2017年01月

「メシ」はどこだ! 8

 次の日曜日、泰造は優子を北千住の喫茶店に呼び出していた。
「色々と調べてみました。それで判ったことがありました。優子さん、どうして最初の時に私に嘘なんか言ったのですか、お姉さんの愛子さんは、貴方とは暫く連絡も取っていないと言っていましたよ」
 泰造は、静かにコーヒーカップを持ち一口コーヒーを口にいれた。ブラックの程よい苦味が喉を過ぎて行く。優子は泰造に真実を言われて下を向いていたが
「すいません。実は姉の代わりに私が姉の立場でお願いしたのです」
 一瞬泰造は優子の言っている意味が理解出来なかった。
「は? 何を仰ってるのですか? 分かりやすくお願いします」
 泰造の言葉に優子は我に返り
「あ、すいません。父が不審な行動をしている事は私は、夫から聞かされていました。怪しい食品ブローカーみたいな連中と最近付き合っていると」
「食品ブローカー?」
 泰造も聞いた事はあったが、実態は良く知らなかった。賞味期限が迫った品物を二束三文で買い叩いて、それをまた格安で格安スーパー等に横流しをする……そんな程度だった。
「そうなんです。義兄に店を任せてからは、古い顔なじみのお客さんが来た時は顔を出しますが、それ以外は殆ど店にはでません。それは『もう秀樹に任せたから』と言うものでした。私が注意すると今度は姉が『余計な事を言うな』と私に言いました。そんな事が続いて段々店に顔を出し難くなったのです。でも夫は業界の人なので、色々な噂を耳にします。ヨーロッパに一度行き、帰ってきて直ぐにまた行ったのはどう考えても怪しいんです。そんな中で夫が『最近どうも良くない食品ブローカーと付き合いがあるらしい」と教えてくれました。そこであんな作り話をしたのです。姉や義兄は事情をある程度は知っていると思いますが、むしろ良いことをしていると思っていると思います」
「良いこと?」
 泰造は残りのコーヒーを飲み干すと優子に尋ねた。
「はい、その食品ブローカーは東京都の市場で売れ残った品物を格安で購入して、貧しい国や難民に配っていると信じているからです」
 泰造は長らく市場に出入りしているが、そんな事は初めて聞いた。愛子ならいざしらず、同じく市場に通ってる秀樹なら判るはずだと思った。
「それで、貴方はどう思ってるのですか?」
 泰造もここで本気で優子の話を信じた訳ではない。信用できるのか未だ判断がつかなかった。
 優子はティーカップを口にすると小さく息を吐き
「これは夫が感じた事と私が少し調べてみた事を総合して述べますと、そのブローカーは食材の横流しをしているのでは無いかと思うのです。父はきっと貧しい難民向けに格安で購入して食材を配っている。と騙されているのでは無いかと思うのです」
 泰造は大胆な推理だと思った。東京都の市場の食材は大卸の半官半民の会社を通さねば売ることは出来ない。管理がしっかりなされていると思っていたが、賞味期限間近の食材が売られる事は確かにある。メーカー製の食品などは特に多い。
 それで全てだと思っていた。優子は更に
「賞味期限間近でも売れ残ってしまったのは大卸に戻るのだと聞きました。ならば、そんな品物の行く末はどうなるのでしょうか?」
 優子はもう一度紅茶を飲むと
「それに目を付けた連中がいるのでは無いでしょうか? 私はそう考えたのですが、それから先は調べようがありません。市場に顔が利く訳ではありませんし、市場の事自体にそう詳しくありません。そこで牛島さんの事を思い出したのです。多少の嘘でも真剣に頼めば聞いて貰えると思ったのです」
 食品の横流しが本当に行われているなら、それはそれで問題だ。確かに売れ残りがある日きれいに無くなってる事がある。仲買いに尋ねると『返したよ』と言う答えだった。だが、その先を考えた事は無かった。
「最初にそれを言ってくれれば、もっと早く動けたのに……」
「すいません。本当は父の安否も心配ですが、父が知らぬ間に犯罪に手を貸してしまってる事が心配なんです。姉や義兄は父の言う事を完全に信用しています。私がこの事を言ったら、怒ってしまったのです。だから、二人は真実は何も知らないと思うのです」
 確かに、あの二人ならオヤジさんの言う事を完全に信用してしまうと思った。それに、まさから「花村」のオヤジがそんな事をしているとは世間的にも知らない事だと……。
「判りました。その線でもう一度洗ってみます。もし、犯罪行為が判れば警察に告発しますよ。それでも良いのですか?」
 泰造は優子の覚悟を尋ねると
「はい、父は知らずにやっていたと思いますので、きっと軽い刑で済むと思います。それまでは仕方ないと思います。これ以上深みに嵌って欲しく無いのです」
 優子の覚悟も想いも判ったので、泰造は伝票を握って店を出た。暮れの街は妙にざわついていた。

