実家に帰るのは数年ぶりだった。親父が亡くなって、お袋を呼ぼうとしたのだが
「歳取って知らない場所で暮らすのは、まっぴら御免よ」
そう言って一緒に暮らすのを拒否したのだ。それ以来となる。高速を降りて、国道を走る。目的地はお袋が暮らす俺の産まれた実家だ。後小一時間も走れば嫌でも到着する。
助手席の妻は高速を降りてから殆ど口を開かなくなった。明らかにお袋と会うのを意識しているのだ。大体、妻とお袋は数える程しか会っていない。それでもお袋が妻の名前を覚えていたのが奇跡のように思えた。
「悦子さんも一緒に来るのかい。それは楽しみだね。愛衣や隆二も一緒かい?」
残念ながら長男の隆二は受験が近い。家や進学塾で勉強するので一緒には来なかったし、長女の愛衣は海外旅行に出掛けてしまっている。大学生とは随分暇があるのだと高卒の俺は思った。
「そうかい、仕方が無いね。まあ、死ぬまでには逢えるだろうさ」
恐らく、それはお袋の本音ではなかったかも知れないが、俺は表面上同意した。
「ああ、夏には連れてくるよ」
冬は何も無いが夏になれば近くの河で魚釣りも出来るし、泉では信じられないほど綺麗な水の中で泳げる。子供の頃はふたりとも随分来たがっていたものだが……。
国道を実家のある方角に行く為に曲がると、横断歩道に人が渡っていた。その姿を見て妻が
「あれ、お義父さん!?」
俺は横の信号の変化ばかり見ていたので誰が横断歩道を渡っていたかなぞ全く見ていなかった。
「え? まさか」
妻の指差す方角を見ると、なるほど老人が杖を突きながら横断歩道を渡り終える所だった。
「他人の空似だろ。それに親父は死ぬまで杖なんか使っていなかった」
「でも、あれはお義父さんだったよ」
何度も言うので、完全に角を曲がってから車を停めて、降りて先ほどの老人を追った。前に回って顔を見ると似ても似つかなかった。車に戻り
「完全な人違いだよ。それに、親父が出て来たら幽霊か化物だよ。もう墓に眠っているのだから……」
そう言って妻を納得させた。今回の帰省には親父の墓参りも兼ねている。俺はロクに墓参もしない駄目な息子だった。
そんな思いが妻に伝わり幻を見させたのだろうか? 運転しながらそんな事を考えていた。
暫く走ると実家のある街に入る。久しぶりだが街の感じは変わっていないが、商店が閉まっているのが増えた気がする。尤も自分の住んでいる街だってシャッター通りと呼ばれているけど……。
程なく実家に到着する。荒れた庭の隅に車を停めて荷物を持ち玄関のベルを押す。何の音もしない、恐らく呼び鈴の電池が無くなっているのだろう。お袋には そんな理屈は判りそうも無かった。それに必要無いのだろう。訪ねて来る人も皆顔見知りだけだからだ。恐らく家に鍵も掛けずにいるのではと思う。俺が居た頃 もそうだった。街で鍵を掛けるなぞと言うのは何日も家を開ける時だけで、それでも隣に頼んでから出掛けたものだ。
玄関の引き戸を引っ張ると簡単に開いた。
「ただいま~ 今帰ったよ」
そう言ったが、果たして「帰った」で良かったのだろうか? もしかして「来たよ」の方が正しいのではないかと頭を過ぎった。
「おかえり!」
薄暗い家の中からお袋が姿を表した。心なしかくたびれた感じがした。土産の品を前にして上がる。後ろから妻も
「お久しぶりですお義母さん。たまにはウチにも遊びに来て下さい」
そんな取り付くような事を言う。そんな所だけは如才ないのが特徴だ。あれ、これは如才無いじゃなくて、厚かましいの間違いかな?
