2016年08月

「天と鈴」 第5話 日常

 天が市場から帰って来た。メガネが出来てからは前のように市場には天一人で行くようになった。市場の口の悪い者からは
「天さんの代わりに鈴ちゃんがずっと来れば良かったのになぁ……鈴ちゃんだったら勉強するんだかなぁ」
 などと本気とも冗談とも取れぬことを言われていた。
 市場から天が帰って来る時刻に鈴は朝食の準備をする。ご飯を炊き、味噌汁を作る。それに天の好きな納豆や胡瓜のぬか漬けを用意する。たまに干物が並ぶ時 があるが、それは天が市場で買って来たものだった。鯵なんかは軽く炙るように火を通して出す。皿の上で『ジュウジュウ』と音を立てて身が弾けている。
 二人で食卓に向かい合わせで座り
「いただきます!」
 と手を合わせて食事にかかる。
「ねえ、井上のラーメンまた食べに連れて行ってね」
 鈴が若芽とジャガイモの味噌汁に口をつけながら言うと天が
「ああ、食べたくなったら何時でも言いな。お安いご用だ」
 そう言って、大粒の納豆に箸を立ててかき回す。箸に糸が絡みつくのを見て鈴が
「その納豆、この前市場に行って値段見て驚いちゃった。三百円もするのね」
 天が、たれと辛子を納豆に入れ更にかき回す。
「でも、量がパックの三倍入っている」
「パックも三個ついてるじゃない」
「味が全く違う。毎日食べるものじゃ無いから、このぐらいは贅沢したいものだ。お前だって美味しいって食べるじゃないか」
「そうだけど、でも値段を知らないで食べるのと、知って食べるのでは有り難みが違うわよ」
 天は鈴の言っていることも良く判っていた。
「で、今日は食べるのか?」
「勿論貰うわ」
 鈴はそう言って自分のご飯茶碗を天に差し出した。天がそれに納豆を入れて行く。
 口をつけると、納豆独特の臭いが鼻を突く。パックの納豆は臭わない豆を使っているそうだが、あれは納豆では無いと鈴は思っていた。やはり臭いがあり、辛子を入れて食べるのが納豆だと思うのだった。
「今日は、何がお勧めなの?」
 仕入れた魚のことを尋ねる。今日のお勧めの品は確認しておかなくてはならない。
「ああ。今日は鮎だな。鮎の良いのが安かったので纏めて仕入れた。焼き物で出す。『鮎焼き定食』だな」
「鮎か、時期だけどウチで昼出すのは珍しいね」
「ああ、何でも大口がキャンセルされたらしい。それで捨て値で買った訳さ」
「人が良いから押しつけられたんでしょう?」
「お互い様さ。今度はこっちが無理な注文を聞いて貰える」
 鈴もその辺は判っていたが、もし今日自分が行っていたらどうなったか、考えていた。もっと値切ったかも知れない。でも、そうすると信頼関係が崩れるのかも知れないと思った。

 その日は珍しいという事もあり鮎がよく出た。「採」の鮎は鮎蓼(あゆだて)という草を鮎の下に敷いて、別な小皿に「蓼酢」という蓼ともち米を良く練り、 酢でのばした調味料で食べるやり方だ。「蓼」とは「蓼食う虫も好きずき」と言われるあの「蓼」だ。勿論、鮎は塩焼きしてある。その珍しさもあって、昼の時 間が終わる頃には殆ど出てしまった。
「二匹しか無いから昼に食べてみるか?」
 天が鈴に声を掛けた。
「いいの?」
「ああ、一匹は母さんに供えて、残りは食べればいいよ」
「じゃあ、食べてみる」
 今日の昼は鮎と決まった。
 鮎は尾を押さえて、箸で身を軽く叩く、そして、頭を押さえて尾を一気に引き抜くと、『するり』と骨が抜けるのだ。このやり方を知らない者は多い。鈴は母 からこれを教えて貰った。結婚前に勤めていた料亭では、鮎が出ると仲居さんがこうやって食べやすくしたそうだ。そんな事も教えてくれた。だから鮎は鈴に とって母の思い出の魚でもあるのだ。
 実際、鈴は鮎の身をほぐし、蓼酢につけて口に運ぶと、鮎独特の香り……何だろうか、すいかに似た香り……それに蓼の爽やかな苦みが絡まって酢と合わさり何とも言えない味を感じた。
「なんか、鮎って、川と野の恵みを沢山受けている感じがする」
 鈴の感想を聞いて天は
「まあな、それが判れば一人前だな」
 そう言って目を細めた。
「でもな、鮎が本当に脂が乗って美味しいのは『落ち鮎』と言って十月なんだ。それは覚えておいた方が良い」
「ふ~ん。そうなんだ。鰹と同じだね」
「そう言事だな」
「ねえ、旧盆の頃にお店休むんでしょ?」
「ああ、市場も休みだし、常連は田舎に帰ってるからな」
「ウチは田舎無いものね。その時に美紀と旅行に行ってもいい? 一泊なんだけど」
「構わんよ。好きにすればいい。海でも行くのか?」
「判った? そうなんだ」
「せいぜいナンパされてこい!」
「そんな軽くないよ!」
 天は冗談めかして言っていたが、自分が本当に帰ることになったら、どうするのだろうかと思う鈴だった。

