2017年03月

「メシ」はどこだ! 11

 店の電話が鳴り、美菜が出ると相手は鷹村だった。
「お父さん、鷹村さんから」
 美菜から受話器を受け取ると泰造は
「はい、電話替わりました」
「鷹村です。明日の土曜の夕方に品物を運び出すそうです。そこにお義父さんが来るのかは判りませんが、連中が何をしているのかは判ります」
 鷹村の声は落ち着いていた。嘘を言っている感じはしない。泰造は肚を決めて
「判りました。何時に何処に行けば良いですか?」
「そうですね午後二時に千住の市場の正面でどうですか?」
「判りました。その時間に伺います」
 もう十二月も残り少ない。市場もあと数日すれば長い正月休みに入る。その前に……と言う事なのだろうかと泰造は考えた。そして美菜に何事か耳打ちをする。美菜は
「え、まさか……判った。事実を確かめてお父さんにメールすれば良いのね」
「うん。ご苦労さんだが頼む」
「じゃあ、お店は休みね」
「ああ、昼はやるけどな。そもそも土曜は暇だしな」
 泰造はそれだけを言うと
「さ、風呂に入って寝よう。兎も角全ては土曜だ」
 そう言って店から上がって風呂場に向った。その後ろ姿を見て美菜は何故、父親があんな事を自分に頼んだのか考えていた。
「ま、お父さんの考えが当たっていたらそれこそ問題だわ」
 美菜もそれだけを呟くと自分の部屋に向った。

 問題の土曜日が来た。いつもなら午後二時までランチタイムをするのだが、今日は一時半で終えていた。平日ならお客の来る時間だが、年末と言う事もあり、更に土曜なので一時を過ぎてからは客は誰も来なかった。
 店を閉めて、片付けを済ますと泰造は美菜に
「じゃあ頼んだぞ。行って来るから」
「判った。お父さんも無理しないでね」
「ああ、今日は見学するだけさ」
 泰造はそれだけを言うと歩いて店を出た。場所も目と鼻の先だが、現場で何があるか判りはしない。歩きで行くのが一番だと考えたのだ。
 時間より若干早く市場の正門の所に着いた。鷹村は未だ来ていなかった。市場は働いている者も殆どなく。中で働いている者が次々と車やバイクで市場を後にしていた。もう少しすれば仲買の事務所で事務をしている者も帰宅する。そうすれば正門の所の詰め所に居る警備員が門を閉めて鎖で門を封鎖して鍵を掛けるだけとなる。それ以降は日曜の深夜まで誰も居なくなる。
 昔はろくに鍵も掛かっていなかったので近道として市場の中を通り抜ける者や車もあったが今はそんな事は出来やしない。
 二時を少し過ぎた頃に後ろから肩を叩かれた。振り返ると鷹村だった。
「今まで仕事していたもので、少し遅れました」
 スーツにコート姿の鷹村は泰造に自分に付いて来るように促すと、先を歩き出した。
「何処に行くんですか?」
「問題のビルですが、あそこに直接行く訳にも行きませんので、向かいのビルに行きます」
 まさか、そこは「石川」の倉庫では無いかと泰造は思った。
「石川の倉庫か?」
「はは、知っていましたか。倉庫の上が事務室になってるのです。階段の踊り場から向かいを見させて貰おうと思いましてね」
「許可は取ってあるのかい?」
「『石川』さんはお得意様ですよ。親父さんも薄々事情は知っていますからね。尤も仲買の関係者なら何が行われているかは大体知っています」
 鷹村の言葉に泰造は、それは公の秘密と言う事なのかと思った。
「知っていて誰も止めなかったのか」
「だって考えて下さいよ。誰も被害者が居ないんですよ。『北魚』も『大都冷凍』も品物が整理されるし、我々商社も処分費が掛からずに済みます。仲買も常に新しい品物を仕入れられるし。誰も困る者が居ないんです。私も偉そうな事言っていますが、本音ではお義父さんに手を引いて欲しいんです。告発なんて止めて貰いたいと思っています」
