2017年07月

カラスよお前は……

0121 ここの所、庭の隅に置いた猫の餌を目当てにカラスの姿を見かけるようになった。人が見ていない時に餌を喋んでいるらしい。
 どうして、そう思うのかと言うと、猫の姿を見かけ無い時でも入れ物に入れた餌が減っていたからだ。
 最初は、ゴミの袋を破って中の残飯を漁る野良猫に困り、その傍に猫の餌を置いた事が始まりだった。
 数匹の野良猫はゴミを漁るのを止めて餌を食べる様になった。ここで目的は達成されたのだが、その副産物として、猫の餌を他の動物も狙うようになった事だった。その代表がカラスだったという事だ。
 猫の食べ残した餌を狙って朝方に来るのだ。朝に来るカラスだから「明烏」と言いたいがそんな粋なものではない。
「カアーカアー」と朝から鳴いて人の安眠の邪魔をする。猫は黙って食べて行くので世話なしなのだが、鳥と言うか特にカラスは煩くて仕方ない。
 カラスが食べ散らかした後を色々な鳥がやって来る。雀を筆頭に、椋鳥、ヒヨドリ、オナガ等色々な鳥がやって来ては猫の餌を喋んで行くのだ。当然鳴き声も聴こえるが、カラスほど人の感に障りはしない。
 それが最近、そのカラスに鳴き声が二種類ある事に気がついた。始めは単に二匹のカラスが来ているのだと思っていたのだが、どうやら違うらしいと気がついたのだ。
 カラスに詳しく無い人の為に一応書いてみるが、都会に生息しているカラスには基本的に二種類あり、「ハシボソガラス」と「ハシブトガラス」という種類のカラスが居るのだ。
 この二匹の違いは明瞭で、クチバシが細く長いのが「ハシボソガラス」で逆に短く太いのが「ハシブトガラス」である。
 元々、人里に住んでいたのは「ハシボソガラス」で、これは大体大人しいとされている。かの「七つの子」のカラスはこの「ハシボソガラス」だと言われている。
 元々は山に住んでいたのが「ハシブトガラス」で、これは元来狩りをするので攻撃的で気が荒いと言われている。
 昔は、住み分けられていたのだが、山の環境が悪くなり餌が少なくなった「ハシブトガラス」は山里に降りて来たのだ、そうして大人しい「ハシボソガラス」のテニトリーに侵入したのだ。
 大人しい「ハシボソガラス」は逆に山に棲家を求めたり、「ハシブトガラス」の来ない地域に避難したりして暮らしている。
 あなたの街はどちらのカラスが居るか見て見るのも面白いかも知れない。

 ある日の朝、カラスの声で目が覚めて、庭を覗くとカラスが猫の餌を喋んでいた。元々人の姿を見ると一時的に避難するので、カラスには構わずガラス戸を開けると、案の定驚いたカラスは飛び立ってしまった。
 普通ならそこで終わりだが、飛び立ったカラスは戻って来て塀の上に止まってこちらを見ているのだ。
「なんだこいつ?」
 そう思って近づいても逃げる素振りをしない。『図々しい奴」だと思ったが、逃げないのでは仕方ない。荒っぽい事をしてカラスに逆襲されるのは御免だ。
 そのカラスのクチバシが短くて太い事に気がいた。
「こいつ『ハシブトガラス』か、どうりで図々しいと思った」
 そう呟くと、カラスは首を傾げて俺の言葉を聴いているような素振りをした。
 カラスは俺が家の中に入ると直ぐ様餌を喋み始めた。
 別な日の事である。空が曇って「雨模様」の朝だった。その日もカラスの声が聴こえた。だが何か違う感じなので庭に出て見ると、カラスが一羽、猫の餌を喋んでいた。その姿を見て何時も来るカラスとは違うと直感した。喋んでいるクチバシが長がかったので「ハシボソガラス」だと思った。躰も「ハシブトガラス」に比べるとスリムというが細い。
 俺の姿を見て少し驚いた様子だったが、最後まで餌を喋んでから俺の姿を目に止めた感じだった。それから大きく首を縦に動かすと、羽を広げて飛び立って行った。俺には礼をしたように感じた。
 それから注意深く観察していると、「ハシブトガラス」が来てる時は「ハシボソガラス」は決してやっては来ない。
 だが「ハシボソガラス」が居る時に、たまにだが「ハシブトガラス」がやって来て「ハシボソガラス」を追っ払ってしまう事がある。この時は何故か「ハシブトガラス」を憎いと思ってしまう自分に気が付き可笑しくなった。
 猫の餌を取られる事には違いが無いのに……。

