2017年02月

師匠と弟子と 7

 世間では春休みになったので、イベント等が結構あり、俺達みたいな売れない噺家向けの仕事もボツボツ入っていた。今日は郊外の遊園地での仕事で、同じ一門の小金亭明日香と言う師匠の弟弟子のお弟子さんだ。芸の上では従兄弟になる。明日香と言う名前から判るように、兄さんではなく姉さんだ。だが芸歴は俺よりも遙かに長く、あと二年もすれば真打の声が掛かるだろう。
 その遊園地で開かれるお笑いのイベントで一席語るのだ。噺家は俺と姉さんだけで他は漫才とかコントのコンビが出る。芸歴から姉さんがトリで俺は二番目の出番だった。
 正直、この前の親子会より遙かに気が楽で、それに楽屋では噺家以外の同世代の芸人と言葉を交わせるのが楽しみだった。そんな男だけの楽屋でも姉さんは人の目も関係無く着替えてしまう。
「気にしてたら何も出来ないよ」
 俺は寄席でも女の噺家は男の目をほとんど気にせず着替える事に慣れていたので、何とも思わなかったが、他の芸人達は少なからず驚いたようだ。顔見知りのコントの芸人が俺の所にやって来て
「いや~心臓だなぁ~ 鍛えられているんだな」 
 そんな妙な感心の仕方をした。
「まあ寄席じゃかなりセクハラまがいの事もされているからね」
 姉さんは高校を卒業して某有名な劇団に入っていたのだけど、落語に魅せられて噺家になった人だった。そんな中で師匠の弟弟子の小金亭蔵之介だけが入門を許してくれたのだと言う。女性とは思えないぐらいに達者な芸を見せる。
 俺の出番がやって来た。俺専用の出囃子なんかは無いので適当な音楽に乗って高座に出て行く。高座と言ってもマイクの前に座布団は一枚置いてあるだけだ。
 パラパラと拍手を貰って座布団に座り頭を下げる。顔を上げると半分ほどのお客がてんでんばらばらに座っていた。春の風が緩やかに吹いている。そう、ここは野天なのだ。遊園地のイベント広場での会だった。
 子供が多いので「初天神」をやる。この噺は飴や団子を食べるシーンがあり仕草で笑わせるので、こんな会場に向いてると思った。
 案の定、団子を食べるシーンで笑いを取っる。時間の都合で下げまでは行けないので、父親が団子の密を全て嘗めてしまい子供が泣くので団子屋を騙して密の壷に自分の団子を漬けてしまう。それを貰った子供も父親と同じ事をする。その仕草そのものが下げになっているので、そこで笑いを取り頭を下げて高座を降りた。高座の袖で見ていた姉さんが
「良かったじゃないか。なんかあったのかい?」
 興味津々な表情で尋ねて来た。
「楽屋で話しますよ」
 俺はそう言って楽屋に戻って着替え始めた。姉さんは、そんな俺を見ながら
「青森の独演会で何か良いことがあったのかい」
 どうも噂が伝わっていると思った。
「いえ、色々と師匠に教わった物ですから」
「遊蔵師匠、渋いからねえ。本当はウチの師匠じゃなくて遊蔵師匠に入門したかったんだよね。でもあの当時遊蔵師は弟子を取らなかったからね。諦めたんだ。尤もいまではウチの師匠に感謝してるけどさ」
 着物を鞄にしまうと俺は姉さんに近づき
「あの、高校を卒業した娘って何に興味があるのでしょうね」
 そんなに深い意味は無かった。そう無かったのだが姉さんは
「え? もしかしてあんた遊蔵師匠の娘さんの梨奈ちゃんに気があるの」
 俺の顔にでも書いてあったのだろうか? 簡単にバレてしまった。いや正確には未だ交際してもいないのだが……。
「黙っていないで何か言いなさいよ。そうなんでしょ」
 姉さんは目を輝かせて迫って来る。姉さんは劇団に入っていた位だから、かなりの美形だ。それに歳が三十を過ぎて芸も本人も色っぽくなって来たと言われていてファンも急増してるのだ。
「交際はこれからですよ。だから何か良いか、姉さんの意見を聞こうと思って……」
 本音だった。出来れば卒業と入学記念に何か買ってプレゼントしたかった。
「へえ~遊蔵師匠がよく許したわねぇ。それはそれは可愛がっていたのよ……あんた、相当期待されているのね」
「そんな事ありませんよ。相変わらず小言ばかり貰っています」
「師匠は小言を落とすのが弟子に対する役目みたいなものだからね。それはしょうがないよ」
「何がいいか……」
「わたしは梨奈ちゃんとはそんなに親しくないから彼女の好みは判らないけど、変に最初にアクセサリーなんか送っちゃうと引いちゃう場合があるからね。そこは気をつけなよ」
「え、アクセサリーは駄目なんですか?」
「まあ一般的にはね。アクセサリーって色々と意味があるからね」
「どんなですか」
「それぐらい自分で調べなよ」
 姉さんは呆れて笑った。そんな事をやり取りしている間に姉さんの出番になった。
「じゃ行って来るから」
 適当な音楽に乗って高座に出て行った。何をやるのかと思ったら「宮戸川」だった。この噺は男女が雷の夜に親しい関係になる噺で、通常は若い噺家が良く演じる。
 姉さんは男の視点から成立している噺を女性の視点からに作り変えていた。何度か聴いた事はあるが、幾度も作り直してほぼ完成した感じがした。