 鷹村は先を歩きながらそんな事を言って石川の倉庫の扉を開いて階段を登り始めた。登った先には「石川」の親父さんが待っていた。
「やあ、泰造さん。とうとうここまで来たかい。色々な事が一気に判って混乱してるかも知れないが、昔からの事なんだ。我々仲買には関係ない事だから皆、見て見ぬふりをしているけどね。でも俺自身はこんな事はこれからも続くとは思えないんだ。だから鷹村さんの頼みを引き受けたんだよ」
 親父さんはそう言ってタバコに火を点けて美味そうに吸い込んだ。暗がりの中で親父さんの顔が赤く浮かび上がった。
「泰造さん。私の扱っているのは農産品です。その中でも枝豆が「石川」さんに降ろしているものですが、売ったものは良いのですが、売れ残ったものはどうなると思います?」
「枝豆か……値段を下げて売るか、豆を出してバラで料理に使うか……」
「そうです。最近、一部のスーパーで枝豆の豆だけをパックになった冷凍品を見た事がありませんか?」
 泰造は、そう言えばと思い出した。最初は豆だけなど素人には使い道が無いのではと思ったのだ。
「じゃあ、あれは賞味期限切れの奴を使ったのか?」
 泰造の疑問に鷹村は
「一旦回収して工場で再加工します。つまり房から豆を出すのですが、この時点で加工年月日がその日になります。つまり生まれ変わる訳です。尤もそんなものは市場では売れませんけどね」
 泰造は格安で売られている枝豆の豆だけのパックの秘密が判った気がした。
「もう少しすれば連中が来ますよ」
 時計を確認すると三時になろうとしていた。
「市場も完全に閉まったかな。残っていると危ないからね」
 石川の親父さんはそんな事を言いながら呑気そうだ。自分には全く関係の無い事だから気が楽なのだろう。泰造も「花村」の親父さんが関わっていなければ、ここには居ない。
「来た!」
 鷹村が小さく呟いた。見るとかって「北魚」と「大都冷凍」が入っていたビルの前に一台のライトバンが横付けされている。車から三人の人間が降りて来た。どうやら四人組だが一人は車に残っている見たいだった。見張り役なのかも知れない。
 三人はビルの鍵を開けて中に入って行った。その中には「花村」の親父さんは居なかった。
「あの中には居ないな」
 泰造の言葉に鷹村は
「今日の連中は冷凍海老ですからね。始末に困ってる奴ですよ。ウチの営業が処分を頼んだのですよ」
「でもそれじゃ売り上が……」
「簡単ですよ。もうすぐ賞味期限になります。そうなれば処分しなければならない。その処分費を値引きで売ったとして計上するんです。つまり会社とすれば処分費が浮く訳です」
「でも、そんな事をすれば何時かはバレる」
「それは、そうです。だから代々誰も口を割らないんです」
 鷹村は事もなげにそう言った。泰造が溜息をつくとメールの着信のバイブが鳴った。美菜からだった。それを確認して泰造は
「やはり……」
 そう呟くと画面を横から盗み見た鷹村が
「お嬢さんも真実を知ってしまったみたいですね。これは困った。本当の真実に気がついてしまったのですね。泰造さん。お義父さんが何故告発しようとしたのか、もうお判りでしょう。だから私はあなたに真実を教えたのです。優子の悩みもそこにありました」
 呆然とする泰造の手には携帯が開かれていた。その画面には美菜からのメールが映っていた。
『「花村』は休業でお店は休み。そして誰も居ないわ!』
 それが最悪ではなく、只の偶然だと泰造は思いたかった。