 店に帰ると美菜がカレーを作っていた。
「今夜はカレーか?」
「うん。近所のディスカウントでルーが格安だったの。賞味期限が来週までなんだけど今日使うなら問題無いでしょう」
「格安って幾らだったんだ?」
「この大きいのが一つ五十円。安いでしょう。スーパーでも二百三十円はするよこれ」
 泰造は美菜が見せた◯&Bのカレールーの箱を手に取ってみた。確かに日付は来週一杯だった。それを見てこれも先程優子が言った事と繋がっているのかも知れないと思った。一度優子の夫に会って噂とやらを尋ねてみたいと思った。
「ねえ、今日のカレーは茄子も沢山入ってるし、アスパラを茹でたから、それも添えて食べるんだよ。お肉は牛肉。じゃがいもはメークインだからね。玉ねぎは淡路産だよ人参は千葉だけど」
「別に千葉産の人参でも良いじゃ無いか」
 泰造がそう突っ込むと美菜は笑って
「まあそうだけどさ」
 そう言いながら煮えて来た具合を確かめると鍋の火を止めて、ルーを割って入れた。
「火を止めて入れると綺麗に溶けるんだよ。知ってた?」
「当たり前だろう。俺は板前だぞ」
「でも餃子焼けないじゃない」
「う……」
 そうなのだ、泰造は殆どの料理をこなすが餃子だけは作るのは上手だが焼くのが下手なのだ。今まで一度もパリッと焼けた事が無いのだ。だから牛島家では餃子を焼くのは美菜の仕事と決まっている。
「七不思議だよね~。そう言えば『花村』のオヤジさんも餃子焼け無いんだっけ?」
 そうなのだ。何故がそこが師弟で受け継がれてしまったのだ。泰造はカレーを食べたらもう一度優子に電話して、優子の夫に会う約束を取り付けようと考えていた。

