2016年12月

「空な人」

 生き方を考えねばならぬほど若くはない。人に請われるほどの才能もない。ましてや、先頭に立つほど人望がある訳でもない。時流に流され生きて来た。

 人の悪口は腹にしまい、口には出さず、偽りの笑顔を見せる。只、人に悪く思われ無ければそれで良いと常に大勢の方に立って生きて来た。

 常に目立たず。その他大勢で良いと思い、積極的に手を挙げるなんて事も考えず。そのくせ自分の評判は誰よりも気にして、悪い噂を耳にすれば、くよくよ悩み、人に相談することも出来ずに胃の薬を飲んで誤魔化す。良い噂を聞けば、表面的にだけ謙遜し、家族には自慢し悦に入る。

 優しいと言われれば、その通りに行動し、例えそれが本心からでは無くともその様に振る舞い。自分があたかも、いい人であるかの様に見せることを考える。
 
頼まれれば、一応は嫌とは言わず。返事を先延ばしにして、都合の良い理由を考えてから断る。さも残念そうに振る舞う事は忘れない。

 只考えるのは人間関係が悪くならないようにする事だけ。だって、それは自分が生き難くなるから。それだけを考える。
 
 常に全力で行動するなんて事は考えず。八分目を目標にする。それが上手く行くコツだよと嘘ぶいて、何事にも結果オーライで良いと考える。

 適当と言う言葉が好きで、いつもそれで通れば良いと思っている。だって適当とは一番適している事だと本心では思ってもいない事を口にする。

 そんな自分が本当はとても嫌いで、一人になると自己嫌悪になり、死ぬことばかり考える。でも死にはしない。それは結局自分が好きだから。

 どうか、どうか、今日も嫌な事は頭を下げている間に、上を通り抜けますように……。

 そう、わたしは中身の無い「空」な人。

「氷菓」二次創作 「迷い」

 九月に入りこのところ神山は雨が多い。何でもまれに見る台風の多さの影響だという。そう言えばこの冬は雪が少なかった。その影響かと思った。何事もその原因は自分が考えていたより前にあると言う事だ。
 来週の週末には神山高校で文化祭が開かれる。勿論我々古典部も昨年に続き文集「氷菓」を発売する。というより、部の活動目的がこれしか無いのだから仕方がない。
 今年は伊原が忙しく昨年は一手に編集を引き受けたのだが、今年は千反田と俺も手伝った。
「二人共悪いわね。ちょっと個人的な事情でね」
 そう言って俺たちに謝っていたが、その事情も俺と千反田は里志から大凡は聞いていた。
「いいえ、とんでもありません。本来なら昨年もこうやって皆で編集に携わなければならなかったのに、摩耶花さんばかりに負担をかけてしまって……」
 確かに千反田の言うことは尤もで、その点は俺も反省しなければならない。
 そんな事もあり今年も文集「氷菓」は順調に仕上がって印刷屋に回っていた。あとは数日後に出来上がって来るのを待つばかりとなっていた。
 そんな週末だった。金曜の夜に電話が掛かって来た。出てみると電話の主は里志だった。
「どうした? 週末に電話とは珍しいこともあるものだな」
 里志が週末に連絡をして来るのはかなり珍しい。たまにある時は重要な要件の時だ。思っていた相手では無かったので、受話器を持ち替える。
「いや大した用事じゃないんだけどね。このところ手持ち無沙汰でね」
 里志は伊原と交際を始めてから週末は殆ど予定が埋まっていると言っていた。それが、このところ手持ち無沙汰というのは伊原が里志とは直接関係の無い事で忙しいという事なのだろうと推測した。
「明日、ホータローは何か用事があるのかい?」
 やはりだと思った。要するにコイツは休日である土曜日に一緒に過ごせる相手を探しているのだと言うことなのだ。
「用事といえば、千反田の家に行き、猫の世話をするぐらいかな?」
 明日は、千反田にコタローの世話を頼まれている。明日も家の用事で出かけるので、その間だけ見ていて欲しいという事なのだそうだ。
 猫なんか、少しの間なら放おっておいても一向に構わないと思うのだが、そうも行かないらしい。
『このところちょっとお腹を下すことが多いのです。この前などは、粗相をした後に歩きまわってしまいまして、大騒ぎになったのです』
 そう言っていたのを思い出した。要するに、アレがあちこちに付いた可能性があると言う事だ。千反田は自分が見ていたから、大事に至らなかったが、見ていない時に同じ事があったらと思ったのだろう。それは理解出来たので、千反田が出かけている間だけコタローの事を見ていることにしたのだ。
「そうか、僕も一緒に居てもいいかな? これでも猫の扱いは慣れているんだよ。小学校の時に飼っていた事もあるしね。それに猫については色々とその性質を調べたりもしたんだ」
 里志が慣れていると言うならこれほど頼もしいことは無いと思った。
「多分大丈夫だと思うが一応千反田の許可を貰っておくよ。また連絡する。携帯の方でいいかな?」
「いいよ。連絡待ってる。じゃ」
 里志は短く返事をすると通話を切った。その感じから今の電話も携帯からだと思った。もしかしたら、自分の部屋からだとと感じた。家族にも聞かれたくない話があるのだろうと推測する。
 連絡した結果、千反田は喜んでくれた。
「福部さんも一緒なら、これほど心強いこともありません。お願いいたします」
 要するに、世話をする人間は多いほうが良いという事なのだろう。里志にその旨を連絡すると
「じゃあ、明日の朝、僕がホータローの家に迎えに行くよ」
 そう言って里志も一緒に行くことが決まった。

