五月の乾いた風が肌に心地よい。その心地よい風が千反田の背中まである黒く長い髪を、柔らかくなびかせていた。
「折木さん。そろそろ帰りませんか? 陽が暮れると肌寒くなりますから」
「そうだな。それに、遅くなると家の人にも申し訳ないしな」
中間試験が終わり、ひと息ついたので千反田が、
「折木さん、明日の土曜ですが、霞草が自生しているのですが、一緒に行きませんか?」
そう言って誘って来た。千反田が俺だけを誘うなんてことは、かなり珍しいことだった。思えば音楽会のことあたりから、二人で出かけることが多くなった気 がする。俺としても、別段用が無ければ、千反田と一緒に外出するのは何も問題はない。別に二人だけだからと特別に意識はしていない。同じ古典部の仲間とし て当然だと思っている。
古典部のもう半分の二人は、毎週のように二人だけで逢っているし、月曜には部室で『昨日はどこどこへ行って……』という話を聞くことも多くなっていた。ならば、こちらとしても問題は無かろうと言う訳だ。
「しかし、神山のこんな近くに、霞草が自生しているなんて全く知らなかった。第一霞草なんて花屋で薔薇と一緒に付いて来る花という概念しか無かったからな。だが、こうして見て見ると実に味わい深いと感じたよ。それに可憐な感じが似合っていると感じたよ」
辺り一面に咲き誇った白い小さな花の海に立った千反田を見て、感じたままのことを告げる。
「わたしは、もちろん、色々な花も好きですが、この霞草が特に好きなんです。なぜだか判りますか?」
白い花の海に立ちながら千反田は俺に問いかけた。
「いや、判らないが……」
正直に言うと千反田は
「では得意の推理で考えてみて下さい。折木さんなら簡単だと想います」
そう言って意味ありげな笑顔を浮かべた。
『それを解決すると、どうなる?』
そう言いかけて言葉を飲み込んだ。千反田の考えそうなことは大凡だが見当はついている。千反田があえて自分で言わなかったのは、それ相応の意味があると言うことだ。今日、ここに俺を連れて来たことも意味があると言うことだと理解した。
「判った。それでどうする?」
「是非、折木さんの答えが聞きたいです」
千反田は、俺がどのような答えを出すのか判ったような表情をしてみせた。俺の考えが聞きたいと言った。その言葉自体が重い。
草原いっぱいに咲き誇った霞草の野原を後にして、俺と千反田は自転車の置いてある場所まで戻った。千反田を見ると何故か嬉しそうにしている。
「どうした? 先ほどのことがそんなに嬉しいのか?」
俺の質問が見当違いだったのか
「いいえ、自分自身のことなんです」
千反田は今通って来た霞草の方を振り返りながら呟くように言った。
千反田を陣出の家まで送って行き、そのまま家に帰る事にする。ネットで霞草のことを調べるつもりだった。だが、あてが外れた。
「ネット使えないわよ。今度光回線に変えるので工事するから二日ばかり使えないわよ」
姉貴はまるで当然のように俺に告げた。
「使いたい時に使えないのか」
「あんた、滅多に使うことなんてしないじゃない。普段の行いが悪いからよ」
全く、回線工事と俺の行いは関係ないはずだ。
「何調べるつもりだったの?」
「いや、霞草についてだけど……」
俺の言葉をどう理解したのか姉貴は
「花言葉なら『清らかな心』だけど、あんたには一番似合わないわね」
そんなことを言って自分の部屋に行ってしまった。ネットが駄目なら図書館に行って調べるしかない。思えば前は皆こうだった。だが、残念だが今日はもう開館時間が幾らも残っていなかった。調べるのは明日になる。
そう思っていたら知識の泉のような奴のことを思い出した。時計を見ると夕食前なので携帯に連絡を入れてみる。相手は二回のコールで直ぐに出た。
「もしもし、こんな時間に珍しいじゃないか。何かあったのかい?」
「いいや、何かあった訳ではないが、ひとつ教えて欲しいことがあるんだ」
「へえ~ホータローが僕に訊きたいことがあるなんて珍しいこともあるものだね。それでいったい何かな? 僕のデータベースに入っていることなら良いけどね」
電話の向こうでは、音楽が聞こえていた。普段、里志が聴くジャンルではないので、傍に誰か居ると推測出来た。その人物も大凡想像出来る。