 帰り、都内に向かう電車に乗っていると姉さんが
「梨奈ちゃんってさ、物凄く可愛いから狙っていた奴大勢いるんだよね。でも遊蔵師匠の娘さんだから皆我慢していたんだよ。これから嫉妬やら何かで大変だよあんた」 
 そんな事は覚悟していた。俺に対する攻撃なら何とも思わなかった。梨奈ちゃんも何時か
「街を歩いていてナンパなんて年中だし。タレントの事務所だって言う人からも声を掛けられた事があるよ」
 そんな事を言っていた事がある。先の事を考えても仕方ないので話を変えた。
「姉さんもこの所凄い人気じゃないですか」
「そうでもないよ。後援会の会長さんなんか、真打が近いから色々と気をつけなさい。つて言われてるぐらいだからね」
 電車は都内に入っていた。もうすぐ姉さんの降りる駅だった。
「じゃまたね。頑張んなよ」
 姉さんは俺にそう言い残して電車を降りて行った。俺は梨奈ちゃんに何をプレゼントするか考える事にした。
 姉さんはアクセサリーは最初は駄目だと言っていた。では何が良いだろうか? そんな事を考えていたらメールの着信音が鳴った。見ると梨奈ちゃんからだった。
『仕事終わった? 街まで出てきているので逢えないかな?』
 なんて事だ。俺も梨奈ちゃんと逢いたかった。青森から帰って来て以来だった。
 梨奈ちゃんが俺の乗っている電車の終着駅の改札で待っていてくれる事になった。駅が近づくにつれ段々ドキドキして来て、落ち着かなくなって来た。師匠の家で逢う時は平常心でいられるのに、この心のときめきと言うか心の揺れ方は今までの俺には無いものだった。
 電車が到着して降りて改札に向かう。歩く度に梨奈ちゃんに近づいている事実に心が逸っていた。
 改札を抜けた先の地下道の柱の陰に梨奈ちゃんは立っていた。俺の姿を見つけると手を振ってくれた。
「ごめん。待った?」
「ううん。今まで友達と逢っていたから」
 梨奈ちゃんはピンクのブラウスを着ていた。後でローズクオーツと言うのだと知った。スカートはベージュでミニスカートから伸びた脚がまぶしかった。でもキュロットだと判った。俺は何を期待していたんだろう……。
 歩きながら直接梨奈ちゃんに訊こうと思った。並んで歩きながら
「あのさ、卒業と入学のお祝いを兼ねて何かプレゼントがしたいのだけど、何が良いか浮かばないんだよね。何か欲しいものがある?」
 梨奈ちゃんは歩きながら考えていたが
「そうねえ。鞄が欲しいな。大学に通う為の鞄。ブランド物じゃなくて使いやすいものが良いな。しっかりとした作りのものがいいな」
「そんなもので良いの?」
「うん。だってこれから毎日使うものだから、毎日一緒にいられるじゃない」
 その言葉がどうのような意味を持つか如何な俺でも判った気がした。その後お茶をしてから鞄を選びに行った。結局、国産の女性用のもので、A4のファイルやノートPCが入るビジネスバッグ風なものにした。手で持つ事も出来るし肩から掛ける事も出来る。女性用なので小物が入るポケットやマチもあった。色は濃い目のベージュにした。
「ありがとうね。この鞄を鮎太郎だと思って使うね」
 その後レストランで食べた夕飯は、恐らく人生で一番美味しいと思った。

 駅から師匠の家まで歩いていく。既に夜の帳が降りて街の街灯が並んで歩く二人を照らしていた。
 僅かに手が触れると思い切って梨奈ちゃんの手をそっと握ってみると、梨奈ちゃんもしっかりと握り返して来た。梨奈ちゃんの顔を見ると目が合った。そして微笑んでくれた。
 この時、俺は梨奈ちゃんと付き合うと言う実感を感じたのだった。

師匠と弟子と 6

  津軽三味線独特の骨太い旋律が会場を包んでいた。俺はその心地良いリズムに酔いしれていた。それは師匠も同じで、高座の袖でパイプ椅子に腰掛け腕を組んで目を瞑って聴いていた。
 世話役の青木さんが俺の耳元で
「師匠、結構好きなんですよね。毎回膝はこの二人にお願いしていますから」
 そう言って目を細めた。
 そうなのだ、昨年まで俺は前座として青森の師匠の独演会には同行していた。高座に登る事は無かったがゲストの師匠や今演奏してくれている津軽三味線の二人の師匠のバチさばきも何度も見ていた。
 演奏が終わると会場が割れんばかりの拍手に包まれた。二人が袖に降りて来る。俺と青木さんが
「お疲れ様でした!」
 と労うと二人は師匠に
「お先に勉強させて戴きました」
 と頭を下げた。師匠も
「いつもありがとうございます! 見事な演奏でした。これで気持ちよく高座に上がれます」
 そう言って頭を下げた。その様子を見て、俺は師匠が本当に心の底から津軽三味線が好きなんだと思った。
 お茶子さんが椅子を片付けるので俺も手伝う。二人で脇に移動させていた高座を舞台の中央に戻し、めくりをめくる『遊蔵』と黒々と書かれた文字が表れるとのと同時に師匠の出囃子「外記猿」が鳴り出した。客席の温度が一斉に湧き上がるのを感じる。
 師匠は出囃子のタイミングを見計らって高座に出て行く。トリの着物は青碧と呼ばれる緑と青の中間の様な地に僅かに細かい縞が入っている。帯は枯茶と呼ばれる濃い茶色だった。この後演じる「百年目」の商家の主を意識していると思った。俺にはここまで、噺ごとに着物を変えるなんて余裕は無い。
 師匠はゆっくりと高座に出て行った。その姿は俺からしたら神々しいばかりだ。やがて座布団に座り扇子を前に置いてお辞儀をした。拍手が鳴り止むのを待って
「え~今日の親子会も私の高座が最後でございます。演目は根多出ししてある通り『百年目』と言うお噺でごじざいます。
 これは元は上方落語でございましたが、六代目三遊亭圓生師を始め、色々な名人上手が江戸に設定を移し演じて参りました。私もその師匠達に習い演じさせて戴きとうございます」
 噺の最初にこう述べると会場一杯の拍手が鳴った。それが終わるのを待ってゆっくりとマクラに入って行く。このあたりの間の取り方が抜群に上手い。これだけのお客の期待を一身に受け止めて、それでいて動じない様は見事なものだ。

「百年目」と言う噺は……。
 ある大店の一番番頭・冶兵衛。
 四十三になりますが、まだ独り身で店に居付きです。
 この年まで遊び一つしたことがない堅物で通っています。
 今日も、二番番頭が茶屋遊びで午前さまになったのをとがめて、芸者という紗は何月に着るのか、タイコモチという餠は煮て食うか焼いて食うか教えてほしいと皮肉を言うほど、
小僧や手代にうるさく説教した後、番町のお屋敷をまわってくると言い残して出かけます。

 師匠のこの辺りの描写だが、番頭と言う存在が如何に店では大きかったが良く理解出来る。絶対的な権力を握っている存在だという事が納得出来るのだ。

 ところが、外で待っていたのは幇間の一八で、今日は、柳橋の芸者や幇間連中を引き連れて向島へ花見に繰り出そうという趣向なのです。
 船に乗って目的地迄着いたのはいいが、すっかり酔っ払ってしまい、陸に上がるつもりが無かったのに上がって、扇子をおでこに縛りつけて顔を隠し遊び始めます。
 ここでも番頭と言う雇われ人と言うよりまるで主然とした感じが良く出ている。