  翌朝、里志は思ったよりも早く我が家の呼び鈴を押した。
「いま行く」
 それだけを言って夏物のカーデガンを引っ掛け玄関を出ると、昨年一緒に千反田の家に行った時に乗っていた黄色いBMXではなく、今日は赤いロードレーサーに跨っていた。頭にヘルメットこそ被っていないが、かなり本格的なものだと言うことは理解出来た。
「新しく買ったのか?」
「まあね。バイトなんかして結構苦労したよ」
 自転車は里志の趣味の一つだとは知っていたが、正直、これほど本格的なものを買うとは思ってもいなかった。
「行くか」
「うん」
 それだけ言うと俺は自転車を漕ぎだした。里志が後から続く。ちらっと見たら里志のロードレーサーのフレームには『COLNAGO』と書かれてあった。途中の交差点で並んだ時に訊いてみた
「随分高そうな奴だな」
「まあ……C-RSと言ってエントリーモデルだけど、結構本格的な作りになってるんだ。知り合いが買ったのだけど事情があって譲って貰ったんだ。それでも貯金全部叩いても足りなかったのだけどね」
「残りはどうしたんだ」
「だからバイトして補ったんだ」
 そこで信号が変わって走りだした。今は未だバイトなどしても許されるのだろうが、この先はこいつはこんな事をしている暇などは無いはずだった。それは俺も同じかも知れないが、こいつは伊原と言う存在がある。そこが俺とは違う。自分の趣味にうつつを抜かしている時間は限られるはずだった。
 刈り取り間近の田圃の中を二台の自転車が走って行く。秋の風が体を抜けて行く。悪くはない。こんな時、少しだけ里志の気持ちが理解出来るような気がした。

 千反田家に到着すると、コタローと千反田が出迎えてくれた。
「本当に申し訳ありません。お昼過ぎには戻ると思います。台所にお弁当を作っておきました。時分になったら食べて下さいね」
 千反田はそう言うと鉄吾さんとお母さんが乗った自動車に乗って出かけて行った。コタローは思ったより大人しくそれを見送った。
 手を出すとコタローは俺の胸に飛びついて来た。どうやら例の病院での一件以来、俺に飛びつくのが当たり前になったみたいだった。
「随分ホータローに慣れているんだね」
 感心する里志に病院での事を言うと
「それは猫の記憶に刻み込まれたんだね。ある意味、ホータローは命の恩人だからね」
 そんな事を言って妙に感心していた。
 上がらせて貰い、家の中に入る。何時もながら広い家だと感心する。これほど大きい家なのにちゃんと掃除が行き届いているのは見事だと思う。ここに粗相などをされたら堪ったもでは無いと俺も思った。
 縁側の部屋に里志と一緒にコタロー共々移動する。縁側に座った俺と里志の間にコタローも座って何か二人の会話に参加でもしそうな感じだった。
「実はね、昨夜電話したのはホータローに話したい事があったからなんだ……いや聞いて欲しい事かな」
 恐らくそんな事だろうとは見当をつけていた。
「摩耶花が、今、何をしているか知っているだろう」
「漫画を書いているんだろう? 何でも文化祭で売るとか……詳しい事は知らん。それもお前と千反田から聞いた事だ」
「そうなんだ。摩耶花はこの前、ある漫画雑誌のコンテストで努力賞になったんだよね。それで河内先輩から誘われて一緒に書く事にしたんだ。プロを目指してね。漫研を辞めたのもそれが原因だと聞いている。プロを目指す事にした摩耶花に対して僕は何をしてあげられるかと考えてしまってね。そんな時にロードレーサーを譲る話があって、自分の憧れのロードレーサーを持てば摩耶花と同じ位置に立てると勘違いしてしまったんだ。実はそうではないと判って自分でも何だか空回りしている気分でね……」
「それで、俺に愚痴を聴いて欲しかったのか?」
「いいや、そうじゃない。こんな気持を抱くような世界に前から立っている男を思い出してね。心構えと言うか気持ちの持ちようを聞いてみたかったんだ」
 里志が俺の事を言っているのは判っていた。千反田家は神山でも有数の名家だし。折木家とは釣り合いが取れないと言われても仕方がない。それに個人的に俺と千反田と比べてみても、あいつの方が大人の世界に接してる時間が多い。
「比べても意味は無いと思うがな」
「え、……それって……」
「お前はお前だし、伊原は伊原だ」
「そんな立前は判っているよ。そんな事ではなく……」
「背伸びしても、伊原はきっと喜ばないと思うぞ。そもそも伊原がお前の何処に惚れたのかもう一度考えてみたらどうだ。そこから考えれば結論は出ると思うがな。第一、お前ロードレーサー買って伊原に誇れる気持ちになったのか? 少なくとも俺の知っている伊原は喜びはしない」
 俺の言い方が普段とは違うと思ったコタローが俺の膝に乗って来た。心配しているのかも知れない。優しく背中を撫でる。
「じゃあ、ホータローは千反田さんと言う大きな存在に対して、どう向き合っているんだい?」
「向き合うも何も、俺は俺のままだ。俺が出来る事をするだけだ。出来ない事はしないというより出来ない事は何もしないと言う事だ」
「やらなくても良いことはしない。やらなければならないことは手短にかい」
「そうさ。その考えは変わらない。千反田だって完璧な人間ではない。欠陥だってある。それはお互い様だから二人で埋め合わせて行けば良いと思ってる。俺には俺しか出来ない事もあると思う。千反田もそれを望んでいるだろう。それに、言っておくが俺と千反田はお前らの様な仲ではないからな。そこを間違えないでくれな」
「そうか、自分に出来る事を……か。判った様な気がする。ありがとう。やっぱり来て良かったよ」
「そうか、なら良かった。そろそろ昼だ。千反田が用意してくれた弁当でも覗きに行こう」
 
