2017年02月

師匠と弟子と 2

  自分の部屋で、ベッドに寝転がりながら仕事の予定を書いた手帳を取り出して確認をする。やはり今週の末は何も入っていなかった。同期の二つ目との落語会は今月は終わってしまっているので来月までは無い。昨日電話があってのでネタだしは済ませていた。来月四月の演題は先日に師匠から「上がり」を貰った「佃祭」だ。本当は真夏の噺だが、もう春なので良かろうと思ったのだ。仲間の三遊亭圓才なんかは寄席で顔を合わせた時に
「へえ~結構大根多(ねた)やるんだね」
 そんな事を言って驚いていたが自分だって
「俺は『青菜』さ」
 そう言って涼しい顔をした。それってお前の師匠の十八番中の十八番じゃないかと思って顔を見ると圓才は
「稽古はつけて貰ってるからさ。それにこんな仲間だけの会でなければ出来ないだろう」
 そんな事も言った。確かにそれは言えていて、俺だってちゃんとした会なら、もっと練り込んでからでないと、とてもじゃ無いが怖くて出来やしない。
「楽しみにしてるぜ」
 圓才はそう言って楽屋を後にした。
 それを思い出して、改めて予定を見ると、来週は小さなイベントの司会があったり、スーパーの客寄せの仕事があったりしているが今週の週末は何もなかった。実家住まいだから飯だけは食べさせて貰えるが、親からは
「ちゃんと収入が入ったら食い扶持入れなさいよ」
 と言われている。そこで俺は毎月一万円だけは最低入れるようにしている。もっと稼げるようになれば多く入れようと思っているのは言う間でもない。
 ため息をついてベッドに座りながら、「佃祭」をさらっていると携帯が鳴り出した。着信を見ると師匠からだった。急いで出ると
「鮎太郎か? 暇なら今すぐ来い!」
 それだけを言うと通話を切ってしまった。こっちが暇でなければどうなるのだろうかと思いながら出かける支度をする。

