千反田にとっては、伯父の関谷純がインドで僧侶になっている可能性があると言う事は、恐らく生死は判らなくとも、行方不明後の行方が少しでも判ったのは自分の今後の進路を決める上で何かを変えた可能性があると俺は考えていた。
だが、そんな事が問題にならないほど大変な事が俺と千反田の上に起こったのだった。
歳明けの日、その日は明け方から枕や布団の感じが何時もと違っていたのだが、眠かったのでそのまま寝ていた。
と、不意に枕元の目覚ましが鳴り出した。音源の方に手をやって目覚ましのスイッチを 切ろうとしたが、目覚ましの手触りが違っていた。
『はて、いつもは目覚ましは窓際に置いてあるはずだが、何故今日に限って枕元にあるのだろうか? それに目覚ましそのものの形も違った感じだ』
そんな事を思いながら目を開けると天井が見えた。朝起きて天井が見えるのは当たり前の事だ。よっぽど寝相が悪くなければ、それが見えるのが普通だった。
だが、それは見慣れた天井ではなかった。俺の部屋の天井はボードで白いクロスが貼ってある。細かい文様はあるが一見無地に見えるもののはずだった。だが俺が今見てるのは純日本間で使われる木の板がはめ込まれた天井だった。良く旅館に泊まるとこんな天井にお目にかかる。だが俺は旅行に行った記憶は無かった。
静かに自分の周りを見渡して見る。左右は襖となっており、足下と頭の方は壁となっていた。足下の方には机と椅子があり、その横には制服が掛けられていた。見慣れた制服だったが、俺のでは無かった。それは神山高校のそれで、しかも女子の制服だった。どうやら俺は人様の家寝てしまったらしい。でも昨夜、俺は自分の部屋で寝たはずなのだが……。
部屋の外で人の声がした。何を言っているのかは聞き取れなかったが、姉貴やオヤジの声ではない事は確かだった。
そっと起きあがって見て部屋を詳しく見渡すと、この部屋に見覚えがあった。俺の記憶が正しければここは千反田の部屋だった。畳の上に敷かれた二枚の布団。そして俺に掛かってる毛布と羽毛布団。寝具はかなり良いものだと思った。俺は記憶に無いが千反田の家に泊めて貰ったのだろうか?
それにしても肝心の千反田は何処にいるのだろうか?
まあ、幾ら俺の部屋で一緒に抱き合ったからと言って一線を越えていない関係だから、あからさまに一緒に寝るなんて事にはならないだろうが、通常ならこの部屋に千反田が寝て俺が客間に寝るのが筋だと思った。
そんな事を考えていたら廊下側の襖が開いた。
「える。早く起きなさい。神棚の方にはわたしが若水を上げたから仏壇の方はお願いね」
千反田の母親だった。これは不味いのでは無いだろうかと思っていると、母親はさっさと行ってしまった。何故だろうか、俺を千反田と間違えたのだろうか……そんな事はない。あるとすれば、あり得ない事だが俺が千反田になってしまったと言う事だと思った。飛び起きて部屋にあった鏡に向かう……そこには驚いた表情をした千反田が立っていた。夢かと思い顔を叩いて見る。間違いない。これは現実だ。俺は意識が千反田の体の中に入ってしまったと言う事だ。大変な事になった。
今日は確か元旦だ。元旦の千反田家は大変だと昨年千反田も言っていた。夕方まで訪問客に愛想を振りまいて「良い子」を演じていなくてはならない。そこまで考えてトイレに行きたくなった。トイレの場所は覚えている。あの時この家で迷った事が役立つとは思わなかった。
急いでトイレに行き雉をを打つ。ん? これもそう言うのだろうか。そんなことを考えてしまう。
済ませて部屋に帰って何か着なければならない。何せ俺はパジャマのままなのだ。千反田の事だから寝るときは寝間でも着てるのかと思っていたが普段はパジャマだったのは意外だった。
幼い頃から姉貴の着替えを見ていたから千反田の体でも着替えるには迷いは無かった。下着も無事に着る事が出来た。姉貴はブラジャーのフォックは前で停めて後ろに回しているので、俺もその通りにした。それにしてもブラジャーをしていないと胸が揺れて気持ちも収まらないと判った。少し自分で触ってみたが、あの時俺の部屋で触った感触と同じだった。悪くはない! と言うより改めて千反田の胸の大きさを確認出来た。