 しかし、悪いことは出来ないもので、そこでこれまた花見に来ていた旦那と鉢合わせしてしまいます。驚いた番頭は
「お、お久しぶりでございます。ごぶさたを申し上げております。いつもお変わりなく……」
酔いもいっぺんで醒めた番頭冶兵衛、逃げるように店に戻ると、風邪をひいたと寝込んでしまいます。
 旦那が何と言うか、もうそればかりが気になりろくろく眠れません。
 ここで一転、それまでの存在感は消え失せ、雇われ人としての姿になる。見事ななまでの演出だ。

 翌朝のこと、番頭は旦那に呼び出されます。
 怒られると思い、恐る恐る旦那の前に進み出た番頭冶兵衛でしたが、旦那は
「一軒の主を旦那と言うが、その訳をご存じか」
「いえ」、
「それは、『五天竺の中の南天竺に栴檀(せんだん)と言う立派な木があり、その下にナンエン草という汚い草が沢山茂っていた。ある人がナンエン草を取ってしまうと、栴檀が枯れてしまった。後で調べると栴檀はナンエン草を肥やしにして、ナンエン草は栴檀の露で育っていた事が分かった。栴檀が育つとナンエン草も育った。栴檀の”だん”とナンエン草の”ナン”を取って”だんなん”、それが”旦那”になった。』という。こじつけだろうが、私とお前の仲は栴檀とナンエン草で上手くいっているが、店に戻ってお前は栴檀、店の者がナンエン草、栴檀は元気がいいがナンエン草は元気が無い。少しナンエン草に露を降ろしてやって下さい。子供の頃は見込みがなくて帰そうかと思ってた子が、こんなに立派になってくれて。お前さんの代になってからうちの身代は太った。ありがたいと思ってますよ。だから、店の者にも露を降ろしてやって下さい」
 この辺の旦那の描写が圧倒的で、そこに居るのは噺家遊蔵では無く大店の主としか見えなくなっている。

 さらに、旦那は昨夜、店の帳面を全て調べた事を告げます。
「ところで、貴方は昨夜眠れましたか。あたしも眠れませんでしたよ。今まで番頭さんに一切を任せてましたけどね、昨晩初めて店の帳面を見させてもらいましたよ。…ありがとう。いや恐れ入ったよ、少しのスキもない。
 あたしも悪かったんだよ。お前さん、店に出ればもう立派な旦那だ。ちゃんと暖簾分けをしてやりたいと思っているんだが、お前さんがいるとつい安心でズルズルきてしまった。あと 一年だけ辛抱しておくれ。そうしたら店を持たせて暖簾分けを必ずするから。それまで辛抱しておくれよ。お願いしますよ」
 そう言って、一つの過ちも無かった事を告げます。
「自分でもうけて、自分が使う。おまえさんは器量人だ」
 と言ってくれたので、番頭は感激して泣きだします。それから冶兵衛の遊びの話しをします。
 商売の切っ先が訛ったらイケナイので、商売の金は思う存分に使って欲しいと告げます。そして更に
「ところで何であの時、しばらくぶりなんて言ったんだ?」
「はい、堅いと思われていた番頭がこんな姿を晒してしまったので、ここはもう百年目と思いました」
 オチを言った途端、嵐のような拍手が鳴り出す。恐らく俺が聴いた中でも屈指の拍手だと思った。師匠は静かに頭を下げると緞帳が静かにゆっくりと降り出す。
 師匠は座布団を外し、
「ありがとうございました! ありがとうございました!」
 そう言って何回も頭を下げ続ける。俺は今更ながら感激して胸が一杯になってしまった。やが
て緞帳が降り切ると立ち上がった師匠に近づく
「師匠、お疲れさまでした。素晴らしかったです!」
 世話役の青木さんも
「師匠、見事でした! 感激してしまいました」
 俺は師匠の脱いだ羽織を手に持って楽屋に下がる師匠の後に続いた。
 楽屋に入った師匠は着物を脱いて行く。俺はそれを一旦着物掛けに掛ける。先程の着物は既に畳んで鞄にしまってある。
「素晴らしい出来でしたね」
 そう言うと師匠は
「そうかい。なら良かったよ。だがお前は噺家だ。只良かっただけじゃ済まないんだぞ。そこを判っているのか?」
「はい。判っているつもりです」
「なら何も言わねえ。結果を楽しみにしてるぜ」
 判っているつもりだった。あの噺で師匠が俺に何を伝えたかったか……。

 その後は近くの居酒屋で打ち上げになった。そこには師匠と俺の他、世話役の青木さんやお茶子さん。津軽三味線の師匠達。それに色々な雑用をしてくれたスタッフがいた。その他にも後援会の会長や会員が大勢参加していた。師匠はスタッフ皆にお酒を注いで回っている。俺は後援会の人にお酌をして歩いた。そうしたらある女性から
「鮎太郎ちゃん。今回はぁ二つ目で来てくれてぇ嬉しかった! 噺も聴けたしねぇ~」
 そんな事を言ってくれた
「でも俺受けなかったから」
「そんなことはないよ。そんなことはない! あんたは、弟子を取らない方針だった遊蔵師匠が方針を変えるほどの資質だったんだから」
「え?」
「え、じゃねえって! そうなの! ほれ、あんたも呑みんさい」
 そう言ってコップに波波とお酒を注ぐと俺に持たせた。俺はこれは断れないと判断してそれを一気に煽った。その後は記憶が曖昧になった。