「実は、霞草について教えて欲しい」
俺が意外な事を口にしたのか、里志は数秒何も言わなかった。いいや言えなかったのかも知れない。
「霞草? あの花屋さんで薔薇を買うと一緒に入れてくれる白い小さな花のことかな?」
「そうだ。その花屋さんで薔薇を買うと一緒に付いてくる白い花のことだ」
「そうだね。霞草について僕が知ってるのは、英語名の「Baby’s breath」は、赤ちゃんもしくは愛しい人の吐息という意味だと言うことかな」
「そうなのか、それは知らなかった。参考になる」
「ちょっと待って、ここに僕よりも詳しい人物が居るから変わるよ」
里志はそう言って携帯をもう一人の人物に手渡した。
「電話変わったわよ。なにアンタ、何を考えているのよ」
伊原は楽しい二人だけの時間を俺に邪魔されて酷く不機嫌だった。
「いや、邪魔して悪かったな。霞草について教えて欲しいんだ」
「ふぅ~ん。そう……なんだ、ちーちゃん絡みなのね。なら教えてあげなくも無いけどね」
話の内容を聞いて伊原は直ぐに千反田が絡んでいることを見抜いた。
「まあ、そんな感じだ。ネットで調べようと思ったが工事中で使えないんだ。明日図書館に行くつもりだが、その前に里志なら何か知ってると思ってな」
「アンタにしては上出来じゃない。霞草なら詳しいわよ。漫画でも使ったばかりだから由来とか調べたからね。それで何が訊きたいの?」
伊原が漫画で霞草について調べたとは全く知らなかった。これは運が良いのか?
「まず、花言葉だけど、『無邪気』『清い心』『親切』『幸福』『夢見心地』と言うのが一般的かな。他にもあるみたいだけどね。ナデシコ科カスミソウ属よ。原産地はアジアからヨーロッパね。日本には大正時代に渡来したそうよ。そんなことかな。他にききたいことある?」
それだけ知れば充分だった。
「いや、ありがとう。邪魔して悪かったな」
「別に良いわよ。それより頑張なさいよ。ちーちゃんの想いちゃんと受け止めるのよ」
伊原は最後にひとこと言いながら通話を切った。なんだかんだと言っても有り難い。
翌日の日曜日、図書館の開館時間を待って館内に入った。目的の図書の棚を見ていく、何冊かそれらしい本を見つけて、学習室に座って読む事にする。それで 新たに判ったこともあった。伊原が言った花言葉の他に・「無垢の愛」・「清らかな心」・「幸福」・「切なる喜び」・「ありがとう」・「永遠の愛」・「切な る願い」等があるそうだ。
調べ物が終わり図書館を出ようとした時に入須先輩と出会った。
「おや、折木くんじゃないか。珍しいこともあるものだね」
「入須先輩。今週はこちらに帰って来ているのですね」
東京の大学の医学部に進学した入須先輩だったが、たまには神山に帰って来ることもあるとは耳にしていた。
「まあ、色々とね。親が煩いからね」
自嘲したような言い方がこの人らしからぬと思った。
「ところで、先輩は霞草は好きですか」
「霞草。あの花屋さんで薔薇と一緒に包んでくれる?」
「そうです。その霞草です。先輩は薔薇の方ですけどね」
「また、君までもそう思っているのか……わたしは本当は薔薇よりも霞草だと自分では思っているのだけどね。薔薇と言えば、君のお姉さんの供恵先輩はまさに薔薇じゃないかな」
「花よりもトゲばかりですがね」
そう言ったら先輩は否定しなかった。
「じゃまた」
「では」
そう挨拶をして別れたが、考えて見れば「女帝」なんと呼ばれてしまった為に色眼鏡で見ていたのかも知れないと思った。
人を操ったと言えば人聞きが悪いが、適材適所という言葉もある。そう思えば自分は表に出ないのだから、薔薇よりも霞草的な性格が本当なのかも知れないと考えた。
図書館で調べて、ついでに置かれていたパソコンを使って検索して、千反田が何を俺に伝えたかったのかを理解することが出来た。問題はその返答方法だ。何 か相応しい答え方をしたかった。思いついたことはひとつ。それを調べる為にネットで検索をした。このような時は便利だと思う。
図書館を出て花屋で物色をした。店員さんにも相談をして小さな花束を拵えて貰った。色々と詳しい店員さんだったので助かった。花を買ったなら千反田に逢 わなくてはならない。確か昨日の話では一日中家に居ると言っていた。公衆電話を探すが中々見つからない。俺も携帯を買わなくてはならなくなるのだろうか。