そんなことより千反田の母親が言っていた用事を済ませねばならない。台所に行くと恐らく仏壇に供える湯飲み茶碗の様なものが置いてあった。これに水を汲んで仏間に持って行く。
急いでいたら注意された
「える。どうしたのですか。寝坊したからと言ってそんなに乱暴な歩き方はいけませんよ」
俺としてみれば普通だったのだが千反田はこんな歩き方はしないのだろう。
用が済むと急いで俺の家に電話を掛ける。恐らく俺と千反田の中身が入れ替わっているのなら、向こうでも戸惑っていると思ったからだ。電話をすると直ぐに千反田が出た。正確には体は俺だが中身が千反田と言う事だ。
「もしもし、折木ですが」
「俺だ」
「あ、折木さん。良かった……じゃなくて、もしかして、わたしの体になってしまっているのですか?」
「ああそうだ。驚いたよ。今、仏壇に水を上げた所だ。とりあえずこの後はどうなるんだ?」
「ええと、まず家族揃ってお雑煮を食べます。その後着替えてお客様の相手をします。もっともこれは、笑顔で会釈して相づちをしていれば良いです」
「そうか、良い子をしてればいいな」
「はい、そうです」
「着替えるって俺は着物を自分では着れないぞ」
「ああ、そうですね。では着付けを祖母に頼んで下さい。祖母は感が良いから何か言われるかも知れませんが、味方になってくれると思います。そして夕方には荒楠神社に挨拶に向かいますから、そこでお逢いしましょう」
「判った。昨年と一緒だな。とりあえずボロを出さないように頑張るよ」
「お願いします。ところで、わたしは何をすれば良いのでしょうか?」
「そうだな。ヤドカリの生態模倣かな」
「え?」
「つまり、オヤジも姉貴も居ないはずだから、好きにしていれば良い。適当に時間を潰してくれ。それから待ち合わせの時間は昨年と同じ頃で良いのか?」
「多分大丈夫だと思います。それから……」
「どうした?」
「先ほどトイレに行ったのですが、立ってするのが初めてだったので自信が無いので結局座ってしました。それとトイレを済ませたら大きさが……すみません」
「あ、そうか、何でも良いよ。上手くやってくれ。俺の方は特に問題はない。姉貴を見て育ったからな。それじゃ夕方にな。何かあればまた連絡する」
「お願いします」
千反田にはそう言ってはみたが俺だって今日一日千反田えるを演じる自信なぞ無い。そんな事を考えていたら台所から呼ばれた
「える、朝のお雑煮よ」
「はーい。今行きます!」
そう返事をして行くと。鉄吾さんと母親。それのお婆さんが座っていた。
「あけましておめでとうございます」
俺がそう挨拶をすると三人が揃って
「あけましておめでとうございます」
挨拶を返してくれた。千反田のお婆さんは前に一度だけ見た事があるが俺を見ると不思議そうな表情をした。もしかしたら気がついているのかも知れない。
母親が雑煮をよそってくれたので、有り難く頂戴する。食卓にはお決まりのおせちが並んでいたが俺は雑煮以外は口にしなかった。
「わたしが片づけます」
多分千反田なら、そんな事を言うのではないかと考えた。
「お昼はお客様もお見えになるから客間ですからね。える、着替える前に手伝ってね」
「判りました」
何をするのかは判らないが、とりあえずそんな返事をする。元に戻るまでバレてはならない。
結局、手伝ったのは客間で昼食を食べる用意だった。座布団を並べたり、箸を置いたりする作業だった。確か「生き雛祭り」の時は業者が入っていたはずだったが、正月はそうも行かないのだろう。
手伝いが終わると祖母の部屋に赴いた。
「あのう……」
俺が話をする前に
「あんた。えるでは無いでしょう。多分えるが好きな折木君じゃないのかしら」
判っていた! 正体がバレていた。
「判っていたのですね」
「台所で逢った時から判っていたよ」
「自分でも判らないのです。急いで折木の家に電話したら、俺の体に入ったえるが出ました」
「やはり……昔から、たまにこの家にはそんな事もあったそうだからね。直ぐに元に戻るから安心しなさい」
その言葉は俺を安心させてくれた
「着物を着たいのでしょう?」
「はい。夕方にえると逢うのですが、それまではえるを演じていなくてはなりませんので」
「じゃあ、着付けてあげましょう。着物はえるの部屋にあるから」
お婆さんはそう言って一緒に付いて来てくれて、着物や帯を選んでくれた。