僕にとっての夏休み

 あれは僕が中学一年生の時だった。
 その頃、僕は母方の叔父の家に夏になると遊びに行った。夏休みのうち半分ほどを緑に囲まれた山深い叔父の家で過ごす事が多かった。
 勿論、長逗留するのは僕だけで、母も父も弟さえも二、三日で東京の家に帰ってしまった。
「明彦は田舎が好きなんでしょう」
 僕だけが取り残される理由を問うた時の母の答えだった。言っておくが僕は特別田舎が好きな訳ではなかった。なかんずく、田舎の夜になると窓いっぱいに群れる蛾や見たこともない虫が鳥肌が立つほど嫌いだった。その頃の僕は休みにはゲームをしたり、録画しておいたアニメを見たりするのが休みを過ごす日常で、太陽の下、表で遊ぶ等と言う事は考えもしなかったのだ。
 その年も夏休みになると家族四人で叔父の家に遊びにやって来たが、二泊もすると何時も通り僕だけを残して三人は帰って行った。帰り際に二歳下の弟が
「にいちゃん、二学期までには帰って来てね」
 そんな事を言って僕の顔を見ないで車に乗り込んだ。その時はその意味が全く判らなかった。退屈な田舎暮らしが、また続くと思っていただけだった。
 叔父の家には二つ歳上の女の子が居る。明美と言って田舎には珍しいくらいの美人で、中学でもマドンナ的存在だという。だが、僕にとっては従姉妹であり、この家で唯一の同じ価値観で話せる人間だった。
「明、明日、瀧に行こうよ。久しぶりに明と一緒に泳ぎたい!」
 元より、嫌な訳はなく、毎年この先にある滝壺で泳ぐのも楽しみだったのだ。それは色々な意味でだった……

 翌朝、早くに起こされて、叔父の自転車を借りて明美と一緒に走りだした。明美は白いシャツに赤いスカート姿だった。赤と言っても何回も洗濯して色あせてしまった赤だった。明美にとって普段着、それもどちらかと言うと下の方の服だったのだろう。夏の風を受けて明美のシャツの前が膨らんだ。下は何も身に付けていなかった。僕はそれを横目で見ながら明美は水着を着ないで泳ぐのだろうか? と不安半分、妄想半分で自転車を漕ぎ続けた。夏の朝は既に太陽によって充分泳ぎたくなる温度に達していた。
 滝壺に通じる小路に自転車を乗り捨てて草むらを下に滑り落ちるように歩いて行くと程なく瀧の音が聞こえて来る。
「ご~ご~」
 唸るような瀧の音に少しばかり胸がワクワクする。
 すぐに滝壺の場所まで辿り着いて荷物を草むらに置く。着替えようとバッグから水着を取り出そうとしたら、横で明美がいっぺんにシャツとスカートを脱ぎ捨て滝壺に素裸のまま飛び込んだ。
「あー気持ちいいよ! 海パンなんか履いてないで明も早く来なよ。気持ちいいよ。どうせ誰も見ていないんだから」
 誰も見て無くてもお互いが見ているじゃないか。と思ったけれど、履きかけた水着を放り出して自分も裸のまま滝壺に飛び込んだ。海とも違う勿論都会のプールなんかとは比べ物にならない清涼感で胸までいっぱいになった。
「気持ちいいな」
「でしょう! 裸のまま泳ぐと気持ち良いのよ。自分もこの自然の一員になった気がするの。そうすると誰に肌を見られても気にならない」
 確かに、そう言い切ってしまえるほどの気持ちよさだった。でも僕はそこまで気持ちが徹底しておらず。つい明美の方を見てしまう。勿論いやらしい気持ちでだ。
「ふふふ、明、見たいんだ……いいわよ。見せてあげる」
 明美はそう言ったかと思うと勢い良く水から立ち上がった。豊満な胸をした明美の体から沢山の水の粒が滴り落ちた。僕は明美から視線を動かす事が出来なかった。
「明の中には虫がいるんだよね。女の子の裸を見たいと言う虫がいるんだよね」
「そ、そんなの男だったら誰でもそうだよ」
「じゃあ、やっぱり虫がいるんだ……でも、あたし、その虫嫌いじゃないよ」
 僕は偉そな事を口にしていても、明美の裸から目を逸らす事が出来なかった。それどころか僕の中の虫は増々大きくなってしまっていた。
「見せてあげたから、もうお終い」
 明美はそう言うと瀧の水が落ちている傍まで泳いで行った。僕より泳ぎの達者な明美はスイスイと瀧のすぐ傍まで行くと
「明も来なよ。瀧のしずくが頭から掛かって気持ちが良いよ」
 だが僕は明美の言う通りにはしなかった。前に、あそこまで行って溺れかけた事があるからだ。
「やめておく。いつかみたいに溺れたら嫌だから」
「勇気がないのね。そうだよね。あたしが裸見せてあげても何もしないんだものね」
 その言葉に反論は出来なかった。実はたわわな胸に触りたかった。でもそんな勇気は少しも持っていなかった。僕が持っていた「スケベの虫」は思ったより小さかったのだ。