「おはようございます」
 師匠の家の裏口の戸を開けながら挨拶をする。いつもなら小ふなが居るのだが今日は出て来なかった。何か用事でも言いつけられて出ているのかと思って家の中に入らせて貰う。 俺の声を聞きつけて梨奈ちゃんが二階から降りて来た。この前のキスを貰ってからまともに目を合わせられない自分が情けない。
「最近冷たいのね」
 なんてことを言うのかと思うが意識してしまってるのは事実なので何も言い返せない。
「小ふなは何処かに行ったのですか?」
 そんな関係ない事しか口をついて出ない
「小ふなちゃんは今日から寄席よ正式に前座として出る事になったのよ」
「ああ、そうですか、そうか寄席か」
「だからお父さん一人だからね」
 と言う事は小言かも知れなかった。こちらに覚えがなくとも小言のネタは無尽蔵にある。
「あたしがあなたにキスしたことがお父さんにバレたのかも?」
 梨奈ちゃんは楽しそうな目をしてそんな事を言う。
「まさか……」
「冗談よ。なんだか知らないけど怒られて来なさい。小言は慣れているでしょう」
 そんな梨奈ちゃんの変な応援を受けて俺は師匠の部屋に向かった。手前の茶の間には女将さんがテレビを見ながら煎餅を食べていた。俺の姿を見つけるなり
「鮎太郎こっちおいで」
 俺を呼ぶので茶の間に入ると
「お茶飲んで行きな。多少落ち着くから」
「ありがとうございます」
 ありがたい、でも女将さんがこんな事を言うなんてやはり小言なのか? それもかなり怒ってるのかも知れない。
「師匠の前でもちゃんと落ち着いているんだよ」
「はい、判りました」
「よし、なら行って来なさい」
 やはり親子なのだと思った人間の芯の部分が梨奈ちゃんと女将さんは同じなのだ。
「鮎太郎参りました」
 部屋の前で中に居るはずの師匠に声を掛ける
「入れ」
「失礼します」
 膝まずいて襖を開けると師匠は文机で何かを書いていた。
「ちょっとこれ書いちゃうから待っていろ」
 師匠は俺の事をチラッと見るとまた机に向かって書き始めた。
 暫く正座してそのまま待っていると、終わったようでこちらを向いてくれた。
「呼びつけたのはな、お前今週の末は用事あるか?」
 いきなり本題に入ったと思った。
「いいえ、今週は何もありません。暇なんです」
 本当の事をそのまま答えると
「芸人が土日に暇なんてのは洒落にならねえな。なら俺の鞄持して旅につき合え」
 俺も前座の頃は良く師匠のお供に全国を一緒について回ったものだった。
「小ふなは?」
「寄席に出る事になったからな。なるべく休ませたく無いんだ。色々と寄席のしきたりを覚えなくてはならんしな。だからお前が暇ならと声を掛けたんだ」
 そんな訳だったとは知らなかった。もとより師匠の芸を間近で見られるなら俺としても願ったりだった。
「また師匠と一緒に旅が出来るなんて嬉しいです。それで何処に行くんですか」
「ああ、青森だ。土曜の夜の高座だ。その夜は向こうに泊まって翌朝帰る」
 青森と言えば、師匠の後援会の会長の出身地で、年に二回師匠の独演会を行っている。
「いつもの独演会ですか?」
「ああ、そうだ。春の独演会だな。いつもよりちょっと早いがな」
 この独演会は師匠も力を入れている会で、それを間近で見られるのは嬉しかった。それに毎回ゲストが豪華でそれも楽しみだった。
「今回は誰がゲストなんですか」
 俺はこの時本当に何気なく言ったつもりだったのだが、師匠はとんでもない事を口にした。
「お前だ」
「え?」
「わからんか、つまり俺とお前の親子会だ」
 とんでもないと思った。古典落語の名手で、日本全国何処でも歓迎される師匠と、やっと二つ目になったばかりの俺とでは例え親子と言えども、とんでもないと思った。
「無理ですよ師匠!」
「もう遅い、先方には連絡しちまった。まあせいぜい頑張るんだな。土曜の朝に新幹線で向かうから朝早くここに来い」
 本当にとんでもない事になった。実際は師匠も俺も同じプロダクションに入っているから通常ならマネージャが一緒に来るのだが、今回は同行しないと言う。つまり本当に「二人旅」なのだった。
 師匠の部屋から出て廊下を歩いていると茶の間では女将さんと梨奈ちゃんがお茶を飲んでいた。俺の姿を目にすると目線で座るように促す。俺は仕方ないので導かれるように二人の斜め横に座った。
「お父さんのサプライズ驚いたでしょ」
 梨奈ちゃんが何故か嬉しそうに言う。
「サプライズなんてもんじゃ無いですよ」
 そう答えると女将さんが
「鮎太郎、訊きたいんだけどね。何でもこの子がこの前のホワイトデーにお前に頬にキスされたって言うんだけど、お前本当にそんな大胆な事をしたのかい?」
 はあ? それ逆でしょう! されたのは俺ですよ。
 口元まで言葉が出掛かったが横目で梨奈ちゃんを見ると少しだけ目が真剣だった。
「親のあたしとしては、この子も今度大学生だから恋人の一人ぐらい居ても構わないんだけどね。師匠がなんて言うかしらねえ……」
「俺は、昔から梨奈ちゃんは可愛いと思っていましたし、出来れば交際したいと……」
 もう破れかぶれでとんでもない言葉が口から出て来る。こんな時俺ってやはり噺家だったのだと思った。
「あれ、本気なのかい。梨奈はどうなの?」
 女将さんに返事を振られた梨奈ちゃんは
「鮎太郎の事は嫌いじゃないけど、将来性の無い人には嫁ぎたく無いしねえ……」
 そう言って横目で俺を見た。
「なら、今度の親子会で決めようか。ちゃんと出来て、贔屓筋にも好評なら認めるし、駄目な噺家との評価なら梨奈は嫁にやらないし、勿論交際も認めない。というのはどうだい」
 これは受けて立たないと男としてそして噺家としてならないと思った。
「じゃあ、本当に今度の親子会で良い評判を戴けたら梨奈ちゃんと交際出来るのですね」
 女将さんに確認すると
「ああ、あたしが認めるよ。師匠にはあたしからちゃんと言って聞かせるから」
 それを聞いて俺はちょっと安心した。と言うのも師匠がこの世で唯一頭が上がらないのが女将さんなのだ。

 師匠の家を後にして歩いていると、後から梨奈ちゃんが追っかけて来て
「頑張ってあたしを貰ってね。上手く行ったら今度は頬じゃなく口にしてあげる」
 そう言って俺の腕をギュっと抱きしめたのだった。これはやらずには、おられないと思ったのだった。

