2018年05月

「氷菓」二次創作 「最後の星ヶ谷杯」

 あれだけ祈ったのにも関わらず、今年も雨は降らなかった。昨年、一昨年と祈る事の無駄を悟ったはずなのに、今年も祈ってしまったのだった。
 神山高校の行事で嫌なものの一番手に来るであろうマラソン大会。正式には「星ヶ谷杯」と言う。何でもかって長距離種目で日本記録を打ち立てた卒業生にちなんでるという事だが、それ以上は知らない。
 学校の裏を一周するのだが、その距離は二十キロだ。半端な覚悟では走れない。尤もこの距離をちゃんと走ろう等と考えて実行するのは一部の生徒だけだと思う。殆どの生徒。それも文化系の部活に籍を置いている者は部分的に走り、部分的に歩くという行為を繰り返すのだ。もちろん俺もその考えに賛成をする。
 一昨年は何事も無かったのだが、昨年は少々事件が起きた。それを解決する為に、いや解決はされなかった。ただ俺の気が晴れただけの事だった。それでもあの行為が全く無駄にはならなかったのは、その後大日向が復帰してくれた事で判る。
 今年は部分的だがゲリラ豪雨の可能性もあると予報が出ていたが、朝起きてみると雲ひとつ無い快晴だった。天気予報を恨んだ。
「星ヶ谷杯」は三年A組からスタートする。順次クラスごとにスタートして最後は一年H組となる。今年は俺は三年A組となったので一番速いスタートとなった。ちなみに伊原はC組里志も同じクラスだ。千反田は二年の時と同じH組だ。このH組というのは所謂進学クラスで理系でも成績上位者が比較的集まっているそうだ。公立ではそんなクラス分けはしないと思いがちだが現実にはハッキリとそうカテゴライズされていなくてもある事だそうだ。文系にもそんなクラスがあるそうだが、AでもCでも無いことは確かだ。
「三年A組、前へ」
 クラス一同の者がスタートラインに並ぶ。その一番後方に位置づけた。
「用意」
 次の瞬間火薬が炸裂して轟音が鳴り響いた。ちなみにピストルを打ったのは総務委員で彼は二年生だと思った。昨年は里志が副委員長だったので俺と大日向のショートカットを握り潰してくれた。今年は総務委員ではあるものの実質OB扱いなので大会の運営には参加していない。長いコースを見張る警備に付いているそうだ。だから里志は一度もこのコースを己の体を使って走る事がないまま卒業するのだ。
 校門を抜けて川沿いに走り一キロほど一列で走ると大きく右に曲がる。ここからが坂となっており難関の始まりだ。今年で三度目だからどこで手を抜けば良いかぐらいは三年生は判っており、あまり真面目にこのダラダラした坂を走るものはいない。なんせあと十八キロほどもあるのだ。
 学校の裏手の山道を走って行く。走って行くと言ったのは建前だ。実際は走ってるふりをして歩いているのだ。殆どの生徒はそうしてる。その横を体育会系の部活に入っている生徒が追い抜いて行く。体育会系の弱い神山高校の部員にとってこの日は実力の見せ所だからだ。
 先日、「新入生歓迎会」が行われ、我が古典部にも二人の女性徒が入部してくれた。一人は千反田の知り合いでもう一人は大日向が勧誘したのだった。ちなみに部長は大日向が務める事になった。部長職を外れた千反田の晴れやかな顔は見ものでもあった。
 かなりキツイ坂を歩くように登って行く。このあたりが一番辛いかも知れない。やがてそこを過ぎると僅かだが道が平坦になる。そう言えば昨年はこのあたりで伊原に話を訊いたのだった。同じC組でも今年は伊原はやって来ない。それは俺が昨年より僅かだが真面目に走っているからだろう。
 やがて道は下り坂になるこの辺で全体の四分の一は走った計算になる。その先は平坦になるが、やがて見えて来る小山を登る事を知っている上級生は油断はしない。そう言えば里志はどのあたりに居るのだろうか?