その後、散々泳いで明美の裸を見せつけられてから叔父の家に帰って来た。
「お互い内緒だからね」
 明美はそう言うと自分の部屋に行ってしまった。僕は仕方ないので、自分が寝起きしている客間で夏休みの宿題をすることにした。叔父の家に長逗留していても、普段過ごしてることは家でやっている事と余り変わりはない。只、少しばかり環境が違うだけだと僕は思った。
 昼食を食べ終わると明美は友達と逢うと言って出かけて行った。僕は明美が着ていた服から、友達と言うのは彼氏だと思った。それに明美の目が普段の目とは違っていたからだ。僕は、その間も宿題をすることにする。一日でも早く終わらせたかったからだ。僕は東京に帰れるだけの交通費は持っていた。叔父の家の事情等から両親が迎えに来る前に自分だけで帰った事があり、それ以来母親は交通費だけは僕に残しておいてくれたからだ。
 そのお金を取り出して眺めながら
『今年はこれを使ってやろうかしら?』
 などと思うのだった。
 ある年だった。急にホームシックになった僕は叔父からお金を借りて、黙って家に帰った事があった。暗くなった表から玄関を開けようとすると、楽しそうな両親と弟の会話が聞こえて来た。それは僕が居る時には決して聞く事が出来ない楽しそうな団欒の会話だった。僕は結局家に帰らずに、朝まで公園に居て、始発でまた叔父の家に帰った。叔父は帰って来た僕を見て驚いたが詳しい事は何も聞かずにそのまま家に入れてくれた。それ以来僕は常に家では他所者だと思っている。