師匠と弟子と 1

「バカヤローてめえなんざ噺家辞めちまえ!」
 師匠の小言と同時に扇子が俺の額目掛けて飛んで来る。扇子は思い切り俺の額にぶつかった。
「今日はもう辞めだ。もっと稽古して、ちったぁマシになったら見てやる。もう寄席に行く時間だ」
 師匠はそう言って壁の時計を見ると大きな声で
「小ふな!」
 と弟弟子を呼んだ。
「はい師匠支度は出来ています」
 小ふなは師匠の高座用の着物が入ったカバンを手に下げていた。俺と違ってこいつは要領が良い。全てに渡って不器用な俺とは大違いだ。
 俺の名は小金亭鮎太郎。昨年やっと二つ目になった噺家だ。師匠は小金亭遊蔵。古典落語の名手でその名は全国に鳴り響いている。長い間弟子を取らなかったのだが、何故か数年前から弟子を取るようになった。俺はその最初の弟子で所謂、総領弟子と言う訳だ。最初の弟子だからか、俺に対しては厳しく、見習い一年、前座を通常なら二年ぐらいなのだが三年やらせられた。そしてやっと二つ目になったのだった。
 落語の世界では前座は人に数えて貰えない。未だ修行期間中なのだ。寄席の様々な雑用をやったり師匠の身の回りの世話なんかをする。だから自分の自由になる時間などは無いのだ。それら諸々の事から開放されるのが二つ目と言う訳である。寄席に出られるし、羽織を着る事も許される。その代わり、前座の頃は先輩の噺家が小遣いをくれたり、落語会の前座に呼ばれればその報酬も貰えるが、二つ目は自分で稼がないとならないのだ。だから二つ目になったばかりの頃は殆どの噺家が貧乏になる。俺も仕事が無く、スケジュールが空白だったが、最近は同期の仲間と小さな落語会をしているので、何とかなっている。

