2015年09月

心の食堂  第7話  うどんの味~過去を持つ男

 「心の食堂」であのうどんを出し始めてから幾度目の満月の夜だった。一人の女性が店の暖簾をくぐって中に入って来た。
「あのう……こちらでうどんを食べさせて頂けると伺って来たのですが……」
 歳の頃なら三十代半ばあたりか、シックな紺のワンピースを来た女性だった。髪が肩まで届いており、清楚な感じとも言うのだろうか、第一印象はそんな感じだった。
 まさやは、最近よく店で、出るようになったとは言え、最初から、うどんを指定して来る客は珍しかったので興味を持った。
「はい、ちょっと変わった讃岐の麺を使っています。本来の讃岐うどんではありませんけどね」
 まさやは、うどんを頼む客には勘違いしないように、予めこう話しておく
「それなんです! 齋藤さんの麺を食べられると言うので探してやって来たのです」
 齋藤俊哉……先日、いきなりやって来て自分の打ったうどんを披露して行った男の名である。あれから、齋藤は律儀にうどんの麺を送り続けてくれている。送 り先はこの店ではなく、この店にまさやの注文した食材を届けてくれる業者あてだ。支払もそこが一括で行ってくれている。まさやの店はその業者に一括で支 払っているのだ。業者は満月の晩に上手く合うように色々と調整もしてくれている。但し、この業者の存在は秘密裏になっている。
「あなたは、齋藤さんとお知り合いですかな」
 まさやの質問に女性は
「私は、齋藤さんの元の恋人です」
「失礼ですが、齋藤さんとはお歳が離れていると思いますが……」
 みちこがまさやに『自分に任せて欲しい』と目線で合図を送ったのでまさやは任せる事にした。
「良かったら、話して下さいませんか?」
 みちこの言葉に女性はゆっくりと話しだした。
「すいません。齋藤さんは実は父の弟子だったのです。高校を出たばかりで父の元に弟子入りして、うどんの修行をしていたのです。わたしは幼い頃から齋藤さ んを見て育ちました。学校を出てからは私も父の店を手伝いました。父は讃岐でも有名なうどんの店をやっています。父の元に弟子入りして十年が経った頃、私 も二十歳を過ぎていました。私は何時しか齋藤さんに心を寄せるようになりました。父も、斎藤さんが一人前になったら、二人で独立しても良いとさえ言うよう になりました。全ては順調でした。あの日までは……」
「何かあったのですね?」
 みちこの言葉に女性は頷いて
「齋藤さんは幾人か居た父の弟子の中ではダントツでした。父も『俺の持っている技術の全てを齋藤が受け継いだ。もう教える事は何もない。俺を越えて行く職 人になるだろう』と言って本当に信頼を寄せていたんです。最初は独立と言う話でしたが、父は自分の跡を継いでくれる事を望むようになりました。勿論、その 時の相手は私です」
 女性はみちこが出してくれたお茶を口にした
「ああ、美味しい! お茶も、そして水が良いのですね。だからうどんの出汁も美味しくなるのですね……私も歳に不足はなくなっていましたので、現実の問題として、婚約と言う段階になりました。そこで問題が起こったのです」
 女性はお茶を再び飲むと決意したように
「齋藤さんが、今までの讃岐うどんに疑問を持ち始めたのです。曰く『伝統的な讃岐うどんは勿論大切に保存伝承しなくてはならないが、新しい時代に新しい讃 岐うどんを作って見ても良いのではないか』と言い始めたのです。齋藤さんにとっては、次代を担うなら当然の事を言ったまでだと思ったのでしょうが、父はそ うは取りませんでした。裏切られたとも飼い犬に手を噛まれたとも思ったようです。すぐさま「破門」を言い渡しました。傷心した父はそれから寝付いてしま い、その後亡くなりました。他の弟子からも齋藤さんは「師匠親方を殺した張本人」と罵られる事になりました。そのような状態では讃岐の協会に居る事も出来 ません。人一倍讃岐の事を思っていたのに、協会を追放されてしまったのです。その後、幾ら探しても行方は判りませんでした……でも、先日、私のところに手 紙が届きました。宛先人不明の手紙です。それには『東京のある街にある食堂に麺を卸し始めた。満月の晩にだけ現れる食堂だ』とだけ書いてあったのです。筆 跡から直ぐに齋藤さんのものだと判りました。それからずっと探していたのです。そして今夜、やっと探し当てたのです」
「そうだったのですか、それはご苦労様でした」
 みちこがそう言った時に、まさやが丼を持って厨房から出て来た。
「これが齋藤さんのうどんですよ。出汁は私のオリジナルですがね。どうぞ食べて見て下さい。あなたの知ってるうどんだと思いますよ」
 まさやに言われて女性は箸を持って一口うどんを口に入れた……
「これです! この二段腰とも言うべき味わい……これこそ齋藤さんが追い求めていたうどんなんです!」
 女性は涙を流しながらうどんを啜っていた。その時だった。店の暖簾を分けて一人の男がやって来た。その姿を見た女性は
「齋藤さん!……まさか!」
 もう言葉は出て来なかった。胸が一杯になってしまったのだった。
「真砂子、すまん。お前を放り出して去ってしまった事は幾ら詫ても叶わないだろう。俺は確かに親父さんを悲しませてしまった。でも、本来の讃岐うどんを捨 てた訳では無いんだ。これからも讃岐うどんはあるべきだし。存続すると思う。だけど、それとは別にもう一つのうどんがあっても良いと思ったんだ。ライバル として育って行けば、本来の讃岐うどんもより、磨かれると思ったんだ。でも、それは協会には受け入れて貰え無かった。俺は仕方なく讃岐の影響の無い場所で うどんを打つ事にしたんだ。そして自分でも、それが完成したらお前を迎えに行こうと思っていたんだ。風の便りにお前が未だ独り身で居ると聞いてな……」
「俊哉さん!」
「真砂子!」
 二人は、まさやとみちこの前でしっかりと抱き合った。
「もう……何処にも行かないで……この年月俊哉さんの事だけ思って暮らしていたの」
「済まなかった。この食堂でまさやさんに合わなかったら、俺はお前の前には出られなかった。それだけ、まさやさんとみちこさんには助けて貰ったんだ」
「でも今夜、逢えて嬉しい……」
 真砂子に抱きつかれながらも、齋藤俊哉は保温の水筒からうどんの出汁のようなものを出してまさやに
「あれから、自分でも色々と工夫してみました。是非味見して下さい。まさやさんのOKが貰えたら俺、真砂子と夫婦になります!」
「それは重大ですね。でもそれだからと言って甘くはなりませんよ」
 笑いながらも真剣にその出汁を口に含むと
「これは、鮎が入っていますね。鮎の干したので出汁を取ると特別な風味と旨味が加わって独特の味になるのです。いりこよりも数倍良い味が出ます。コストさえクリア出来れば常時使いたいですよ」
 そう言って、残りを飲み干した。
「さすがです! まさやさんに教えて貰った色々な節も使っています。でも自分だけの味が出なかったのです、どれも、まさやさんのコピーに思えてしまっ て……そんな時に鮎を思いつきました。正月の雑煮では鮎で出しを取る事を思い出したのです。苦労したのはその割合でした。でも、それもやっと満足の行くも のが出来ました」
 齋藤は今までの苦労を言って真砂子を抱きしめた。