「天と鈴」 第4話 気持ち

 中学三年まで母が居たので、記憶は濃い。特にあの日のことは今でもハッキリと憶えている。
 それは、鈴が少女から大人になった時だった。それまで、学校や母親に教わっていたので、それ自体は別に戸惑いは無かった。だがその夜、母の菜に店が終わって父親が寝た後で呼ばれたのだ。
「なあに?」
 最初は、そのことだと思っていた鈴だが、母の菜の表情を見ると、どうも違っているようだった。母は二階のベランダに椅子を二脚持ちだして、青い月の光を受けて心なしか何時もと違っているように見えた。
「ちょっと話があるんだ。大事なことなの」
 何時もと違う母の言葉に神妙な気持ちになって隣の椅子に座った。生まれてから母が月の人であることは聞かされていたし、自分が他の子とは少し違うのも何時の間にか理解していた。それが判った時母は褒めてくれたのを憶えている。
「いいよ。準備出来たから」
 鈴の言葉に母の菜はゆっくりと語り出した。
「お母さんが月の人だと言う事はもう知ってるわよね。この地球に月の人は結構な数住んでいるのよ。でもその殆どは月に帰ることはしないの。でもね、お母さんは違うのよ」
「どうして? どうして違うの?」
 それはそうだろう。他の人が良くて、どうして自分の母が違うのか、その理由を問いただしたかった。
「あなたが、大人になったから打ち明けるけどね。お母さんは月の国の王位継承者の家の生まれなの」
「王位継承者って……」
「お母さんは月の世界の王族の一員なの。王族は結婚する時は月に帰る義務があるの。でもお母さんはそれを放棄してお父さんと一緒になったから、王位継承権 は剥奪されたのよ。でも、その代わり、私の子供……つまりあなたね。あなたに王位継承権が与えられたのよ。それは、あなたが大人になった時に与えられるの よ。つまり……」
「今日ってこと?」
「そう。今日、あなたは月の世界の王位継承者になったのよ」
 信じられなかった。母が王族の一員である事までは理解出来ても、父との子である自分が何故、月の世界の王位継承者にならねばならないのかを……。
「何番目なの?」
 もし、若い数字ならば、大変なことになると思った。
「一桁なことは確実だと思う。いずれ向こうから言って来ると思うけど、今すぐ迎えが来るという事は無いわ。恐らく、二十歳前後になると思う」
 菜は淡々と語って行く、娘から見ても若く二十代にしか見えず、未だに街を歩くと若い男の子から声が掛かる母の横顔は悲しみを抑えているように感じた。
「その時お母さんは一緒に付いて来てくれる? お父さんはどうなるの?」
 鈴の疑問に菜は青い月の光を浴びながら
「多分、その時まで生きて居られないと思う。実はね、血液の病気が始まってるの」
 ショックだった。月の世界の王位継承者の事より数倍ショックだった。
「お医者さん行こうよ!」
 その言葉に母は首を振った。
「地球の薬では治らないわ。だって月に住んでいたら発病しない病だし」
「他の人はどうなの?」
「発病するのは千人に一人の割合。でも他の人は月に帰れば治るわ」
「じゃあ、お母さんも帰れば……」
 鈴はそこまで言って、気がついた。母が一度でも月に帰れば二度と地球には戻って来られない事を。
「何処まで生きられるか判らないけど、お母さんは一時でも、あなたやお父さんの傍を離れたくないのよ。一緒になる時にそう誓ったの」
 そう言った母の顔はとても優しく、目をつぶると思い出すことが出来た……。