三越や高島屋と言ったデパートの紙袋に入ったお菓子を幾つも母の前に並べる。袋は豪華だが中身はスーパーで売ってるのと同じだ。都会人のハッタリだと思う。
「お父さんにお供えしてね」
言われなくてもそれぐらいは判る。仏壇に供えてから線香をあげる。妻もそれに倣う。
「よく来たよ。仕事だって忙しいのだろう? 悦子さんだって仕事持ってるんだから、こっちは気にしなくて良いのよ」
「でも。お義母さん。本当は最低でも年に二回は来なくてはならないのに……」
これは妻の本音だと思った。本音だが実行する気は無い……。
「あのさ、親父の墓を移してさ、一緒に住まないか? そうすれば孫とも一緒に暮らせるよ。家を立てる時にはそんな事も考えていたから余裕があるんだ。これで子供が外に出てしまえばガランとしてしまう」
そうなのだ。自分でも口にしたが、大学生の悦子は卒業したら外に出て行くと言っている。なんでも友達と「シェアハウス」とやらをするのだと言う。息子も第一志望の大学に入れば家からは通えない距離なので家を出る事になる。危機は実は目前に迫っているのだ。
「この前も言ったけど、今更他所の土地で暮らすのは嫌だわ。いいのよ、朝誰かが訪ねて来たら死んでいた、と言う事になっても。その方が面倒臭くなくていいわ」
この前と同じだ。そっちが良くてもこっちが困る
「それじゃあんまりだし……」
結局、この事に関しては堂々巡りだった。結論は出ない。もう少しこっちに帰って来てお袋と話さないと駄目だと思った。
夕食は、妻とお袋が共同で拵えてくれた料理を食べる。結婚して判ったのだが、妻はお袋の料理が口に合うらしく、結構一緒に料理を作るのを楽しみにしている。そんな関係もあって一緒に住んで炊事をやって貰えればと考えてもいたのだ。
実家の傍の酒屋で地元の地酒を買って来て呑む。妻もイケル口だが後片付けがあるから軽くしか口にしなかった。お袋は元々呑める方では無いので、余ってしまった、まあ、明日も呑めば良いのだと考えた。
明日は親父の墓参りに行くので風呂に入って寝る事にする。何時の間にか風呂がガス釜から給湯器に変わっていた。
「変えたんだ?」
「うん。これだとボタンひとつで沸くから」
「金は?」
「あんたが前に送ってくれたのと玲子が少し出してくれてね」
玲子とは妹のことだ。今は旦那に従ってシンガポールで暮らしている。良くメールが来る
『お母さんの事ちゃんと頼むからね。今年の暮は帰ってね!』
同じような文面を幾つもよこした。そんなに心配ならお前がシンガポールから帰って来いよ。と返信したくなるのを我慢した。
「一日運転していたから疲れたでしょう。寝たほうが良いわよ」
妻が俺の状態を見て忠告する。実は先ほどから風呂あがりに又呑んでいるのだ。こんな酒の呑み方は親父似だと自分でも思う。
「お前はどうするんだ?」
「あたしは、お義母さんに訊く事があるから、それを聞いてから眠るから先に寝ていてよ。まさかいい歳して一緒に居ないと寝られない。なんて言うのでは無いでしょうね」
呆れたのは俺の方だ。若い頃は毎日のように一緒に寝たがっていたのはどっちだか……。
「まさか……じゃあ先に寝るよ」
そう言い残して、奥の寝室になっている昔の俺の部屋に行く。重たい昔ながらの布団を掛けるとすぐに意識が無くなった。
何時頃だろうか、響くような大きな声がいきなり轟いた。
「起きろ! 何時だと思ってるんだ!」
慌てて飛び起きて辺りを見ると、隣で妻が寝ていた。シーンと静まり返った家の中は冷たく暗く、人の気配も無かった。
「夢か?」
ひとりでにそんな思いが口から出たが、夢とは思わなかった。確かに聞こえたのだ。
起きてしまったのは仕方が無い。トイレに行って台所で水を飲んで布団に潜り込む。すぐにまた意識が無くなった。
今度はどれぐらいだろうか、いきなり水を掛けられた。あまりの冷たさに飛び起きて布団を蹴飛ばした。濡れた寝具を交換しなければと思い触ってみるが何も濡れていなかった。俺が煩かったのか隣の布団で寝ていた妻が起きてしまった。
「どうしたの? 何かあったの?」
「いや、水を掛けられてさ……」
「は? 誰に?」