「メシ」はどこだ! 10

  泰造が思っていた以上の事が闇に紛れて行われていたのだ。気持ちを落ち着かせる為にお茶を飲む。美菜が
「鷹村さんもそれに関わっているのですか?」
 いきなり、そんな質問をした。
「私の取扱の品ではありませんが、同僚の扱う品物ではたまにですがありますね。尤も、そんな事は口が裂けても言えない事ですから、こちらも訊きませんが、蛇の道は蛇ですからね。判るんですよ」
 鷹村も口が乾いたのかお茶を飲むと
「正直言います。今更この仕組を変える事なぞ出来ないと個人的には思っています」
 そんな事を口にした。泰造は湯呑みを置くと
「では私にどうしろと? それにそんな情報を漏らして何がしたいのですか?」
 そう言って鷹村に迫った。
「お義父さんをこの道から抜けさせて欲しいのです」
「それなら弟子の私が言うより、義理とは言え息子のあなたが言って忠告した方が良いと思いますがね」
 泰造としては、弟子の自分の事なぞ聞くとは思えなかった。
「実は、それとなく言った事があります。でも『黙ってみていろ』と返されました」
 泰造はその言葉を聞いて
「もしかしてオヤジさんは……」
 泰造が自分の言いたい事を理解したと感じた鷹村は
「そうなんです。私はお義父さんは事実を把握したら告発するつもりでは無いかと思うのです」
 鷹村の言葉を聞いて泰造は
「ありえますね。オヤジさんは妙に正義感の強い所がありますからね。そんな品物が出回るのが許せないのでしょう」
 美菜が二杯目のお茶を入れてくれた
「でも、いくら色を直したものでもお刺身には出来ないでしょう?」
 美菜が鷹村に質問をすると
「それらは勿論刺し身になんかは出来ません」
「じゃあ何になるんですか?」
「ツナ缶ですよ」
「ツナ!?」
「そうです。ツナは今や世界の何処に行ってもあります。どこの国のスーパーの棚に並んでいます。それらは品質もバラバラですが、値段も安いのが多い。それらのごく一部に使われているんですよ。クランチやほぐし身なら誰にも分かりはしない。加工されてしまえば日付の問題もクリア出来る。それに原材料の値段は只みたいなものです」
 鷹村の説明を聞いて泰造は
「世界で取れる鮪の八割以上が日本で消費されるそうですが、私は少し多い気がしていました。日本人は鮪が好きなのは確かですが、いくらなんでも多すぎる気がしていたのです」
 泰造の言葉に鷹村は
「勿論、それがあるから消費が多いと言う訳では無いのです。それに世界では格安で販売されるツナ缶を必要としている地域もあります」
 鷹村の言葉を聴いて美菜は、それは商社マンらしい言葉だと思った。その貧しい地域だってツナ缶が無ければ死ぬと言う訳でもなかろうと思った。
「オヤジさんと連絡は取れているのですか?」
 泰造の質問に鷹村は
「完全と言う訳ではありませんが、数日に一度はメールのやり取りをしています。だからここまでの事が判ったのです」
「ではオヤジさんはヨーロッパでは無く日本に居ると?」
 泰造の言葉に鷹村は
「まず間違いありません。それも近々千住に来るかも知れませんよ」
 そう言ってニヤリとした。
「それはどのような訳ですか?」
「今築地から豊洲に移転する問題で騒がれていますよね。実は千住の連中は一刻も早く移転して欲しいと思っているのです」
 そんな空気があるとは泰造も仕入れに行って感じていた。築地は都内から近いが豊洲ならかなりの距離になる。それなら交通の便が良い千住の方が良いと言う訳だ。
「それに、今なら千住も動きやすい」
 鷹村の言葉に泰造はまさかと思った。
「それは、今なら、品物を動かしても都合が良いと言う意味ですか?」
「その通りです。私の予想ですが、近々オヤジさんは千住に姿を現します。大都の冷凍庫が場外のビルに地下で繋がっている事はご存知ですよね」
「最近知ったばかりですが、北魚だけじゃなく大都とも繋がっていましたか」
「大都の事務所も一時、あのビルにありましたからね。同じ穴のムジナですよ」
 ここまでの事を聞いて泰造は色々な事が繋がって来た感じがした。
「一度、見てみますか? 現場を見たいなら、情報が入ったら教えますよ。海老などは同僚の扱っている品物でしてね。一時東南アジアで海老の病気が流行りましてね。かなりの量が死んだのです。その為、商社は他の地域から品物を買い入れました。それこそ品質をある程度無視して数を揃えたのです。でも生産が回復した今となってはその低品質のものは売れなくなりました。期限までは半年を切っています。それなら年が変わる今が好都合なのです」
 泰造は冷凍海老の品質が下がっていた事は判っていた。この場合の品質とは主に大きさで、海老の大きさは一ポンド当たり何匹あるかで数を表している。
 つまり箱や袋に16/20と書かれていたら、その海老の大きさは一ポンドあたり十六匹から二十匹の大きさの海老だと言う事なのだ。
 以前は大きさが十六に揃えられていたが、病気が流行ってからは二十に揃えてられている。つまり小さくなっているのだ。正直十六と二十ではかなり大きさが違う。庶民的な店などではこの差を埋める為に海老を伸ばしたり、フライ等では衣を多目に付けたりしている。
「そうですか。でも、あなたから情報がバレたと判ったらもう業界には居られないのは無いですか?」
 泰造の言葉に鷹村は
「それは覚悟の上ですが、私の本意はお義父さんを抜けさせる事なのです。業界の悪しき習慣を告発するなんて事はやって欲しく無いのです。おとなしく余生を過ごして欲しいと考えています」
 それも鷹村の本音なのだろう。

 鷹村は「近くのコインパーキングに車を停めてありますから」と言って酒を勧めても呑もうとはしなかった。
 店の外で見送った泰造が店に入って来ると美菜が
「何か、変なところがあると感じたのだけど、それが何か判らない」
 そう言ってテーブルに頬杖をついて考えていた。
「ま、何かを隠してるのは判ったけど、わざと知らんぷりした。そのうち連絡が来るだろう。その時が勝負だ。さあメシにしよう!」
 そう言って食事の支度に取り掛かった。