「メシ」はどこだ! 7

 翌日の昼の営業が終わると、泰造はカブに跨って日本橋の「花村」に出かけた。
「ちょっと『花村』行って来る」
 美菜にそう言うと
「お父さん、もしかしたら、秀樹さんは千住にオヤジさんが現れたのを知らないかも知れないから、その事は黙っておいた方がいいよ」
 美菜がそんな事を泰造に言った。言われて『それもそうか』と思い直した。
「判った。肝心な事は黙ってるから」
 泰造はそう言うとカブのエンジンを掛けて国道四号線を日本橋に向けて走り出しだした。車と違い、バイクなら千住から日本橋まで二十分もあれば到着する。
 泰造は三越の前の交差点を左折して料理屋が並ぶ一角に入って行った。路地の奥に目的の店「花村」はあった。見ると愛子が通りに出した看板を仕舞っていた。
「あら泰造さん! どうしたの。電話じゃ都合付かない事?」
 愛子が驚いた表情で泰造に語りかける。色白の愛子は藤色のグラデーションの浜縮緬の着物に網代麻葉の濃いグレーの帯を締ていた。地味だがいかにも料理屋の女将と言った風情だった。
「相変わらず綺麗だね」
 珍しく泰造が冗談を言うと
「ありがとう! でも子供の頃から知ってるから女としては見ていなかったのよね。ウチの人の前では言えないけど」
「ま、妹みたいなものだしな。それよりオヤジさんの事なんだがな、この前のヨーロッパに行ってるってのは本当なのかい?」
 泰造の質問に愛子は若干表情を曇らせ、暖簾の脇から店の様子を伺うと、泰造の袖を引いて
「ちょっとこっちに」
 そう言って路地のまた裏に連れて行った。
「ウチの人には余計な事言うなって言われているのだけど、泰造さんなら別だから本当の事を言うわ」
「それは? 本当は行っていないという事?」
「ううん。行った事は本当なの。でも期間は一週間で帰って来たの。それは予定通りで何の問題も無かったのよ。でも直ぐに『またヨーロッパに出かけて来る』って言い出したの」
 自分の父親が何かに巻き込まれたのでは無いかと憂いてる愛子に泰造は
「じゃあ、何日かはこっちに居たんだ!」
「そうなの」
「こっちに居る間に市場に行っていたのかな?」
「それは無いと思う。少なくとも店の事では行かないから」
 そうだろうなとは思う。今は店の事は秀樹に任せたのだから余計な事はしないのが普通だ。
「じゃあ本当に組合で地中海の鮪の養殖を視察に行ったのか?」
「それも違うと思う。わたし達には、そう言ったけど、一緒に行ったのは一人を除いて私が知らない人ばかりだったから」
「どうしてそれを知ってる?」
「だって成田まで送って行ったから」
「一人は知っていた?」
「うん、組合の人だったから。残りの人は知らない人だったわ」
「全部で何人?」
「六人かな」
「それは何時だい?」
「二日前の夕方よ……ねえ、お父さんは何かに巻き込まれたの?」
 泰造は二日目と言えば、朝に千住でオヤジさんが目撃された日だ。その日の夕方にヨーロッパに向ったのだろうか?
「それが判らないんだ。だから調べている。今日、ここに俺が来たのは秀樹には黙っていてくれな」
「それは判ったわ。言わない」
「それと……優子さんとはどうなの?」
「……全然連絡していない。噂では食品関係の商社マンと付き合って一緒に住んでるそうだけど。こっちには何の連絡も無いから……まさか、優子が泰造さんに何か言って来たの? そうなんでしょう!」
 昔から愛子は感が鋭かった。嘘を見抜くのも上手だった事を思い出した。
「まあ、遠からずと言った所さ。心配はしているみたいだ」
 愛子は深い溜め息をつくと
「全く、何か知ってるなら実の姉の私に連絡すればいいのに……いいわ。電話でもしてみる」
 愛子がそう言うなら姉妹の事だから泰造にはどうしようも出来なかった。依頼主が優子だと言う事は黙っておいた。この分では優子も何か隠しているかも知れないと考えた。