そうなのだこの家の人間は俺を含めて皆眠っていた。水なぞ掛ける人間は居ないのだ。
「寝ぼけていたのでしょう。いい歳してオネショしないでね」
そう言うと妻は再び寝てしまった。俺は残されて辺りを調べて見る。やはり何も濡れてはいない……だが思い出した。その昔、学校をサボって寝ていたら親父に起こされた事や反抗していたらいきなり水を掛けられた事を。
それで俺は理解した。きっと親父が墓を移動する事に反対しているのだと……親父はこの地で眠っていたいのだと理解した。
俺は決意した。少なくともお袋が亡くなるまではこのままにしようと……
翌日の墓参りはいいお天気で、空に山々がくっきりと映えていた。その何処かで親父が喜んでいるような気がした。GWにもまた帰ってこようと考えた。
<了>
「歳取って知らない場所で暮らすのは、まっぴら御免よ」
そう言って一緒に暮らすのを拒否したのだ。それ以来となる。高速を降りて、国道を走る。目的地はお袋が暮らす俺の産まれた実家だ。後小一時間も走れば嫌でも到着する。
助手席の妻は高速を降りてから殆ど口を開かなくなった。明らかにお袋と会うのを意識しているのだ。大体、妻とお袋は数える程しか会っていない。それでもお袋が妻の名前を覚えていたのが奇跡のように思えた。
「悦子さんも一緒に来るのかい。それは楽しみだね。愛衣や隆二も一緒かい?」
残念ながら長男の隆二は受験が近い。家や進学塾で勉強するので一緒には来なかったし、長女の愛衣は海外旅行に出掛けてしまっている。大学生とは随分暇があるのだと高卒の俺は思った。
「そうかい、仕方が無いね。まあ、死ぬまでには逢えるだろうさ」
恐らく、それはお袋の本音ではなかったかも知れないが、俺は表面上同意した。
「ああ、夏には連れてくるよ」
冬は何も無いが夏になれば近くの河で魚釣りも出来るし、泉では信じられないほど綺麗な水の中で泳げる。子供の頃はふたりとも随分来たがっていたものだが……。
国道を実家のある方角に行く為に曲がると、横断歩道に人が渡っていた。その姿を見て妻が
「あれ、お義父さん!?」
俺は横の信号の変化ばかり見ていたので誰が横断歩道を渡っていたかなぞ全く見ていなかった。
「え? まさか」
妻の指差す方角を見ると、なるほど老人が杖を突きながら横断歩道を渡り終える所だった。
「他人の空似だろ。それに親父は死ぬまで杖なんか使っていなかった」
「でも、あれはお義父さんだったよ」
何度も言うので、完全に角を曲がってから車を停めて、降りて先ほどの老人を追った。前に回って顔を見ると似ても似つかなかった。車に戻り
「完全な人違いだよ。それに、親父が出て来たら幽霊か化物だよ。もう墓に眠っているのだから……」
そう言って妻を納得させた。今回の帰省には親父の墓参りも兼ねている。俺はロクに墓参もしない駄目な息子だった。
そんな思いが妻に伝わり幻を見させたのだろうか? 運転しながらそんな事を考えていた。
暫く走ると実家のある街に入る。久しぶりだが街の感じは変わっていないが、商店が閉まっているのが増えた気がする。尤も自分の住んでいる街だってシャッター通りと呼ばれているけど……。
程なく実家に到着する。荒れた庭の隅に車を停めて荷物を持ち玄関のベルを押す。何の音もしない、恐らく呼び鈴の電池が無くなっているのだろう。お袋には そんな理屈は判りそうも無かった。それに必要無いのだろう。訪ねて来る人も皆顔見知りだけだからだ。恐らく家に鍵も掛けずにいるのではと思う。俺が居た頃 もそうだった。街で鍵を掛けるなぞと言うのは何日も家を開ける時だけで、それでも隣に頼んでから出掛けたものだ。
玄関の引き戸を引っ張ると簡単に開いた。
「ただいま~ 今帰ったよ」
そう言ったが、果たして「帰った」で良かったのだろうか? もしかして「来たよ」の方が正しいのではないかと頭を過ぎった。
「おかえり!」
薄暗い家の中からお袋が姿を表した。心なしかくたびれた感じがした。土産の品を前にして上がる。後ろから妻も
「お久しぶりですお義母さん。たまにはウチにも遊びに来て下さい」
そんな取り付くような事を言う。そんな所だけは如才ないのが特徴だ。あれ、これは如才無いじゃなくて、厚かましいの間違いかな?
