九月一日に新学期が始まるのは以前はどこもそうだったが、最近はそうでもないらしい。世間には八月の末に始まる所もあるらしい。だが、神高は昔ながらのこの日に新学期が始まる。
 始業式が終わり、ホームルームも済むと、部活の無い生徒は帰り支度を始める。我が古典部は今日から活動開始なのだ。正式には今日から新入部員がやってくる。

 特別棟の四階の地学講義室に赴くと。そこには大日向がもう来ていた。
「早いな」
「あ、折木先輩。今日からよろしくお願い致します」
 大日向がそう言ってペコリと頭を下げる。
「ああ、こちらこそよろしくな」
 そう言って何時もの席に座ると、里志と伊原が連れでやって来た。伊原は部屋に入るなり
「ひなちゃん、よろしくね。歓迎するわ」
 そう言って笑顔を見せる。里志も
「よこうこそ古典部へ」
 そう言って右手を差し出した。大日向も
「伊原先輩。またよろしくお願い致します。福部先輩、出戻りですがよろしくお願い致します」
 そう言って二人に頭を下げた。それが終わると今度は千反田が部室の扉を開けた
「わたしが一番遅かったみたいですね。大日向さん。今日からよろしくお願い致しますね」
「こちらこそ本当によろしくお願い致します」
 大日向が四回目の頭を下げて、皆がそれぞれの席に座った。
 古典部は代々、文化祭に文集「氷菓」を作って販売している。昨年は手違いがありかなりの部数を印刷してしまったが、何とか全部売り切る事が出来た。今日は今年の編集会議も兼ねているのだ。既にテーマは決まっていたし、何部印刷するかも決まっていた。今日は、それぞれの原稿について決めるのと、簡単な台割表を作る事だ。
 ここで大日向が
「あの、わたしに編集を手伝わせて下さい」
 そう言い出した。大日向は今日から入ったばかりだし、いきなり文集制作に参加させるのも、如何なものかと思ったのだが
「だって、来年もありますし、来年は先輩達は三年ですから、古典部を引退してるかも知れないですよね。そうしたら、一年生は入っていたとしても、わたしが、どのような文集を作るのか理解して居なかったら駄目だと思うのです。だから今年のうちに色々と勉強させて下さい」
 そう言って伊原を感激させた。伊原は今年は河内先輩と組んだ同人誌の事もあるから、人手は多い方が良い。
「ホント! 助かるわ。色々と教えてあげるからね」
 その日、大日向は里志や伊原と一緒に帰って行った。編集会議は簡単に終わって、台割表は大日向と伊原が作る事になった。
 俺と千反田。それに里志が原稿を担当する。テーマも決まっているし、特に問題があるとは思わなかった。
「さて、帰るか?」
 地学講義室は夏の名残の夕日が長い影を作っていて、廊下側の壁には俺と千反田の影が重なっていた。
「そうですね。下校時間には未だ時間がありますが、最後まで居なくてはならないと言う訳ではありませんからね」
 千反田も立ち上がって自分の鞄を手していた。
「少し散歩してから帰りませんか?」
 千反田の言葉に何か話があると直感した。
 結局、校門を出て宮川沿いを歩く事にした。三福寺町の交差点を右折して万人橋を渡って「宮川緑地公園」に赴いた。
 春なら桜が見事だが、今の時期では葉が茂っているばかりだった。ベンチを見つけて二人で並んで座る。
「今日は風もあって過ごしやすいな」
「そうですね。今年の夏はおかしな天候でした」
 千反田は少し俯いて視線を地面に落としている。やがて
「わたし、駄目ですね。関谷の伯父に『強くなれ』と言われていたのに、あんな事で逃げてしまって……」
 夏休みの期間で、千反田は平素に戻ったと思ったのだが、そうでは無かったようだった。
「家の事を言われて、動揺したからと言って責任ある立場を投げ出して逃げてしまったなんて……『生雛祭り』の時に折木さんに自分の決意を話して、偉そうな事を言ったのに、実際は責任を放り出してしまったなんて……軽蔑されても仕方ない事をしたのです」