やっと見つけて千反田の家に電話をする。直ぐに千反田本人が電話に出た。
「もしもし、折木だが、今日これから逢えないかな。駄目なら家まで行くか、家に帰ってから電話するが、本音では直接言いたい」
「先日のわたしの問いかけですか、もう解いたのですか?」
「ああ、謎は全て判った。それの説明もしたいし、それに……」
「それに……?」
「その先は直接言いたい」
「うふふ、判りました。ではこれから家を出ます。何処へ行けば良いですか?」
「そうだな、何時も学校の帰りに別れる商店街の角でどうかな」
「判りました。そこなら急げば三十分から四十分程で着きます」
「判った。待っている」
なるべく余計な事は口にしないようにした。手に持ったストックと桜草の花束が元気な内に手渡したかった。
結局、花束は紙の袋に入れて、直接見えないようにした。インパクトがある方が効果的だと思ったからだ。
近くの公園のベンチに座り、自分の想いをどう伝えるかを考える。「下手の考え休むに似たり」と言うことわざがあるが、全くその通りで良い考えが思いつか ない。そのまま正直に言うしか無いと覚悟を決めた。時計を見ると、そろそろ千反田がやってくる時間なので、何時もの場所に移動する
角に立って千反田が来る方角を眺めていると、自転車に乗った千反田の姿が見えた。白いブラウスに黄緑のサマーカーデガンを羽織っている。濃紺のスカートが色の白い千反田に良く似あっていた。
「お待たせしました」
自転車を降りてにこやかな表情を見せてくれる。それだけで自分の心臓が早鐘を打つようになる。昨日霞草の海で千反田に言われた時は何とも思わなかったのにだ。
「前に良く行った河原に行こうか」
千反田も頷いて俺の後をついて来る。肩を抱いたり、手を繋ぐのは未だ早いと思った。
河原の土手に並んで座る。何から言って良いか戸惑うが気持ちは固まって来た。
「なあ、昨日のことだけどな、俺なりに色々と調べたよ。その上でのことなのだが、霞草の花言葉を調べたら、お前の気持ちが判ったよ。・無垢の愛・清らかな心・幸福・切なる喜び・ありがとう・永遠の愛・切なる願い等がある事が判った。ならば俺も応えざるを得ない」
俺は千反田にそう答えて紙袋の中から花束を出して千反田に手渡した。
「これは?」
小首を傾げる千反田に
「ストックと白い桜草の花束だ。桜草は俺の誕生日の花だそうだ。それに『初恋』という意味もある。ストックは『永遠の恋』という意味もある。俺の気持ちを受け取ってくれるか?」
もう少し千反田が喜ぶような言葉を言ってやりたかったが、いかんせん俺はこういうことに慣れていない。千反田は手にした花束をじっと見つめていたが
「ありがとうございます! 霞草の群生地に連れて行くなんて、やり過ぎだとは思いましたが、とても自分の気持ちを口に出しては言えませんでした。でも、想いは募るばかりで、苦しくなってしまいました。そこである方に相談して色々と教えて貰いました」
俺には何となくだが、千反田が相談した相手が判ったような気がした。ここではその名前は出さないでおくが、よく考えたら今日明日に回線の工事を設定しなくても良かったはずだ。また、踊らされてしまったと言う訳だった。
五月の風は川面を緩やかにそよぎ流れて行く。水面を水鳥が跳ねて行った。
「本当は俺の方から告白しなくてはならないのにな……すまん」
「そんな、謝らないで下さい。わたしの我侭だったのですから」
千反田は俺の方を向きながら答える。
「でもな、ひとつ違うことがある。それは、霞草はどちらかと言うと俺なんだ。俺はお前の支えになりたいと何時も思っていた。薔薇の花はお前なんだ。それを自覚して欲しい。陣出を支える千反田の血を受け継いでいるのはお前なんだから」
千反田は俺の言葉を不思議そうな顔をして聞いていたが、やがてハッと表情が変わった。俺は千反田の為ならこの身を粉にしても構わないと思っている。俺の人生の全てをかけるだけのことはあると思っている。だが、ことが大きすぎて今まで言えなかったのだ。
「折木さん。では……」
「ああ」
そう言ってそっと肩を抱くと、千反田が俺にもたれて来た。
「少しこのまま居させて下さい」