「りん! ねえ鈴!」
 自分を呼ぶ声で我に帰った。最近、ぼおっとしてるとあの時の事を思い出す。
「ああ、美紀か。どうしたの?」
 鈴を呼んだのは佐藤美紀。同じ歳のクラスメイトだ。本当はこの高校の全日制に入りたかったのだが、落ちたので定時制に入ったのだ。
「別な高校に行けば良かったじゃない」
 鈴がそう言うと
「だって、どうしてもこの高校に入りたかったのよ。将来、経歴に定時制卒業って書かなくても良いでしょう。〇〇高校卒業ってだけ書けば良い訳だし」
 そんな理由もあるのだと鈴は変な感心をした。それから美紀とは友達になった。
「もうすぐ夏休みだけど、鈴はお店休めるの?」
「ああ、多分旧盆の辺りは休むと思う」
「じゃあ、その頃海に行かない?」
「うん、いいよ。行けると思う」
「じゃあ予定立てておくね」
 美紀はそう言って自分の席に戻って行った。その姿を見ながら鈴は、自分は普通の高校生とはやはり違うのだなと思うのだった。

 家に帰ると天がビールを呑んでいた。珍しいと思った。父親の天は家では殆ど呑まない。晩酌の習慣が無いのだ。長い間、調理場で食生活も済ましていた天は酒は何処か店に行って呑むものになっていた。だから天が例えビールでも自宅で呑んでいたのは、鈴にとって驚きだった。
「珍しいね」
 自分の部屋に荷物をかたすと鈴は天にそう言って少なくなったグラスにビールを注ぎ足した。
「何かあったの?」
 鈴の言葉に天は暫く間を置いて
「別に何も無いさ。それよりお前、母さんの夢なんか見るか?」
 そう尋ねて来た。鈴は天がそんな事を言うのは意外だと思ったが
「夢は見ないな。だって、夢に頼らなくてもハッキリと憶えているしね。言葉も表情も姿もね」
 鈴の言葉に天は小さなため息をついた。
「そうか、お前は強いな」
「父さんは母さんの夢見るの?」
「たまにな……最近多くなった。ふと、生きていたらどうなってるかな、と考える事もあるよ」
 天の少し弱気な言葉を耳にして鈴は、あの時母が選択した事を尋ねてみたくなった。
「ねえ、あの時、お母さんの病気が月に帰ったなら治ると知っていたら、どうしていた? 帰した、それとも帰さず同じにした?」
 鈴の質問に天は迷わず
「帰したな」
「一生逢えなくても? 私と別れ別れになっても?」
「ああ、生きていれば、一生の内には何があるか判りはしない。月の人は地球の人間より長生きすると言う。ならば、この先、何処かで逢えるかも知れないと望みを持って生きて行くのも悪くはない」
 訊かなくても判っていた。父なら、天なら、恐らくそうするだろうと……。
 それは、自分もそうするだろうと思ったからだ。だから母は、残る選択をしたのだと思う鈴だった。