 翌朝、飲み過ぎで痛む頭を抱えて青木さんの運転する車に乗っていた。師匠も青木さんも俺よりも遥かに呑んだのに平気な顔をしている。
 時間があったので、駅のお土産屋さんで梨奈ちゃんのお土産を物色する事にした。青森産のりんご「ふじ」の半生ドライアップルをブラックチョコでコーティングした「つまんでリンゴ」と言うお菓子の詰め合わせにした。理由はいかにも美味しそうに見えたのと、師匠が何気なく
「これ美味しいんだよな。確か家族皆好きだったな」
 そんなことを言っていたからだ。だから師匠も買うのかと思っていたら、別なものを買っていた。それに青木さんが何やら持たせてくれたから、それ以上の荷物になるのを避けたのかも知れない。
 新幹線が走り出すと、景色は白一色になる。この北の国に春が来るには未だ一月以上ある。桜が咲くのはGWの頃だ。師匠は暫く窓の外を眺めていたが
「おう、お前のスマホ貸せ。退屈だから落語でも聴いてる事にした」
 そんな事を言ったので自分の鞄からスマホを出してミュージックプレイヤーを立ち上げてプレイリストの落語を表示させた。その演目を眺めながら
「いい趣味してるじゃねえか。暫く借りるぜ」
 そう言ってイヤホンとスマホを自分の手に納めて耳に入れようとした時だった。
「そういや、お前ウチの娘といい関係なんだって?」
 とんでもない事を言いだした。俺はシドロモドロになりながら
「いや、あのう……いい関係だなんてとんでもない」
「何だ違うのか、じゃあ気がねえのか?」
「いえそんな事はなく……」
「じゃあるのか?」
「あ、は、はい」
「そうかい。ならこれだけは言っておく。あいつは相当なじゃじゃ馬だからな。扱いには苦労するぞ。俺やカミさんに仕えるより数倍苦労するからな。その辺を理解しておけよ」
 師匠は知っていたのだ。俺が梨奈ちゃんに気がある事や彼女が何気に俺に色々としてくれている事を。
「知っていたのですね」
「普通気がつくだろう同じ屋根の下で暮らしてるんだし、お前は二つ目になったのにやたらウチに来るし。これは何かあると判るだろう」
「すいません」
「謝る事なんかねえ。だけど付き合うなら上手くやれよ。芸と恋愛は別だから。失恋したからって破門にはしねえ。それだけは覚えておけ」
 師匠は、そう言うとイヤホンを両耳に挿して落語を聴き始めた。その後は上野に着くまで黙って落語を聴いていた。
 
 師匠の家に到着すると真っ先に梨奈ちゃんが出迎えてくれた
「お帰り! 思ったより元気なんで安心した」
「立ち直ったんだ。これお土産。大したものでは無いけど」
 そう言って「つまんでリンゴ」を出すと
「あ、これ好きなんだ! ありがとう! でも、わたしの好きなのが良く判ったわね」
 そう言って喜んでくれた。俺は帰りの列車での事が頭を過ぎったが、梨奈ちゃんには黙っている事にした。
「何となく梨奈ちゃんが好きそうだと感じたんだ」
 これぐらいのウソは方便だよなと思う事にした。
「あのね。荷物を整理したら、わたしの部屋に来て」
 梨奈ちゃんはそう言って二階の自分の部屋に上がって行ってしまった。俺は師匠の着物や帯、長襦袢などを整理すると二階の梨奈ちゃんの部屋に上がって行った。ドアを軽くノックすると中から
「どうぞ」
 返事がしたので、開けて入らせて貰う。梨奈ちゃんの部屋に入るのは久しぶりで、彼女が中学生の頃以来だった。
 梨奈ちゃんは自分のベッドに腰掛けていた。薄いグレーの地に青のストライプが入ったブラウスに白地に同じ青の水玉のスカートを履いていた。白いソックスのレースが可愛かった。
 梨奈ちゃんは俺の姿を見ると
「ドア閉めて」
 そう言って俺に入り口のドアを閉めさせた。そして立ち上がると
「目を瞑って」
 まるでお願いをするような言い方をした。俺は言われる儘に目を閉じた。その次の瞬間。唇に柔らかな感触を感じた。思わす目を開けてしまった。すると目の前に梨奈ちゃんの顔があった。
「あん。ちゃんと目を瞑っていないと駄目じゃない」
「これって……」
「約束! この前言ったでしょう。次は唇にしてあげるって」
 ほんの軽く触れただけの「フレンチ・キス」
 でも俺はこの日この時を一生忘れないだろう。