その声は、優しく俺の耳に響いた。
<了>
「折木さん。そろそろ帰りませんか? 陽が暮れると肌寒くなりますから」
「そうだな。それに、遅くなると家の人にも申し訳ないしな」
中間試験が終わり、ひと息ついたので千反田が、
「折木さん、明日の土曜ですが、霞草が自生しているのですが、一緒に行きませんか?」
そう言って誘って来た。千反田が俺だけを誘うなんてことは、かなり珍しいことだった。思えば音楽会のことあたりから、二人で出かけることが多くなった気 がする。俺としても、別段用が無ければ、千反田と一緒に外出するのは何も問題はない。別に二人だけだからと特別に意識はしていない。同じ古典部の仲間とし て当然だと思っている。
古典部のもう半分の二人は、毎週のように二人だけで逢っているし、月曜には部室で『昨日はどこどこへ行って……』という話を聞くことも多くなっていた。ならば、こちらとしても問題は無かろうと言う訳だ。
「しかし、神山のこんな近くに、霞草が自生しているなんて全く知らなかった。第一霞草なんて花屋で薔薇と一緒に付いて来る花という概念しか無かったからな。だが、こうして見て見ると実に味わい深いと感じたよ。それに可憐な感じが似合っていると感じたよ」
辺り一面に咲き誇った白い小さな花の海に立った千反田を見て、感じたままのことを告げる。
「わたしは、もちろん、色々な花も好きですが、この霞草が特に好きなんです。なぜだか判りますか?」
白い花の海に立ちながら千反田は俺に問いかけた。
「いや、判らないが……」
正直に言うと千反田は
「では得意の推理で考えてみて下さい。折木さんなら簡単だと想います」
そう言って意味ありげな笑顔を浮かべた。
『それを解決すると、どうなる?』
そう言いかけて言葉を飲み込んだ。千反田の考えそうなことは大凡だが見当はついている。千反田があえて自分で言わなかったのは、それ相応の意味があると言うことだ。今日、ここに俺を連れて来たことも意味があると言うことだと理解した。
「判った。それでどうする?」
「是非、折木さんの答えが聞きたいです」
千反田は、俺がどのような答えを出すのか判ったような表情をしてみせた。俺の考えが聞きたいと言った。その言葉自体が重い。
草原いっぱいに咲き誇った霞草の野原を後にして、俺と千反田は自転車の置いてある場所まで戻った。千反田を見ると何故か嬉しそうにしている。
「どうした? 先ほどのことがそんなに嬉しいのか?」
俺の質問が見当違いだったのか
「いいえ、自分自身のことなんです」
千反田は今通って来た霞草の方を振り返りながら呟くように言った。
千反田を陣出の家まで送って行き、そのまま家に帰る事にする。ネットで霞草のことを調べるつもりだった。だが、あてが外れた。
「ネット使えないわよ。今度光回線に変えるので工事するから二日ばかり使えないわよ」
姉貴はまるで当然のように俺に告げた。
「使いたい時に使えないのか」
「あんた、滅多に使うことなんてしないじゃない。普段の行いが悪いからよ」
全く、回線工事と俺の行いは関係ないはずだ。
「何調べるつもりだったの?」
「いや、霞草についてだけど……」
俺の言葉をどう理解したのか姉貴は
「花言葉なら『清らかな心』だけど、あんたには一番似合わないわね」
そんなことを言って自分の部屋に行ってしまった。ネットが駄目なら図書館に行って調べるしかない。思えば前は皆こうだった。だが、残念だが今日はもう開館時間が幾らも残っていなかった。調べるのは明日になる。
そう思っていたら知識の泉のような奴のことを思い出した。時計を見ると夕食前なので携帯に連絡を入れてみる。相手は二回のコールで直ぐに出た。
「もしもし、こんな時間に珍しいじゃないか。何かあったのかい?」
「いいや、何かあった訳ではないが、ひとつ教えて欲しいことがあるんだ」
「へえ~ホータローが僕に訊きたいことがあるなんて珍しいこともあるものだね。それでいったい何かな? 僕のデータベースに入っていることなら良いけどね」
電話の向こうでは、音楽が聞こえていた。普段、里志が聴くジャンルではないので、傍に誰か居ると推測出来た。その人物も大凡想像出来る。
「実は、霞草について教えて欲しい」