 数日後、鷹村から泰造に連絡が入った。

氷菓二次創作 「新生活」

 春の暖かい日を選んで千反田が俺のアパートに引っ越して来た。元々俺はロクな荷持も無いので部屋の空間という空間は千反田の荷持で埋め尽くされてしまった。 「嫁入りみたいなものですから」  真顔でそんな事を言う千反田に 「籍も入れたら式や披露宴もやらなくてはな」  そう言ったところ 「そうですね。父があんなに簡単に許してくれるとは思ってもみませんでした」  そう言って少し憂いた顔をした。  先日、雪の残る陣出の千反田家に赴いて、鉄吾さんに正式に挨拶をしたのだ。その席で 「えるさんとの結婚を認めて下さい」  そう申し込んだのだ。鉄吾さんはすぐに 「不束かな娘ですが、よろしくお願い致します」  そう言ってくれて、一番大事な問題は思ったより簡単に片が付いた。少なくとも俺はそう思ったのだが千反田はそう考えていないらしい。それからの千反田は何か考えている表情を見せるようになった。俺はそれについて思い当たる事もあるが、確信は持てなかった。 「来年、博士過程に進んだら籍も入れて式も挙げましょう」  一応はそんな約束をした。俺は実は鉄吾さんが簡単に一人娘を嫁に出すとは思えない事が千反田の考えている事では無いかと思っている。  俺は、一応「家を継がなくても良い」と述べたとは言え、本当は千反田の名は残したいのではと思っている。  「跡を継がなくても良い」の真の意味は「農業を継がなくても良い」ではなかったかと思うのだ。俺は千反田が研究室から帰って来て一緒に食事をしながら、その事を問うてみた。 「やはり折木さんも、そう思いますか? じつは、わたしも同じなんです。家業の農業と名前を存続させるのは父は別物と考えているのでは無いかと思うのです。その場合、折木さんの家にもご迷惑を掛けてしまうと思うのです」  やはりそうだったと思った。茶碗を持つ手を食卓に置いて千反田は暗い表情を見せた。 「心配するな。俺は千反田奉太郎になっても一向に構わない。折木の家はどうでも良い。特別由緒ある家でもないしな」 「そうなんですか? お家(うち)の方はそれで良いのですか?」 「当たり前だろう。旧家の一人娘と一緒になるんだ。それぐらいは考えているさ」  確かに、地方の資産家で旧家の一人娘には婿候補を探すのは大変らしい。この前帰省した時も、神山市役所に勤務している里志が、 「過疎と言う側面もあるけど、今は本当に旧家の大農家と言えども婿のなり手が無いからね。市役所も色々イベントを仕掛けてはいるんだけどね」  そんな事を言っていた。 「それはきっと今は言いませんが、当然そう考えていると思っています。でも、わたしは折木家に嫁ぐ気持ちですが、きっと父は折木さんに形だけでも千反田を名乗って欲しいと言い出すと思うのです。それを考えると少し憂鬱になります」  シチューを口に運びながらそんな事を言う千反田をテーブルの反対側に座って眺めていると、一緒に暮らしてると言う実感が湧く。 「折木さん。そのままにしていて下さい」  不意に千反田がそんな事を言ったかと思うと、脇に置いたティシュで俺の口元を拭ってくれた。 「あ、ありがとう」 「ふふふ、折木さん。ちょっと子供みたいでした。口の脇にシチューを付けて、何か話してるのは、何だかちょっと可笑しかったです」  一転して笑顔になった千反田に 「そんなに心配するな。俺なら何時でも千反田を名乗ってやるよ。俺にはわだかまりは無い」 「ありがとうございます! 嬉しいです」  これは俺の個人的な想いだが、恐らく俺はこのまま行けば、折木から千反田に姓が変わる事になると思っている。千反田農産を経営しなくても、鉄吾さんが亡くなった後に千反田の人間が誰も居なくなるのは良くない事ぐらいは俺でも判る。千反田の心配もその辺りだったのだと思う。  食事の後片付けを千反田がやろうとしているので 「片付けは俺がやっておくので、今日は遅かったから疲れているのじゃないのか? 風呂を沸かしておいたから先に入ったらどうだ?」  そう言って先に風呂に入らせる。年度が変わり、研究も新しい分野が増えたらしい。千反田は詳しくは言わないが、顔に出る質なので簡単に判る。 「ありがとうございます! いいのですか?」 「ああ構わない」  夕食の器を洗っていると浴室から千反田の鼻歌が聴こえて来た。何の歌かは判らないが気分良く歌っている。千反田の気持ちが晴れたならそれで良いと思った。  千反田が上がって来た。頭にはタオルを巻いている。パジャマのボタンの一番上が外されていて、胸元が紅く染まっているのが判った。俺の視線を感じたのか 「あまり見つめないで下さい。上はパジャマの下は何も身につけていませんから……。それより折木さんも入ったら良いですよ」  もとより千反田の胸元を見たかった訳ではない。第一その気になれば……よそう。 「判った。入るよ」  そう千反田に告げてタオルを持って風呂に入る。頭や体を洗いシャワーを浴びて湯船に入る。湯の中に疲れが溶け込んで行く様だ。  湯から出ると千反田が新しい着替えを用意してくれている。こんな時に一緒に暮らしている幸せを感じる。  着替えて部屋に戻るとアイスコーヒーを用意してくれていた。自分はアイスティーを飲んでいた。  何もかもが俺の事を考えていてくれている。一緒に暮らすと言う事は、この様な事なんだと理解した。  寝る時は独身の頃はパイプベッドを使っていたが、千反田が来てからは布団を引いて並んで寝ている。尤も朝になったら一緒に寝ているのだが……。  幸せを感じるのは、朝、俺の方が早く目を醒ました時に目の前に千反田の寝顔がある事だ。これを見られるのはこの世で俺だけだと思うと悪くないと思う。  布団の中で俺の胸元で千反田がため息混じりに呟く 「わたし、怖いぐらい幸せです。昨年の十二月までは一人で研究だけの暮らしをしていたのに、春にはこうなってるなんて本当に怖いぐらいです」 「それは俺も同じさ。でも怖がらくても良い。これからは絶えず俺が傍に居るから」 「はい。嬉しいです」  千反田はそう呟くと両手を俺の背中に回した。   春になった今宵は短く感じるだろうと想像した……。                    <了>