 暫く、ゆっくりとだが走り続ける。その間に色々な事を考える。古典部に入部した一年生は横手深雪と笹原華音という女生徒だ。名字でも判る通り横手深雪はあの横手さんの親類にあたる。当然千反田も知っていた。親類縁者では無いものの
「歳が近いので小さい頃は一緒によく遊びました」
 そう言って嬉しそうな顔をした。俺は千反田が誘ったのだと考えていたが、どうやら新入生歓迎会の時に机を出して俺と千反田と大日向で色々と話し込んでいたら、それを見て『楽しそうだ』と思ったのだという。その時話していたのは、今年部員が入らなかったら、どうするか? と言う切羽詰まった内容だったのだが、判らないものだ。
 何処までも続くと思われた長い平坦な道が終わり、また道は登り始める。ダラダラと列が続くように生徒が走っている。そんな光景を見ながら山の向こうに黒い雲が現れるのが判った。段々とこちらの方に広がって行く。
「まずいな。ゴールまで降らなければ良いが」
 そう口にしたところ、坂の上から自転車に乗って降りて来る人物が居た。俺の記憶違いで無ければ、あれは里志の自転車のはずだった。
 自転車は勢い良く降りて着て俺の目の前で停止した。
「やあホータロー今年はちゃんと走っているね。でも残念だがここまでだね」
「何故だ?」
「この先がゲリラ豪雨でね。物凄く雨が酷いんだ」
「一過性じゃないのか?」
「雨はそうかも知れないけど、川がね」
 確かに、この先で道は川沿いに進むことになる。
「氾濫しそうなのか?」
「うん、大雨洪水警報が出たんだ。学校側としても万が一と言う事もあるからね」
 時計を確認する。既に一年生も出発してる時刻だった。
「少し遅かったな」
「まあね。それでも一年や二年はまだ学校からそう遠い所を走っている訳じゃないから楽なんだけど、三年生はかなり先まで行って雨に巻き込まれた者もいるんだ。だから何かあっては大変な事になるから中止と決まったんだ」
「それを伝えている訳か」
「そういうことさ。さ、雨も近づいているから、ここから引き返した方が良いよ」
 俺としてもゲリラ豪雨はゴメンだ。里志の忠告どおり引き返そうとしたら、後ろの方から千反田が引きつった顔をして走って来た。伊原も一緒だった。途中で合流したのだろう。それにしても、かなりの距離を走ったのでは無いだろうか、二人共息が上がっていた。
「ああ、折木さん。それに福部さんも……よかったです」
「ここでふくちゃんに逢えてよかった」
「何かあったのかい千反田さん、摩耶花」
 里志の言葉に千反田と伊原は
「一年の横手深雪さんが行方不明なんです!」
「一年生は全員学校に帰って来たのだけど深雪ちゃんだけが居ないのよ」
 そう訴えると
「え、それって……横手さんは何組だったけ?」
「一年A組です。ですから一年では一番先に帰ってるはずなのですが、総務委員が点呼していたら横手さんだけが見当たらないのです。知り合いの総務委員の方から聞きました」
「じゃあ走っているうちに行方が判らなくなったということだね」
 里志の言葉に頷く千反田と伊原だった
「折木さん!」
 まさか俺に探せと言っている訳ではないよな。と思いながら千反田を見ると黙って俺を見つめている
「おれきさん」
「折木あんたの出番でしょ!」
 千反田の二言目の言葉と伊原の刺すような寸鉄で無視するのを断念した
「仕方ない……何か知っているなら話を聞こうか」
「ありがとうございます!」
 一転して千反田の表情が明るくなった。
「それにしてもここで話をするのは不味いよ。もうすぐ雨が降って来る」
 里志の言葉通り、太陽は隠れ黒い雲で空が覆われつつあった。
「ここから少し戻った場所に農作業用の小屋があります。一時的にそこに避難しまよう」
 さすが大農家のお嬢様だ。陣出ではないのに良く知っている。
「黙って使ってもいいのか?」
 万が一と言う事もあるので確認をする。
「大丈夫です。よく知っている方の小屋なので勝手も知っています。福部さんはどうなされますか?」
 確かに里志は俺達と一緒には行動出来ないだろう総務委員としての仕事がある。
「残念だけど僕は更に引き返して三年生と先行してる二年生を引き返えさせなければならないから行くよ。じゃあ! ホータローあとで顛末を聴かせてね」
 里志はそう言うと自転車に跨り俺達の来た方向に走って行った。
「大雨洪水警報が発令されました! 危険ですのでマラソン大会は中止です! すぐに学校に戻って下さい!」
 そう声をかけながら走り去って行った。その後ろ姿を見送りながら
「わたしたちも急ぎましょう。濡れないうちに」
 千反田がそう言って先に走り出した。伊原と俺が後を追う。
 