 千反田が用意してくれた弁当は栗ごはんに千反田家の畑で採れたであろう秋野菜の煮物が入っていた。南瓜、里芋、椎茸が程よく味付けされていた。焼き物には飛騨牛の味噌漬けが入っていた。
「飛騨牛なんて地元の我々でも中々手に入らないのに、やはり名家は違うね」
 里志はそんな事を言って食べている。足元ではコタローが餌を食べていて、この家にいる者が全て同じことをしているのが面白かった。
 午後になり千反田は帰って来た。コタローは別段特異な行動は見せなかった。その旨を伝えると
「そうですか、本当にありがとうございました。お弁当、お口に合いました?」
「とても美味しかったよ」
 そう返事をすると千反田のお母さんが
「えるは、昨夜から一生懸命に作っていたのですよ。それこそ本当に」
 そんな内幕をバラされて千反田の顔が真っ赤になった。
「ああ、そう言えば、福部さんに伝言があったのです。昨日、折木さんから福部さんもいららっしゃると聴いて摩耶花さんに連絡を取ったのです。そうしたら……」
「そうしたら?」
 里志が前のめりになる
「こう福部さんに伝えて欲しいと……長いのでメモに書いておきました」
 千反田はそう言ってメモを取り出して里志に渡した。読んでいる里志の表情がほころんで行くのが判った。俺が怪訝な顔をしていると、千反田が耳元で呟いてくれた
「あれにはこう書いてあります『ふくちゃん。今回は本当にありがとう。少しの間寂しい想いをさせてゴメンね。わたしが自分の夢を追いかけられるのも、ふくちゃんが居てくれるからです。あなたが居てくれなかったら、わたしは夢を追いかける事はしなかったかも知れません。だから心の底より感謝しています』……素敵ですね」
 いつの間にか千反田が俺に寄り添っている。その間にコタローが入って来て、千反田に抱かれる。
 何も心配することは無かったのかも知れない。池に小石が投げられて漣が立ったが、収まってしまえば元通りになって行くだけだったのかも知れない。
 俺と千反田の仲も、流れに任せて行けば良いかも知れないと、その時思ったのだった。



                                                                             <了>

クリスマスコンサート

拙作の「お星様とギター」「残り火」の登場人物による話です。
番外編のような続編のようなものです。

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 今年の冬は何だか早く来る気がした。店の入り口のガラスの扉が木枯らしに揺れていたからだ。風の強い日だから仕方がないが、それにしてもこんな事は滅多には無い。

 ウチも一応はイタリア料理店なのでこの時期はクリスマスの飾り付けをする。大した事はしない。それは夫の方針でもあるからだ。

「毎日来てくれるお客さんを大事にする」

 それが口癖で、「お客さんの笑顔が一番」と言う事も常に付け加えるのを忘れない。夜なんか興が乗るとお客さんのリクエストに答えて、ギターで歌う事もある。演奏の腕は落ちていないと思うが本人は歌手を引退したつもりなので、本気ではない。それは、わたしだけに判る事なのだ。