師匠と弟子と 5

 口上が終わり緞帳が降りて行く。完全に下まで降りても俺の体は震えたままだった。そんな様子を見て師匠が
「さっさと立たねえとお茶子さんが困ってるだろう」
 そう言って高座を降りて舞台の袖に下がって行った。そうなのだ。この後俺は一席やらなければならない。
 思い直して立ち上がり師匠の後を追った。舞台の袖で袴を脱いて黒紋付きの着流しになる。お茶子さんが高座の座布団を一枚にして、裏を返した。そして袖のめくりを「口上」から一枚めくった。そこには黒々とした寄席文字で「鮎太郎」と書かれてあった。やがて俺の出囃子「小鍛治」が鳴り出した。噺家は二つ目になると自分専用の出囃子を使えるようになる。お囃子に詳しくない俺は何にするか迷ったのだが、寄席のお囃子の師匠から俺に似合ってると言われたのがこれだった。だから素直にこれに決めた。今ではすっかり馴染んでいる。今日の出囃子はあらかじめ師匠が寄席でお囃子の師匠に頼んで録音させて貰ったものだ。勿論別に演奏料を払ってやって貰ったものだ。地方の落語会などでは専用にお囃子の師匠を帯同させる事もあるが今日のような俺と師匠しか出ない会では録音で済ませる事が多い。大抵はCDなどで済ませてしまうが師匠はそれをやらない。それはお囃子も生きているからだそうだ。それにそんな所でケチっては落語界全体の為にならないと常々言っている。
 そんな事より俺の出番なのだ。出囃子を聴きながら出るタイミングを計る。寄席で出るタイミングより少し早く出る。それは寄席の高座よりここの高座の方が広いので座るまで時間がかかるからだ。
 俺の姿が見えると客席から一斉に拍手が鳴る。斜に顔を客席に向けて笑顔を見せる。陽気に見えれば良いのだが……。
 座布団に座り扇子を前に横に置き頭を下げる。扇子の先はお客さんの領域。こちらは俺の領域だ。しっかりせねばならない。
 拍手が鳴り止むのをまって頭を上げる。
「え~先程は頭を下げていたので顔が良く判らなかったと思いますがこんな顔です。どうぞお手に取ってご覧ください」
 この言葉に反応してくれて笑いが起こる。掴みはまずまずだ。
「落語の世界で焼き餅と言うと女性のものと相場が決まっておりますが……」
 噺の枕に入って行く。時間は二十分だ。あまり無駄な枕を振っていると時間が押してしまう。それはこの後の師匠の噺にも影響を及ぼす。それだけは避けたい。
 大店の女将さんが旦那の浮気を疑っていて、出かけてしまった後に飯炊きの権助を呼んで、旦那の後を付けさせる事にする。
 ここで権助の描写で寄席では笑いが起きるのだが今日は何故か少ない。客席がシーンとしている。そんな客席にちょっと焦りを感じる。
「旦那の後を付けるのは構いませんけど、それは普段の手当とは別に下さるんでしょうなぁ」
 落語国独特の訛で権助の言葉を言うのだが、それが不味かったのだろうか、どうも手応えが薄い。自分でも焦りからか噺が走ってるのが判る。
 旦那の後を付けた権助だが直ぐに見つかってしまう。そして旦那から逆に買収され
「ウチの奴にはこの後偶然に山田さんと出会って船宿で一杯やって船遊びをして夜には湯河原に乗り込んだと言っておけ。帰りに何処かで魚を買って帰ればバレやしない」
 と知恵を付けられるが、そこは海の無い田舎で育った権助は魚屋で、めざしとか蒲鉾とかニシンなど江戸の海では採れない魚ばかり買っ帰ってしまう。
 不味い笑いが起きない。更に焦る。
 権助は旦那に教えられた通りに言うのだが女将さんは信用しない。そこで買って来た魚を出すのだが、江戸では採れない魚や権助が夜ではなく昼のうちに帰って来てしまったので、旦那に買収されたのがバレてしまった。
「お前ねえ、こんな魚は江戸一円では採れない魚だよ」
「女将さんそれは違う一円ではねえ二円貰った」
 殆どシーンとなった客席に向かって下げを言ってお辞儀をするとかなりの拍手を貰った。でも笑いも少なく、客席を暖める事さえ出来やしなかった。最悪だ。俺は駄目な噺家だ。青森まで来て師匠の顔に泥を塗ってしまった。
 やっとの思いで立ち上がり袖に向かう。そこには師匠が次の出番を待って立っていた。俺は袖に下がって師匠とすれ違う時に
「お先に勉強させて頂ました」
 そう挨拶をすると
「おう」
 師匠は短く答えただけだった。高座では師匠の出囃子である「外記猿」が鳴り出していた。緊張感のあるこの出囃子は師匠にぴったりだと思うが、今は一刻も早く自分の楽屋に戻って頭から布団でも被って隠れてしまいたかった。
 楽屋に戻ると着物を脱ぐ。着替えて畳んで鞄にしまう。よりによって師匠との親子会でこんな無様な事をしてしまうなんて。
 暫く呆然としていたら世話役の青木さんが顔を出した。
「師匠の高座を袖から見ていなくて良いのですか?」
 はっとした。そうだ、弟子として袖で師匠の高座を見なくてはならない。勉強になるからだ。それに「崇徳院」と言う噺は俺ら若手が結構多く演じる噺でもある。きっと師匠はそんな事も考えてこの演目を選んだのだと思った。
「すぐ行きます!」
 そう返事をした鏡を見て己の顔を直す。
 袖に行くと師匠は若旦那と熊さんとのやり取りのシーンを演じていた。この噺は
 若旦那が寝込んでしまったので、旦那様に頼まれて、幼なじみの熊さんが訊いてみると、上野の清水堂で出会ったお嬢さんが忘れられないと言う……つまり恋煩いだったのだ。
 大旦那は熊さんに、そのお嬢さんを見つけてくれれば住んでいる三軒長屋をくれると言う。そこで熊さんはそのお嬢様を探しに出掛けるのだが、腰に草鞋をぶら下げてもう一生懸命だが全く駄目。手掛かりは短冊に書かれた崇徳院の和歌で、
「瀬をはやみ 岩にせかるる 滝川の 割れても末に 逢わんとぞ思う」と言う歌のみ。
 女将さんに教えられた通り、往来の真ん中、湯屋、床屋など、人が集まるところで上の句を詠むが、なかなか見つからない。
 なんと三十七軒目の床屋で休んでいると、鳶の頭が駆け込んできて、出入り先のお嬢様が恋煩いで寝込んでいると言うお嬢様の話を始める。
 清水院で出会った若旦那に会いたいと言う。手掛かりは、短冊に書かれた崇徳院の和歌だと……ついに出会った!
 お互いに見つけたと、互いにこっちに来いと揉合いになり、床屋の鏡を割って仕舞う。
 やはり師匠は上手い。若旦那の気弱な感じが良く出ている。ここをどう演じるかでこの先の現実感に繋がるのだ。余り若旦那をおかしく演じてしまうと、向こうのお嬢さんが一目惚れしたほどの若者と言う感じに思えなくなってしまうのだ。
 師匠は笑いを取ってしかも若旦那の色気を上手く出していた。この辺は俺なんか全く及びもしない領域だと思った。自分の出来が悪いからと言って悲観なんかしていては駄目だと思い直した。
 やがて噺は下げに掛かる
「親方、どうしてだい?」
「なあに、割れても末に買わんとぞ思う」
 下げを言って頭を下げた瞬間、会場中から割れんばかりの拍手が起こる
 師匠はさっと立ち上がるとスーツと下がって来た。袖で俺の姿を見つけると
「楽屋に来い」
 小さな声でそう言って自分の楽屋に下がって行った。その目が真剣だった。
『怒られる!』
 瞬間そう思った。

 高座は緞帳が降りて会場は休憩時間になった。最初は十分だったが俺の噺が少し短かったのと、師匠の噺も予定より早く終わったので都合二十分の休憩となった。会場のロビーでは後援会の皆さんが師匠のCDを売っているはずだ。本当は俺も手伝うはずだったが、師匠に呼ばれので青木さんが
「ロビーは良いから楽屋に行った方が良いよ」
 そう言ってくれたので、礼を言ってそのまま師匠の楽屋に向った。
 楽屋の入り口には師匠の名を染めた暖簾が掛かっていた。それをくぐって頭を下げて
「鮎太郎参りました」
 そう声を掛けると頭の上から
「入れ」
 そう声が聴こえた。
 中に入らせて貰うと師匠は、お茶子さんに手伝って貰って着替えていた。後半では別な着物を着るからだ。俺はお茶子さんに
「俺がやりますから。すいません」
 そう言って変わって貰った。帯を畳み用意された着物掛けに掛ける。師匠は襦袢姿のまま椅子に座ってペットボトルのお茶を飲みそれから
「お前、失敗したと考えているんだろう?」
 師匠は静かに話し出した。俺の態度や表情で判ったのだろう。
「はい、師匠の顔に泥を塗ってしまいました」
 畳の上に座って頭を下げると
「何勘違いしてるんだ。俺はお前に泥なんて塗られていないぞ」
 え、そんな訳はないと思っていると
「あのなあ、今日のお客は俺の客なんだ。俺の噺を年に二回聴きに来ている人ばかりだ。東京だって寄席に年二回来る人なんてそうは居ないだろう?」
「は、はい」
「だから耳が肥えているんだよ。お前は俺の弟子だけど、実力はまだまだ天と地ほどに違う。だから誰もお前に笑わせて貰おうなんて考えていないんだよ」
 師匠は美味そうにお茶を飲み干した。
「じゃあ俺は……」
 呆然としている俺に師匠は
「あのな、噺って言う奴はな、己の了見が出るもんなんだ。話してる奴が心の卑しい奴かどうかが判るんだ。亡くなった五代目小さん師は『心邪(よこしま)なる者は噺家になるべからず』と言っていたぐらいだ」
「じゃあ、お客さんは俺自身の了見を見ていたのですか?」
「ああ、だから下がる時にも拍手が多かっただろう。最初の拍手は期待の拍手。下がる時の拍手はお前にお対する今後の期待の拍手なんだ。判ったか」
 俺は、この時本当に師匠の弟子になって良かったと心の底から思うのだった。