 千反田が案内したのはコースを少し戻り田圃の中を十メートルほど入った場所に立っている本当の作業小屋だった。千反田は引き戸の扉を開けると
「雨ぐらいなら凌げますから」
 そう言って先に中に入って行った。
「アンタ先に入りなさいよ」
「普通、こういう時はレディファーストだろ」
「別にアンタにレディファーストして貰おうとは思ってないから。それにちーちゃんをひとりにしちゃ駄目でしょう」
 確かに小屋の中を見ると千反田が不安げな笑顔でこちらを見ている。
「ほら」
 伊原に促されて小屋に入って行く。中は農器具や合羽など作業時に使う衣類道具が収まっていた。長椅子が置かれていて、千反田が
「立っているのも何ですから座りましょう」
「でも何で作業小屋に長椅子があるんだ?」
「天気の悪い時に小屋の中でお昼を食べる時に使うのです。ここは長椅子ですが丸椅子を置いている所もありますよ。その方が重ねられて良いと言う方もいます」
 さすがに良く知っている。一番奥に俺、それから千反田、その隣に伊原が座った。その時急に雨が降って来た。みるみるうちに勢いが強まり叩きつけるぐらいになった。

 コースになった道路がみるみるうちに濡れて水溜りが出来て行く。雷も鳴って轟音が轟いている。その光景を見ながら俺は千反田に幾つかのことを訪ねた。入部して日も浅い横手深雪に関して俺は殆ど情報を持っていない。千反田なら俺の知らない情報を持っていると思ったからだ。
「なあ千反田。横手深雪について教えてくれないか」
「はいわたしで知っている事なら何でも」
「まず、印字中出身なんだな?」
「はいそうです。中学時代は陸上部でした。確か五千メートルの中学の県の記録を持っていたと思います」
 その言葉を聴いて伊原が疑問を持った
「それなら何故神高でも陸上に入らなかったの? 確か部活は古典部だけだと言っていたわよ」
 俺もそれは疑問に思った。記録を出すほどの選手なら高校でも続けるのが本来だと思ったからだ。
「神山高校で陸上部に入らなかったのには理由があるんです」
「理由? なあにそれ」
 伊原の疑問に千反田は少し声を潜めて
「わたしも疑問に思ったので古典部に入部する時に尋ねたのです。そうしたら、『陸上は中学でやり尽くしました。高校では新しい自分を見つけたいのです』と語っていました」
「やり尽くしたって……これからじゃない!」
 伊原としてみれば納得のいかない答えだったのだろう
「それは表向きの答えかも知れないな」
 俺の言葉に伊原が
「それはどういう意味?」
「いやつまり、それだけの記録を出した逸材なら神高の陸上部が声を掛けないはずがない。それを断るには最もな理由が必要だった。幸いと言うか不幸にと言うか我が高校の陸上部は強くないしな」
「それって、十年に一人の逸材が入ってしまったら、返って揉め事が起きると言う意味?」
 伊原が何故そんな事を言ったのかは知らないが、一理はあると思った。
「まあ弱い所に逸材が入っても迷惑がられるのが関の山だろうな」
 俺の言葉に伊原が妙な反応をした
「河内先輩と同じことを言うんだ」
「河内先輩って摩耶花さんが漫画研究会にいらした頃の先輩ですよね」
 千反田に突っ込まれ
「あ、いや何でもないのよ」