 十二月に入ってもお店は順調で特別な事は無かった。今年もこうやって暮れて行くのだと思っていた。だが、それは突然やって来た。

 ある日、店のガラス戸の向こうをカッキーこと柿沢タツヤが横切って裏手から入って来た。

「あら、カッキー今日はどうしたの

 普段なら正面から入って来るのに今日に限って裏手から入って来るのは何かあると感じた。

「十二月の二十五日の日曜日は店は休みだよね」

 カッキーは夫の純ちゃんにでは無くわたしに問いかけた。

「そう、日曜だから休みよ。二人でお正月の買い物にでも行こうかと思ってるの」

 わたしの言葉にカッキーは突然両手を合わせて

「純をこの日貸してくれないかな

 そんな事を言って来た。純ちゃんの顔を見ると鳩が豆鉄砲食らった顔をしている。

「おい、いきなり何だよ。俺に話を通してから陽子に言うのが筋だろう」

 純ちゃんが口を尖らせてカッキーに言うと

「悪い悪い、でもお前なら了承してくれると思ってるからさ」

 カッキーは悪びれず、そんな事を言う。

「ねえ、ちゃんと話してくれない

 わたしが言うとカッキーはわたしと純ちゃんを座らせて、その前に椅子を出して座り

「実はさ、俺の出た『ひまわり園』で二十五日の日にクリスマスソングの簡単なコンサートと言うか歌を聴かせてやりたいんだ。この前、園に行ったら、園長先生が『一度ちゃんしたクリスマスソングを子供たちに聴かせてあげたいの』って言っていたんだ。俺の育った所だし、訊けばちゃんとした音楽に触れる機会が少ないそうなんだ。だから俺で良かったらと園長先生に言ったんだ」

 カッキーは実は孤児で、孤児院で育ったのだった。その事はヒット曲が出た時にマスコミで取り上げられたので結構有名な話だ。有名になってからも、売れなくなってからも自分の出た孤児院の「ひまわり園」には何時も何かしら援助と言うか協力しているカッキーだった。名前の柿沢タツヤと言うのは芸名だが本名は園長先生がつけてくれたそうだ。そんな想いがあるので、こんな事を考えたのだろう。

「で、なんで、純ちゃんが一緒にやるの

 そうなのだ。カッキーは純ちゃんを誘いに来たのに違いなかった。

「いや、クリスマスの曲なんて子供向けはそんなに無いしさ。俺一人じゃ時間を持て余してしまうから純が一緒なら子供も喜ぶと思ってさ」

正直、なんで純ちゃんが一緒だと、園の子供たちが喜ぶのかは判らないが、カッキーが純粋な気持ちなら協力しても良いかと思った。

「ギャラは

「子供たちの笑顔」

「なら決まりだ。協力するよ

 何ともあっけらかんと決まってしまった。そうだよね。純ちゃんは何より笑顔が好きなんだよね。カッキーも良く判っている。

 それから二人は当日何を歌うかを決める作業に入った。店が終わる頃にカッキーがやって来て二人で頭をつ付き合わさせて決めた。それがこれだ


1.きよしこの夜

2.おめでとうクリスマス

3.赤鼻のトナカイ

4.風も雪もともだちだ

5.サンタが街にやってくる

6.ジングルベル

7.ホワイト・クリスマス

8.もろびとこぞりて


 この八曲に決めた。時間が3040分ぐらいなのでこれに決めたそうだ。これ以上長いと子供たちが飽きてしまうと言う事も考えたそうだ。歌詞は全て日本語で歌う事に決めた。相手が子供なので英語より日本語の方が良いと言う考えだった。

 それからは、毎晩店が終わると二人でギターを出して練習していた。何だかんだ言っても純ちゃんは歌うことが好きなんだと改めて思う。あの時、これからも趣味では歌を歌うと言っていたが、このような事なら、わたしも大賛成だ。


 当日、わたしは子供たちに食べて貰えるように沢山のクッキーを焼いて持って行く事にした。カッキーにその辺の事情を尋ねると、

「安心して食べさせられるお菓子は大歓迎」

 との事だった。何でも園長先生の方針でなるべく既製のお菓子は与えたく無いのだそうだ。既製品には色々な添加物が入っているので、なるべく子供には与えたく無いのだそうだ。わたしは、そんな事も知らなかった。

 いよいよ当日、日曜でお店は休み。わたしと純ちゃんとカッキーは車でカッキーの出た「ひまわり園」に向った。

 コンサートをする時間は午後の2時半からで、歌が終わるとおやつの時間となる。その時にわたしの焼いたクッキーが配られる事になっている。

 カッキーは園に着くと、園長先生や他の関係者にわたしと純ちゃんを紹介してくれた。

「ようこそ、今日は本当にありがとうございます 子供たちも楽しみにしています」

 皆が口々にそう言ってくれた。純ちゃんもカッキーも笑顔を絶やさないが段々と表情が真剣になって来る。長年の付き合いのわたしには二人の本気度が手に取るように判る。

 