氷菓二次創作 「新しい生活へ」

 京都の冬は、寒さが嵐山から降りて来るような気がしてとても寒いです。神山よりも寒いかも知れません。ここに来て六年目ですが、でも今年は一番暖かい冬になりそうです。
 それはお正月に学内で折木さんに出会ったからです。それは、わたしにとって運命的とも思える出来事でした。
 学内での仕事を終えた折木さんとわたしは一緒にお茶をすることにしました。こんなことなら先程研究室でお弁当など食べなけれな良かったと少し後悔しました。折木さんは
「朝が遅かったからお腹は未だ空いていないんだ。お前はどうなんだ?」
 そう言ってわたしのことを気遣ってくれました。
「実はお弁当を食べたばかりなのです」
 そう返事をすると
「じゃあ夕食は一緒に出来るかな?」
 そう尋ねてくれたので、わたしは嬉しくなり二つ返事をしました。
「はい、喜んで!」
 一緒に並んで歩きます。思えば高校時代はわたしが自転車を押して、二人で部活の後など薄暗くなった道を歩いたものでした。
 手が触れると折木さんはわたしの手をそっと握ります。わたしは手袋をしていたのですが急いで脱ぎます。折木さんは手袋をしていませんでした。
 「千反田、手が冷えるぞ」
 そう言ってわたしの手を自分のコートのポケットに握ったまま入れてくれました。ただ、それだけなのに、わたしの心はときめいてしまいました。記憶が確かなら高校時代も幾度か同じようなことをしてくれた事を思い出しました。
「暖かいです。前も同じことをしてくれたのを思い出しました」
「そうだったかな。あの頃は随分ドキドキしたものだが、人間て変わらないものなんだな。今でもちょっと心がときめいているよ」
 それはわたしも同じです。気持ちがあの頃に戻ってしまいました。
 街を歩いていても昨日まではカップルに目が行ってしまいましたが、今は気になりません。それはわたしには折木さんが居てくれるからです。
 行きつけの喫茶店に入ります。マスターが「おや」って言うような顔をして迎えてくれました。
「あけましておめでとうございます。今年もどうぞご贔屓に願います」
 マスターが挨拶をしてくれます
「あけましておめでとうございます。こちらこそ宜しくお願い致します!」
 そう返事を返します。奥の何時もの席に座るとマスターに
「今日はダージリンをお願いします。折木さんは何にしますか」
 そう尋ねます。折木さんはブレンドを頼みました。マスターが注文した持って来て置いてくれます。
「今日は何か嬉しいことがあったのですね」
 そう言ってくれました。
「判りますか?」
「はい、あなたの注文するもので判りました。紅茶は楽しい気分の時に飲むものですから」
 わたしと同じ考えでした。静かに笑って頷きました。
「いい感じの店だね。それに良い豆を使ってる」
 折木さんはそう言ってコーヒーを口に運びます。わたしは再会してから殆ど何も折木さんの事を知らない事に気が付きました。
「折木さんは今はどちらにお勤めなんですか?」
「会社自体は前と変わらないが、一年半の研修と試用期間を経て昨年の後半に関西支店に配属になったんだ。だから今度の会も俺が担当になったんだ。尤も担当と言っても単なるスタッフの一人だがな」
 では、折木さんは、随分前から京都に居たのだったと始めて知りました。
「京都にずっと居らしたのですか?」
 わたしの質問の意味を理解した折木さんは
「お前が大学に居るのは判っていたが、おいそれと顔を出せる訳じゃなし、こういうのは一種の運命だからな。それに俺はふられた方だからな」
 そうでした。わたしは今日出会えた喜びを忘れてはなりません。
「ではアパートは市内なんですか?」
「ああ、ここからバスで三十分ほどの所さ。お前はこの近くなのか」
「はいここから歩いても、そう遠くありません」
 この時、わたしは素晴らしいアイデアを考え付きました。
「あの、良かったら夕食はわたしが何か作りますから、折木さんのアパートで一緒に食べませんか?」
 完全に考えついた勢いだけで言ってしまいました。折木さんは一瞬驚いていましたが
「そうか、それなら二人だけになれるしな。人の目を気にすることもない。でも明日も研究室に行くのだろう? そっちはいいのか?」
「はい、明日は共同研究している者が帰省から帰って来るので、わたしは休みなんです」
 思えばこれもあからさまでした。まるで『明日休みだから今晩はあなたの家に押しかける』と言っているのですから。でも折木さんは笑って
「じゃあ、ついでに掃除もお願いするかな」
 そんな冗談を言うのでした。