 笑って誤魔化すが昨年の文化祭でコンビを組んで同人誌を売ったのは知っている。
「家は何処なんだ?」
「はい、南陣出です。あの横手さんの本家からそう遠くない場所です。そう言えばマラソンのコースからも遠くない場所ですね」
「そうか、あのあたりか」
 南陣出と聴いて伊原が
「家に帰った訳じゃ無いわよね。陣出ならコースの後半だものね。わたしたちを追い越さなくてはならないしね」
 そう言って家に帰った訳ではないと述べた。
「そうですね。わたしも家ではないと思います。かと言って学校で無い気がします」
 千反田も同意見なのだろう。
 俺は数少ないが古典部で一緒になった時の横手の様子を思い出していた。髪が千反田ほどではないが割合長く肩を隠す程は伸びていた。一緒に入部した笹原華音がショートカットでどちらかと言うと活発な感じがしたが彼女は運動部に所属した事は無いそうだ。
 細面で一見静かに読書でもしている方が似合う感じだった。恐らく高校からの彼女を見ていれば中学の時に陸上部だったとは思えないだろう。
 暫く古典部での横手の行動ぶりを思い出す。
「千反田、横手は右利きか?」
「はいそうですが」
「ねえ何でそんな事が今重要なの?」
 伊原の疑問は尤もだが今は答えてる暇はない
「最近どこか病院に通院してるとか知らないか?」
「さあ……別に具合が悪かった感じは受けませんでした」
 表を見ると雨が少し小降りになって来た。もう少しすると止むかも知れない。
「南陣出に行くにはこのまま先に進んだ方が速いかな?」
 俺の言葉に千反田は
「そうですねその方が速いですね。もうコースは後半ですからね」
「ええ、学校に帰るのじゃなく陣出まで行くの?」
 伊原が驚いた表情でつぶやく
「別に先に帰っても良いんだぞ。里志に連絡さえ取れたら良いからな」
「え、ふくちゃんに?」
「ああ、大事な事を頼みたいんだ」
「携帯なら持って来たから連絡は取れるわよ」
「それは有り難いな。じゃぁ早速連絡してくれないか」
 俺の言葉を聴いて伊原は里志に連絡をしてくれた
「あ、ふくちゃん? 今大丈夫? うん折木が何か話があるって言うの。替わるわね」
 伊原はそう言って俺に携帯を寄越した。
「ああ、里志か、そっちはどうだ?」
「どうだもこうだも無いけどね。一年は横手さん以外は問題なく戻っている。二年も殆ど戻って来たね」
「そうか、実は頼みがあるんだ。これから横手深雪を迎えに行くから、俺と伊原と千反田は遅くなる」
「ああ判ったよ。上手く誤魔化せという事なんだね」
「まあそういう事だ」
「それで行き先が本当に判ったのかい?」
「まあ、俺の考えが当たっていれば、そこに居ると思う」
「そうかい。じゃぁ楽しみにしているからね。帰ったら聴かせて貰うよ」
「頼む」
 そう言って携帯を伊原に返した。
「折木、本当に深雪ちゃんの居る場所が判ったの?」
「確実とは言えないが大凡な」
「大凡ってどれぐらいの確率よ」
「そうだな八十%ぐらいかな」
 そこまで言って千反田が
「それ本当なんですね」
 真剣な眼差しで確かめに来たので
「ああ、八十は八十だ。雨が止んだら行こう。里志に頼んだから遅れても大丈夫だ」
 コースを見ると雨は止んで舗装道路に水溜りが出来ていた。