 師匠が小ふなと一緒に出かけてしまうと家の中は静かになった。俺や小ふなが居ると師匠は年中小言を言っている。シーンとなった家の中を見渡していると師匠のお嬢さんの梨奈ちゃんが二階から降りて来た。
「随分怒られていたわね」
 梨奈ちゃんは高校三年生で、既に進学する大学も決まっている。何でもかなり優秀で高校でもトップクラスだそうだ。師匠はその点が自分とは余りにも似ていないので、一時は女将さんが浮気して出来た子だと思った時期もあったらしい。そんな疑惑を感じた女将さんは
「呆れた。顔を見てごらんよ。あんたにそっくりでしょう」
 そう言ったそうだ。師匠は学校の成績は大した事無かったそうだが、かなりの色男で若い頃は本当に持てたらしい。寄席の楽屋口には若い娘が師匠の出待ちをしていたそうだ。だから梨奈ちゃんはかなりの美形だ。それに可愛らしさも兼ね備えている。共学ならさぞやモテるだろうと思うのだが彼女の高校は女子校で、それも風紀にはかなり煩いので有名だった。
「無理無いですよ。だって今日で未だ四回目ですから」
「あら、四回目にはちゃんと話せないとならないのでしょう」
 そうなのだ。師匠の稽古の付け方は昔のやり方で、まず三回師匠が最初から最後まで話してくれる。こちらはその間にそれを覚え、四回目にはきちんと話せないとならないのだ。これを我々は「三遍稽古」と言うのだ、勿論録音などはさせて貰えない。今時殆どの師匠は録音OKで中には最初から録音された音源をくれて「覚えたら来なさい」と放任主義の師匠も大勢居る。だがウチの師匠は昔ながらのやり方を変えはしない。
「精神を統一して真剣にやれば覚えられる」
 そう言う考え方なのだ。
 そして師匠の前でちゃんと演じられて認められたらこれを「上がる」と言うのだ。この許可を貰えば寄せでも何処でも演じて良いのだ。だから我々はこれを目指すのだ。
「聞こえたから聴いていたけど、もしかして、私の方が上手なんじゃない?」
 梨奈ちゃんは半分楽しそうな表情をしながら、そんな事を言う。明らかに俺をからかっているのだ。未だ十八歳なのに六つも年上の俺をからかっているのだ。だが、恐らくこの噺に関しては梨奈ちゃんの方が上手いかも知れない。なんせ門前の小僧習わぬ経を読む。では無いが物心付いた時から落語を聴いているのだ。あらかたの噺は覚えてしまっている。おまけに本人に才能があるから始末に悪い。
「勘弁して下さいよ」
 そう言うと梨奈ちゃんは
「ゴメンゴメン傷ついちゃった?」
 そう言ってまた嬉しそうな表情を見せるのだ。実は俺は梨奈ちゃんのこの表情も堪らなく好きなのだ。
 俺が入門した時、梨奈ちゃんは小学校の六年生でそれはそれは美形の少女だった。この頃にはもう父親離れしていて、寂しげな顔をした師匠が印象的だった。
「良かったらあたしに聴かせてよ」
 いつものが始まったと俺は思った。梨奈ちゃんは何故か俺の下手な噺を聴きたがるのだ。上手くなった噺は聴きたく無いらしい。リクエストが来るのは何時も下手な噺ばかりだ。
「笑わないで下さいよ」
 最初にそう断ってから噺を始める。二度目だからか、あるいは師匠の前では無いからか、かなりスムーズに噺が出て来る。何でこう出来なかったのだろうか。
「……と言う一席でございました」
 サゲを言って頭を下げる。
「出来たじゃん。下手だけどちゃんと出来たじゃん」
 手をパチパチと叩きながら梨奈ちゃんが上機嫌で言う。
「出来ましたね。何故か師匠の前だと駄目なんですよね」
「仕方ないね。それが弟子って言うものなのかもね」
 そう言って階段を上がって自分の部屋に帰ろうとした時に振り向いて
「これ義理チョコ。今日は十四日だから」
 そう言ってピンクのリボンに包まれたハート型のチョコを俺に手渡してくれた。毎年義理チョコを貰っているがホワイトデーお返しが結構大変なのだ。今年は何が良かろうかと考えていると
「来月のお返しには、この噺で師匠のからOKを貰うこと。それが条件よ」
 そんな事を言って来た。一ヶ月あるとは言え、師匠のOkを貰うのは並大抵では無い。高いお菓子を買う方が楽だと思った。
「あんたも噺家の端くれなら、幼気な少女の頼みぐらい叶えなさいよ」
 そんな事も言う。梨奈ちゃん、あんたにとって師匠は甘い父親かも知れないけど、俺にとっては神にも等しい存在なんだから。
 そう口に出かかって言葉を飲み込んだ。俺も噺家だ。それに小金亭遊蔵の一番弟子だ。やってやろうじゃ無いかと気持ちを切り替えた。
「判りました。やります。きっと師匠から『上がり』を貰います」
 そう言い切ると梨奈ちゃんは嬉しそうに
「うん。それでこそ男だね。頑張ってね。『上がり』を貰ったら私からも良いものをあげるから」
 梨奈ちゃんの言う「良いもの」とは何だろうか? 気にはなったがここは稽古に集中した。仲間との落語会でも暇さえあれば稽古をしたし、暇な時は川の土手に出て腹から声を出して稽古をした。そして一月が瞬く間に経ってしまった。
 その日、師匠にお願いして出来を見て貰う約束を取り付けた。午前中の寄席に出かける前なら良いとOKを貰った。
 座布団に座っている師匠と相対して自分は畳の上に直に座る。
「よろしくお願いいたします」
 そう断ってから噺に入る。
「良く信心なんてと申しますが……」
 出だしは順調に進んだ。前フリを過ぎて噺の本編に入る。ここも順調に行く。以前はつっかえてしまった所も今回は上手く行った。中盤も過ぎて行く。そして最後に差し掛かる。ドタバタしないで落ち着いて行かなくてはならない。そう肝に命じて噺を進めて行く。師匠は目を瞑って黙って腕を組んで聴いていてくれている。良いのか悪いのか分からない。
「馬鹿だねえぇ、納める梨だよ……お粗末さまでございました」
 そう言って手を着いて頭を下げる。師匠は何も言ってくれない。静寂な時が経って行く。それに俺が耐えられなくなりそうになった時、師匠の口が静かに開いた。
「うん。出来たな。これぐらい出来るなら大丈夫だろう。上がりだ!」
 師匠の目は笑っていた。
「あ、ありがとうございます!」
 それしか言葉に出来なかった。師匠はそれだけ言うと寄席に出る支度を始めた。小ふなが小さな声で
「兄さん。本当に良かったですよ」
 そう言ったのが印象的だた。
 師匠が出かけてしまうと梨奈ちゃんが出かける格好で降りて来た。
「出かけるのですか?」
「うん。彼氏とデート」
「え?」
「な訳無いじゃない。ウソよ。ウソ!」
 よっぽど俺の顔が酷かったのか笑っている。
「お父さんが何であんたに厳しいか判る?」
 黙って首を振る俺
「期待の裏返しだと想う、弟子を取らない方針だったのに、あんたを見て方針を変えたのよ」
 そんな訳だったとは知らなかった。
「それに、今は彼氏なんかいないわよ。これから出来るかは判らないけどね。そうそう約束のものあげる」
 梨奈ちゃんはそう言ったかと思うと俺に近づいて来て、俺の右の頬に軽くキスをした。あっけに取られる俺に
「どう、受け取ってね。返事は帰って来たら聞くから」
 そう言い残して出かけてしまった。
 俺はバクバクしている胸を押さえながら心に決めていた
『きっと将来は名人になってやる。そして梨奈ちゃんをもっと喜ばせるのだ』と……。