 礼を言って、何か判ったら連絡する事にして「花村」を後にした。途中の広小路と湯島の間の「うさぎや」でどら焼きを買って行く。美菜の好物だからだ。
 千住の店に帰ると美菜が店で待っていた。
「何かあったか?」
「ううん。別に」
「そうか、土産買って来た」
 そう言ってどら焼きが五個入って包装紙が被された白い箱を出した。
「わ! 『うさぎや』のどら焼き! ありがとう!」
「一つ母さんに備えなさい」
「うん!」
 美菜は箱を大事そうに抱えると仏間に向った。美菜の母親は数年前にガンで亡くなっている。泰造が「銀星」の花板を辞め店を構えてたのも、美菜の事と妻の闘病の事があったからだ。美菜の摂食障害が直っても、妻に先立たれて泰造は一時は気の抜けたようだった。それを再び立ち上がらせたのは美菜だった。
「ほらお母さんの好きな『うさぎや』のどら焼きだよ。お父さんが買ってきてくれたんだよ」
 美菜が線香を灯し、鈴を鳴らす。泰造はその音を店で聴いていた。
 帰って来ると美菜は「花村」の事を尋ねた。泰造はありのままに語る。
「そうかあ、じゃあ、千住で目撃された日にヨーロッパにまた向ったんだ。それもよく知らない連中と」
「本当に向ったのかな?」
 泰造の疑問に美菜は
「どう言う事? まさか成田まで行って帰って来たの?」
「いやヨーロッパとは限らないって事さ」
「でもパスポート後で見れば判るでしょう?」
「お前、家族にわざわざパスポートの判子見せるか?」
 泰造の言葉に美菜も「それはそうか」と納得する。
「それと、優子さん何か知ってる。絶対そんな感じがする」
 確かに、今から思えば色々と疑わしい事はあったのだ。あの時は、まさかこのような事態になるとは思ってもみなかった。
「もう一度優子さんに訊いてみるか?」
 泰造はそう呟くのだった。