 喫茶店をマスターに見送られながら、バス通りを歩いて行きます。かなり冷えて来ているはずですが不思議と寒くはありませんでした。通り沿いにあるスーパーで買い物をします。折木さんの好きな献立にしました。
「千反田の手料理なんて本当に久しぶりだな。楽しみだよ」
 そんな事を言ってくれますが、一人暮らしを始めてからは、ろくなものを作っていません。腕が落ちていなければ良いのですが……。
 バスで三十分と言っていましたが、それほど掛からずバス停に着きました。バスを降りると
「荷物を持とう」
 そう言って先程スーパーで買った品物の袋を持ってくれました。わたしはまた折木さんのコートのポケットに手を入れます。折木さんは左手に持った荷持を右手に持ち替えて、空いた左手をわたしが入れているポケットに入れてわたしの手をギュと握ってくれました。この時何故かわたしは心の底から嬉しさと安心感を感じたのでした。
 
 アパートは思ったより広く、充分に二人でも住める程の広さでした。
「一人では広すぎるとは思ったのだが、結構安くてな。ここに決めてしまった」
 そんな部屋の広さをわたしが見たのはきっと心の何処かで、折木さんと一緒に暮らせたらどんなに良いだろうと漠然と考えていたせいだと思います。
 わたしが料理を作ってる間に折木さんは部屋を片付けていました。でも、元々それほど散らかっていた訳ではありません。手持ち無沙汰を解消する感じでした。
 二人だけの食事が始まりました。この空間には二人以外は誰も居ません。わたしと折木さんだけです。昨日まではこんな事になるなんて全く思ってもいませんでした。
「俺も明日は休みなんだ。今日は泊まってくれると嬉しいな」
 それが何を意味するのかは、さすがのわたしでも判ります。あの時、わたしが別れの言葉を口にした時、折木さんは何も言わずわたしの好きにしてくれました。そんな折木さんに求められているのは心が震える程嬉しいのです。
 食事が終わり、片付けをします。この時わたしは重要なことを思い出しました。着替えを持っていないことを思い出したのです。そのことを言うと
「洗濯すれば良いよ。全自動だから乾燥までやってくれる。それから先は野暮だから言わないがな、とりあえず新品のバスローブはあるから」
 そうですね。折木さんのアパートに伺うと決めた時にもうこうなるのは判っていた事でした。お互いにそれを望んでいた事も判っていました。
 
 枕元の僅かなスタンドの灯りがぼんやりと二人を照らしてくれています。わたしはベットで折木さんの胸に抱かれながら、幸せを噛み締めていました。
「千反田、落ち着いたら一緒になろう……いいだろう?」
 わたしは、折木さんに口づけをします
「約束の口づけです。前の時は別れの口づけでした。もうそんな事は言いません。こんなわたしで良かったら宜しくお願い致します」
 折木さんはわたしの言葉を耳にして、もう一度強く抱きしめてくれるのでした。