「天と鈴」 第3話 開店

 鈴は二階のベランダで洗濯物を干していた。今日はどうやら洗濯物が良く乾きそうだと思った。
 全部干し終わると店に戻って来て、入り口の軒に「お食事処 菜」と書かれたのれんを下げた。店の開店である。この時間だけは洗い物のパートさんを頼んでいる。皿洗いまでは手が回らないからだ。
 程なくお客が入って来た。ほとんど毎日来る常連の蓮さんだ。本名は蓮次郎と言うらしいが、ここでは誰も本名などでは呼びはしない。数年前に勤務していた会社を定年退職した。その後熟年離婚して今は一人住まいであることは鈴も知っていたがそれ以上の事は知らない。
「いらっしゃい」
 鈴が声を掛けると蓮さんは
「鈴ちゃん今日も綺麗だね。今日は何がお薦め?」
 常連ならば、天が市場で何かお薦めの魚を買って来るだろうという察しはしていた。すぐに調理場から天が
「今日は鯖だな。鯖の味噌煮だ」
 そう答えると
「夏なのに鯖? どうしちゃったの」
 怪訝な表情の蓮さんに天が
「鯖は鯖でも『戻り鯖』だよ。今日はこれが入荷していたので何本か仕入れたんだ。たまらなくなるほど旨いぜ」
 天のその言葉で連さんは注文を決めていた
「じゃあ、その鯖の味噌煮定食」
「はぁ~い。鯖味噌入ります!」
 鈴が透き通る声で注文を通して伝票を切り、片割れはカウンターに片割れは蓮さんの座るテーブルに置いた。
 店が開いたのを確認した人々が次々にやって来た。それぞれが好きなものを注文するが常連の注文は今日は皆「鯖味噌」だった。天の腕と素材の見立てを信用しているのだ。だから毎日のようにやって来る。
「お待ちどう様」
 鈴が蓮さんに「鯖味噌定食」を運んで来た。その鯖の切り身の大きさに驚く。箸を割って早速鯖を口に運ぶ。その瞬間
「おお、これは濃厚で鯖本来の旨味が濃縮しているね。味噌がまた泣くほどこの鯖に合ってる。白味噌と赤味噌の割合は絶妙だね。だから味噌が鯖の持ち味を殺して無いんだ。それに生姜の風味が効いていて、隠し味的な感じになってるのも素晴らしい。
 カウンター席の隅に座った蓮さんは、鯖の事を天に尋ねる。天は忙しいが適当に答えている。
「戻り鯖って?」
「鯖は回遊魚で秋に日本に戻って来るんだが、でも戻って来て春に出て行かない鯖がいるんだ。葉山の沖とかにさ。それだよ。回遊しないから太って脂が載ってるんだよ。本当は刺し身でも食べられるけど夏だから煮たんだよ」
 天の答えを聴きながら連さんはたちまち食べてしまった。
「旨かった! 鈴ちゃん勘定して」
「はい毎度!」
 お金を払うと蓮さんは楊枝を口に加えて暖簾を潜って外に出て行った。入れ替わりに新しい客が蓮さんの座っていた席に座る
「いらっしゃい」
 鈴の声に迎えられて、店が回転して行く……。