「メシ」はどこだ! 6

 翌朝、泰造は市場に行く時より早く家を出た。とは言っても目と鼻の先の千住市場だから百二十五ccのカブに乗って走ったと思ったらもう着いていた。
 日光街道が千住大橋の袂で旧道と新道が合流する地点より若干千住寄りに松尾芭蕉の碑がある。それは奥の細道が事実上ここから出発したからだ。芭蕉はここで船を降りて歩き出したとされている。それを記念して碑が立っているのだ。それよりも更に二三軒千住寄りに「石川」の倉庫兼自宅があった。千住に店を出している仲買の殆どはこの辺りに自宅を持っている。「石川」もその内の一軒だった。
 泰造はカブをその前に駐めた。ヘルメットを脱ぐと、「石川」の倉庫の前にターレーが横付けされており、顔なじみのオヤジが今日店に出す荷物を積んでいた。すぐに泰造に気が付き
「あれ、どうしたの?」
 そう尋ねて来る。当然だろう。毎日市場に行く店はそう多くない。一日置きあたりが一番多いのでは無いだろうか。
「いやさ、ちょっと訊きたいことがあってさ」
 泰造よりも若干年齢が上の「石川」のオヤジなら泰造が知らない事も知っているかも知れなかった。
「なんだい、俺が知ってる事なら何でも話すよ。いつも買って貰ってるからさ」
 そうなのだ。この「石川」は泰造が店を持つ前から出入りしていた仲だった。
「あそこの芭蕉の碑の向かいにあるビルだけど、最近誰か出入りがあったかな?」
 出入りしていた「花村」のオヤジさんの事は伏せておいた。
「あのビルねえ……気が付かなかったな。店に出ちゃうと倉庫にはたまにしか来ないからねえ」
 確かに、そう都合よく見ているとは思わなかった。
「あのビルは空き家なのかな」
 泰造が気がついた時は仲買の場外の店が一階に入っていたが、その前は知らなかった。
「ああ、泰造さんは知らないかぁ。そもそもあそこは『北魚』の持ち物だしさ」
 全く知らない事だった。北魚は半官半民の会社でこの千住の市場の大卸をしている。水産会社や、食品メーカーから品物を仕入れて、仲外に売るのだ。東京都の市場はこうした半官半民の大卸の会社を通さないと市場で売る事は出来ない。千住では場内の中でも入り口に近い場所に大きな保冷の倉庫というよりビルを持っている。丁度芭蕉の碑とは塀を境にして裏表の場所にある。
「知らなかった。あそこが『北魚』の持ち物だったなんて」
「いや、確か今でもそうだよ。一階は貸し店で二階三階が事務所だったんだ」
「何で今は使っていないんですか?」
「ほら、やっちゃ場が入谷に移ったろう。場所が空いたので、場外より場内の方が便利だから中に移ったんだよ」
「そうだったのかぁ。全く知らなかった」
「でね。これについては面白い話があるんだ。ここだけの話だから他所では絶対に言ってくれるなよ」
 オヤジは嬉しそうな表情を浮かべると
「あそこのビルは地下があって、通路で場内の『北魚』の倉庫と繋がっているんだ」
「はあ? それ本当ですか?」
「確かだよ。ほら、休みの前とか土曜とか出庫かけると、時間が掛かるじゃない。下手したらお客が帰ってしまうから、事務所を通じて頼むと、俺らは「裏から」と呼んでいたけど、地下を通じてこっそり先に出してくれるんだよ」
 泰造の全く知らない事だった。市場では仲買が在庫の無い品物を頼まれた場合、「北魚」の倉庫に「出庫」と言って注文を出すのだ。出された「北魚」は順番に倉庫から品物を出して仲外に届けるシステムだが、これが休みの前とか土曜なのでは時間が掛かるのだ。
「あ、時間だから店に行かなくちゃ。泰造さん乗ってよ。走りながら先を話すから」
 オヤジに言われて時計を見ると四時半になろうとしていた。そろそろ早い客なら買いに来る時刻だった。
 泰造はオヤジさんが運転するターレーに載せて貰い場内に入って行く。
「引っ越す時に通路は閉鎖されたと言っていたけど、管理は今でも『北魚』が行っているんじゃ無いかな」
 「石川」のオヤジさんは顔見知りと挨拶をしながら場内を走って行く
「だから、その通路がらみで点検とかしてる可能性はあるよ」
 店に着いて荷物を降ろしながら、そう泰造に答えた。
「いや、知らない事ばかりだった。ありがとう」
 泰造はそう言って上物の鯵のひらきを一枚(この場合二十枚入り)を買った。
「まいど! また倉庫に行くからバイクの場所まで送って行くよ」
 泰造は、バイクを倉庫に置いて来た事を思い出した。
「ああ、頼むよ」
 再びターレーに乗せて貰いバイクの場所で降ろして貰うと礼を言って店に帰って来た。店では美菜が起きて朝食の準備をしていた。
「お帰り。どうだった?」
 興味津々で訊いて来るので、今先程聴いたことを話した。
「ええ! あのビルってそうだったんだ!」
 無理も無い美菜が生まれた頃は既に千住には魚河岸しか無かったからだ。既に場内に移転していたからだ。
「凄い! 凄い凄い凄い!」
「そんなに驚くことかぁ」
「だって、それ秘密の地下通路じゃない! ダンジョンになっていたりして」
「ダンジョンって何だ?」
「地下迷路の事だよ。知らないの」
「そんなもん知らん! それに迷路にはなっていないと思うぞ。目の前だしな」
「何だがっかり……でも、きっと今でもその通路って生きてるんだよ。「花村」のオヤジさんは地下通路に用があったんだよ」
 美菜の言う事はもしかしたら正しいのかも知れなかった。その前に電話では無く実際に「花村」に行って昨日の電話の内容が本当か確かめて来ないとならないと思っていた。

