四月になってすぐに千反田の家の傍にある水梨神社で「生き雛まつり」が行われた。これについては別に話す事もあると思うので又の機会にする。結果だけ言えば千反田にとって最後の雛となった。俺はそれを十二分に楽しませて貰った。
  ところで俺は今、フライパンを左手に持って野菜と豚肉を炒めている。時々ひっくり返して万遍なく火が通るようにしているのだ。
 え、昼飯でも作っているのかだって? まあ当たらずとも遠からずと言っておこう。俺の隣には千反田が白地にピンクの柄のエプロンをして立っている。良く似合っている。千反田は手際よく野菜を切って野菜サラダを盛りつけている。
「折木さん、野菜は火が通ればそれで結構です。用意した調味料を入れてください」
 ここは俺の家の台所だ。姉貴は会社の研修で海外に行っていて暫くは帰って来ない。親父はいつもの通り出張だ。従ってこの家には俺しか居ないのだ。その事を「生き雛」の時に話したら
「それでは食事なんかどうなさっているのですか?」
 そんなことを尋ねてきたので
「別にいつもの通りさ。適当にしてる。冷蔵庫に残り物があればそれで何か作るし、無ければスーパーにでも買い出しに行けば良い。こういう事は今までも良くあったしな」
 そうなのだ姉貴が家に居ないのはほぼ日常だった。大学に行っているときは講義がある期間は家にいなかったし、休みの時は大体旅行に出ていた。
 だから千反田に不自由を問われてもピンと来なかったのだ。だが、千反田はそうではなかった。
「そうだ! 春休み中に折木さんのお宅にお邪魔させて戴いて、わたしが何か作くりましょう。幾品か拵えておけば二三日は大丈夫ですし」
「千反田。それは有り難いが、俺は今までも適当にやって来た。わざわざ来てくれなくても大丈夫だぞ」
 俺がそう言うと千反田は頬を膨らませて
「お邪魔しては駄目ですか?」
 そう言って訴えるような目をした。
「いや、お前さえ良ければ構わないが、大変じゃないのか?」
 実は俺も本気で大丈夫と言った訳ではない。心の何処かでは『春の一日千反田と二人だけで過ごすのも悪くはない』そう思いかけていたのも事実なのだ。
 千反田は家から色々な野菜を持って来てくれた。自転車の前の籠と後ろの荷台には野菜で溢れ返っていた。これだけの量の荷物を乗せてあの坂を登るのは女子にはキツかったと思う。そのことを問うと
「わたし、これでも体力は自信があるんです。それに陣出の坂は慣れていますから」
 そんな答えが返って来た。そう言えばコイツは長距離走が得意だと言っていたことを思い出した。

 フライパンの中の炒まった野菜と肉に千反田が作ってくれた調味液を入れる。「ジュワー」と言う音と共に炎が燃え盛る。急いで中身をかき混ぜる。
「絡まったら出来上がりか?」
「はい、そうです。そこの器に盛りつけて下さい」
 横を見ると千反田が大きめの皿を出しておいてくれた。こんな皿ウチにあったかと思っていたら
「先日、供恵さんに伺っていたのです。そうしたら食器棚の下の扉の中にあると教えてくださいました」
「何だと! 姉貴が知っていたのか?」
「はい、お留守の間にお邪魔致しますので、一応ご挨拶するのが礼儀だと思いまして」
 何のことはない。またしても俺は姉貴の手の平で踊らされたのだ。
「でも、心配なさっていました。『一人だと面倒くさがって、ろくなものを食べないから良かった』と」
 ろくなものしか食べていない訳ではないが、それはそれで千反田が来る理由にはなると思った。

 テーブルには千反田が盛りつけた野菜サラダ、それに俺が炒めた野菜炒め。それに千反田が今朝自分で作って来たという豆腐が冷奴として乗っている。
「ご飯は炊けていますから、お味噌汁を作りましょう」
 千反田は皮を剥いてスライスして水に入れておいたジャガイモを出汁張った鍋に入れると火にかけた。やがて沸き始めると今度は戻してカットしたワカメを鍋に入れた。
「スライスしたジャガイモは直ぐに火が通るので、味噌を入れてしまいましょう」
 千反田は持って来たタッパを開けた。
「家で作っている味噌なんです。どうしても折木さんに食べて戴きたくて」
 茶色の味噌をお玉に取ると箸で少しずつ溶かしはじめた。
「出来ました。食べましょう」
 戸棚から俺が取皿と茶碗と箸。それにお椀を二人分出すと、千反田が電気釜の蓋を開けてご飯を盛り付ける。ご飯はキラキラと光っていて湯気を立てている。正直、この千反田米を食べられるだけでも嬉しい。最後に千反田が味噌汁をよそうと支度が出来た。
「さあ出来ました。食べましょう」
 テーブルを挟んで向かい合う。
「いただきます!」
 食べようとしてつい前の千反田に視線が行く。千反田は味噌汁に口をつけてからご飯を一口食べて取皿に野菜炒めを取ろうとして俺の視線に気がついた。
「折木さん。そんなに見つめては恥ずかしいです」
 ほほを染めた
「あ、すまん。つい見てしまった」
 俺がそう言うと千反田は茶碗を移動させて、俺の隣に座った。
「ここなら折木さんの隣ですから」
 そう言って嬉しそうな顔をした。それにしても近い。千反田の体温も感じるほどだ。
「どうしたのですか、食べないと冷めてしまいます」
 その声に我に返り箸を動かす。口に入れた艷やかな千反田米はやはり味が違う。
「お味噌汁も飲んでみてください」
 千反田は盛んに味噌汁を勧める。一口飲んでみると、味噌が旨い。市販のものとは基本的な所が違っていると思った。
「旨いな。やはり違うよ」
 俺の言葉を聞いて嬉しそうな顔をした。
「折木さん口を開けて下さい」
 いきなり千反田がそんな事を言うので口を開くとそこに千反田が自分の箸で自分の茶碗のご飯を摘んで俺の口に入れた。
「ん、」
「驚いてモグモグしている折木さん。可愛いです」
 嬉しそうにはしゃいでる千反田を見て俺も嬉しくなった。
「将来は毎朝、こうして一緒に朝ごはんを食べれたら幸せですね」
 千反田はそう言って箸を持ったまま右手を俺の左腕に絡める。
「もしかして来年の今頃のことか?」
 千反田は返事の代わりに俺の右腕を更に強く絡めるのだった。そういえば冷凍庫にハーゲンダッツのチョコレートアイスが入っていることを思い出した。

                                  <了>