「えるは若いから地味な色が似合うのよね。若いうちしか着られない色や柄ってあるから」
結局、葡萄色に赤い牡丹の柄の入った着物に濃い緑色の帯を選んでくれた。羽織は昨年と同じものになった。
「髪も拵えてあげましょうね」
お婆さんは鏡の前に俺を座らせると、千反田の居長い髪を櫛で解いてアップにしてくれた。そこに珊瑚の飾りのついた簪を刺してくれた。
「よく似合うわ」
確かに鏡の向こうには美しい千反田が居る。葡萄色の地に赤い牡丹の花が咲いている着物を着た千反田が立っていた。素直に美しいと思った。でもこれは俺の今の姿なのだ。何か変な感じがした。俺が俺に恋いしてる。敢えて言うならそんな感じだった。
来客中はこれほど時間が経つのが遅いと思った事は無かった。困ったのはずっと正座をしていなくてはならない事だった。そこで足がしびれるとトイレに通った。その他は千反田が言っていたように本当にニコニコしているだけだったからだ。だが陽が暮れるとそれも終わった。俺は鉄吾さんから預かったお酒を風呂敷に包んで貰って、呼んで貰ったタクシーに乗り込んだ。
「荒楠神社までお願いします」
「かしこまりました」
運転手さんがそう言って静かに車は走り出した。
走り出して少し落ち着いたので色々と考える余裕が生まれた。千反田は朝のトイレの事を言っていたが、やはりする時に俺のものを触ったのだろうな。俺もトイレで用を済ませた後はトイレットペーパーを挟んでいたとは言え、間接的には千反田のあそこを触った事になる。考えるとお互いにかなり恥ずかしい事をしていたのだ。
タクシーが到着すると俺の姿をした千反田が石段の下で凍えながら待っていた。そして俺の姿を見つけると顔の表情が明るくなった。
「折木さん!」
姿形は俺なのだが、言葉や仕草が千反田なので何かおかしい。
「とりあえず、家の用事を済ませてしまおう」
「そうですね。それわたしが持ちましょうか」
「そうか、そうだな、外見的にはそれが普通か」
「そうですよ。ほら持っても軽く感じます」
石段を登って行く。俺は千反田のお酒を持っていない方の腕に自分の腕を絡める。俺の姿をした千反田が照れている。なにかおかしい。
「今日の着物はお婆さんの見立てですか? よく似合っていますよ」
千反田は嬉しそうに笑っている。
「ああそうだ。すっかり見抜かれてしまっていたよ。だから正直に話したんだ」
「お婆さんは感が鋭いですからね」
百段を越す石段を登りきり社務所に行き、十文字に挨拶をする。
「新年、明けましておめでとうございます。これは父鉄吾からのお使いでございます。どうぞお納め下さい」
昨年、傍で二人のやりとりを見ていたからすんなり言葉が出た。
「ありがたく受け取らせて戴きます。どうぞよしなにお伝え下さい」
「える。何だか今日は何時もと感じが違うわね。さては折木くんと何かあったのかな?」
十文字は恐らく勘違いして、にやにやしている。俺はどう返事をして良いやら判らずに千反田の方を見ると、千反田は半分笑いながら首を左右に振っている。
「ま、いいか。二人は運命の人なんだからね。お参りしたら、寄ってね。今年は暖かい物を出すから」
十文字にお礼を行って本殿にお参りに向かう。
「かほさんは何か感じていましたね」
「ああ、危なかったな。本当の事を言っても良いが、色々と突っ込まれると困るからな」
「そうですね。特に元に戻った後に色々と訊かれると困ります」
本殿に参拝した後で
「ついでですから稲荷社にも行きましょう」
千反田の提案で更に上を目指した。稲荷社では
『早く、体と心が元に戻りますように』
そんな事をお願いした。そして降りる時だった。千反田と手を繋いで階段を降りていたら、この前降った雪が残っていて、俺の草履がその上に乗って滑ってしまったのだ。その結果、二人でもんどり打って転がってしまった。
「いたたた。千反田大丈夫か?」
「大丈夫です。折木さんは怪我ありませんか?」
「俺は大丈夫」
そう言って己の体を見ると、首から下にはトレンチコートを着ていた。
「戻った! 千反田戻ったんだ!」
俺の言葉に千反田も己の姿を見ると
「本当です! 戻りました!」
「着物は?」
「何ともありません」
「それは良かった!」
「折木さん!