「メシ」はどこだ! 5

 店に着くと、買ってきた荷物を下ろす。重いものは泰造が運ぶのは勿論だが、美菜も自分で運べる物は運ぶ。
 運び終わると、それぞれを冷蔵庫や冷凍庫に収める。その中でも買ってきたワラサ(鰤)は、頭を落とし、お腹を裂いて腸を出す。腹の中を綺麗に洗ってまな板を掃除する。血や色々なものが付着しているので、それを洗い流すのだ。それから三枚に卸す。
 泰造は包丁立てから大きな出刃包丁を手に取ると、頭の方の骨の所に刃先を入れる。背中の方から力を入れて背骨沿いに刃を入れて行く。ここまで大きく無い魚なら一気に降ろしてしまうのだが、七キロを超える大物はそうは行かない。
 尾の方まで刃が入ったら、今度はお腹の方にも骨に沿って刃を入れる。すると先程の背中の方に入れた斬り込みと繋がって身が降ろされて行く。尾の方まで刃が入ったらここでもう二枚に降ろされているのだ。
 剥がれた半身を脇に置いて、同じ事を繰り返す。すると半身が二枚に骨の部分が一枚の都合三枚になるのだ。
 これを切り身に分けて行く。これは刺身包丁を使う。刺身包丁は柳刃とも言われる包丁で、刃が柳の葉の様だからこう呼ばれると言う事だ。
 かなりの数の切り身が出来たので、これを醤油、味醂、酒、それに降ろし生姜を入れたタレに漬け込む。普通はこれだけだが、泰造はここに自家製の梅酒を少し入れるのだ。この梅酒の効果で、鰤の脂がかなり感じなくなり旨味が強調されるようになる。これも「花村」のオヤジさん直伝で、当然、今の「花村」の長女の婿さんにも教えている。
 それ以外の仕込みは美菜がやっている。刺し身に使う大根の妻や、降ろし生姜、大根おろしも作っていた。
「電話した方がいいよ。この時間なら帰ってるでしょう}
 美菜の言葉に時計を見ると九時を回っていた。
「そうだな、もう帰ってる頃だな」
 泰造は店の電話から「花村」に電話をした。
『はい、花村でございます』
「あの、牛島と申しますが、秀樹さんいらっしゃいますか?」
『ああ、なんだ泰造さん。暫く! よそ行きの声なんか出して……いるわよ。ちょっと待って』
 電話に出たのは優子の姉の愛子だった。、陽気な声でホッとするのを感じた。電話の向こうでは愛子が自分の亭主を呼んでいる。やや間があって
『もしもし、秀樹ですが、どうしました泰造さん』
「いやさ、オヤジさんは元気かなと思ってさ」
『ああ、オヤジですか、元気ですよ。今は組合の連中とヨーロッパに旅行してますよ』
「ヨーロッパ旅行?」
『そうなんですよ。飲食組合の理事達と視察を兼ねて行ってるんです。店は俺たちが居るから気にしないで行って来たらと言ったんですよ。そうしたらね。向こうで地中海の鮪の養殖を見たいから一週間予定を伸ばすと連絡があったばかりですから、帰って来るのは半月ばかり先になりますよ。帰ったら連絡させましょうか?』
 意外な返事だった。愛子の陽気な声からして違和感を感じたのも事実だった。
「そうか、元気なら嬉しいよ。ところで優子さんは店に居るのかい?」
 泰造は優子の依頼が何か納得できない事ではあったが、こうなると誰かが何かを隠してるのでは無いだろうかと考えた。
『それが、優子はねえ……』
 秀樹の声が言い淀んだのを感じたのか愛子が電話を取って
『優子とはもう縁を切ろうと思ってるのよ。半年ばかり前に私と喧嘩して家を出て行ったのよ。今は彼氏と一緒に暮らしてるわ』
「そう……それは知らなかった」
『だから今何をやってるかも知らないのよ。ゴメンね』
「いやとんでもない。みんな元気ならそれで良いからね」
『それだけは大丈夫。何かあったら連絡するね』
「判った。よろしく」
 そう言って電話を切った。どう言う事だろうか。店にはオヤジさんは旅行と言う事になっているらしい。では千住で見かけたと言う事は何だろうか。見間違い? いいや、そんな事はあるはずが無い。長年見慣れた中島水産の支店長が見たのだ。恐らく間違いはあるまい。だとすると、オヤジさんは嘘をついて店を出た事になる。
「もう少し調べてみないと何も判らないな」
 泰造は出汁を取りながら考えていた。