 その後、四国のある場所に新しいうどん屋が開店した。独特の風味のうどんはたちまち評判になったと言う。



        続く

心の食堂  第6話  うどんの味

 店を開いて間もなくの事だった。歳の頃なら四十を幾らか過ぎたと思われる年頃の男がふらりと店に入って来た。
 肩には濃い緑のデイパックを背負っていた。
「いらっしゃいませ」
 みちこが愛想よく出迎えると男は意を決したように
「俺は実はうどん職人だ。それも麺を打つ事に今まで命を掛けて来た。自分でうどんの汁も拵えて来たのだが、未だに満足の行く味が出来ないんだ。噂では満月 の夜だけ、この街に出没すると言うこの店の主に頼めば、きっと理想の味を出してくれると聞いて今夜やって来たんだ。金はちゃんと払う! だから俺に自分の 打った麺で最高のうどんを食べさせて欲しいんだ」
 何とも変わった頼みだった。未だかってこのような頼みは受けた事なかった。
「どうしますか?」
 みちこが困った表情で厨房の方に声を掛けた。
「まず、その自分が打ったうどんの麺を見せて貰ってからだね」
 まさやが、そう返事をすると、男は
「確かにそうだ。でも麺には自信があるんだ」
 そう言って胸を張った。まさやが奥から出てきて
「まず、ひとつで良いから見せて貰いたいですね」
 そう言って男に促した。すると男はデイパックからラップに丁寧に包まれた白い塊を出してテーブルの上に置いた。
「これで三人前ぐらいある。試して欲しい。駄目で、そんな価値も無いなら、ハッキリ言ってくれ。また修行のやり直しだ」
「では」
 まさやは短く言うとその塊を持って奥に消えて行った。
「お客さんはどちらからいらしたのですか?」
 みちこの質問に男は
「うどんと言うから判っているかも知れないが、讃岐香川から出て来て、ここを調べたんだ」
「香川ですか。でもうどんの事なら向こうにも名人は居るのでは無いですか」
「それが、俺は従来の讃岐うどんに疑問を持って、違う麺を拵えたんだ。だから従来の讃岐うどんの出汁、いりこ、昆布、鰹節では何か違う感じがして試行錯誤して来たのだが、どれも駄目だった。そこでここの噂を聞いたんだ」
「まあ、どんなです?」
「何でも東京の片隅に、満月の夜だけ現れる不思議な食堂の親父が凄腕で、どんな料理もこなしてしまうと……」
「あらあら、ウチの人も随分評価が高いのですね」
 みちこは陽気に笑っていた。そこへまさやが丼を持って出て来た。出来たのかと男が期待して丼を覗き込むとうどんは入って無く汁だけだった。
「これが私が拵えた讃岐うどんの汁です。まずこれを飲んでみてください」
 まさやに言われて男は汁を一口飲み込んだ。
「旨い……信じられない程旨い! どうやったらこんな味になるのか……」
「この味では合わないと言うのですね」
「自分では、そう思ってる。でもこの出汁なら、話は別だ。こんな味は讃岐でも味わえない」
 男が驚いている間に、まさやは今度は小さめの器に男が打ったと思わせるうどんが入っていた。
「今度はこれを食べて見て下さい」
 まさやに言われて男は箸を持ってうどんを啜った。讃岐うどんとしては、やや細めの麺が男の口に消えて行く
「駄目だ。出汁が旨すぎて麺が追いついて行かない。この出汁だったら従来の讃岐うどんがやはり合う」
「そうです。あなたが打った麺は、従来の讃岐うどんよりも若干細目で、腰が一本調子の讃岐うどんでは無く、もっとしなやかで、繊細な味わいがあります。こ の麺に、いりこが中心の出汁は合わないのです。この麺はどちらかと言うと水沢うどんに近い感じです。あれより太いですが、茹でると半透明で艶やかで、口に 簡単に馴染むが呑み込む時に腰を感じる。そんな麺ですね」
 まさやの解説を聞いた男は喜びを露わにして
「そうなんだ! やはり、あんたは凄い! 讃岐では誰もそれを判ってくれなかった」
