「折木さん。お花見に行きませんか?」
午後、春の日差しをいっぱいに浴びながら地学講義室で文庫本を読んでいると、千反田が後ろを振り向きながら笑顔で俺に誘いの言葉を投げかけた。
新学期が始まってもう2週間程経つている。春が遅いこの神山の地にも桜前線が上がって来ていた。
「そうだな。見に行くか! あの狂い咲きの桜だろう?」
「はい、昨日ですか吉田さんが明後日の土曜日が満開で見頃だろう。って教えて下さったのです」
そうか、吉田さんが言うなら間違いはあるまい。
「桜を眺めたら、ウチでお昼でも如何ですか?」
千反田の作ってくれるお昼なら断ることはない。それだけの価値はある。
「いいのか? 親父さんやおふくろさんに迷惑じゃないのか?」
「そんなことはありません。別に一緒でなくても構わないと思いますし……」
千反田の話した言葉の語尾が気になったが俺は承諾した。
「明日の土曜日だな。時間は?」
「そうですね。ウチから桜まではそう遠くありません自転車で行けばすぐですから10時ごろでは早すぎますか?」
別に用事は無かったのだ。その時間なら家を9時半に出れば間に合う。
「判った。10時に行くよ」
約束すると何故か千反田は安堵の表情を浮かべた。
「どうした? 何か心配でもあったのか?」
俺の質問に千反田は少し慌てて
「いえ、折木さんが用事でもあったら困ると思っていましたので、約束出来て安堵したのです」
千反田は割合考えていることが表情に出るタイプだ。隠し事が出来ないとも言っていいだろう。
その日千反田は自転車で来ていたので、商店街の曲がり角で別れた。
「それでは、明日お待ちしています」
そう言って千反田は交差点を右に曲がって消えて行った。俺はその後姿を見送り、明日は何を着て行こうか考えるのだった。
翌日、早起きをして鏡の前で何を着て行くか迷っていたら、姉貴が起きて来て、
「あら、あんた何してるの? 珍しいこともあるのねえ……今日はえるちゃんとデート?」
起き抜けの酷い顔をしていても頭は冴えているらしい。当たってしまった。返事をせずにしてると
「あのね。ひとつだけ良いこと教えてあげる……ネクタイはしなくても良いけどちゃんとした格好をして行きなさい。少なくともジャケットぐらいは着ていくように」
姉貴はそれだけを言うと冷蔵庫から牛乳を取り出して大きめのグラスに注ぐと自分の部屋に消えて行った。
『ジャケットだと……』
姉貴の直感というか、見通しは何故か外れたことがない。ここはその通りにしよう。それに俺も何故か只の昼食ではない気もする。何があるのかは判らないが、何らかの覚悟はしていた方が良さそうだった。
結局赤味ががった濃い目の茶のジャケット(後から千反田に弁柄色だと教わった)に白いワイシャツ、下は黒のスラックスにした。首には千反田が編んでくれたクリーム色のマフラーをして行く。
実は昨夜待ち合わせ場所を千反田の家ではなく、「水梨神社」の前でと変更の電話があったのだ。そう言えば姉貴は電話をする俺をリビングで見ていたっけ……
坂を降りて一気に陣出に入って行く。何度も来て見慣れたがこの時期はあちこちに桜が咲いていてそれがピンクに点在していて坂の上からでも綺麗だと感じた。
時間よりも若干早く到着すると千反田は既に来ていた。俺の姿を見つけると大きく手を振った。
「早いな、俺の方が早いかと思っていたよ」
「すぐ傍ですから」
千反田は白菫(しろすみれ)と呼ばれる薄い水色のブラウスに、若草色のカーデガンを着ていた。下は、黒紅と呼ばれる黒に藍が混ざったような色の長めのスカートを履いていた。全体的には二人共シックな格好だった。
「さ、見に行きましょう」
千反田の声で自転車のペダルに力を入れる。千反田が後ろに横すわりに乗り右手を俺のお腹に回す。