 夜になり明美が帰って来た。田舎で嫌なのは夜になると網戸いっぱいに虫が集る事だった。見たこともない大きな我や得体の知れない昆虫が窓の網戸いっぱいに停まっていて、始めてそれを見た時は本当に鳥肌がたってしまって身震いが止まらなかった。
「明は怖がりだね」
 明美が言った言葉だ。怖がりなんじゃない。得体が知れないから気味が悪いだけだ。そう返答したら明美は「同じ」だと言ってせせら笑った。
 同じなんかじゃない。僕はホラー映画など見ても全く怖くないが虫が、それもあんなに沢山集まっているのが気味が悪いと言ってるのだ。
 明美の部屋の窓にも数えきれない程の虫が集っている。明美はそれを見ながら
「ねえ、朝のこと驚いた? あたしがいきなり裸になって」
 真顔でそんな言われも返答に困る。
「あたしの裸見て興奮した?」
 興奮はしたのだ。だが緊張の方が勝って肉体的な変化は無かったのだ。それを明美に言うと
「ねえ、面白い事教えてあげようか?」
「なあに、面白い事って?」
「前に、いきなり家に帰った事あったでしょう? あの時一晩で帰って来たよね。訊いたら家に入らずに公園で一晩過ごしていたって……」
「うん。そうだよ」
「もしかして、その時自分が他人じゃ無いかって、思わなかった? そんな感じを受けなかった?」
 明美の言っている事は本当で、実はそう思っていた。
「あたしの名前とあんたの名前に同じ「明」の字が付いてるのって偶然だと思う? 何も感じ無かった?」
 すぐに言ってる意味は判った。でも、なんて返事をしたら良いのだろう? 『そうです』なんて軽々しくは言えない。だが『知らない、思わない』等とも言い切れない自分が居る。どうしようか……答えあぐねていたら
「聞いた話だけど、あたしと明は実は姉弟なんだって。事情があってあんたは伯母さんの家に貰われて行ったそうよ。そうしたら弟が生まれたんだって……本当かどうかは知らない。聞いたの……」
「誰から?」
「それは言えない。約束だから……でも言われたの。あんたが悩んでいたら本当の事を教えてあげて、って……」
 もしかしたらとは考えない事も無かった。あの日玄関で感じた日からずっと思って居たことだ。
「姉弟だから裸見せたの?」
 何だか酷く損をした気分だった。
「嘘よ! みんな嘘! あたしのイタズラの虫のせいよ!」
 明るく笑う明美だったが、僕は笑え無かった。多分、それは本当の事だろうから……
「今日は、彼氏とセックスして来たのか?」
 明美は、その言葉に少し驚いて
「セックスはしてないけど、どうしてあたしが彼氏と逢ったと判ったの?」
 驚いている明美に僕は
「さあね。もしかしたら血のせいかもね」
 そう返答すると明美が嬉しそうに笑った。
            
                               了

テケツのジョニー 4

 オイラは場末の寄席のテケツに住む、ジョニーと言うサバトラの雄猫なんだ。寄席で起きる事をこれから話して行くぜ。え、猫が話せるかって? そこは小説の世界じゃないか、堅い事は言うなよな。