 時間になって園のホールに集まった子供たちの前で二人がギターを引きながら歌って行く。一人は現役の歌手、もうひとりは引退したとは言え、現役の頃と変わらない腕と声の持ち主。その見事さは素人の比では無い。実はわたしもピアノなら多少出来るので参加しようと考えたのだが、参加しなくて良かった。わたしのピアノが入ったら台無しになるところだった。その代わり、この演奏が終わったら、真剣に焼いたクッキーを皆に食べて貰おうと思った。

 歌は殆どの子供が知っている歌ばかりだったので、子供たちは楽しんでくれたみたいだった。それぞれの笑顔でそれが判る。

 演奏は好評のうちに終わり、その後わたしの焼いたクッキーが配られた。歓声が一層大きくなった。


 全てが終わり、片付けて帰ろうとすると園長先生が

「今日は本当にありがとうございました お二人のギターの演奏の見事さに子供も始め皆驚いていました。生の演奏があんなにも心に響くなんて……本当に素晴らしい体験でした」

 そうにこやかにお礼を言ってくれると。純ちゃんが

「そうですね。やはり生の体験に叶うものは無いと思います。また何かありましたら柿沢君に言ってください」

 そんな事を言った。柿沢くんだなんて言ったのが妙に合わなくておかしかった。

 車に乗りながらカッキーが

「純も陽子ちゃんも、ありがとう。あの子供の笑顔を見たら俺も幸せになったよ」

 そう言うと純ちゃんが

「また、やろうぜ 子供に笑顔になって貰いたいからさ」

 そう言ったのが印象的だった。その時、窓の外を流れ星が流れて行った。純ちゃんが何かお祈りをした。

「何、祈ったの

「秘密

「ケチ

「いずれ判るさ」

 それから暫くして、わたしと純ちゃんは神様から素敵なクリスマスプレゼントを貰った。



                                                                            <了>

「天と鈴」 第14話 年の暮れ

 十二月も中頃を過ぎると年末や年始の事が頭を過るようになる。鈴は実は親友の美紀からスキーに誘われていたのだ。暮れの三十日の夜行バスで立って、翌朝現地に到着して、一日滑って温泉に泊まりそこで新年を迎え、元旦も夕暮れまで滑って、夜に向こうを立って二日の朝に戻って来る日程だった。店も三十日から四日までは休みだ。天は正月も店を開けていたそうだったが、肝心の市場が四日までは休みなのだ。初荷は五日と決まっていた。
 店の掃除をしながら鈴は天に訊いてみた。
「ねえ、年末からお正月の休みにスキー行っても良い?」
「あ、お前滑れたのか? いつ覚えたんだ」
「あ、滑るのはスノーボード。実は人工の場所で何回かやった事はあるんだ」
「ふうん。そうか、誰と行くんだ?」
「美紀だよ」
「夏の何とか言っていた子は一緒じゃ無いのか?」
 ここで鈴は天の感の良さにドキリとした。実は夏に仲良くなった民宿の長男で二つ歳上の大学生の顕(あきら)が友達を連れて来るので向こうで合流する手はずになっていたのだった。
「あ、実は向こうで合流するんだ」
 隠しても自分の性格だと顔に出ると思い、正直に言う事にした。別に悪い事をする訳ではない。顕とは夏に仲良くなった程度で、その後も特に連絡は取っていなかった。美紀も顕の連れて来る友達とは初対面だと言う事だった。
「彼氏になりそうなのか?」
「そ、そんな訳無いじゃない。判らないよ。こればっかりは」
 それが本音だった。
 冬の夜は熱燗が出る。学校もそろそろ終業になるので店に出る時間も多くなっていた。鈴はお燗番をする事が多くなっていた。
 鍋をつつきながら熱燗で一杯やる……そんな絵に書いたような光景が店には広がっていた。
「三十日は大掃除だ。夕方には終わるから、それからなら好きな所に行けば良い。暮れの墓参りには俺一人で行くから」
「ありがとう……お墓参りあったんだよね……」
「構わ無いよ。一人で母さんと話して来るから。お前の事も相談してくる。あいつはどうしたいんだかな」
「わたしは、もう決めてあるんだ」
「そうか、でも直前で変わる可能性もある」
「そんな事無いよ」
「なら良いけどな。俺や店の事は心配するな。お前も若いんだから楽しめば良い。それが一番だ」
 お燗番をしながらそんな会話をした。その感じが何時もと同じ様で何となく違った感じを受けたのは気のせいでは無いと思った。

 三十日の掃除は朝早くから行った。特に鈴は、夕方に美紀と待ち合わせをしているのでそれに間に合わせようと時間を作ったのだった。
 鈴の持ち場は店の中だ。調理場は天が掃除をする。苛性ソーダを溶かしてその溶液に油汚れの物を漬けて行く。壁やレンジフードも洗剤を掛けて磨いて行く。
 鈴は店のガラス戸を綺麗に磨き上げ、テーブルや椅子も家庭用洗剤で綺麗に拭いて行く。なんだかんだで昼過ぎには終わってしまった。
「やった! 時間が余った」
「毎年こんなに頑張るならいつも旅行に行けば良いな」
 天がそう言って鈴をからかった。