 店は今日も順調だった。最近は千住の東口に出来た大学の学生がやって来るようになった。この辺なら大学まで歩いても行けるので、近所の安アパートには学生が多かった。そこで顔なじみの学生に尋ねて見た。
「あのさ、おたくらは工業系の学生さんだから専門外かも知れないが、地中海での鮪の養殖ってそんなに盛んなのかい?」
 尋ねられた学生は
「何言ってるのオヤジさん。そっちは立派な理系だよ。良く知ってるよ。かなりと言うか生産されている鮪の殆どが日本に入って来るんだよ。日本は世界一の鮪の消費国だからね」
 築地や千住でも生の鮪には生産地が貼られているが、「地中海産」と書かれた鮪が増えている事は何となく感じてはいた。
「そうか、ありがとう。お礼にこれ」
 泰造が出したのは鰤の骨を一口大に切り、生姜を入れて煮た「あら煮」だった。濃い味付けがご飯にも酒にも合う。
「ありがとうオヤジさん!」
 学生は喜んで食べていた。

 昼の営業が終わり美菜と二人で食事をしていると
「ねえ、本当はヨーロッパなんか行っていないのでしょう?」
 美菜が泰造に尋ねる。泰造は新聞から目を上げて
「まあな。二三日前に千住で見たそうだから、多分ヨーロッパには行っていないな」
「でも、それって組合の他の人に尋ねれば判ってしまう事じゃない。そんな見え透いた嘘をつくかしら」
「だから誰かが嘘をついてるのだと思う」
「そうだよね」
 美菜も箸を止めてトラックが通る表の道を眺めていた。暫く考えていたが
「ねえ、確か、あの消えたビルの反対側は芭蕉の碑だけど、その並びにお父さんが良く行く店の自宅兼倉庫があったでしょう?」
 美菜に言われて泰造は記憶を手繰り寄せる。確かに芭蕉の碑の隣というより二三軒先には乾物を取り扱う「石上」という店の自宅兼倉庫があったのを思い出した。
「そうだな。今度千住に行ったら、『石上』に行ってみるか」
「今度じゃなく明日行きなよ」
「そうか。そうだな……明日行って訊いてみるわ」
 微かな希望だった。「石上」の者なら年中あの場所に居る訳だから何かを見ている可能性があると言う事だった。気がかりは「花村」のオヤジさんを知っているかどうかだった。

「メシ」はどこだ! 4

d0063149_21351474 東京卸売市場足立市場(通称千住市場)は国道四号線の千住大橋に袂にある。正面を国道、脇を隅田川が流れている。今は荷物の入荷は全てトラックだが、その昔は国鉄や東武線の貨物の引き込み線があったりして、鉄道貨物や隅田川を利用した船なども使われていた。
 泰造はハンドルを握ると車を首都高の新富町の入り口に向けた。
「高速使うの? 奢ったねぇ」
 美菜がちょっとした驚きを伴って半場呆れている。
「そんなに時間変わらないんじゃない」
「そのちょっとが惜しい」
 泰造はそれだけを言うと黙って運転に集中した。
 車は首都高六号線の堤通で降りて、左折して堤通を千住方面に向けた。空いてる今の時間なら五分程で千住市場に到着する。
 築地と違うのは、ここは元は野菜のやっちゃ場もあったのだが、手狭になったので、やっちゃ場だけが足立の花畑に移動したのだった。だから今はこの場所は魚河岸だけが使用している。その為敷地に余裕があり場内の裏手に駐車場があるのだ。その一角に車を駐める。この場所も泰造がいつも駐める場所だった。
「ねえ、聞き込みしかしないの? 何か買わないと訊きづらく無い?」
「そうか? そんな事考えていなかったな」
 こんな時、美菜は意外と気を使うのだった。