 オイラはテケツの姉さんに飼われているのだけど、寄席に来る人間の中にはオイラを可愛がってくれる人も居る。その中の一人に柳亭金魚と言う前座が居る。こいつは女流の噺家なのだが未だ入門してそれほど経っていない。所謂前座という訳だ。オイラに、たまにだがオヤツを買って来てくれてるので、一応贔屓にしてやってるのさ。
 ある日のことだった、金魚が寄席にやって来た。金魚が寄席に来るのは珍しい事ではない。前座の仕事があれば十日間通わなくてはならない。昼席だったら午前十時あたりに入って、トリが終わるのが午後四時半前後だから、掃除等をして夜席の前座に引き継ぐ五時あたりまでは仕事をする。
 一応前座には手当が出るのだが、昼席や夜席を一日勤めたとして千円しか貰えない。昼と夜両方勤めれば二千円になるが、十二時間以上働いて二千円は安すぎる。それが寄席の仕来たりならばオイラが口を出す所では無い。
 その代わり、前座は何かあると師匠や先輩から小遣いを貰える。トリを取る師匠からも少ないが毎日貰えるし、正月などは大勢の師匠からお年玉を貰えるのだ。その他に大きな落語会や師匠や先輩が主催する独演会や落語会等で前座の仕事を頼まれるとそれは別に手当を貰える。この場合は千円では無いらしい。一応かなりの額をくれるそうだ。そんなこんなで前座はやりくりしている。
 それに師匠の家に行けば、ご飯は食べさせて貰えるのが落語界に決まりでもある。だから前座は寄席に行く前に師匠の家に行き、掃除や雑用をして師匠の家族と一緒に朝御飯を食べるのだ。この点で、弟子は師匠よりも師匠の女将さんに気に入られないとならないと言われている。そうだよな、中には師匠より女将さんとの付き合う時間が長い場合があるのだからさ。
 そんな少ない収入の中からオイラにオヤツを買って来てくれるのは金魚だけなんだ。金魚は今日は前座では入っていない。時間的にも中途半端だし、こんな時間に来るのは珍しいと思った。
 金魚はオイラの姿を認めると抱きかかえて
「ジョニー。今日から小金ん師匠に噺を教わるの。旨く覚えられるか傍で見ていてくれる?」
 そんな事を言う。小金ん師匠というのは柳家小金んと言って古典落語の名手だ。金魚とは噺家のおじ姪の関係になる。金魚の師匠が小金ん師匠の弟弟子だからだ。
『何の噺の稽古だろう』
 そんな事を思ったら、金魚はオイラの考えが判ったのか
「あのね。私の名前が金魚だから『金魚の芸者』を覚えて将来のウリにしなさいって言ってくれたんだ。あの噺って今まで誰にも教えなかったのに……。だから私、嬉しくって」
 そうか、「金魚の芸者」というのはオイラも聴いた事はある。要するに金魚の恩返しの噺で、助けて貰った金魚が飼い主に恩返しで芸者になるという噺で、何とも不思議な噺だったのを覚えている。
 オイラからしたら金魚なんぞ、さっさと食べてしまえば良いと思うのだがな……他の猫から聴いた限りでは、どうやら金魚は余り美味しくないらしい。
 金魚はオイラを床に放すと鞄から何やら取り出した。どうやらオイラの好きなオヤツらしい。
「ジョニー。これは傍で聴いていてくれるお礼代わりよ」
 金魚は、オイラのオヤツ用の小皿にペースト状のものを流し入れてくれた。肌色のそれは怪しくオイラには映る。これは「チュールー」と言ってペースト状の猫のオヤツなんだ。抜群の旨さで、オイラはこれが大好きなんだ。
「さ、食べて!」
 出された小皿をオイラは遠慮なく食べる。旨い! 本当に旨い。世の中にこんなに旨いものがあるなんて、向かいのパチンコ屋の猫のサガシやこの辺りを縄張りにしている野良のパピヨンには判るまい。極楽極楽!
「じゃぁお願いね!」
 金魚はそう言うと稽古部屋に上がって行った。姉さんが来て
「ジョニー美味しいもの貰って良かったね。ちゃんと仕事するのよ」
 そんな事を言って背中を撫でてくれる。背中は尻尾の付け根あたりを撫でられると堪らなく気持ち良いのさ。姉さんはその辺りも良く判っているな。
 やがて小金ん師匠がやって来た。今席は昼席の中入りとなっている。中入りはトリの次に重要な出番で、これも大事な役となんだ。
「おはようございます! お疲れさまです!」
 寄席の従業員や帰ろうとしていた噺家や芸人が一斉に声を揃えて挨拶をする。それを見ただけでも小金ん師匠の人望や地位が判ろうと言うものだ。
 勿論、着物に着替えていた金魚も出て来て挨拶をする。そんな金魚を見た小金ん師匠は
「出番が終わったら、稽古部屋に行くから待っていなさい」
 そう言って楽屋に消えて行った。
 金魚はオイラを抱きかかえると二階の稽古部屋に向かった。階段を登りながら
「小金ん師匠は普段は優しいのだけど、稽古の時は本当に厳しいんだよ」
 以前、金魚から聞いた話では、金魚の最初の稽古は小金ん師匠がつけたそうだ。何でも金魚の師匠は自分の変な癖が移ってはいけないと言う事で、最初の稽古は兄弟子の小金ん師匠に頼んだそうだ。だから金魚は小金ん師匠の厳しさも良く判っているのさ。