                       <了>

氷菓二次創作 「新しい年」

  新しい年が明けました。今年は歳女でもあります。本来なら神山に帰って水梨神社で歳女のお祓いを受けなければなりません。現に前の時は父に連れられてお祓いを受けました。それが千反田を継ぐ者の慣わしだったからです。
 でも今のわたしは、もうそんな事もしなくても良い身になったのです。家を継ぐ事がなくなり自由の翼を貰ったのです。でも、飛び方を知らないわたしは、幾つもの過ちをしてしまいました。
 現にお正月だと言うのにこうやって大学の研究室に閉じ篭っているのです。教授も
「千反田君、二三日なら実家に帰れるからどうかね」
 そう進めてくれましたが、気が進みませんでした。今更帰っても何があるのでしょうか?
 家の農業は組織化され会社組織となりました。株式会社「千反田農産」。
 これが今のわたしの実家なのです。そこには既に農業のプロと呼ばれる方が大勢入り、わたし等が入れる余裕はありませんし、父もそれを望んではいないと思います。
 そして、もう一つの大きな理由……わたしが神山に帰りたく無い理由。
 それは、高校時代に唯一と言って良い程心を通わせた人……その人が今は神山には居ないからです。いいえ、この事も今となってはわたしが言うべき事では無いのかも知れません。
 帰省を尋ねる父には「研究が忙しくて」と偽りの返事をしてしまいました。それがわたしの父に対する抵抗だとは判ってはいました。
 彼とは、高校を卒業する時に別々の進学先になり、離れ離れとなってしまいました。それは、心の何処かで高校を離れる時には充分考えられる事だと判っていた事だったのにです。
 進学にあたって、わたしは京都の国立大学の農学部に進みました。農業を継がなくても良い、と言われましたが、やはり自分には農業関係しか無いと考えたからです。
 想いを通わせた人もわたしの我儘を理解してくれました。その時わたしは、同じ地域の大学に彼が進むと思っていました。現に彼も同じ県にある大学を受験してくれました。誤算だったのは彼が希望の大学を落ちてしまった事でした。
 結果としてすべり止めの東京の大学に進む事になってしまったのです。その時、わたしは悟りました。
『わたしはいつの間にかこの人を縛っていた。本来ならもっと別な道があるのでは』
 と言う事を……。
 それでも彼は、京都と東京での離れ離れの暮らしの中で色々な提案をしてくれました。でも、それは返って彼を縛って辛くさせるだけでした。
『わたしが居てはこの人の為に良くない』
 そう結論づけました。その事を彼に伝えると彼は何も言わずわたしの元から去ってくれました。
 本当は納得できなかったでしょう。もし自分が立場が逆だったら怒り心頭だったと思います。でも、彼は私の思いを汲んでくたのです。本当に優しい人でした。今でもありありとその姿を思い出す事ができます。
 本当は互いに想い合っていることがわかっていました。でもわたしが彼の傍にいることを望んではいない。それだけを理解すると彼は去って行ってくれたのです。心の底では誰よりも彼に傍に居て欲しいと望んでいて、彼も同じ気持ちと理解していたのに……。
 わたしの勝手な我儘に彼は何も言わなかったのです。

 今でもわたしの心には彼が住んでいます。その人の名は……折木奉太郎……
 一見ぶっきらぼうで面倒くさがり屋な感じがしますが、本当は誰よりも人の事を心配し、相談されれば、その明晰な思考で必ず結果に導いてくれる人でした。

 新年の京都の街は人で溢れかえっています。研究の観察を記録すると、今日はお終いにしてアパートに帰る事にしました。途中で何か買ってそれを夕食にしようと思っていました。今年は修士課程の二年目です。来年は博士課程に進むつもりです。今はそれだけが僅かな希望です。そして、そのまま研究室に残れれば良いと考えています。帰る拠り所を失ったわたしにはそれしか希望がありませんでした。
 途中のコンビニで幾つか買い物をしてアパートに帰ります。
 アパートに着くと、ポストに年賀状が数枚入っていました。その中には摩耶花さんと福部さんからのもありました。昨年、大学を卒業した二人は結婚したのです。「わたし達結婚しました!」の文面が踊って喜びを表していました。
 あとは古くからの付き合いのある方ばかりでした。でも、その中に一枚、思いがけない方からのものが混じっていたのです。
 思わず差出人を見てしまいました。その方の名は「折木奉太郎」と書いてありました。既製の文字入りの年賀葉書に自分の住所と名前だけを書いた簡単なものでした。
「どうして……ここの住所なんか知らないはずなのに」
 懐かしい名前を見て心が揺れたのでしょう。何も考えられなくなってしまいました。それを同時に淡い期待が浮かびます。
『もしかしたら、もう一度逢える時が来るかも知れない』
 でもすぐに否定的な想いが浮かびます。
『自分の我儘で別れていて、それは余りにも虫が良すぎる』
 両方とも間違いなくわたしの心でした。
 でも、許されるなら、もう一度逢いたい。逢ってこの胸の内を聴いて欲しい。それだけでいいのです。それ以上はわたしに望む権利なぞありません。
 飲めなかったコーヒですが、一人暮らしが長くなり、アメリカンなら飲めるようになりました。インスタントですが、マグカップに少量入れてお湯を注ぎます。楽しい語らいには紅茶を、一人の時はコーヒが似合う気がします。
 居間の方に、先程コンビニで買ったサンドイッチとサラダを持って行来ます。テレビを点けるとお笑い番組がやっていました。幾つかチャンネルを変えますが結局ニュースを選択してしまいます。
 ニュースでは各地のお正月風景を放送していました。偶然ですが、神山の様子も映されていました。そのせいでしょうか、その夜は高校時代の夢を見ました。懐かしく、とても幸せだった三年間でした。自分の人生であれほど楽しくて輝いていた時代はもう来ないのでは無いでしょうか。そんな事も考えました。
  朝起きると枕を濡らしていました。鏡を見ると酷い顔をしています。
 