「俺たち……」
参拝客でごった返すのにも関わらず二人で抱き合って喜んだのだった。後で十文字に
「やっぱり。何かおかしいと思ったのよね。でもあのままだったら面白くなったかも知れないわね」
そんな事を言われてしまった。
この事があり俺と千反田の仲は一層親密になったのだった。
<了>
だが、そんな事が問題にならないほど大変な事が俺と千反田の上に起こったのだった。
歳明けの日、その日は明け方から枕や布団の感じが何時もと違っていたのだが、眠かったのでそのまま寝ていた。
と、不意に枕元の目覚ましが鳴り出した。音源の方に手をやって目覚ましのスイッチを 切ろうとしたが、目覚ましの手触りが違っていた。
『はて、いつもは目覚ましは窓際に置いてあるはずだが、何故今日に限って枕元にあるのだろうか? それに目覚ましそのものの形も違った感じだ』
そんな事を思いながら目を開けると天井が見えた。朝起きて天井が見えるのは当たり前の事だ。よっぽど寝相が悪くなければ、それが見えるのが普通だった。
だが、それは見慣れた天井ではなかった。俺の部屋の天井はボードで白いクロスが貼ってある。細かい文様はあるが一見無地に見えるもののはずだった。だが俺が今見てるのは純日本間で使われる木の板がはめ込まれた天井だった。良く旅館に泊まるとこんな天井にお目にかかる。だが俺は旅行に行った記憶は無かった。
静かに自分の周りを見渡して見る。左右は襖となっており、足下と頭の方は壁となっていた。足下の方には机と椅子があり、その横には制服が掛けられていた。見慣れた制服だったが、俺のでは無かった。それは神山高校のそれで、しかも女子の制服だった。どうやら俺は人様の家寝てしまったらしい。でも昨夜、俺は自分の部屋で寝たはずなのだが……。
部屋の外で人の声がした。何を言っているのかは聞き取れなかったが、姉貴やオヤジの声ではない事は確かだった。
そっと起きあがって見て部屋を詳しく見渡すと、この部屋に見覚えがあった。俺の記憶が正しければここは千反田の部屋だった。畳の上に敷かれた二枚の布団。そして俺に掛かってる毛布と羽毛布団。寝具はかなり良いものだと思った。俺は記憶に無いが千反田の家に泊めて貰ったのだろうか?
それにしても肝心の千反田は何処にいるのだろうか?
まあ、幾ら俺の部屋で一緒に抱き合ったからと言って一線を越えていない関係だから、あからさまに一緒に寝るなんて事にはならないだろうが、通常ならこの部屋に千反田が寝て俺が客間に寝るのが筋だと思った。
そんな事を考えていたら廊下側の襖が開いた。
「える。早く起きなさい。神棚の方にはわたしが若水を上げたから仏壇の方はお願いね」
千反田の母親だった。これは不味いのでは無いだろうかと思っていると、母親はさっさと行ってしまった。何故だろうか、俺を千反田と間違えたのだろうか……そんな事はない。あるとすれば、あり得ない事だが俺が千反田になってしまったと言う事だと思った。飛び起きて部屋にあった鏡に向かう……そこには驚いた表情をした千反田が立っていた。夢かと思い顔を叩いて見る。間違いない。これは現実だ。俺は意識が千反田の体の中に入ってしまったと言う事だ。大変な事になった。
今日は確か元旦だ。元旦の千反田家は大変だと昨年千反田も言っていた。夕方まで訪問客に愛想を振りまいて「良い子」を演じていなくてはならない。そこまで考えてトイレに行きたくなった。トイレの場所は覚えている。あの時この家で迷った事が役立つとは思わなかった。
急いでトイレに行き雉をを打つ。ん? これもそう言うのだろうか。そんなことを考えてしまう。
済ませて部屋に帰って何か着なければならない。何せ俺はパジャマのままなのだ。千反田の事だから寝るときは寝間でも着てるのかと思っていたが普段はパジャマだったのは意外だった。
幼い頃から姉貴の着替えを見ていたから千反田の体でも着替えるには迷いは無かった。下着も無事に着る事が出来た。姉貴はブラジャーのフォックは前で停めて後ろに回しているので、俺もその通りにした。それにしてもブラジャーをしていないと胸が揺れて気持ちも収まらないと判った。少し自分で触ってみたが、あの時俺の部屋で触った感触と同じだった。悪くはない! と言うより改めて千反田の胸の大きさを確認出来た。
そんなことより千反田の母親が言っていた用事を済ませねばならない。台所に行くと恐らく仏壇に供える湯飲み茶碗の様なものが置いてあった。これに水を汲んで仏間に持って行く。