「確かに、讃岐うどんは素晴らしいです。でも日本には色々なうどんがあるんです。それを楽しまないと損ですよ。秋田の稲庭うどんも讃岐とは全く違う価値観を持つうどんです。それも食べると楽しい」
 まさやはそう言うと厨房に引っ込み作業を始めた。そして今度は普通の丼を持って出て来て男の前に置いた。
「食べて見て下さい」
 まさやは、それだけしか言わない。男は注意深くうどんの出汁を口に含んで見た。その途端男の目が輝いた。
「これだ!」
 一言だけ呟くと、うどんを啜り始めた。
「旨い! 昆布と鰹節が使われているのは判るのだが、もう一つコクを出してる旨味がある。それが判らない……」
 たちまち平らげてしまうと男はまさやに近寄った。
「これこそ俺が追い求めていた味だ。何の味か教えて欲しい」
 男の言葉にまさやは
「まず、最初の出汁から言いましょう。あれは讃岐うどんの普通の出汁です。但し、材料が違います。いりこ、こちらでは煮干しです。これは最上のものを使い ました。それも腸を丁寧に取り除いて雑味が出ないようにしてあります。だし昆布は松前産の最上のものを使いました。鰹節は枕崎産の雄節の背の部分だけをこ の調理場で削ってすぐに使ったものです。鰹節は鮮度が命ですからね。時間を置けば雑味が出て来ます」
「そうか……だから次元が違ったのか……じゃあ、その次のはいったい……」
「それを言う前にこれを食べて見て下さい」
 いつの間にか、まさやの手には丼が持たれていた。みると、かけ蕎麦だった。
「味を見るために、具は入れていません。葱さえも入れませんでした。まず、食べて見てください」
 まさやに言われて男は蕎麦を食べ始めた。途端理解したみたいだ。
「この、コクだ。この返し(返しとは味醂と醤油を合わせて寝かせたもの)の味を深めている昆布と鰹節ともう一つ……さっきのうどんの出汁と同じものだ」
「そうです。この蕎麦は如何でしたか?」
「旨かった。やはり蕎麦は東京だよ。上方の蕎麦は食べられたものではないからな」
「蕎麦自体はわたしが打ったものです」
「やはり、麺職人としても一流だと感じる……それで、そのもう一つのは何なのですかな?」
「宗田鰹節、鯖節、鯵節、鰯節」をブレンドしたものを鰹節とは別に使っています。宗田鰹と鯖節はコクを出します。鯵節や鰯節は旨味を出します。これらと鰹 節の割合は秘密です。蕎麦の汁を作る時にも配合は違いますが使います。それと、みっつの配合も勘弁して下さい。それにしても旨いうどんの麺でした。これな ら、わたしも欲しいですね」
 まさやの打ち明けに男は
「そうでしたか、今まで乱暴な口を利いてすいませんでした。田舎者を演じてみたつもりでしたが……」
「あなたの事は噂で聞いていました。讃岐で変わったうどんを作り始めた人物が居るってね」
「そこまで判っていて、応対してくれたんですね」
「それもありますが、うどんが良かったからです。それが全てです」
「帰ったら、その三つの節の割合を突き詰めてみます。それと、満月の夜にこちらに、わたしが打ったうどんを送りますよ」
 男の提案にまさやは
「それはありがたい。これでうどんもメニューに加える事が出来ます」
 まさやが笑うと
「未だ麺はありますから、今夜はこれを全て置いて行きます」
 そう言って男はデイパックから袋を三つ取り出した。
「冷蔵庫に入れておけば多少は持ちます。使ってください」
「じゃあ、妻にも作って食べさせます」
 まさやは、その後三人前のうどんを作って三人で食べた。
「ああ、本当に美味しい。これなら年寄りも美味しく食べられるわ」
 みちこの言葉に男は
「そうなんです。最初は讃岐は腰と固いのを取り違えているのでは、と思ったのが出発点なのです。東京に自分の理解者が出来て感無量です」
 その晩男は遅くまで自分のうどん理論を披露して帰って行った。無論名刺を置いて行ったのは言う間でもない。