 小金ん師匠の噺が終わり前座の「お中入り~」という声が太鼓の音と共に寄席全体に響き渡る。緞帳が降りて休憩になる。この時間は寄席によって若干違っていて十分が普通だがウチは十五分となっている。十分ではこの時間にお弁当を食べる人でも時間が足りないのと、休憩時間が増えれば売店の品物もそれだけ売れるというものらしい。
 稽古部屋で金魚の膝に抱かれながらも、聞こえて来る声で寄席の様子は判るのさ。
 すると着物姿のままの小金ん師匠が稽古部屋に入って来た。本当はお互いに着物姿でなくても良いそうだが、小金ん師匠は拘るみたいだ。確かに着物に着替えれば噺家も気合が入るというものなのだろう。
「よろしくお願い致します」
 金魚は畳に手をついて頭を下げた。
「じゃ始めようか」
 小金ん師匠の声に金魚はバックから小型のラジカセを取り出した。師匠にもよるが、小金ん師匠は録音を許可しているみたいだ。中には許さない師匠もいる。
 金魚が録音の赤いボタンを押すのを確認して小金ん師匠は語りだした。今日は最初だから金魚が話すことは無い。
 噺が進む……。やがてサゲになった。
「声が(鯉が)いいねえ~」
「元が金魚ですから」
「お粗末さまでした」
 サゲを言って噺が終わった。
 金魚が頭を下げる。その後、この噺の注意点が小金ん師匠によって金魚に語られた。その内容は企業秘密になるので詳しくは書けないが、オイラにとっても面白い内容だった。
「兎に角、あたしとしては、折角、師匠が金魚という名前をつけたのだから、この噺を受け継いで欲しくてね」
「ありがとうございます! 必ずものに致します」
「うん、ちゃんと録れているね。稽古するんだよ」
「はい! ありがとうございました!」
 その後、小金ん師匠は楽屋で着替えて出口に向かった。そこまで見送る金魚。寄席ではもうすぐトリの師匠が上がろうとしていた。
 夏の夕日がやけに眩しく感じた日だった。

テケツのジョニー 3

 オイラは場末の寄席のテケツに住むジョニーと言うサバトラの雄猫さ。オイラの飼い主はこのテケツの主の姉さんさ。姉さんはオイラにとても優しいのさ。え、美人かって? そんな人間の価値観にはオイラは興味が無いが、姉さんからは何時も得も言われぬ良い匂いがするんだ。オイラはこの匂いを嗅ぐと不思議と気持ちが優しくなるのさ。姉さんの膝の上がオイラにとっては極楽なのさ。
 寄席には色々な部屋があるんだ。オイラは子供の頃からこの縄張りである寄席を探検して知り尽くしている。主な部屋には、まず客席だな。寄席の席亭の親爺さんによると二百五十人ぐらいは入るらしい。それと高座だな。ここは芸人が出て芸を披露する場所さ。彼らにとっては神聖な場所らしい。それと続いているのが楽屋と三味線や太鼓を鳴らす人が詰めている部屋がある。ここには三味線の師匠や前座が詰めていてそれぞれに合ったお囃子を鳴らすのさ。
 寄席の楽屋だが、他の寄席に出た経験のある芸人や噺家によると、どこもそれほど大きくは無いらしい。それは寄席の出番は長くても三十分ほど。大抵は二十分も無い。だから自分の出番が終わると、芸人や噺家はさっさと帰ってしまう。何時までも楽屋に残る事は殆ど無いのさ。だから劇場みたいに大きくは必要無いのさ。でもここは余所よりも大きいらしい。それはここがその昔は大衆演劇の劇場だったからなんだ。オイラは知らないけど、何でも先代の席亭が当時の噺家協会の会長に頼まれて寄席に変えたそうなんだ。その事があったから、噺家協会はこの寄席には結構評判の良い噺家を回してくれるそうだ。これは親爺さんが言っていた事さ。
 その楽屋とは別に稽古をする部屋があるんだ。これは、ある寄席と無い寄席があるそうだが、ここは件の事情から楽屋の部屋数が多かったので、その一つを稽古部屋にしている。 これは何なのだと言うと、前座や二つ目の噺家が噺の稽古を受ける時には基本はその教わる師匠の家に行き、掃除をしたりしてから稽古をつけて貰うのが筋だそうだが、最近はマンション暮らしの噺家も多いし、皆、家が狭いので稽古を付ける場所も無いそうだ。だった考えてもごらんよ。部屋だけあっても駄目で、静かでなければならない。稽古を付けている隣で洗濯機が回っていたり、掃除機の音がしたら稽古にならないだろう?
 だから静かな空間が必要なのさ。その点、寄席の稽古部屋は打ってつけなのさ。静かで誰の邪魔もされないからな。