急いでいたら注意された
「える。どうしたのですか。寝坊したからと言ってそんなに乱暴な歩き方はいけませんよ」
俺としてみれば普通だったのだが千反田はこんな歩き方はしないのだろう。
用が済むと急いで俺の家に電話を掛ける。恐らく俺と千反田の中身が入れ替わっているのなら、向こうでも戸惑っていると思ったからだ。電話をすると直ぐに千反田が出た。正確には体は俺だが中身が千反田と言う事だ。
「もしもし、折木ですが」
「俺だ」
「あ、折木さん。良かった……じゃなくて、もしかして、わたしの体になってしまっているのですか?」
「ああそうだ。驚いたよ。今、仏壇に水を上げた所だ。とりあえずこの後はどうなるんだ?」
「ええと、まず家族揃ってお雑煮を食べます。その後着替えてお客様の相手をします。もっともこれは、笑顔で会釈して相づちをしていれば良いです」
「そうか、良い子をしてればいいな」
「はい、そうです」
「着替えるって俺は着物を自分では着れないぞ」
「ああ、そうですね。では着付けを祖母に頼んで下さい。祖母は感が良いから何か言われるかも知れませんが、味方になってくれると思います。そして夕方には荒楠神社に挨拶に向かいますから、そこでお逢いしましょう」
「判った。昨年と一緒だな。とりあえずボロを出さないように頑張るよ」
「お願いします。ところで、わたしは何をすれば良いのでしょうか?」
「そうだな。ヤドカリの生態模倣かな」
「え?」
「つまり、オヤジも姉貴も居ないはずだから、好きにしていれば良い。適当に時間を潰してくれ。それから待ち合わせの時間は昨年と同じ頃で良いのか?」
「多分大丈夫だと思います。それから……」
「どうした?」
「先ほどトイレに行ったのですが、立ってするのが初めてだったので自信が無いので結局座ってしました。それとトイレを済ませたら大きさが……すみません」
「あ、そうか、何でも良いよ。上手くやってくれ。俺の方は特に問題はない。姉貴を見て育ったからな。それじゃ夕方にな。何かあればまた連絡する」
「お願いします」
千反田にはそう言ってはみたが俺だって今日一日千反田えるを演じる自信なぞ無い。そんな事を考えていたら台所から呼ばれた
「える、朝のお雑煮よ」
「はーい。今行きます!」
そう返事をして行くと。鉄吾さんと母親。それのお婆さんが座っていた。
「あけましておめでとうございます」
俺がそう挨拶をすると三人が揃って
「あけましておめでとうございます」
挨拶を返してくれた。千反田のお婆さんは前に一度だけ見た事があるが俺を見ると不思議そうな表情をした。もしかしたら気がついているのかも知れない。
母親が雑煮をよそってくれたので、有り難く頂戴する。食卓にはお決まりのおせちが並んでいたが俺は雑煮以外は口にしなかった。
「わたしが片づけます」
多分千反田なら、そんな事を言うのではないかと考えた。
「お昼はお客様もお見えになるから客間ですからね。える、着替える前に手伝ってね」
「判りました」
何をするのかは判らないが、とりあえずそんな返事をする。元に戻るまでバレてはならない。
結局、手伝ったのは客間で昼食を食べる用意だった。座布団を並べたり、箸を置いたりする作業だった。確か「生き雛祭り」の時は業者が入っていたはずだったが、正月はそうも行かないのだろう。
手伝いが終わると祖母の部屋に赴いた。
「あのう……」
俺が話をする前に
「あんた。えるでは無いでしょう。多分えるが好きな折木君じゃないのかしら」
判っていた! 正体がバレていた。
「判っていたのですね」
「台所で逢った時から判っていたよ」
「自分でも判らないのです。急いで折木の家に電話したら、俺の体に入ったえるが出ました」
「やはり……昔から、たまにこの家にはそんな事もあったそうだからね。直ぐに元に戻るから安心しなさい」
その言葉は俺を安心させてくれた
「着物を着たいのでしょう?」
「はい。夕方にえると逢うのですが、それまではえるを演じていなくてはなりませんので」
「じゃあ、着付けてあげましょう。着物はえるの部屋にあるから」
お婆さんはそう言って一緒に付いて来てくれて、着物や帯を選んでくれた。
「えるは若いから地味な色が似合うのよね。若いうちしか着られない色や柄ってあるから」
結局、葡萄色に赤い牡丹の柄の入った着物に濃い緑色の帯を選んでくれた。羽織は昨年と同じものになった。