 俺を先頭に伊原、千反田と続く。確か陣出まではそう距離はない。
「この先でバス停の『陣出南』に繋がるかな?」
 俺の記憶ではマラソンのコース上にはバス停の『陣出南』はなかった。
「途中で追分がありますのでそこを左です」
 左という事は山の方に行くことになる
「でも何で南陣出に居ると判ったのよ。それにわたしたちを追い越していないのだから物理的に無理でしょう」
 伊原がそう言って疑問を挟む千反田も同意見なのか頷いている
「学校から陣出に行くならどう行く?」
「あ、そうか」
「そうって?」
 伊原は判ったみたいだが千反田はピンと来ないようだ。
「千反田。お前家に帰るのにこのマラソンのコースで帰るのか?」
「ああ、そういうことでしたか!」
 やっと納得したみたいだ。マラソンのコースは大まかに言って学校を基準として反時計回りになっている。陣出はコースの後半で全体の四分の三ほどの位置だ。順目に行くより反対から回ればかなりの短縮になる
「だから、わたしたちと遭わなかったのですね」
「まあ意識的だろうな」
 やがて「陣出南」のバス停が見えて来た。ここまで来て千反田にも横手深雪がどこに居るのか判ったみたいだった。先頭になって先を行く。
「どういうことなの?」
 伊原の疑問に
「古典部で横手の動きにおかしな点があったはずなのだが気が付かなかったか?」
「動き?」
 俺の言葉を聴いて千反田も興味を示す
「折木さんは何か気がついていたのですか?」
「まあ、その時は何とも思わなかったが今にしてみれば納得出来たという事だよ」
「折木勿体ぶらないで教えてよ」
 千反田も頷く
「横手深雪は左膝を痛めていたんだ。だから神山高校では陸上部には入部しなかった。恐らく痛めた箇所が治れば入部も考えたのだろうが、それより新しい事をやってみたかった」
「折木。どうして左膝を痛めていたと判ったのよ?」
 伊原は歩きながらも頬を膨らませている。
「右利きの人間の利き足は通常左足だ。歩く時も通常は左足から先に出る。これは日常の行動でも同じだ。そこで俺は横手の古典部での身のこなしに違和感を感じていたんだ。それが彼女は体を動かす時に必ず右足から先に出していた。古典部には今の所左利きの人間は居ない。だから酷く目立ったんだ。それを覚えていたんだ」
「じゃあ左の膝を痛めていたから利き足の左を上手く使えなかったという事?」
「そうなるな」
「それは判りましたが、どうして今日のマラソン大会をエスケープなどしたのでしょう」
「その答えはこの蔵の中に居る横手自身に尋ねれば良い」
 俺たち三人は横手本家の蔵の前に居た。そうあの時千反田が隠れていた蔵だった。
「千反田声をかけてみてくれ」
 俺の頼みに千反田が蔵の扉の外から声をかける
「深雪さん。えるです! 中にいらっしゃるのですか?」
 少し間があって声が聴こえて来た
「えるさん……どうしてここが?」
「折木さんが考えてくれました」
「折木先輩が……」
「伊原さんも心配して来てくれています」
「深雪ちゃん。大丈夫だからね」
 やがて静かに扉が開いた
「ご心配おかけして申し訳ありませんでした」
 出て来た横手深雪は深々と頭を下げた。
「深雪さん膝が悪かったのですか? それなら正式に欠場すればよかったのに」
 千反田がそういうと横手深雪は首を横に振り
「膝は大分良くなって来たんです。ムリすれば走れない事はありませんでした。でも陸上部の先輩達が『今日の結果を楽しみにしてる』と言われ怖くなったのです。元々陸上は好きで入った訳ではありません。友達のついでで入ったのです。それなのにわたしの記録が良いものだから途中で辞められ無くなってしまったのです。そうしたら記録を出した後で練習中に膝を痛めてしまいました。わたしはこれは好都合だと思いました。幸い中学では受験に備えて部活を引退する時期でしたので、膝の事は殆ど知られませんでした。そして神山高校に入学したのです」
「そうだったのですね。だから今日が来るのが怖かったのですね」
 千反田の言葉に横手深雪は頷きながら幾度も頭を下げた
「それにしても折木先輩は何故わたしがここに居ると判ったのですか?」
 横手深雪の疑問に千反田と伊原が
「そう、それを知りたいです」
 そう言って迫って来たので理由を説明する
「まず、千反田と横手は幼馴染で一緒に遊んでいたという。更に千反田は幼い頃から何かあるとこの蔵に隠れるような事もあったと聴いた。恐らく幼い頃から二人はこの蔵を中心として遊んでいたのだろう。だからここに来ると精神的に落ち着くのだと理解した。それにここはマラソンのコースを逆に走るとそれほど時間がかからず到着する。殆どの者は誰も知らない。一時的に身を隠すには最適だった。恐らく時間を見てコースに復帰するつもりだったのだろう。だが誤算が起きた」
「それは雨ですか?」
 千反田が答える
「そうゲリラ豪雨が起きた。こればかりは予測出来なかった。降る雨を見ながら帰る潮時を見失ってしまったのだろう」
「何で折木はそこまで判るのよ?」
「だから俺たちが迎えに来たんだ。皆心配してるぞ一緒に帰ろう」
 千反田が右手を差し出すと横手深雪は嬉しそうにその手を取った。