俺が意外な事を口にしたのか、里志は数秒何も言わなかった。いいや言えなかったのかも知れない。
「霞草? あの花屋さんで薔薇を買うと一緒に入れてくれる白い小さな花のことかな?」
「そうだ。その花屋さんで薔薇を買うと一緒に付いてくる白い花のことだ」
「そうだね。霞草について僕が知ってるのは、英語名の「Baby’s breath」は、赤ちゃんもしくは愛しい人の吐息という意味だと言うことかな」
「そうなのか、それは知らなかった。参考になる」
「ちょっと待って、ここに僕よりも詳しい人物が居るから変わるよ」
里志はそう言って携帯をもう一人の人物に手渡した。
「電話変わったわよ。なにアンタ、何を考えているのよ」
伊原は楽しい二人だけの時間を俺に邪魔されて酷く不機嫌だった。
「いや、邪魔して悪かったな。霞草について教えて欲しいんだ」
「ふぅ~ん。そう……なんだ、ちーちゃん絡みなのね。なら教えてあげなくも無いけどね」
話の内容を聞いて伊原は直ぐに千反田が絡んでいることを見抜いた。
「まあ、そんな感じだ。ネットで調べようと思ったが工事中で使えないんだ。明日図書館に行くつもりだが、その前に里志なら何か知ってると思ってな」
「アンタにしては上出来じゃない。霞草なら詳しいわよ。漫画でも使ったばかりだから由来とか調べたからね。それで何が訊きたいの?」
伊原が漫画で霞草について調べたとは全く知らなかった。これは運が良いのか?
「まず、花言葉だけど、『無邪気』『清い心』『親切』『幸福』『夢見心地』と言うのが一般的かな。他にもあるみたいだけどね。ナデシコ科カスミソウ属よ。原産地はアジアからヨーロッパね。日本には大正時代に渡来したそうよ。そんなことかな。他にききたいことある?」
それだけ知れば充分だった。
「いや、ありがとう。邪魔して悪かったな」
「別に良いわよ。それより頑張なさいよ。ちーちゃんの想いちゃんと受け止めるのよ」
伊原は最後にひとこと言いながら通話を切った。なんだかんだと言っても有り難い。
翌日の日曜日、図書館の開館時間を待って館内に入った。目的の図書の棚を見ていく、何冊かそれらしい本を見つけて、学習室に座って読む事にする。それで 新たに判ったこともあった。伊原が言った花言葉の他に・「無垢の愛」・「清らかな心」・「幸福」・「切なる喜び」・「ありがとう」・「永遠の愛」・「切な る願い」等があるそうだ。
調べ物が終わり図書館を出ようとした時に入須先輩と出会った。
「おや、折木くんじゃないか。珍しいこともあるものだね」
「入須先輩。今週はこちらに帰って来ているのですね」
東京の大学の医学部に進学した入須先輩だったが、たまには神山に帰って来ることもあるとは耳にしていた。
「まあ、色々とね。親が煩いからね」
自嘲したような言い方がこの人らしからぬと思った。
「ところで、先輩は霞草は好きですか」
「霞草。あの花屋さんで薔薇と一緒に包んでくれる?」
「そうです。その霞草です。先輩は薔薇の方ですけどね」
「また、君までもそう思っているのか……わたしは本当は薔薇よりも霞草だと自分では思っているのだけどね。薔薇と言えば、君のお姉さんの供恵先輩はまさに薔薇じゃないかな」
「花よりもトゲばかりですがね」
そう言ったら先輩は否定しなかった。
「じゃまた」
「では」
そう挨拶をして別れたが、考えて見れば「女帝」なんと呼ばれてしまった為に色眼鏡で見ていたのかも知れないと思った。
人を操ったと言えば人聞きが悪いが、適材適所という言葉もある。そう思えば自分は表に出ないのだから、薔薇よりも霞草的な性格が本当なのかも知れないと考えた。
図書館で調べて、ついでに置かれていたパソコンを使って検索して、千反田が何を俺に伝えたかったのかを理解することが出来た。問題はその返答方法だ。何 か相応しい答え方をしたかった。思いついたことはひとつ。それを調べる為にネットで検索をした。このような時は便利だと思う。
図書館を出て花屋で物色をした。店員さんにも相談をして小さな花束を拵えて貰った。色々と詳しい店員さんだったので助かった。花を買ったなら千反田に逢 わなくてはならない。確か昨日の話では一日中家に居ると言っていた。公衆電話を探すが中々見つからない。俺も携帯を買わなくてはならなくなるのだろうか。