「ありがとうございました!」
 午後二時を回って最期の客が出て行った。片付け終わると天は
「鈴、善さん閉めてお昼にしましょう」
 そう声を掛ける。調理場も店も元のようにキチンと片付けて終わっていた。
「はーい」
 調理場から洗い場のパートの善場由子さんが三角巾を外しながら出て来て、鈴の並びに座った。
「少し多めに買ったから我々も食べようと思ってね」
 そう言って天は三枚の皿をテーブルに並べた。皿の上には鯖の味噌煮が載っていた。善さんは味噌汁をよそって、鈴はご飯をよそる。
「いただきます!」
 そう言って各自食べ始める。
「ああ、本当だ、この鯖マジでヤバイよ! たまらない!」
「本当ね、こんな鯖食べたこと無いわ」
 鈴と善さんが感想を言うと天が顔をしかめて
「なんだ、その感想は、鈴、そんな言葉使うな! ちゃんとした日本語を使え」
 そう怒るのだが鈴は悪びれず
「ごめん、つい我を忘れてしまったの。それだけ抜群に美味しかったって事」
 そんな返事をする。鈴だって十八歳だ。高校に行けば同世代の子と親しく話をする。ついそんな若者言葉が出てしまうのも無理は無いと善さんは思っていた。大事な時期に母親が亡くなって本当に心配したのだ。でも真っ直ぐに育って、安心したのだった。
「でも鈴ちゃんは本当に美味しそうに食べるわよね」
 そう善さんが言うと天が
「美味しそうじゃなくて、本当に美味しいと言って下さいよ」
 そう言って苦笑いをする。
「お父さん、食べたらメガネ作って来なよ。何か事故が起きる前に作っておいた方が良いからね」
 鈴は、父親のメガネのことを心配した。大丈夫だとは思うが、細かい所が見えないのでは無いかと考えていたのだ。
「ああ、作って来るよ。明日は仕方ないが、ずっと市場に一緒に付いて来られたら堪らないからな」
 天の言葉を聞いて善さんは
「あら、今朝は鈴ちゃんが市場に行ったんだ。久しぶりだから市場の人喜んだでしょう」
 そう言ったので鈴が今朝のことを詳しく語ったのだった。
 こうして昼の部、ランチタイムが終わりを告げる。夜の部は五時に開店して八時に閉店する。夜は店の性質上昼程はお客が来ないので天が一人で切り盛りしている。学校が休みの日は鈴も勿論手伝うのだ。
 鈴が通う定時制高校は、十七時十五分から授業が始まり、一限四十五分で、二時間目が終わると給食が出る。
 その後四時限まで行い九時に終わる。その後は部活があるが鈴は授業が終わるとまっすぐに帰宅する。家の用事や店の事もあるからだ。
「ただいま~」
 暖簾が下がって灯りの消えた店の引き戸を静かに引くと、調理場の奥の四畳半から灯りが漏れていた。天が食事をしているのかも知れないと鈴は思って、そっと近づくと天が母親の菜の写真に語りかけていた。
「なあ、二十歳になる前にやはり向こうからお迎えが来るのかな? 本音では地球の何処かに居て欲しいけど、それが古来月の決まりなら仕方ないな……覚悟は 出来てるよ。お前が俺の為に地球に留まってくれたおかげで、鈴が生まれた。だからあいつが二十歳になったら返さないとならない。とお前が教えてくれたよ な。本当はもっと子供を作っておけば良かったのかも知れないが……いいや、そんな事は無いな。誰でも、どんな子でも同じに可愛いし心配なものだしな……こ こは自然に任せよう。良いだろう?」
 何となく天がそう思っているだろうとは思っていたが、言葉で聞いたのは初めてだった。鈴は、自分は正直何時迄もここに居たかった。ずっと天の傍で暮らしていたかった。
『でも、まだ時間がある』
 鈴はそう思うと黙ってその場を離れたのだった。

「天と鈴」 第2話 仕込み

 市場から帰って来るとやることは多い。昼のランチタイムに向けて、仕込みをしなければならないからだ。
 まず市場で買って来た魚の下処理をする。頭を落としてお腹を裂いて腸を出して、綺麗に洗う。それから刺し身にするものは三枚に卸してキツチンペーパーに丁寧に包んでバットに並べてラップを掛けて冷蔵庫のパーシャル室にしまう。
 焼き魚や煮魚用の魚はその用途に合わせて筒切りにしたり、二枚卸にして半分に割ったりして塩を軽く振っておき同じように冷蔵庫にしまう。違うのはこちらは普通の冷蔵室だ。煮魚用に筒切りにした魚は魚によって味噌煮にするか醤油で煮るかに分けて煮ていく。味が染み込む為には煮た魚が一旦室温まで下がらないとならないため、時間が掛かるからすぐに煮るのだ。
 天が何時もと同じことを始めたので鈴も洗濯機を廻す。洗い上がるまでに、天の傍でその日に使う大根おろしを作ったり、刺し身に使う山葵をおろすのだ。天は粉山葵だけだと風味が足りないので、本当は全部本物の山葵を使いたかったが、値段の関係でそれは出来ないので粉に本物を混ぜて使っているのだ。食堂を始めた時は
『前なら経費の事なぞ考えたことは無かったな。妥協しなかったのだがな』
 そんなことを思っていたが、今は割り切ることにした。そっちが足りないなら別な方法でお客を喜ばせれば良いと思うようになった。
 例えばご飯の炊き方や、定食に付けるお新香に神経を使ってみるとか、料亭の頃には人任せだった部分にも気を使うようにした。
 鈴は大根をおろす時は左手で真鍮の大根おろしを持って自分に対して平行に持つ。そして右手で大根を持って円を描くようにおろすのだ。これは普通におろすより倍の力が必要だが、何にしろ出来上がった大根おろしの味が全く違うのだ。均一に力が入っておろされた大根は味がマイルドで辛味さえまろやかに感じるのだ。これは天がいつもやっていて、手伝っていた母親の菜も同じようにしていたのだ。鈴はそれを見て何時の間にか覚えたのだった。
 山葵も同じで、サメの皮で作られた山葵おろしも円を描くように、そして山葵おろしの上に溜まって来おろされた山葵を練り込むようにして行く。こうすることで空気が沢山山葵に入り込み、これもマイルドでありながら風味が強く爽やかな辛味を出すのだった。TVなどで力任せに前後運動でおろしてる芸能人を見ると、底の浅さが良く判ってしまうと鈴は思っていた。