 後日。横手深雪は総務委員会から注意を受けただけで済んだ。彼女は正式に陸上部への入部を断った。
「でも折木先輩の洞察力って凄いですね。驚きました」
 古典部皆が揃った席で横手深雪がそう言って笑っている
「そうよ。古典部で油断ならないのは折木奉太郎その人なんだからね」
 大日向が何時ものように大げさにすると
「失礼ですがえるさんから何時も聴いていた折木先輩の印象と違うので戸惑いました」
 その言葉を聴いた大日向と伊原が
「ちーちゃん。普段はどんな事言ってるの?」
「千反田先輩が折木先輩の事どうのように言っているのか興味があります!」
 そう言って千反田に迫って来た。俺も正直興味があるので文庫を読む振りをして聞き耳を立てる。
「そんな特別な事は言っていないですよ!」
 千反田がそう言って二人から逃げ惑うのだった。

 

「氷菓」二次創作 「奉太郎の誕生日」

 神山祭も終わり、この街に本格的な春がやって来ました。宮川を流れる水の音も軽やかに聴こえます。
 その四月も終わろうかと言う日、わたしは飛騨一ノ宮の駅前で人を待っていました。
 東京あたりなら暖かいので着るものは単衣を着てる方もいらっしゃるかも知れませんが、神山では桜が終わろうとしている時期ですのでまだ袷です。
 今日の出で立ちは薄い桃色の地にこの時期しか着られないであろう桜の花があしらわれたものです。帯は藍に小さなサクランボが描かれたものにしました。本来なら髪も結い上げるのですが、今日逢う方が
「ポニーテールも見てみたいな」
 そう希望したので、それにしました。今日に限ってはどんな頼みも聞き入れなくてはなりません。だって四月二八日は彼、折木奉太郎さんの十八歳の誕生日だからです。十八歳です! もう選挙に行けるのです。それに親の承諾が要るとはいえ結婚も出来るのです。凄いと思いませんか? まあ、わたしも今年中には十八歳になるのですけどね。
 盛りを過ぎたとはいえまだ見られるとの情報を貰ったので今日は臥龍桜を見て水梨神社にお参りをしようと約束したのです。
 わたしは家からさほど遠く無いので歩いて来ました。折木さんは自転車で来ると言っていました。駅の時計を見ると約束の時間です。その時
「悪い、遅くなってしまった。待ったか?」
 後ろから声が聞こえました。振り返り
「いいえ、今し方来た所ですよ」
 そう言って着物の袖を掴んで手を広げながら振り返ります。こうすると柄が良く見えるのです。
「おお、綺麗だな。良く似合ってるよ。でもまさか着物姿で来るとは」
「今日は折木さんの誕生日です。それも十八歳です。今日から選挙権もあるのですよ。大事な日です。だからわたしも折木さんに喜んで貰えるようにしました」
「そうか、俺だけの為にしてくれたんだな。俺は果報者だな」
「そんな……折木さんが喜んでくれたなら本望です」
 そうなのです。幾日も前からお祖母様に相談してこの日に何を着て行くか相談したのです。お祖母様は
「この時期しか着ることが出来ない柄が良いと思うわね」
 そう言ってこの柄を勧めてくれました。

 臥龍桜は駅を水梨神社とは反対側の陸橋を降り、小さな道路を渡ると目の前です。多分飛騨一ノ宮の駅のホームからも見えるでしょう。
「おお綺麗だな。満開を過ぎてしまったが、桜吹雪が綺麗だ」
「毎年見ているのですが今年は咲く時期が神山祭と重なっていて、それはそれで良かったです」
 折木さんはわたしの右側に立って、そっと左手を差し出してくれます。わたしは右手を出して折木さんの手を握ります。
「カメラ持って来たんだ。桜をバックに撮ろう」
 折木さんは小型のデジカメを持っていました。
「はい」
 わたしは、桜の前に立って少し畏まります。
「少し笑った方が良いぞ」
 折木さんがそう言ったので緊張しているのが判りました。おかしなものです。普通に写真を撮られるだけなのにです。
「それじゃ写すからな」
 そう言って折木さんは数枚の写真を撮影しました。ちゃんと撮れたでしょうか? そう思っていたら、
「良かったら写してあげますよ」
 男の人にそう言われました。恋人同士だと思われたのでしょうか? 嬉しくなります。
「はい笑って!」
 お互いに緊張していたのでしょう。そんなことを言われてしまいました。
「ありがとうございます!」
 お礼を言ってカメラを受取ります。折木さんが画像を確認して見せてくれます。
「綺麗に写っているよ」
  見せてくれた写真は小さかったですが、良く写っていました。
「あとで印刷して渡すから」
 楽しみが増えました。

 駅の反対側に回り、益田街道の交差点を過ぎると神橋を渡ります。下の宮川を見て折木さんが
「ほら花筏になってる」
 その声に川面を見ますと駅を超えて飛んで落ちた桜の花びらが花筏を作っていました。
「綺麗ですね」
 この時期にしか見られない光景です。
 渡ると水梨神社です。階段を登りお参りをします。いつも来なれているはずなのに、今日は何時もと景色が違って見えます。
「何をお願いしたんだい?」
「志望校に合格する事と……」
「後は?」
「秘密です」
 そうです。これだけは言えません。わたしが、どんなに折木さんと一緒にいられることを望んでいるのか……。
「この後はウチに寄って下さいね。わたしが腕を奮って美味しいものを作りますから」
 わたしの申し出に折木さんが優しく頷いてくれました。

                             <了>
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