「二人乗りだぞ」
「すぐ傍ですから」
その言葉に何故か安堵感を覚え走リ出す。自転車は5分程で目的の桜のところまでやって来た。桜はあの日のように満開だった。
自転車を降りた千反田が道路に張り出した枝の下に立つ。その時穏やかな風が吹いて花びらが舞った。僅かに揺れる千反田の長い髪。俺の方を向いて微笑むとそこには、只溜息しか出ない情景が広がっていた。
「折木さん。あの日もこのように満開の桜でした。その下を折木さんに傘を差されながら歩いたことは、わたし一生忘れません。今はわたしの宝物です」
俺も同じ想いだった。二度とない奇跡のような情景……忘れることなぞありはしない。
持って来たデジカメで千反田と桜を撮影する。自転車の籠から三脚を出して二人並んだところも撮影した。デジカメと三脚は姉貴が貸してくれたものだ。
「写真プリントアウトしたら一枚下さいね。折木さんと満開の桜の下で一緒に並んで写真を撮るなんて夢みたいです」
「勿論さ」
辺りに誰もいないのを確認すると、千反田を抱き寄せその赤い唇に己の唇を重ねる。千反田も俺の背中に腕を回して応えてくれる。
唇を離すと千反田は俺の胸に飛び込んだ。それをしっかりと抱きしめた。華奢ながら柔らかい感触が俺を襲う。愛しさでいっぱいになった。
もう一度唇を重ねると千反田は
「一生このままで居たいですが、そうも行きません。家に帰りましょう」
自転車の所まで戻ると自転車の籠に桜の花びらが舞いながら降り注いでいる。
「折木さん。まるで桜吹雪のおすそ分けですね」
おすそ分けとは上手いことを言うと思った。千反田ならではの感性だろう。俺は再び千反田を自転車の後ろに乗せると千反田邸に向かった。
家の門の前まで来ると千反田は一旦自転車を降りて、木戸から中に先に入って行った。そして大門の方を開けたのだ。何か催事があるならこの門を開くこともあるが、俺だけの為にはこんなことはない。
恐る恐る門に中に入って行く。玄関まで行くと、かなりの履物が並んでいた。千反田が先に立って大広間に案内する。そして襖を開けると大きな拍手が湧いた。
「さ、どうぞ折木さん。陣出の皆さんも今日は揃っています」
まさかとは思ったが千反田に問いただす
「千反田、皆さんが居るのはどうしてだ?」
「はい、今日は観桜会なんです。陣出の皆さんが集まって桜が咲いたことをお祝いする会なのです。今日はそこに折木さんをお招きしたのです」
そういう事かと納得した。大広間からは
「若旦那待ってました!」
とか
「奉太郎旦那」
と言う声も湧いている。それはまだ気が早いだろう。
「さ、どうぞ」
ここに来て、俺はこっちが本命で桜を見るのは後付じゃなかったかと考えた。千反田が案内したのは上座、つまり正面で、そこに鉄吾さん夫婦と陣出の地域の会長や役員。その方々に並んで俺と千反田も並んで座ることになった。すぐさま酒が配られた。俺と千反田は烏龍茶だ。
「カンパーイ」
カチンとグラスを重ねる音がして一気に座が盛り上がった。
「折木さん。騙すようなことをして申し訳ありませんでした。でもわたし、どうしても今日は皆さんに折木さんを紹介したかったのです。わたしの選んだ方を見て下さいと……」
ここまでとは思わなかった。食事に親父さんやおふくろさんが一緒に居るだろう。と思っていたが、これは想像外だった。
「判ったよ。ジャケットを着て来て良かった。姉貴に感謝しないとな」
「あら、事前に供恵さんに相談して知恵を貸して貰ったのですよ」
そうだったのか! あの雌狐め!
ここまで事態が進んでいれば後へは引けない。俺は隣の千反田を眺めると、俺の視線を感じた千反田はニコッと微笑んだ。その赤い唇を先ほど重ねたことを思い出し。悪くないと思うのだった。
並んだお膳の下でそっと手を繋いだ。
<了>