 自分の楽屋に戻ると置いていたスマホが鳴り出した。誰からだろうと見ると何と梨奈ちゃんからだった。
「はい、鮎太郎ですが」
『もう休憩かなと思って電話したんだ。どうだった? 青森のお客さんて耳が肥えてるからウケなかったからと言ってがっかりしちゃ駄目だよ』
 梨奈ちゃんはお見通しだった。
「うん。ありがとう!」
『でもきっと鮎太郎の事見て、きっと気に入ってくれていると思うよ』
「うん、そうだと言いけどね」
『大丈夫! 元気だして!』
「ありがとう。お土産買って帰るね。色々あるけど帰ったら報告するから」
『うん楽しみにしてるね』
 梨奈ちゃんはそう言って通話を切った。なんて事だ。親の師匠と同じ了見だったなんて……。
 俺なら心配はしてもメールは兎も角、電話は出来ないと思った。それだけの勇気が湧かない。だから梨奈ちゃんの心使いが嬉しかった。俺の事をそこまで心配してくれる……。そんな人を持てた事が本当に嬉しかった。
 気がつくと仲入りが終わり後半の始まるベルが鳴っていた。後半は後半でやることもある。俺は心を入れ替えて望むのだった。
 

師匠と弟子と 4

 新幹線は宇都宮を過ぎていた。俺と師匠は車内販売の弁当を買ってそれを食べようとして席のテーブルを開いた時だった。
「あ、そう。会の冒頭の挨拶だがな、口上にしようと会長が言ってくれてな、俺とお前で並んで口上をすることになっているからな。着物は色紋付か? 袴は持って来ているだろう?」
 え……挨拶って今までは師匠だけだったじゃない……何で今回だけ口上なんだろう。俺は師匠に思わず問い正してしまった。
「あの、袴は師匠の言いつけで旅に出る時はいつも持っていますし、今回は親子会だと言うので黒紋付にしました。でもどうして今回は口上なんですか?」
 俺の質問を聞きながら師匠は弁当の蓋を外してどれから食べようか目線を動かしていた。
「あん? 上等だ。うん」
「あの、口上の訳は?」
「想像はつくけどちゃんと知りたかったら向こうで世話役の青木さんか、会長に訊くんだな。なんせ会長の発案だからな」
「ちゃんとで無くても良いんですけど……」
 俺の必死の質問に師匠は弁当の焼肉を口に入れながら
「お前が二つ目になって初めての独演会だ。それに今回は俺にとっても初めての親子会だ。そんな所だろう。それから先は知らん」
 え、それだけの理由で……俺なんてどうしようも無い弟子なのに……。俺はちょっと感激して食べた弁当の味も全く判らなかった。本当なら師匠と同じ高座に立てるだけで嬉しくて感無量なのに、口上で並べるなんて、そんな事って真打昇進披露まで無いと思っていた。一緒に買ったお茶で無理矢理弁当を流し込んだ。

 新幹線は福島に入ると景色は雪一色になり、最初は夢中で見ていたがそのうち飽きてしまった。スマホで落語を聴いていたら師匠が
「何聴いてるんだ?」
 尋ねて来たので
「三代目柳好師匠の『居残り佐平次』です」
 そう答えると師匠は嬉しそうな表情をして
「いい趣味してるじゃねえか。俺にも聴かせろ」
 そう言って右のイヤホンを自分の耳に入れてしまった。モノラル録音だから片方でも構わないのだが、俺は師匠に『いい趣味』と言われたのが嬉しかった。
 師匠は録音を聴きながら俺に
「柳好師はなぁ、『歌い調子』と言われているように流れるような語りが特徴なんだ。俺の実の親父が好きでな。学生時代に追っかけをしていたんだ。だから俺も録音を随分聴いたんだ」
 そんな事は今まで知らなかった。思えば稽古と小言以外で師匠と口を利いたのは久しぶりな気がした。
「だが、真似はするなよ」
 はっとした。そうなのだ。今まで数多の噺家が柳好師の口調を真似して駄目になっていた。かの談志師も同じ事を本に書いていた気がした。談志師は柳好師のモノマネをして一席やった録音も残っているのにも係わらずにだ。
「はい、判りました」
「ま、おいそれとやろうとしても出来ないけどな。なまじ器用だと始末に悪い」
 その言葉が深く心に残った。

 列車は定刻より少し遅れたが無事に新青森に到着した。師匠はさっさと降りてホームを歩いていく。俺は幾つもの鞄を持って、その後を追って改札に急ぐ。
 改札には後援会の人が待っていてくれた
「遊蔵師匠。お疲れ様です。鮎太郎さんもご苦労様です。車を用意してありますので、ホテルに向かいましょう。荷を解いてから会場に御案内致します」
 後援会の役員の方は俺も知っている青木さんと言う青森の支部長さんだ。師匠は挨拶をすると車に乗り込んだ。青森も白一色に染まっていた。
「いや今年は雪が多くて、雪下ろしが大変ですよ。でも昨日から降っていないので助かりました」
 青木さんはそんな事を言いながら車をホテルに走らせていた。
「入りはどうですか?」
 師匠は切符の売れ方を気にしていた。
「完売ですよ。会場は500人入りますが、全部売れています。実は、今回は親子会でしょう。あの遊蔵師匠が弟子に取ったのはどんな子なんだろうと皆興味があるんですよ」
 確かに今までは師匠の独演会に付いて行っても高座に座った事は無い。前座として、めくりや座布団を返したり。師匠の世話をしていた。今回はそんな事をしなくても良いのだ……あれ、前座を頼んでいないけど、まさか俺がやるのかな? それは構わないけど……。 気にしていると青木さんは
「鯉太郎さん。今回は後援会の女性がお茶子をやりますんで、大丈夫です」
 そう言ってくれた。お茶子と言うのは、上方落語の世界では東京のように、前座、二つ目、真打と言う制度が無いので、落語会や寄席での色々な仕事をする人がいない。その代わりに女性がめくりをめくったり、座布団を返したりするのだ。これをお茶子と呼ぶ。
 俺はそれを聞いて正直ちょっとほっとした。