やっと見つけて千反田の家に電話をする。直ぐに千反田本人が電話に出た。
「もしもし、折木だが、今日これから逢えないかな。駄目なら家まで行くか、家に帰ってから電話するが、本音では直接言いたい」
「先日のわたしの問いかけですか、もう解いたのですか?」
「ああ、謎は全て判った。それの説明もしたいし、それに……」
「それに……?」
「その先は直接言いたい」
「うふふ、判りました。ではこれから家を出ます。何処へ行けば良いですか?」
「そうだな、何時も学校の帰りに別れる商店街の角でどうかな」
「判りました。そこなら急げば三十分から四十分程で着きます」
「判った。待っている」
なるべく余計な事は口にしないようにした。手に持ったストックと桜草の花束が元気な内に手渡したかった。
結局、花束は紙の袋に入れて、直接見えないようにした。インパクトがある方が効果的だと思ったからだ。
近くの公園のベンチに座り、自分の想いをどう伝えるかを考える。「下手の考え休むに似たり」と言うことわざがあるが、全くその通りで良い考えが思いつか ない。そのまま正直に言うしか無いと覚悟を決めた。時計を見ると、そろそろ千反田がやってくる時間なので、何時もの場所に移動する
角に立って千反田が来る方角を眺めていると、自転車に乗った千反田の姿が見えた。白いブラウスに黄緑のサマーカーデガンを羽織っている。濃紺のスカートが色の白い千反田に良く似あっていた。
「お待たせしました」
自転車を降りてにこやかな表情を見せてくれる。それだけで自分の心臓が早鐘を打つようになる。昨日霞草の海で千反田に言われた時は何とも思わなかったのにだ。
「前に良く行った河原に行こうか」
千反田も頷いて俺の後をついて来る。肩を抱いたり、手を繋ぐのは未だ早いと思った。
河原の土手に並んで座る。何から言って良いか戸惑うが気持ちは固まって来た。
「なあ、昨日のことだけどな、俺なりに色々と調べたよ。その上でのことなのだが、霞草の花言葉を調べたら、お前の気持ちが判ったよ。・無垢の愛・清らかな心・幸福・切なる喜び・ありがとう・永遠の愛・切なる願い等がある事が判った。ならば俺も応えざるを得ない」
俺は千反田にそう答えて紙袋の中から花束を出して千反田に手渡した。
「これは?」
小首を傾げる千反田に
「ストックと白い桜草の花束だ。桜草は俺の誕生日の花だそうだ。それに『初恋』という意味もある。ストックは『永遠の恋』という意味もある。俺の気持ちを受け取ってくれるか?」
もう少し千反田が喜ぶような言葉を言ってやりたかったが、いかんせん俺はこういうことに慣れていない。千反田は手にした花束をじっと見つめていたが
「ありがとうございます! 霞草の群生地に連れて行くなんて、やり過ぎだとは思いましたが、とても自分の気持ちを口に出しては言えませんでした。でも、想いは募るばかりで、苦しくなってしまいました。そこである方に相談して色々と教えて貰いました」
俺には何となくだが、千反田が相談した相手が判ったような気がした。ここではその名前は出さないでおくが、よく考えたら今日明日に回線の工事を設定しなくても良かったはずだ。また、踊らされてしまったと言う訳だった。
五月の風は川面を緩やかにそよぎ流れて行く。水面を水鳥が跳ねて行った。
「本当は俺の方から告白しなくてはならないのにな……すまん」
「そんな、謝らないで下さい。わたしの我侭だったのですから」
千反田は俺の方を向きながら答える。
「でもな、ひとつ違うことがある。それは、霞草はどちらかと言うと俺なんだ。俺はお前の支えになりたいと何時も思っていた。薔薇の花はお前なんだ。それを自覚して欲しい。陣出を支える千反田の血を受け継いでいるのはお前なんだから」
千反田は俺の言葉を不思議そうな顔をして聞いていたが、やがてハッと表情が変わった。俺は千反田の為ならこの身を粉にしても構わないと思っている。俺の人生の全てをかけるだけのことはあると思っている。だが、ことが大きすぎて今まで言えなかったのだ。
「折木さん。では……」
「ああ」
そう言ってそっと肩を抱くと、千反田が俺にもたれて来た。
「少しこのまま居させて下さい」
その声は、優しく俺の耳に響いた。
<了>