三越や高島屋と言ったデパートの紙袋に入ったお菓子を幾つも母の前に並べる。袋は豪華だが中身はスーパーで売ってるのと同じだ。都会人のハッタリだと思う。
「お父さんにお供えしてね」
言われなくてもそれぐらいは判る。仏壇に供えてから線香をあげる。妻もそれに倣う。
「よく来たよ。仕事だって忙しいのだろう? 悦子さんだって仕事持ってるんだから、こっちは気にしなくて良いのよ」
「でも。お義母さん。本当は最低でも年に二回は来なくてはならないのに……」
これは妻の本音だと思った。本音だが実行する気は無い……。
「あのさ、親父の墓を移してさ、一緒に住まないか? そうすれば孫とも一緒に暮らせるよ。家を立てる時にはそんな事も考えていたから余裕があるんだ。これで子供が外に出てしまえばガランとしてしまう」
そうなのだ。自分でも口にしたが、大学生の悦子は卒業したら外に出て行くと言っている。なんでも友達と「シェアハウス」とやらをするのだと言う。息子も第一志望の大学に入れば家からは通えない距離なので家を出る事になる。危機は実は目前に迫っているのだ。
「この前も言ったけど、今更他所の土地で暮らすのは嫌だわ。いいのよ、朝誰かが訪ねて来たら死んでいた、と言う事になっても。その方が面倒臭くなくていいわ」
この前と同じだ。そっちが良くてもこっちが困る
「それじゃあんまりだし……」
結局、この事に関しては堂々巡りだった。結論は出ない。もう少しこっちに帰って来てお袋と話さないと駄目だと思った。
夕食は、妻とお袋が共同で拵えてくれた料理を食べる。結婚して判ったのだが、妻はお袋の料理が口に合うらしく、結構一緒に料理を作るのを楽しみにしている。そんな関係もあって一緒に住んで炊事をやって貰えればと考えてもいたのだ。
実家の傍の酒屋で地元の地酒を買って来て呑む。妻もイケル口だが後片付けがあるから軽くしか口にしなかった。お袋は元々呑める方では無いので、余ってしまった、まあ、明日も呑めば良いのだと考えた。
明日は親父の墓参りに行くので風呂に入って寝る事にする。何時の間にか風呂がガス釜から給湯器に変わっていた。
「変えたんだ?」
「うん。これだとボタンひとつで沸くから」
「金は?」
「あんたが前に送ってくれたのと玲子が少し出してくれてね」
玲子とは妹のことだ。今は旦那に従ってシンガポールで暮らしている。良くメールが来る
『お母さんの事ちゃんと頼むからね。今年の暮は帰ってね!』
同じような文面を幾つもよこした。そんなに心配ならお前がシンガポールから帰って来いよ。と返信したくなるのを我慢した。
「一日運転していたから疲れたでしょう。寝たほうが良いわよ」
妻が俺の状態を見て忠告する。実は先ほどから風呂あがりに又呑んでいるのだ。こんな酒の呑み方は親父似だと自分でも思う。
「お前はどうするんだ?」
「あたしは、お義母さんに訊く事があるから、それを聞いてから眠るから先に寝ていてよ。まさかいい歳して一緒に居ないと寝られない。なんて言うのでは無いでしょうね」
呆れたのは俺の方だ。若い頃は毎日のように一緒に寝たがっていたのはどっちだか……。
「まさか……じゃあ先に寝るよ」
そう言い残して、奥の寝室になっている昔の俺の部屋に行く。重たい昔ながらの布団を掛けるとすぐに意識が無くなった。
何時頃だろうか、響くような大きな声がいきなり轟いた。
「起きろ! 何時だと思ってるんだ!」
慌てて飛び起きて辺りを見ると、隣で妻が寝ていた。シーンと静まり返った家の中は冷たく暗く、人の気配も無かった。
「夢か?」
ひとりでにそんな思いが口から出たが、夢とは思わなかった。確かに聞こえたのだ。
起きてしまったのは仕方が無い。トイレに行って台所で水を飲んで布団に潜り込む。すぐにまた意識が無くなった。
今度はどれぐらいだろうか、いきなり水を掛けられた。あまりの冷たさに飛び起きて布団を蹴飛ばした。濡れた寝具を交換しなければと思い触ってみるが何も濡れていなかった。俺が煩かったのか隣の布団で寝ていた妻が起きてしまった。
「どうしたの? 何かあったの?」
「いや、水を掛けられてさ……」
「は? 誰に?」
そうなのだこの家の人間は俺を含めて皆眠っていた。水なぞ掛ける人間は居ないのだ。
「寝ぼけていたのでしょう。いい歳してオネショしないでね」
そう言うと妻は再び寝てしまった。俺は残されて辺りを調べて見る。やはり何も濡れてはいない……だが思い出した。その昔、学校をサボって寝ていたら親父に起こされた事や反抗していたらいきなり水を掛けられた事を。
それで俺は理解した。きっと親父が墓を移動する事に反対しているのだと……親父はこの地で眠っていたいのだと理解した。
俺は決意した。少なくともお袋が亡くなるまではこのままにしようと……
翌日の墓参りはいいお天気で、空に山々がくっきりと映えていた。その何処かで親父が喜んでいるような気がした。GWにもまた帰ってこようと考えた。
<了>