 天が大根の妻を作る為に桂剥きを始めた。鈴はその余った大根もおろすのだ。無駄なものは何も無い。
 調理場に「たんたんたん」と包丁を刻む単調な音が響く、その音を聞きながら鈴はお米を研ぎ始める。毎日炊く分量は決まっている。この店の場合は四升だ。大きなボールに四升分のお米を図ると、大きな笊に一旦お米をあける。ボールに水を張り、笊に入ったままのお米をボールの水に浸す。すぐに引き上げて、ボールの水を捨てて、笊のお米をボールに移して、左手でボールを抑えながら右手でお米を研ぎだす。
 力いっぱいに、それでいてお米が壊れないように加減して研いで行く。数回水を入れてすすぎ、透明になったら、もう一度お米を研ぐ。そしてまた水ですすぐのだ。これを笊に上げて炊飯器に移して行く。今のお米はここで完全に水を切るということはしない。精米の時に乾燥化が進んで、この時に完全に笊で水を切ると、お米が再乾燥して割れてしまうからだ。だから今は研ぎ上がったら、すぐに炊飯器に移して水を張る。
 そこまで手伝うと鈴はホールや店先の掃除を始める。梅雨の合間の太陽が顔を覗かせて、今日も暑くなると鈴は思った。
「お茶入れたよ」
 仕込みが終わると、鈴は天に声を掛ける。
「おう、今行く」
 天がそう答えて調理場からホールに出て来た。カウンターが五席に四人がけのテーブルが四つという満席でも二十人ほどしか入らない小さな店だった。
 ここは鈴の母である菜と天が一緒になる時に持った店だった。それまで格の高い料亭で花板をしていた天は、その店で仲居で働いていた菜と恋に落ちたのだった。
 何か他の女性とは違うものを感じた天は決死の思いで交際を申し込んだ。正直、自分でも異性にモテる容姿ではないと思っていたので、ダメもともと言うつもりだった。だが、以外にも菜の答えは「よろこんで」と言うものだった。この時の天の気持はまさに天に昇るような気持だったと言う。
 その時、交際していて何時しか二人の夢は「自分の店を持つこと」になったのだ。

「はあ~ 旨い。お前お茶を入れるのが上手になったな」
 天が感心をすると鈴が呆れながら
「お母さんが死んでもう三年だよ。毎日入れていれば上手くなるわよ」
「それもそうか」
 天もそんなことは百も承知だった。だが口下手な天はこんな言葉でしか娘の鈴に感謝を伝えられないのだ。無論、鈴も父親のそんな気持は十二分に理解している。こっちも照れくさいので、こんな答えをするのだ。
「四回忌来るね」
「四回忌という言葉は無い。言うなら四回目の命日だ」
「そっか、でも通じたら良いじゃない」
「まあな。よそでは言うなよ。恥をかく」
「判ってるって」 
 半分飲んだ天の湯のみに鈴がお茶を足す
「お前、卒業したら、どうすんだ?」
「まだ一年以上あるから考えてない。夜間は四年制だから、これから考える。それに、もしかしたら向こうから誰か誘いに来るかも知れないし……お母さん、亡くなる前に私にそんな事も言っていたし。だから先のことは判らない! 今日を一生懸命やるだけだよ。それから、メガネが出来るまで、一緒に市場に行ってあげるからね」
「お前、今日ちやほやされたんで味をしめたな」
「違うよー、親が心配なだけだよ」
 そう言って鈴は天の湯のみに更にお茶を入れた
「腹がガバガバになってしまうだろう」