 千住は築地ほど大きくは無い。場内の大きさが築地の半分強ぐらいだが、仲買の世代交代が進み廃業してる店がある。手広くやっている所はその廃業した権利を買い取って店舗を広げているのだ。泰造が行く「三上」や「中島水産」も広く使っていた。その中には無論「村上」も含まれていた。
 泰造は「中島水産」に顔を出した。痩せてはいるが陽気そうな男が店に居た。
「あれ、今日は築地に行ったと思いましたよ」
「いや、その帰りなんだ。ちょっと良いかな?」
 泰造の言葉に何かを感じた「中島水産」の支店長は裏の通路に泰造を呼び
「どうしたんすか? なにかありました?」
 そう言って泰造の顔色を伺った。この男は泰造が料理の世界では只者では無い事を良く知っている。
「いやね、隣の『村上』なんだけどさ。少し前に築地から移動して来た奴がいるだろう?」
「ああ。ほら、あの茶髪の奴ですよ」
 支店長の指差す方向を見ると、赤い髪をした中肉中背の若い男がホースで鮪を解体する調理台に水を掛けて鮪の血を落としていた。その脇では別な作業員が備え付けの電動のこぎりで冷凍鮪を柵取りしていた。今はこうしないと売れないのだと「三上」でも言っていた。
「あいつか?」
「どうしたんすか?」
 泰造は言うまいか迷ったが、横から美菜が
「あのね、『花村』の親父さんが行方不明なんですって。何か知ってる?」
 そう喋ってしまった。
「お前!」
 怒ったが後の祭りである。仕方ないと思ったが、支店長は意外な事を口にした。
「え? 『花村』のオヤジさんなら昨日も見ましたよ」
「は? そんな事無いだろう。だって娘さんが探してるし」
「いや、ちゃんと見た訳では無いですが、あれは……確かにオヤジさんじゃ無いかなぁ」
 千住市場に出入りしているなら何故店に連絡をしないのだ。それに確認しなかったが、優子の言った事は本当だったのだろうか? 仕入れに来る婿さんに確認しておけば良かったと後悔した。
「何処で見たんだ?」
「ほら、市場の正面入口の脇に松尾芭蕉の碑があるでしょう? 旧道沿いの」
「ああ」
「その碑の向かいに雑居ビルがあるでしょう」
 今は場外の店も無いがその昔は場外の店が出ていたビルだった。
「三階建ての?」
「そうです。誰かと車から降りて、あそこに入って行くのを見たんです。確認した訳じゃ無いけど、確かにあれは『花村』のオヤジさんでした……思い出したけど、その車を運転していたのも顔は見なかったけど茶髪だったなぁ。あいつかも知れないすよ」
「いや、ありがとう」
 泰造は礼代わりに真蛸を買った。その足で、先程オヤジさんを目撃したと言うビルに向かう。
 歩いても場内からさほどは掛からない。泰造の記憶では確かあのビルは誰も出入りしておらず。ビルの所有者も解体費用が掛かるので放置しているとの事だった。何の為にオヤジさんはこんなビルに出入りしているだろうか?
「鍵が掛かってるし、誰か出入りなんかしている雰囲気じゃ無いけどね」
 美菜がビルの入口のドアのノブをガチャガチャしながら泰造に報告する。
 確かに美菜に言われなくとも、誰も人の出入りがある雰囲気では無い。窓は泥が付着しており、窓の金属の縁は錆びて塗装も落ちていた。ビルの壁のヒビも修繕した感じは伺えなかった。
「確かにな……やはり見間違いだったのかな?」
「ねえ、優子さんて今でも店を手伝っているの?」
「そりゃお前、末の優子さんと長女の愛子さんの姉妹で、更に幼くて亡くなったけど、その上にも居たんだ」
「店をやってる婿さんて優子さんの旦那さん?」
「あ……違う! 確か婿さんは愛子さんの……」
「ねえ、もしかして、優子さんは今は店を手伝っていないんじゃ無いの。だから連絡先を店じゃ無くてわざわざ携帯にしたんじゃ無いかしら」
 泰造は確かに美菜の言ってる事もありだと思った。
「じゃあ、婿さんと愛子さんはオヤジさんの行方を知っていると言うのか?」
「だから市場でも騒がないんじゃ無いの?」
「帰ろう。帰って仕込みして『花村』に電話してみる。オヤジさんの行方を知ってるのかどうか」
 泰造と美菜は駐車場に戻り、蛸が車に積まれているのを確かめると店に向って車を走らせた。


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