 翌日は、昼過ぎに研究室に顔を出し、研究の観察結果を記録すれば良いので、午前中の昼近くに、わたしも近くの神社に初詣に出かけます。何時もは殆ど人も居ないのですが、お正月なので結構な人で賑わっていました。
 お願いする事は沢山あります。両親の健康。研究の成功。それにわたし自身の健康です。でも夢を見たせいか、もう一つお願いをしてしまいました。でもこれは無理な願いかも知れません。
 神社を出て研究室に向かいます。今日はお弁当を作って来ました。それを昼食にするつもりです。
 研究室での仕事は直ぐに終わります。お正月ですので大学も休みですし、学内に居るのはわたしの様な研究をしている者だけです。学食も休みなのでお茶を入れてお弁当を広げます。研究室でも外の見える窓の所でお弁当を広げます。食べながら帰ったら何をしようか考えます。思えば研究だけの毎日になっていました。
 記録も終えたので帰る事にします。今日は何時もとは違う道順で帰ろうと思いました。そんな事を思ったのはやはり昨夜の夢のせいかも知れません。
 学内で気がついたのは講演会の立て看板があちこちに立っていました。わたしが師事している教授ではありませんが、学内でも有名な教授です。その教授が外部の農業の専門家を招いて講演会や対談をするのだそうです。それを見て時間が合えば覗いてみたいと思いました。
 学内を出ようとした時の事でした。誰かが人を呼び止めていました。振り返ると大学の事務員さんが誰かを呼び止めていました。その名前に思わず振り返ります。
「……さん。……木さん。折木さん」
 間違いなく折木さんと呼んでいます。その名前を耳にした途端に体の血が動き出すのを感じます。聞き間違いではない……。
 呼び止められた折木さんは建物の中から出て来ました。その姿はスーツ姿に身を包んだ折木奉太郎その人でした。
 この時ほど今朝ほどの初詣の時にお願いをした事を感謝したことはありません。折木さんは事務員さんと何か打ち合わせをしていました。簡単な確認だったようです。すぐに終わりました。わたしは自分の姿を整えます。髪も手ぐしで整えます。こんな事態になるなら、もう少し良いものを着てくれば良かったと思いました。
 期待と不安が心を過ります。わたしに気がついてくれるでしょうか?
 それとも気が付かずに去ってしまうでしょうか?
 わたしを見つけ、以前の事をなじるでしょうか?
 出来れば、出来れば……。

「千反田か?」
 その声は穏やかながらも戸惑いと期待が感じられました。
「はい……えるです」
 それだけが精一杯でした。胸が一杯になって声が出ませんでした。
「元気そうだな……こんな時期に大学に来てると言う事は研究か……続けていたんだな」
 昔と同じ、穏やかな表情。昔と同じにわたしを気遣った物言い。何もかも昔のままでした。
「どうした? 何か俺の顔についているのか。そんなに見つめていて」
「怒っていませんか? わたし、酷い事をしたのに」
「別に怒ってはいないよ」
「今日は何故ここに」
「ああ、仕事だよ。今度の公演会だがウチの会社と大学の共催なんだ。俺が使いで打ち合わせに寄越されたんだ。でもここでお前に逢えるとは思ってもいなかった」
 何時の間にか頬を熱いものが流れていました。
「この五年間一度もお前を忘れた事は無かった。神山に帰ってもお前は殆ど帰って来ないと聞いたが、何時の日か逢える時が来ると信じていたんだ」
「じゃあ許してくれるのですか?」
「許すも許さぬも無いさ。離れて如何に俺はお前の事を想っていたのかが判った。お前はどうだ?」
「卒業してから折木さんの事を考えない日はありませんでした。今朝も高校の時の夢を見て泣いていたんです。今朝神社に初詣に行って折木さんに逢えるようにお願いしたのです」
「そうか、じゃお礼参りに行かなくてはな」
「はい!」
 折木さんが左手を出しました。わたしは右の手をそれに添えて一緒に歩き出します。もう、この手を離してはならないと強く想うのでした。

       
                                                             <了>
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