 そして、店は開店の時刻を迎える。

「天と鈴」 第1話 市場(かし)

 日曜日の夜、鈴は父親の天の変な叫び声を耳にした。
「あ、やっちまった」
 台所で洗い物をしていた娘の鈴は、作業を中断して、茶ノ間に顔をだした。
「どうしたの?」
 そこには、およそ、店では見せたことの無い表情をして天が立ち尽くしていた。見ると手には片方の蔓のないメガネを手に持った父親が居た。
「どうしたのメガネ」
「踏んで壊してしまった」
「なんで?」
「新聞読むのに老眼が始まってるから、メガネが無い方が良く活字が見えるんだよ。それで、畳の上に置いておいたら、間違って踏んじゃった」
 そう言った父親の天は凡そ父親の威厳とは遠い所に存在していた。
「明日、休憩時間に作りに行けば」
「ああ、そうするけど、朝が困った」
 天はため息まじりに天井を見上げた。その表情は「鬼岩」と呼ばれた風貌からは想像つかないぐらいに困り果てた感じだった。
「朝? ああ、市場(かし)ね。いいよ。わたしが運転して行ってあげる。免許持ってるから大丈夫だよ。それに市場は子供の頃に何回も連れて行って貰ったから場所だって覚えているから」
 父親と二人で店を切り盛りしているのだ。困った時は自分がカバーするのは当然だと言う自覚が鈴にはあった。
「そうか、一緒に行ってくれるか?」
「うん。五時でいい?」
「ああ、そうだな。それで良いけど起きられるか?」
「大丈夫だよ。私、寝る前に『明日は何時に起きるように』って念じて寝ると必ずその時間に起きることが出来るんだから」
 鈴はそう言って胸を張った。そうなのだ、子供の頃から寝坊で遅刻はしたことが無い。唯一あるのは友達が忘れ物をしたので、一緒に家まで着いて行って遅れた一回だけだった。
「じゃあ頼む」
 これで、明日は鈴が家の軽ワゴンを運転して市場に行く事になった。

「ここでいい。何時もここに駐めるんだ。場所が違うと仲買の配達が迷うからな」
 天は鈴に自分が何時も駐める場所に車を駐めさした。
「でもこの車、店の名前も書いてないよ」
 そうなのだった。車のサイドには何も書いて無いのだ。これでは何処の車だか判らないと鈴は思った。
「大丈夫さ。何時も買う店はこの車のナンバープレートを覚えているから平気なんだ」
 鈴は、天の説明に納得したのだった。
「そうか、見れば何も書いてない車のほうが多いものね」
「そういうことさ。さ、行くぞ」
 天は半袖の気合いの入ったポロシャツに長靴だ。これは市場の中はコンクリートの床で年中水を流しているので濡れているから、運動靴では駄目なのだ。だから鈴もピンクの長靴を履いて来ていた。
 天は紐のついた長方形の鞄を腰から下げている。この格好で市場を歩いているだけで、天が玄人だと一発で判るのだ。今は、そうでもないが、以前は市場は「素人さんお断り」だったからだ。
 天は最初に妻屋に赴く。妻屋とは八百屋なのだが、魚市場にある八百屋は普通の八百屋ではない。妻物と呼ばれる刺し身の飾りに使う食材を中心に取り扱っているのだ。勿論トマトやレタス、胡瓜、人参などの普通の野菜も置いてある。その品質はスーパー等より遥かに高い。
「いらっしゃい! 今日はメガネ無いんだね。あれ、何だね綺麗な若い子連れて来ちゃって、天さんも隅に置けないねえ」
 妻屋の女将さんが声を掛ける。
「おはよう! 違うよ、こいつは娘の鈴だよ」
「ええ! あの小ちゃかった鈴ちゃんなの? すっかり綺麗になってしまって!」
「おはようございます! そうなんです。鈴です。今日は父がメガネ壊して車を運転出来ないので、代わりに運転して来たんです」
「そうなんだ。もう立派な娘さんだね」
「小さい頃と余り変わっていませんね。懐かしいです。あの頃は女将さんに良く飴を貰ってましたっけ」
 鈴は、その頃のことをつい先日のように思うのだった。
 