 夕方鈴は「じゃ行って来るね」と言い残して出かけて行った。ボードや何かはレンタルするのだと言う。便利な世の中になったものだと天は感じた。自分がスキーに行った頃もレンタルはあったが充実しているとは言えなかったからだ。
 天は、磨きあがった店内に一人で座り、棚から日本酒を出して来てグラスに注いだ。肴には烏賊の明太子和えを用意した。このようなものは市販品もあるが、天はそのような品は使わない。自分で選んだ身の引き締まったアオリイカを捌いて細く切り、それに大ぶりの博多産の明太子の腹を切って薄皮を剥ぐと箸で丁寧にそいで烏賊と和えるのだ。夏なら三つ葉を加えるが今はこれだけだ。そこに天は柚子の皮を細く切り僅かに加えるのみだった。口に含むと辛味と甘味の間に鼻に柚子の香りが抜けるのだった。
 その味わいが消えぬ内に冷の酒を口に含む。何とも言えぬ味わいだと天は思うのだった。静かに年の暮れが過ぎて行く。一人の酒も悪くないと思うのだった。

 翌日、天は菜の肉体が眠っている菩提寺に出かけた。電車に乗るのも久しぶりだ。昨年までは鈴と一緒だったので車で行っていたのだが、今年は一人なので電車にしたのだった。電車の乗り方は忘れてはいなかったが、自動機札には少し驚いた。殆どの人がパスケースの上からタッチさせるだけで通過してしまう光景に時代は変わったと思うのだった。
 菩提寺のある駅を降りて参道を寺に向かう。元々はこの駅も寺に参拝する人の為に作られたのだから、駅前の道も参道なのだった。
 参道脇の店も前と変わり無く思えた。だが良く観察するときっと変化はあるのだと思った。店を見ながら天は、帰りに鈴が好きだった名物の菓子を買って行こうと決めていた。
 寺では年末の墓参と住職への挨拶に訪れる人が結構な数居た。天も挨拶をしてお灯明料を収め、住職から寺の卓上カレンダーを受け取った。これは色々なお釈迦様の言葉が書かれていて、天はそれを読むのも好きだった。書かれた内容が現在の時代でもそのまま通用すると言う事に人の営みの変わらぬ事を思うのだった。
 桶に水を汲み、線香を買って墓に向かう。けつこう大きな墓地だが迷うような事は無い。整然と仕切られているからだ。
 墓に着くと、水を掛けて掃除をする。秋の彼岸に来たからそんなに汚れてはいなかった。雑草もほとんど無かった。
 線香を供え、買って来た花束を墓の両側に供える。手を併せて拝み、そして語りかける。
「なあ、鈴はもう決めたと言っていたが、どう思う。向こうに行けば、あいつにとって素晴らしい事があると判ったら迷うだろうな。俺はそれをあいつに言うべきなのだろうか? それとも黙っているべきだろうか? 俺は実は迷ってる……まあ未だ時間はある。明後日でなければ、あいつは帰っては来ない。今暫く考えてみるよ」
 もう一度手を併せて拝み立ち上がった。その時何かが聴こえた気がした。
「そうか……そう言う事か……ありがとう。また春に来るよ!」
 天はまるで菜が生きている様な挨拶をすると静かにその場所を後にした。
「さて、今夜は年越しそばをたべながら酒でも飲むか」
 その顔は迷いが取れた晴れ晴れとしていた。

「氷菓」二次創作  あと少しだけ

 ここの所めっきり日の暮れるのが早くなった。気温も今年は一気に下がって寒くなるのだそうだ。暑さは兎も角、寒さだけは余りお近づきにはなりたくない。
 今年の文化祭も終わった。例年通りに古典部には災難が降り掛かったが、それは機会があったら述べるとしよう。
 「あの日」から千反田の顔から以前のような笑顔が消えた。俯いて考え事をしている事が多く、何か冗談を言っても、一応笑顔は見せるが以前の感じではない。自然と古典部には重い空気が漂っていた。

