開けて小鮒さんを見つめる。小鮒さんはそっとわたしを抱きしめ
「いい?」
 黙って頷くわたし
もう一度柔らかい感触が襲う。今度はそれが口の中にも及んだ。ああ、口づけってこんなにも官能的だったのかと思った。どうりで恋人は皆やりたがるんだと理解出来た。
 この時心臓は鐘の鳴るように早く打って、自分の体だけど自分では無いように感じた。小鮒さんの両腕がわたしを強く抱きしめる。唇が離れ
「ちゃんと付き合ってくれないかな? まだやっとふたつ目になった、しがない噺家だけど、かならず上手くなってみせるから」
 え、それって交際の申し込み? わたしに?
「わたしでいいの?」
「里菜ちゃんなくては駄目なんだ。正直言うとね。実咲公園でバイクが故障してるのを見て直してあげた時に素敵な子だと感じたんだ」
 小鮒さんは何を言っているのだろう。わたしなんか一度も男子に告白されたことすら無い女子なのに。
「本当にわたし?」
 もう一度確かめると
「ああ、里菜ちゃんと交際したいんだ」
 わたしは小鮒さんの胸に顔を埋めて今度はわたしが小鮒さんを抱きしめる。そして返事の代わりに今度はわたしから口づけをした。一番濃厚な感じがした。
「ありがとう!」
「宜しくお願い致します」
 こうしてわたしと小鮒さんは交際することになった。

「バイクと恋と噺家と」第6話

 小鮒さんが休憩をしようと言ったのは駐車スペースがある公園で、売店はなかったが自販機があった。そこで小鮒さんがスポーツドリンクを二本買ってくれて一本をわたしに手渡してくれた。
「ありがとう。お金払うね」
「いいよ。それぐらいおごるよ。お昼代にもならないよ」
 小鮒さんとしてみれば昼食代が浮くという考えなのだろう。それは間違っていないけど、わたしが、そんな気持ちで用意してのでは無いので何だか申し訳ない感じがした。
「ここが斉所山の入り口なんだ。ここから緩やかだけど上りが始まっているんだ。だから意識的に走り方を変える必要があるんだ」
 確かに道が登っていると、いつもよりエンジンを吹かさないと登らないし、スピードも出ない。特に百二十五CCは注意が必要だ。大きな排気量ならそんなことを意識する必要はない。
「山道は登ったことはあるの?」
 どうやら小鮒さんはわたしのライダーとしての力量を心配しているのかも知れない。ここは初めてだけど山ならバイクで登ったことはある。
「多少ならあるけど。ここは初めて」
「そう、なら大丈夫かな。バイクで本当に用心しなくてはならないのは下りだからね」
 それは正直わたしも思ったことがある。下りはブレーキを使い過ぎると効かなくなるからだ。だからギヤを使って下らないとならない。父もそう言っていたし、わたしも経験があった。これでも十六で免許を取って二年も乗っているのだ。でも小鮒さんの前ではしおらしい事を言った
「下りはスピードも出るし慎重に走らなくては駄目ね」
「今思いついたのだけど今度走るならインカムのレシーバーでも用意すれば楽になるね」
 小鮒さんは「今度」と言った。確かに言ったよね? 何故かわたしは少しときめいた。
「少し行くと道の左側に『斉所山』と書いてあるからそこを左だからね」
「判ったわ」
 スポーツドリンクを飲んでから走り出した。やはりわたしが先で小鮒さんが後だ。意識しなくてもスロットルを回す角度が増して来たので道が坂道になってるのが分かる。
 数分走ると先程小鮒さんが言っていた「斉所山」と書かれた標識が見えて来た。方向指示器を左に出す。道の分かれ目に来たのでバイクを倒して曲がって行く。曲がりながら後ろを見ると小鮒さんもバイクを倒して曲がって来た。
 曲がると道は完全に山道ぽくなっていて坂の角度も増して来ていたのが判った。段々道も曲がって来て、わたしはバイクを左右に倒して曲がって行く。次第に頭の中が何も考えられなくなって体がリズムを刻んで行く。バイクと自分が一体となってる感じがして、わたしの中で『走る喜び』というものが少し判ってきた感じがした。楽しいと、純粋に感じた。
 道はかなり登って所々に車を停めて展望台があるスペースがある。小鮒さんが途中で並んでジェスチャーで寄るように仕草をした。わたしは大きく頷いた。そして次のスペースにバイクを停めた。
「上手いじゃない。あれだけ走れればどこでも大丈夫だね。今度は何処に行こうか?」
「まだ目的地に着いていないのに気が早い!」
「そうか。でも行こうよまた」
 そう言った小鮒さんの視線が眩しいと感じる。こんな感じは生まれて初めてだった。
「うん行きましょうね」
 そんな返事をした。本当はもっと何か言いたかったが言葉が出なかった。嬉しかったし、もっと喜びを表したかったのだが……。
「あともう少しだからね」
 小鮒さんがスマホで地図を見せてくれた。現在位置を確認するとたしかにあと僅かで頂上だった。
 再び走り出す。いいお天気で走るには最高の日だと感じた。また暫くワインディングロードを楽しむと「この先頂上」と書かれた看板が見えて来た。
 登りきると、やや広めの駐車場と売店を伴った休憩所があった。駐車場のバイク置き場にバイクを停める。隣に小鮒さんのバイクが並んだ。
「思ったより順調に着いたね」
「そうですね。楽しかったです。バイクを操っている時は頭が真っ白になりました」
 わたしの言葉を聞いて小鮒さんがは
「それがバイクの魅力だよね。そしてライダーの実力はツーリングで伸びると思ってるんだ」
 ツーリングがライダーの実力を伸ばす……父も常々そう言っていたと思いだした。
 小鮒さんが休憩所に入って売店でお茶を二本買ってくれた。もうそのことはありがたく貰っておくことにした。わたしはバッグからおにぎりの包と唐揚げの入ったタッパを出した。
「どうぞ」
 そう言って差し出すと小鮒さんは一つを取り出して口にした
「おいしいよ。塩加減が丁度いいね」
 それがお世辞では無いようで本当に美味しそうに食べていく。わたしも一緒に食べながら心の底に暖かい感情が湧き上がるのを感じていた。
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