 天が注文をして、次の店に行く。次は刺し身や焼き物に使う魚を買いに行くのだ。大きな体育館みたいな場内と呼ばれる建物に入って行く。ターレーと呼ばれる電動の貨車が幾つも通路を走って行く。市場が一番活気があるように見える時だ。
 次の店でも鈴は驚きと笑顔で迎えられた。子供用の真っ赤で小さな長靴を履いてそこら辺を走り廻っていた子が見違えるように成長したのが驚きでもあったのだ。
 その次は冷凍物を買いに行く、海老や烏賊などの冷凍の食材を仕入れるのだ。ここでも玲は同じように迎えられた。
 各店で勘定をして、荷物は車に積んで貰うのだ。天は何時も現金で払う事にしている。中には付けで月末にまとめてと言う所もあるが、天はそうはしない。それは現金で買った方が値段が安いし、品質の良いものを真っ先に回してくれるからだ。
 自分の目で見て、仕入れる。これが、料理人として最低の仕事だと思っている。大きな店では前夜にFAXや電話で注文して仲買の車で昼頃に配達して貰う店 が多くなった。それでは、実際に店に食材が来るまで品質が判らない。天はそう言う責任感の無い事だけは嫌だった。あくまでも自分の目で確認したものだけを 仕入れたかったのだ。魚を見ているうちに「これはこう調理しよう」とか「こんな感じが良いか」とかいろいろ考えるのも仕事のうちだと思っていた。
 一通り回ると天は鈴に
「腹減っただろう。飯食いに行こうか? 何が食いたい?」
 鈴は久しぶりの市場で興奮していてお腹のことは忘れていたが、天に言われて急にお腹の虫が鳴り出した。
「朝だけどラーメンが食べたい!」
「ラーメンか、若いなぁ……じゃあ井上だな。昔も良く連れて行ったけど覚えているかな」
「もしかして、立ち食いでカウンターに椅子が三個しかなくて、あとは歩道に置かれた長椅子で食べるところ?」
「そう、よく覚えていたな」
「あそこかぁ、あそこ美味しいんだよね。行く行く!」
 場内から五分ほど歩くと場外と呼ばれる場所になる。ここも色々な店が連なっているがここは基本的には素人さん歓迎である。
 そこを通り抜けて大通りに出ると幾つもの店の間に押し潰されそうになりながら一間ほどの店があった。看板には「中華井上」としてあった。
「二っつね」
 天が指を二本立てて注文する。出来るのは一品だけ。それも極上のラーメンだ。考える間もなくカウンターに二杯の丼が置かれた、中から湯気が立っている。
「はいお待ち」
 天は千円札を渡す。一杯五百円なのだ。鈴も慌てて天と同じように箸立てから割り箸を抜くと、ラーメンどんぶりを両手で持って歩道に置かれた長椅子に向かう。
 長椅子では先に天がもう食べ始めていた。鈴もそれに続く。
 麺が見えない程の量のチャーシューが入っていて、それ以上に葱の小口切りが山盛りになっている。白い湯気と白い葱のコントラストが食欲をそそる。
 箸を入れて下の麺を引っ繰り返すと細く真っ直ぐな麺が顔を覗かせた。スープを一口呑むと、旨味が口の中を甘美に襲う。その味が消えないうちに箸で細い麺を摘んで口に入れる。ズズーとすすると柔らかいが腰のある細麺が喉で踊る。
「美味しい! 昔と同じだね!」
 鈴はここのラーメンが東京で一番美味しいと思っていた。たまには食べに来ようとは思っていたが、このあたりの店は昼過ぎには閉店してしまうので、こうやって市場に仕入れに来た時しか食べる機会が無かったのだった。
「上手いか? そりゃ良かった。上手いのが一番だよ」
 スープまで飲み干してしまった鈴を見て天は嬉しそうに笑うのだった。
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