 ある日のこと、千反田が部室に来なかった。伊原が顔だけ出して
「ちーちゃんは家の用事で今日は休むそうよ。伝えたからね」
 そう言って行ってしまった。今日は俺一人と思っていて、文庫を十ページも読み進めた頃に里志がひょっこりと顔を出した。
「どうした、珍しい事もあるものだな。お前一人なんて」
 何気なく挨拶代わりに言った言葉だが
「摩耶花は今日も河内先輩と漫画を書いてるよ。何でも次の公募が見つかったので、それに向けて忙しいのだそうだ。漫画なら僕が何か手伝う事は無いからね。それで古典部に来てみたんだ」
 里志は手に持っていた巾着を机に置くと、俺の隣に腰掛けた。
「何だ? 改まって話でもあるのか?」
 すると里志は俺が思ってもみなかった……いや、心の底に蹲っている事を訊き出した。
「ねえ、夏休み明けからの千反田さんなんだけど、何か前と感じが違う時が多い気がするんだけど、ホータローは何か知っているのかな?」
 ある意味、俺が一番訊かれたくない事柄だったかも知れない。正直に言うべきか、言わざるべきか悩んだが、里志の反応を見ながら話を進めることにした。
「千反田は、今まで家を継ぐ事を自分の人生の柱にして生きて来たろう?」
 突然、確信的な事柄だったので、里志は俺の正面を向いて座り直した。
「そうだね。千反田さんは一人っ子だし。他に家を継ぐ者がいる訳ではなさそうなので、当然そう言うことになるだろうね」
 何も知らなければ当然の答えだと俺も思う。
「その前提がひっくり返ったらどうする?」
 俺の言い方がおかしかったのか、里志は暫くその意味を理解出来ずに居た。俺は再度
「家を継ぐことを考えなくて良いと言われたら千反田はどうすると思う?」
 はっきりと事柄を伝えた。里志は驚きながらも半分笑いながら
「まさか、鉄吾さんが千反田さんにそう言ったのかい?」
 そう言って俺の目を見据えた。その瞳には明らかに疑いの色が見て取れた。
「信じられないのも無理は無いと思う。正直俺も最初に聴いた時は『まさか』と思った」
 里志は左手を顎に添えると考えながら
「親としては、家を継ぐと言う決まった人生よりも、もっと広い世界に羽ばたいて欲しいと思うのは当然だと思うけど、千反田さんは、それを全て受け入れて、その上で自分をどうするか考えていたのだから、困惑するだろうね」
「そう言うことだ。だから俺もどうして良いやら……」
 事実、あれから千反田と「その件」に関して話したことは無い。文化祭やら何かで忙しかった事もあるが、意識的に避けて居たことも事実だ。
「実は、摩耶花も心配していてね。千反田さんが何も言わないから、ホータローに直接尋ねようか迷っていたそうなんだ。ならば僕も真相を知りたいから、今日はいいチャンスだから訊いてみたんだ」
 そうか、伊原にも千反田は打ち明けていなかったと言う事が正直驚きだった。考えて見れば、漫画家になる事を夢見て、しかも頑張れば手の届きそうな位置にいる伊原と、考えていた地盤が崩落してしまって、最初から築かなければならなくなった自分とでは随分立場も違ってしまったと言う事なのだろう。
「そうか、ところでお前らは順調なのか?」
 俺がそんな事を尋ねるとは思っても見なかったのだろう。里志は鳩が豆鉄砲を食ったような顔をして
「僕たちは順調だよ。尤も摩耶花が賞を取ってプロになっても今は神山でも活動出来る時代だしね。摩耶花より自分のことを考えなければならないよ」
 そう言って窓から遠くを見ていた。
「で、それは決まったのか?」
「これからだよ。ホータローだって決まってはいないのだろう?」
 確かに、その通りで俺もそろそろ進路を決めければならない。
「事情は理解したよ。でもこれは僕達が手伝ってあげられることは無いかも知れないね。千反田さん本人が決めなければならない事なんだろうね……じゃ僕は行くよ。正直、摩耶花も答えを知りたがっていたしね」
 里志はそう言って机に置いた巾着を手に持つと地楽講義室を出て行った。教室は再び俺一人となった。

 文庫を切りの良い所まで読むと帰る事にした。続きは家で読むつもりだった。
 日の暮れかかった校庭を歩いて行くと、長い影が伸びて校門に掛かっていた。その影を手繰るように校門まで歩いて行く。
 校門を出たところにある橋の上で自転車のハンドルを持った一人の人が俺を待っていた。
 私服姿の千反田だった。プリーツの入った濃紺のスカートに白のブラウス。その上に萌黄色のカーデガンを羽織っていた。カーデガン以外は直前まで、正式な装いが必要な場所に赴いていたことを表していた。家の用事とはそのようなものなのだろう。
「用事は済んだのか?」
「はい、今日は午前中で早退しましたから、もう済みました。水梨神社に今年の収穫を感謝する行事でした。それ自体はもう済んだので……」
 千反田の言い方と俺と目を合わさないので、その行事に関しても何か言われたのだろうと推測出来た。
「何か言われたのか? 家を継がないなら出なくても良いとか」
 余りにも飾りのない言葉だが他に言い様がなかった。
「そうですね。遠回しには言われました。でもわたし自身気持ちが揺れ動いていますので、やはり出た方が良いと思ったのです」
 答えの出せない中で最善の道を類ったと言う事なのだと理解した。
「時間あるのか?」
「はい、家の者は行事や直会で遅くなりますから。少し遅くなっても大丈夫です」
 俺も、今日は親父も出張で帰って来ない。姉貴も大学だから今日は神山には居ない。
「俺しか居ないがウチに来るか? 表だとこれから冷えるからな」
 別に千反田を取って食おうとは思っていない。誰も邪魔の入らない空間と時間が欲しかった。
「折木さんさえ良ければ……」
「じゃ決まりだ。兎に角冷えることは無いのは約束する」
 千反田が自転車を押して俺と並んで歩いて行く。
「どうして学校まで戻って来たんだ?」
 今更だとは思うが、今日戻って来なくても良かったのだ。次の休みに逢っても良いし(その癖ここの所そのことから逃げていたのだが)別に時間を作っても良かった。
 千反田は俺の意図をすぐ理解し
「家の行事に参加して、やはり折木さんに自分の気持ちをもう一度聞いてほしくなったのです。折木さんなら聞いてもらえると思いまして……」
 俺は今日、里志が尋ねた事を話し、伊原も心配している事を伝えた。
「自分のことなのに皆さんにご心配をおかけして本当に申し訳ないです。わたし、自分がこんなに弱い人間だと初めて知りました」
「お前が弱いんじゃない。誰でも急に梯子を外されたら困惑する」
 俺の言葉に千反田は黙っていた。答え難い話だとは理解していたので、そのまま黙って家まで歩いた。