「メシ」はどこだ! 9

 カレーを食べ終わり携帯に手を伸ばした時だった。いきなり着信音が鳴り出した。相手を見ると優子だった。泰造は電話を掛けるつもりだったので都合が良いと思った。
「もしもし、牛島ですが」
「優子です。家に帰って夫に今日のことを話したら、泰造さんに直に言いたい。って言うのですが、会って貰えますか?」
 優子の夫とは初対面だが、今日の優子の話ぶりでしは、もっと詳しく事情を知っているのでは無いかと思った。もしかしたら、本当の依頼主はこの人物ではと考えた。
「是非会いたいですね。願ったりですよ」
「ありがとうございます。夫と替わります」
 電話の向こうで受話器を渡す感じが伺えた。
「もしもし、初めまして、優子の夫の鷹村孝です。電話では話せませんが、直接お会い出来たら、色々な情報を提供出来るのですが、如何でしょうか?」
 やはりそうだと思った。鷹村孝は市場の闇を知っている。そしてオヤジさんがそれに巻き込まれてしまった事に関して何らかの情報を持っていると感じた。
「どこで会いますか?」
「私がお店に伺います。人の耳がある場所で話せる事ではありませんから」
「判りました。では日にちと時間は?」
「お店の営業に影響しない時間帯がいいですね」
「では店の営業が終わった後になりますが」
「それで構いません。私も仕事を終えて、そちらに向かうとなると、そのぐらいになりますから」
「そうですか、それで何時頃来られますか?」
「明日にでも良かったらお伺いしたいのですが?」
「それはまた早いですな」
「いや、なんせお義父さんが関わっていますから、時間は、有るようで無いのです」
 確かに娘夫婦なら心配事ではある。
「判りました。それでは明日お待ちしています」
 通話を切ると、横でやり取りをを聞いていた美菜が
「私も同席しても良いでしょう?」
 そう訊いて来た。興味津々の顔をしている。電話の様子を横で聞いていただけなのに、明日、優子の夫が閉店後の時間に来る事が判ったみたいだった。
「何だ、判ったのか?」
「うん。ね、いいでしょう?」
 泰造は美菜も同席させた方が良いと思っていた。ここまでの事態を美菜は完全に知っている。この先もこの娘の考えも捨て難いと思っていた。
「ああ、構わないが、お前それを聞いたら後戻り出来ないぞ。俺と一蓮托生になるからな。それだけは覚悟しておけよ」
 泰造にとってはこの世で一人だけの肉親だから忠告をして置きたかった。
「判ってるわよ。お父さん一人じゃ心配だもの」
 美菜はそう言ってカレーの器を片づけた。