 ホテルに到着する。青木さんは俺と師匠とそれぞれ別な部屋を取っておいてくれた。何もかもが今までとは大違いだった。
 師匠と俺の荷物を解くと師匠は
「会場に向かうぞ。色々とチェックする事があるからな」
 そう言ってまた青木さんの運転する車に乗り込んだ。                おそよ10分ほど乗っただろうか、街中はさすがに雪を掃けているが道路の端にうず高く積まれている。俺の視線が判ったのか青木さんは
「溜まったら海に運んで行くんですよ。この辺りは海に捨てれますけど、海まで遠いと大変ですよ」
 師匠はぼんやりと窓の外を眺めていたが
「鰍沢の中で『胸まで浸かる雪の中をかき分け』って表現があるが、こんなに深いとよっぽど慣れていないと女じゃ無理だぜ。鮎、だからお熊はそれだけの年月をあの山里で暮らして来たんだと言う描写なんだ。お覚えておけよ」
「あ、はい」
 俺が『鰍沢』なんて噺をやるのはかなり先だろうが、そんな何気ない事も噺の理解に役に立っているのかと思うと俺は落語の深淵を見た気がした。
 会場の文化会館では準備が進んでいた。会場の入口に大きな立て看板が立てられている所だった。
『第二十一回 小金亭遊蔵 青森独演会』
 と書かれていて、脇に「古今亭鮎太郎出演 親子会!!」と書かれてあった。いよいよここまでやって来たと思うと体に力がみなぎるのを感じるのだった。
 中に入らせて貰うと師匠は
「席で俺の声をチェックしてくれ」
 そう言って楽屋から舞台に向った。俺は誰も居ない会場の座席に向かった。
「まず真ん中で聴いてくれ」
 師匠はそう言って色々な声を出した。俺はちゃんと聴けるのでOkの返事を出すと
「今度は一番後ろ。それも左右の端で聴いてくれ」
 言われた通りの場所で聴いてこれもOkを出す。
「うん。通りは良いみたいだな」
 そう言って満足げな顔をした。師匠は何時も新しい会場だとこれをやる。その時の体調や声の調子を見るのだ。これは俺も参考になった。
 その他にも準備を整えて行く。やがて開場の時間となってお客さんが入場して来た。その様子を見て俺は黒紋付に袖を通した。その後師匠の着付けを手伝う。師匠も黒紋付だ。袴を穿くと気持ちが乗って来るのが判った。その時、楽屋の鏡の前に置いておいたスマホが鳴った。メールだった。着信を見ると梨奈ちゃんからだった。開けると
「頑張れ!! 七百キロ南から応援してるよ!」
 そう書かれてあった。その他に沢山の絵文字もあったが、それは人には見せられない。
                
 チョーンと木が鳴って緞帳が上がって行く。いよいよ生まれて初めての親子会が始まった。俺と師匠は舞台の上に作られた、少し高くなって赤い毛氈が引かれた高座に並んで座って頭を下げているいる。
「とざいと~ざい。これより第二十一回小金的遊蔵独演会を開催致します。今回は初めての親子会故遊蔵、鮎太郎口上を申し上げます」
 後援会の青木さんが拍子木を打って口上の前フリを言ってくれる。毎回の事なので慣れたものだった。頭を上げてまず師匠が口上を述べて行く
「春と秋の年二回の開催でございますが、今回は早春と言うには未だ雪深い中での開催となります。しかも不肖私めに弟子が出来ました。その者が昨年二つ目となり独り立ち致しました。今回は顔見世と言う事で連れて参りました。どうか、よろしくお願いいたします。何故未熟者故に多少の不出来は暖かく見守って戴きたく存じます。それでは鮎太郎を紹介致します」
 師匠の口上が終わって俺を紹介してくれた。顔を上げると一杯になった会場の全ての人の眼が俺を見ていた。落語の会場は演劇とは違って客席も暗くはしないのだ。だから高座の上からお客さんの顔が良く見えるのだった。
「え~紹介されました、小金亭鮎太郎と申します。この度晴れて二つ目となりました。未熟者ですがどうぞ宜しくお願い致します」
 そう言って師匠と一緒に頭を下げた。再び師匠が顔を上げて
「どうか、この鮎太郎が一枚看板になれますように、皆々様のご支援を賜りたく存じます。最後に三本締めをお願い致します」
 なんて事だ。今回の口上は俺の為にしてくれたのだと理解した。師匠の想いが判り、胸が熱くなった。自然と涙が高座に落ちて行く。駄目だ。そんなに泣いたら毛氈が台無しになってしまう。必死で涙を抑える。会場と師匠は三本締めをやってくれている
「よぉ~シャシヤシャン、シャシャシャン、シャシャシャンシャン」
 最後に大きな拍手に包まれながら緞帳が降りた。
「師匠、ありがとうございます! 俺、全く知りませんでした!」
「ばか、泣いてやがる。これから先は己だけだからな。しっかりやれよ。俺の顔に泥を塗っても構わないがセットしてくれた青木さんの顔には塗るなよ」
 その言葉を聴いてまた涙が落ちるのだった。