 やはり、あの事は千反田の中では終わっては居なかったのだ。
「千反田……それは違うぞ。お前は行くつもりで歌の練習をしていた。単に逃げたのなら、そんな事はしない。行くつもりだったから練習をしていたんだろう」
「でも、結局、皆さんに迷惑をかけて、独唱しませんでした」
「それは、お前のせいではない。誰が歌うかは段林さんが決める事だ」
 千反田は自分なりに努力をしたのだ。それをどう判断するのかは、千反田の責任では無い。
「お前は、最大限の努力をした。そりゃ結果は伴って来なかっただろうが、それは又別な事だ」
「ありがとうございます! そう言ってくれるのは折木さんだけです。とても嬉しいです。今回の事でわたしが一番恐れていた事は、折木さんなんです」
 何だ? 何故そこに俺の名が出て来る。
 呆気にとられた俺の顔を眺めながら千反田は
「本当は折木さんに軽蔑されて嫌われる事が一番怖かったのです。関谷の伯父の言葉を受け継いだはずなのに……あの日誰にも言っていなかった自分の決心を折木さんだけに語ったのに……なのに大事な役目がありながら逃げてしまった……軽蔑されて嫌われても仕方ない事をしてしまったのです」
 見ると千反田の影の顔の部分の地面が濡れている。泣いているのだ。正直、千反田の涙を見るのは辛い。ワイシャツの胸ポケットに入れておいたハンカチを取り出すと千反田に手渡した。
「涙を拭け。お前に泣き顔は似合わない。俺はそんな事でお前を軽蔑したりはしない。俺は常にお前の味方だ。俺がお前の傍に居る限り、俺はお前の味方だ。軽蔑するなんて事はしない」
 千反田は、俺の言葉をじっと聴いていた。そして、俺の差し出したハンカチで涙を拭うと
「ありがとうございます! それを聴いて心強くなりました。正直、折木さんに嫌われたらどうしようかと思っていました」
 安堵した千反田の顔に笑みが戻った。
「なあ、考えたのだが、家を継がなくても、別に農業の道に進んでも良いのではないか?」
「え? それはどう言う事ですか?」
「だから、別に家の家業としての農業ではなく、新しい自分の道としての農業を納めれば良いと思ったのさ」
 あの時、俺は遂に口に出せなかった『経営的戦略目を俺が納ると言うのはどうだろう』と言う言葉はもう必要無くなっているかも知れない。だが、今ならこの事は言えるかも知れない
「なあ千反田。お前が自分の道を歩き始めるまで、俺が傍に居たら駄目か?」
 すっと口に出せた。あれから五ヶ月しか経ってしかないが、俺は更に千反田の事をよく知った。
 マラソン大会の時に後輩の誤解を解いた。俺に付き合って俺の中学時代の教師の過去まで一緒に調べてくれた。一緒に稲荷社を掃除した。雨の中を失踪した千反田を探しに行って千反田の心情を推理した。だから、今なら言える。
「もう一度言う。お前の傍に居ては駄目か?」
 俺の言葉が理解出来ないのだろうか、千反田は口を半開きにして、焦点の合わない表情をしている。
「あの、あの……それって……」
「ああ、駄目か?」
「駄目だなんて……そんな」
 では良いのだろうか? そう思っていたらいきなり千反田が胸に飛び込んで来た
「折木さん!」
 必死で腕を俺の背中に回している。俺も、そっと千反田の背中を手で抑えると
「正直、折木さんに嫌われたらどうしようかとばかり考えていました。今まで築いて来た関係が壊れてしまったら、どうしようかと」
 ワイシャツの胸の部分が少し冷たい。恐らく千反田の涙なのだろう。
「大丈夫だ。俺はお前が求める限り、傍を離れたりしない」
「はい!」
 千反田が涙でクシャクシャになった顔を上げた。
 千反田の背中に両腕を回してしっかりと飽きしめた。この腕を放してはならぬと……。

                  
                                                        <了>