 翌日、店の営業が終わる頃。美菜が暖簾を下げている時に、背の高いがっしりとした、歳の頃なら三十代半ばの男がトレンチコートを身に纏って現れた。
「ごめんください。昨日電話で話をさせて頂いた、優子の夫の鷹村孝と申しますが」
 声を掛けられた美菜は
「あ、お話は伺っています。どうぞ店の中に」
 そう言ってから店の中を振り向き
「お父さん。鷹村さんがお見えになったわよ」
 そう声を掛けて鷹村を店に招き入れた。その声を聞いて泰造は奥の調理場から出て来て
「いらっしゃい。牛島泰造です」
 そう自己紹介をした。鷹村も鞄を置いて名詞を出しながら
「四菱商事の食品部門に在籍しています、鷹村孝と申します。どうぞよろしく」
 こちらも自己紹介をした。
「ま、お座りになってください。ビールでも何か出しますか?」
「あ、お構いなく。話が話なのでアルコールは不味いと思います」
 鷹村はコートを脱ぎながら今日来た目的を述べた。
「そうですか、では話が終わってから出しましょう」
 泰造がそう言うと美菜がお茶を持って来て泰造の隣に座った。
「お嬢さんにも話しても構わないのですか?」
 鷹村の言葉に美菜が
「私も父と一緒に調べたので、ここまでの事情は知っています。どうぞ構いません」
 そう言って笑みを浮かべた。
「なら、話をしましょう。優子が何処まで言ったのかは判りませんが。市場に大卸をしている会社は幾つかあります。千住なら「北魚」が一番ですが、冷凍物なら「大都冷凍」です。ここを通さないと市場では売る事が出来ません」
「それは判っています。そのことは優子さんと話しました」
 泰造が先日の事を言う
「では、その先を……冷凍物の消費期限は大きく分けて一年の物と二年の物があります。冷凍の海老などは二年物が多いですね。それから魚介類も二年物が多いです」
 鷹村の説明に泰造も頷きながら
「逆に一年を切っていると格安になりますね」
「まあ、会社としても売れ残るなら元値でも売ったしまいたい所ですからね。でもそれでも売れ残ったらどうなると思います?」
 そこが、この前も疑問に思っていた所だった。泰造としても二束三文でも売れない品物は確かにあるのだ。
「引き取りですか?」
 泰造は前から考えていた事を述べると鷹村は
「書類上はそうなります。私共の商社に戻って来る事になっていますが、売れない品物なのでそのまま欠損扱いになります」
「書類上?」
「そうです。実際は私共が引き取る事は殆どありません。処分業者に任せる事が殆どです」
 それを聞いて泰造はこの前世間を騒がせた事件を思い出した。カレーチェーンで使うはずだった冷凍のカツを消費期限が切れたので処分業者に廃棄頼んだのに業者が格安で横流ししていた事件だ。この事件を聞いた時に、そう言えば美菜が近所のスーパーで冷凍トンカツが格安で売っていたと話していた事を思い出した。
「では処分業者が横流ししているのですか、例の事件みたいに?」
 泰造はきっと何処でも同じような事が行われているだと漠然と考えていた。
「まあ、物によりますよ。売れないものは処分するしか無いのですから。問題は商品価値があるのに消費期限が三ヶ月を切ったと言う理由で廃棄になってしまった時です」
「それを横流しするのですか?」
「簡単に言うとそうですが、そこは上手くやります。まず国内では行いません。処分を海外でする事にして国外に持ち出すのです」
「国外!」
「そう、国外なら誰にもその先は判りません。日付を改竄して別な国に販売されれば、もう誰にも判りません」
 泰造はそんな事が行われていたなんて全く知らなかった。飲食の業者として市場に通っていて、噂などは幾らも耳にしたが、公的市場でそんな事が行われていたとは全く知らなかったのだ。
「問題はそれだけじゃ無いのです。冷凍には冷凍食品以外にも冷凍されて流通されている品物が多くあります。例えば冷凍の鮪です」
 冷凍鮪と聞いて泰造は「花村」のオヤジさんがヨーロッパの養殖鮪を視察に行った事を思い出した。
「そうです。お義父さんが視察に行ったのもこれ絡みだと私は睨んでいます。だから再びヨーロッパにとんぼ返りしたと見せかけて実は国内に居ると思うのです」
「でも冷凍鮪はそんなに持たないでしょう?」
 泰造も冷凍鮪を使う事があるので、冷凍で商品価値を保てるのが、どの位なのかは大凡判っていた。
「マイナス五十度の冷凍庫で一月ぐらい。それ以上の百度まで下がる冷凍庫で三ヶ月から四ヶ月が限度です。それ以上保存すると冷凍焼けを起こして色が悪くなってしまう。そうなれば売れません。尤も最近はその焼けた色を元に戻す薬品もありますがね。日本では許可が降りていません」
「日本では許可されていなくても海外なら認められている国があると言う事ですね」
 泰造の言葉に鷹村は黙って頷いた。

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