「髪も拵えてあげましょうね」
お婆さんは鏡の前に俺を座らせると、千反田の居長い髪を櫛で解いてアップにしてくれた。そこに珊瑚の飾りのついた簪を刺してくれた。
「よく似合うわ」
確かに鏡の向こうには美しい千反田が居る。葡萄色の地に赤い牡丹の花が咲いている着物を着た千反田が立っていた。素直に美しいと思った。でもこれは俺の今の姿なのだ。何か変な感じがした。俺が俺に恋いしてる。敢えて言うならそんな感じだった。
来客中はこれほど時間が経つのが遅いと思った事は無かった。困ったのはずっと正座をしていなくてはならない事だった。そこで足がしびれるとトイレに通った。その他は千反田が言っていたように本当にニコニコしているだけだったからだ。だが陽が暮れるとそれも終わった。俺は鉄吾さんから預かったお酒を風呂敷に包んで貰って、呼んで貰ったタクシーに乗り込んだ。
「荒楠神社までお願いします」
「かしこまりました」
運転手さんがそう言って静かに車は走り出した。
走り出して少し落ち着いたので色々と考える余裕が生まれた。千反田は朝のトイレの事を言っていたが、やはりする時に俺のものを触ったのだろうな。俺もトイレで用を済ませた後はトイレットペーパーを挟んでいたとは言え、間接的には千反田のあそこを触った事になる。考えるとお互いにかなり恥ずかしい事をしていたのだ。
タクシーが到着すると俺の姿をした千反田が石段の下で凍えながら待っていた。そして俺の姿を見つけると顔の表情が明るくなった。
「折木さん!」
姿形は俺なのだが、言葉や仕草が千反田なので何かおかしい。
「とりあえず、家の用事を済ませてしまおう」
「そうですね。それわたしが持ちましょうか」
「そうか、そうだな、外見的にはそれが普通か」
「そうですよ。ほら持っても軽く感じます」
石段を登って行く。俺は千反田のお酒を持っていない方の腕に自分の腕を絡める。俺の姿をした千反田が照れている。なにかおかしい。
「今日の着物はお婆さんの見立てですか? よく似合っていますよ」
千反田は嬉しそうに笑っている。
「ああそうだ。すっかり見抜かれてしまっていたよ。だから正直に話したんだ」
「お婆さんは感が鋭いですからね」
百段を越す石段を登りきり社務所に行き、十文字に挨拶をする。
「新年、明けましておめでとうございます。これは父鉄吾からのお使いでございます。どうぞお納め下さい」
昨年、傍で二人のやりとりを見ていたからすんなり言葉が出た。
「ありがたく受け取らせて戴きます。どうぞよしなにお伝え下さい」
「える。何だか今日は何時もと感じが違うわね。さては折木くんと何かあったのかな?」
十文字は恐らく勘違いして、にやにやしている。俺はどう返事をして良いやら判らずに千反田の方を見ると、千反田は半分笑いながら首を左右に振っている。
「ま、いいか。二人は運命の人なんだからね。お参りしたら、寄ってね。今年は暖かい物を出すから」
十文字にお礼を行って本殿にお参りに向かう。
「かほさんは何か感じていましたね」
「ああ、危なかったな。本当の事を言っても良いが、色々と突っ込まれると困るからな」
「そうですね。特に元に戻った後に色々と訊かれると困ります」
本殿に参拝した後で
「ついでですから稲荷社にも行きましょう」
千反田の提案で更に上を目指した。稲荷社では
『早く、体と心が元に戻りますように』
そんな事をお願いした。そして降りる時だった。千反田と手を繋いで階段を降りていたら、この前降った雪が残っていて、俺の草履がその上に乗って滑ってしまったのだ。その結果、二人でもんどり打って転がってしまった。
「いたたた。千反田大丈夫か?」
「大丈夫です。折木さんは怪我ありませんか?」
「俺は大丈夫」
そう言って己の体を見ると、首から下にはトレンチコートを着ていた。
「戻った! 千反田戻ったんだ!」
俺の言葉に千反田も己の姿を見ると
「本当です! 戻りました!」
「着物は?」
「何ともありません」
「それは良かった!」
「折木さん!
「俺たち……」
参拝客でごった返すのにも関わらず二人で抱き合って喜んだのだった。後で十文字に
「やっぱり。何かおかしいと思ったのよね。でもあのままだったら面白くなったかも知れないわね」
そんな事を言われてしまった。
この事があり俺と千反田の仲は一層親密になったのだった。
<了>