 今日も稽古部屋では前座の柳亭金魚が稽古を付けて貰っている。教えているのは浮世亭伸楽師匠で、古典落語を演じてる噺家では中堅どころさ。オイラはそっと天井裏から覗く事にした。金魚はドジな奴で年中兄さんの先輩や師匠から小言を貰っている。素の奴は良い奴なのさ。オイラにも気を使ってくれるしな。たまにだが、少ない小遣いを叩いて猫用のオヤツを買ってくれる。だからオイラとしても気になるのさ。伸楽師匠の稽古は噂では結構厳しいらしいからさ。
 姉さんの膝を降りて二階に登る階段に向かう。稽古部屋は二階にあるんだ。
「あらジョニーどうしたの? 稽古部屋に行くの? 邪魔しては駄目よ」
 姉さん。オイラだって寄席の猫さ。そんな野暮な事はしねえから安心してくれ。
 オイラはそう言って(姉さんに通じたかは別だが)階段を登り始める。二階のトイレの流しの上が天井板が剥がれていて、そこから天井裏に登れるのさ。天井裏に登れる場所は他にもあるのだが、それはオイラだけの秘密さ。なんせ秋になると鼠が進入してくるから、そいつらを追い出す必要があるのさ。これでもオイラは猫だからさ、人間からはそんな期待も掛けられているのさ。
 天井裏を進むと僅かに明かりが漏れている所がある。そこが稽古部屋さ。その上にそっと近き覗いて見る。
 すると、伸楽師匠が座布団に座って、その前に金魚が畳に正座している。どうやら今日は三回稽古の三回目で、金魚が伸楽師匠の前で教わった噺を出来るか試されているみたいだった。これは見ている方も緊張しますよ。
「『旦那さん、お使いに行って来ましたよ。あれ……誰も居ないなぁ。どうしたのかしら? ああ、味噌豆、美味しそうに煮えてるじゃないか、そうだ、誰も居ないなら少し食べても判らないだろう』定吉はそばにあった小皿に煮えた豆をよそると、小皿を持って何処で食べようか探し始めました。何処にも見つからなかったのですが、『ああ、あそこにしよう』そう言って憚りの扉を開けるとそこには旦那が! 『定吉どうした?』思わず『旦那、お代わりを持って来ました』」
 どうやら「味噌豆」という前座噺だ。金魚は台詞はちゃんと言えたが仕草が駄目らしい。伸楽師匠に
「そんな食べ方じゃ、豆が美味しそうに見えないだろう。自分で鏡で見てごらん。お客が見て食べたくなるような仕草をしなくては駄目だ」
 確かに、それは言えるとオイラも思った。猫のオイラにも美味しそうに見えれば合格なんだろうな。未だ先は長いな。頑張れ金魚!
 あ、言っておくが金魚は女の子だからな。間違えるなよ。 何でも、昨年高校を卒業して入門したそうだ。色々なセクハラに耐えて頑張ってるのさ。応援したくなるだろう?
 じゃまたな!
 