「何もないが、温かい紅茶ぐらいは入れられる」
 そう言って玄関を開け、千反田を招き入れた。
 リビングに通してソファーに座らせると台所で薬缶に水を入れて火に掛けた。
「何が良い? 紅茶か、お茶か? 即席だったらココアもある」
「じゃあ、紅茶をお願いします」
「判ったちょっと待っててくれ」
 誰も居ない家に千反田を招き入れて良かったのかと思ったが、今は千反田の本音を訊き出して、千反田の負担を減らしてやらねばと思った。今現在、千反田がこの事に関して本音を出せるのは自分しか居ないのでは無いかと考えたからだ。
 台所を捜索すると「ダージリン」と「フォートメイソン」が見つかった。どちらも姉貴の物だ。両方とも少し使った跡があった。
「『ダージリン』と『フォートメイソン』どちらが良い?」
 台所から声を掛けると、千反田は俺の傍までやってきて、紅茶の缶を手にとって眺めた。
「『ダージリン』はトワイニングで、『フォートメイソン』と言うのは、「フォートナム&メイソン」と言う会社が出している紅茶の種類だ」
 俺の拙い英語の読解力と以前姉貴が言っていた事を思い出した。
「『フォートメイソン』なんて珍しいですね。ここのはミルクティーで飲むと美味しいのですが、これだけはストレートで飲んだ方が美味しいのです。中国茶が僅かにブレンドされていてわたしは好きな銘柄です」
 恐れ入った。俺なんか多分、姉貴が買って来た時に飲んでいるのだろうが全く憶えていなかった。大体が紅茶よりコーヒーと言う口だからなのだが……
 それから後は千反田が全てを取り仕切った。俺は紅茶に合いそうなクッキーを戸棚から見つけて出しただけだった。
 千反田はリビングで紅茶を飲むと
「久しぶりですが、やはり美味しいです。これを飲めただけでも折木さんの家に寄らせて戴いて良かったです。ここの所気が塞ぐ事が多かったのですが、美味しいものを頂戴すると気持ちも晴れますね」
 そう言った千反田の顔は久しぶりに見る笑顔だった。
「親父さんは何と言っているんだ?」
 ここはストレートに尋ねてみた。
「はい、父は、家のことは考えなくても良い。ここは自由にお前の好きな道を選べば良い。と言いました。でも、正直言って今更そんな事を言われても困ると思いました。幼い事から家を継ぐ期待を掛けられ、行事にも参加させられ教育を受けて来ました。それなのに今更なんです。今更自由にしても良いと言われても困るんです。ならば神高でも理数系じゃ無く文化系に進みたかった気持ちもありました。歴史や文学も好きだったからです。どうして良いか判らずにいました」
 千反田の暗い顔にはそんな秘密があっただろうとは考えていたが、俺には理解してやることは出来ても、普段の「気になる」とは違って解決してやる事は出来ない。
「でも、折木さんが少しでもわたしの気持ちを理解してくれていると言う事が判って。わたしの気持ちも落ち着きました。未だ時間はあります。理数系で進学するにも、色々学部も選べます……折木さん! わたしの心がどこかに行かないように、しっかりと抱きしめて下さい」
 気がつくと千反田が目前に居た。思わず、その細い両肩をそっと抱きしめる。
「こうか?」
「はい、嬉しいです」
 既に日は暮れて夜の帳が落ちていた。千反田は遅くなっても良いと言っていた。ならば、暫くこのままでいようかと考える。
「折木さん……あと少しだけ、あと少しだけこのままでいてください」
 千反田の潤んだ瞳を見詰め、一番大事な人だと悟る……。
 柔らかな体を抱く腕の力を少しだけ強くすると、千反田も俺の背中に手を回す。
 遠くから虫の声が聞こえ二人を包んでいた。

                                                              <了>
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