師匠と弟子と 3

 兎に角週末まで幾日も無かった。俺は師匠に当日の演目を尋ねた。すると
「まず俺が挨拶をして、お前が開口一番で何か演じる。それから俺が出て「崇徳院」をやる。そして仲入りになる。膝には地元の津軽三味線の名手が出てくれる。それから俺がトリで「百年目」を演じて終わりになる訳だ。だからお前はこの二つに被らないように演目を選べ。選べないなら俺が指定するが」
 冗談じゃない。師匠に決められてたまるかと焦りながら演目を考える。
「時間はどれぐらいですか?」
「そうだな、十九時開演で二十一時終演の予定だから俺の二つの演目が合計で七十分。津軽三味線の演奏時間が十五分程。仲入りの休憩が十分として、挨拶に五分」
「合計都合百分ですね。残りは二十分と言う所ですね」
「まあ充分だろう」
 確かにそれぐらいあれば何とかなる。
「権助魚なんてどうでしょうか?」
「う~ん。船の下りが被るが、まあ良いだろう。寄席なら兎も角、俺の独演会だからな。それに権助ものは地方で受けが良いからな。それにしな」
 こんなやり取りで演目が決まった。師匠は先方に直ぐに電話をして演目と順番を伝えていた。
「パンフとかポスターとかあるからな」
「今から間に合うのですか?」
「なんでも、お前の演目の所だけ抜かして作っていたらしい。直ぐに入力して印刷するとさ。それよりドジするなよ」
 そうだった。事の重大さに忘れていたが、これが一番大事な事だった。
「ギリギリまで稽古しておけ」
 師匠に、そう言われて部屋から下がって来ると、寄席に行く前の小ふなが廊下を雑巾がけしていた。
「兄さんチャンスですね」
 確かに他から見ればそうなのだろう。実際、ドジをしても命までは取られないだろうが、下手したら破門まであるかも知れない。
「失敗して破門になったらお前に『鮎太郎』をやるよ」
「え、そうですか、じゃあ僕が二代目ですね」
「そうならないように頑張るがな」
 兎に角、何処かで稽古をしたかった。師匠の家を出て適当な場所を探す。歩きながらでもブツブツと噺をさらって行く。「権助魚」とは下男の権助が旦那の後を付けるように女将さんに命令されたのに旦那に見つかって逆に旦那に買収されて旦那に言われた様に女将さんに嘘をつくのだが、その時に魚釣りをやっていた事になっているので魚屋で魚を買うのだが、それが江戸では絶対に見る事が出来ない魚ばかりなので女将さんが怒りだしてしまうと言う噺で、ちゃんとやれば笑いの多い噺だ。
 結局近くの公園のベンチに座って噺の続きをやる。通り過ぎる人が変な顔で俺を眺めて行く。半分以上は俺を哀れんでいる。そう、頭のおかしくなった男だと思われているのだ。もう慣れっこだから何とも思わないが噺家になった最初はかなり抵抗があった。きっと小ふななんかは、苦闘している頃だろう。まあ苦労すれば良いさ。誰でも通る道なのだから。

 噺自体は前に師匠の兄弟子の師匠に稽古をつけて貰っていて、噺そのものはスムーズに口から出て来るが、それだけだ。自分の工夫と言うものが無い。ここらへんが若手の苦労する所だ。
 夢中で首を左右に振って噺に夢中になっているといきなり目の前が真っ暗になった。一瞬唖然とすると
「だーれだ」
 耳慣れた声がした。その途端妙な安心感が体を貫いた。
「梨奈ちゃんじゃないですか。驚きましたよ」
 梨奈ちゃんはその声を聞いて俺の前に回った。その姿は高校の制服姿だった。
「あれ、学校だったのですか?」
「ウチの学校は今日、卒業だったんだよ。高校としては遅いけどね」
 確かに三月も半ばを過ぎているから遅い。でもそのおかげで良いものを見られたと思った。梨奈ちゃんの最後の制服姿は眼福ものだからだ。
 濃紺のセーラー服に真っ赤なリボンのようなタイが良く似合っていた。スカートを少し折り返しているのかやや短めになった裾から白いソックスを履いた綺麗な足が伸びている。
「何見ているの?」
「いや、最後の制服姿だと思ってね」
「ちゃんと記憶にとどめた?」
「うん。記憶したよ」
「じゃあ、卒業記念にパフェ奢って!」
 そんな事なら安いものだと思った。俺はこの時彼女が手に何も持っていない事に気がついていなかった。
 行きつけの喫茶店で俺はコーヒーを梨奈ちゃんはチョコレートパフェを頼んだ。
「道草なんかして良いの?」
 俺の質問に梨奈ちゃんは
「道草なんかしてないよ。だって一旦家に帰ったもの」
「え、それって……」
 梨奈ちゃんはわざわざ俺の事を探してくれていたのだと悟った……。
「権助魚やるんだって?」
 梨奈ちゃんの声で我に返る。
「うん。さっき決めたんだ」
「ふう~ん。後で聴かせてね」
 梨奈ちゃんはそう言って美味しそうにチョコレートパフを平らげた。
 梨奈ちゃんを師匠の家まで送ってそのまま自分の家に帰った。やることは稽古のみだ。ここで認められれば、梨奈ちゃんと晴れて交際が出来る。それは俺にとって夢にまで見た事だから。

 瞬く間に土曜になってしまって、俺は自分の高座用の着物や帯、風や曼荼羅(扇子と手拭いのこと)を入れたカバンを下げて師匠の家に向った。
 予定よりかなり早く家に到着すると、朝が早いのにも係わらず小ふなは来ていたし、梨奈ちゃんや女将さんも起きていた。だが師匠は多少イラつき気味で
「遅えぞ。気を利かせてもっと早く来い」
 そう俺に小言を言った。でも時間より三十分は早いのだが……。
 師匠はタクシーを呼んでさっさと乗り込んだ。俺は師匠の鞄と自分の鞄を持って後から乗り込む。ドアが閉まると窓を開けて見送りに出て来てくれた女将さんや小ふな。そして梨奈ちゃんに
「それじゃ行って来ます」
 そう言うと女将さんが
「鮎太郎、師匠の世話お願いね」
 そう言うので、その言葉に頷くと車は発車した。
 東北新幹線なら今は東京から乗り込むのが普通なのだろうが、師匠は必ず上野から乗り込む。一度聞いて見た所
「東北線は上野から始まるんだ」
 そんな答えが返って来て、驚いた事がある。上野に停まらない列車もあるのだが、それには乗る事が出来ないと言う事なのだ。
 タクシーを上野駅で降りると師匠はさっさと先に歩いて行ってしまう。俺は師匠の財布から運賃を払って鞄を持って後を追う。何にしろ切符も俺が預かっているのだから、改札を通れない。果たして師匠は改札の前で待っていた。
「遅えぞ。供は先を歩くもんだ」
 確か、権助提灯と言う噺でそんなセリフがあった気がした。
 新幹線に乗り込み席に座る。師匠は何とグリーン車を取っていた。実際はマネージャーが取ったのだが、まさか俺の分もグリーンだとは思ってもみなかった。
「二つ目だって、今度はちゃんとゲストで出るんだ。これぐらい当たり前だ」
 その言葉に俺は、心に熱いものがこみ上げて来るのを感じた。これはやらねばならない。そう固く決意したのだった。
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