テケツのジョニー 2

 オイラは場末の寄席に住む猫さ、人はオイラの事を「ジョニー」と呼んでいる。どうやらそれがオイラの名前らしい。社長で席亭の親爺さんは「縁起が良い」とオイラを認めてくれた。そうさオイラはこの寄席の生きる招き猫なのさ。
 ある日の事だった。寄席が終わって従業員で掃除をしていると、奇術の珠菜がやって来て、オイラの飼い主の姉さんに何やら話し掛けた。どうやら何か相談があるらしい。姉さんは自分の住処であるテケツの部屋のドアを開き
「掃除が終われば皆帰るからここで待っていて。もうすく終わるからね」
 そう言って珠菜を部屋に案内した。珠菜は
「すいません。こんな時間に来てしまって……」
 そう言って恐縮していたが姉さんは
「いいのよ。寄席が終わってからじゃないと、ゆっくりも出来ないから」
 気にも止めていない感じだった。そう姉さんは優しいのいさ。
 掃除が終わると従業員のほとんどは帰ってしまう。姉さんは切符の売り上げを若旦那に預けるとテケツに居る珠菜を呼んだ。
 実はこの寄席のテケツには続き部屋があって、そこで姉さんは休憩を取ったりしている。四畳半ほどしかない狭い部屋だがここはこの寄席でも姉さんだけの空間だ。オイラもここで寝泊まりしている。尤も、昼間のほとんどは姉さんの膝で寝ているのだけどな。その四畳半の部屋に珠菜を座らせると
「わざわざ来たと言う事は何か悩み事があるのじゃない?」
 姉さんはそんな事を言って珠菜が言いやすい様に誘い水を向けた。
「実は、相談に乗って欲しくてここに来ちゃいました」
 やはり珠菜は何か悩みがあったのだ。下を向いていたが、やがて意を決意してように話し出した。
「実は、最近テレビに出ているのですが、最初は出られると言う事だけで満足していました。バラエティーですが周りは売れっ子ばかりで、そんな中に自分が居ると言う事が嬉しくて舞い上がっていました」
 珠菜のテレビはオイラも少し見た事がある。あまり感心は無いのだが、それでも知り合いが出ているので感心があったのだ。
「そうねえ。売れっ子になって行く珠菜ちゃんを見て私も嬉しかった」
「はい、この寄席に見に来て、奇術の世界に入りたくてたまらなかった所を姉さんに師匠を紹介して戴いて本当に感謝しています」
 この事はオイラも初めて知った。そうか、姉さんが紹介して珠菜はこの世界に入ったのか。だから色々な事があると相談に来るのかと思った。
「でも、色々な番組に出て判ったのですが、自分は奇術師として呼ばれている訳では無く、一人の女性タレントとして呼ばれているのだと思いました。ミニスカートを履かされ、体の線が露わになる服を着させられ、壁際に並んで座らさせる事が殆どで、要するに色気を売るなら誰でも良かったのだと思いました。そう考えると何か空しくなって……」
 まあテレビなんぞは要するにタレントは使い捨てなんだろうな。オイラにはどうでも良い事だがな。
「珠菜ちゃん。テレビで色気を売るのは嫌? 最初は誰でもそうじゃ無いかしら。今は世界的に有名なあのマジシャンも最初は際どい衣装を着て舞台を努めていたわ。私は子供だったけど、それでも覚えているわ。今なら信じられないでしょうけど、最初はキワモノ扱いだったのよ。テレビ番組で司会から振られる事は無いの?」
「たまにありますけど、殆どは関係の無い事ばかりです」
「そうのうち、きっと『珠菜ちゃんは本業はマジシャンなんだって』って訊かれる事があると思う。その時に簡単に出来る手品を見せれば良い機会になると思う。それまでは耐えて行かないと」
 確かにテレビと言うオイラにはどうでも良い世界だが人間には大変な所に出ているのなら、それはそれで凄い事なのかも知れない。今は不本意でもやがてそれを逆転するチャンスも来る様な気がするのはオイラだけでは無いだろう。要はそのチャンスを逃がさない様にするのだ大事だと思う。ウチの寄席には滅多に来ない売れっ子噺家が高座で『幸せの神様は前にしか髪の毛が無いから逃がすと捕まえられない』なんて言って笑いを取っていたが、それは本当なのだろう。
「言われて始めて判りましたが、私、焦っていました。どうかしてました。テレビ番組に出ていると色々な人が声をかけて来ます。少しチヤホヤされていたのに気が付きました。自分が何者か、自分の本業が何か忘れそうでした。常に自分が何者かを理解していればチャンスは巡って来るのですね。ありがとうございました。すっきりして迷いが取れました」
 珠菜はすっきりした表情で部屋を出るとオイラの方を向いて
「ジョニー。今の事は内緒だからね」
 そう言ってオイラの頭を撫でて帰って行った。姉さんはオイラを膝に乗せて背中を撫でながら
「才能のある子に限って迷いとか焦りが出ちゃうのよね。でも、それを耐えれる者だけが、階段を登る事が出来るのよね」
 姉さんの言う事はオイラには未だ難しいが何となく判る気がした。
「そうだ、ジョニー今日はいい子だったから、おやつをあげようね」
 姉さんはそう言ってオイラの大好きな猫のおやつをくれた。オイラの幸せな瞬間さ。
 その後、珠菜は関西弁を話す大物司会者から番組で声を掛けられ、その時に手のひらで花を咲かせて見せて司会者から誉められ、それが契機になり奇術師として売れ初めたのだった。今や次世代を担う一人となっている。
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