 それから、「心の食堂」にうどんのメニューが登場した。たちまち人気メニューになったと言う……


        続く

※解説……鰹節以外の削り節の種類

鮪節
キハダまぐろの幼魚を原魚に製造されます。関東では「めじ節」、関西では「しび節」 と呼ばれています。節類の中ではもっとも生産量が少なく、特にまぐろの仕上節は稀少です。 主に中部から関西にかけて消費されています。まぐろ節からは、透明感のある、 ほんのりとした甘みのある上品なだしがでます。ですから、吸い物だしにはよく使われます。 まぐろ節はその味の特長から、素材が本来もっている味を生かして料理ができますので、 まぐろ節をベースのだしに用いている料理人が多々います。 また、まぐろ節は口に入れると淡泊な味わいに甘みが加わるので、糸状や細かい削り節に加工され、 食べる鰹節として多数の飲食店様で使われています。

宗田節
主にマル宗田鰹から宗田節は製造されます。「目近節」とも呼ばれ、主な生産地は 高知県の土佐清水です。宗田節は鰹節より血合いが多いので、味、色ともに濃厚な だしがでます。おそばやさんはもりそばのつゆのだしに宗田節をよく使います。 おでんや煮物のように濃い味が求められる料理にも適しています。

鯖節
ゴマサバと呼ばれている脂肪分が少ない鯖を原魚に製造されます。鯖節からの香りは少ないのですが、 甘みのある濃厚なだしがでます。おそば屋さんはかけそばのつゆのだしに鯖節をよく使います。 宗田節同様、濃い味が求められる料理に適しています。

鯵節
ムロアジを原魚に製造された節です。九州が主な産地です。中部地区ではうどんのだしを 中心によく利用されています。あじ節のだしはやや黄色みがかっており、味は 鯖節よりもさっぱりしています。

鰯節
カタクチイワシ、ウルメイワシ、マイワシを原魚にいわし節は製造されます。 いわし節は主に関西で使用されています。くせのない独特な甘みをもっただしがとれ、 主に麺類、煮物、味噌汁に用いられます。

心の食堂  第5話  最後の食事

 空には満天の星が輝いていた。その星が何時もより僅かに目立っていないのは、同じ空に満ちた月が浮かんでいて、明るく輝いているからだ。でも本当は、それぞれの星は何時もと同じ輝きを見せてくれているのだ。
 満月の夜にだけ現れるその食堂に今夜も一人の人物がやって来た。歩く足取りもやっとで、杖をつきながら歩いて来たのだ。暖簾をやっと潜り扉もよろけながら開けて老人は
「ここかね。満月の晩だけ現れると言う食堂は?」
「いらっしゃいませ。そうです。『心の食堂』はこちらです」
 みちこが愛想よく答えると老人は
「立ってるのも辛いので、座らせて貰うが……」
 そう言って店に二つあるテーブルのひとつに腰掛けた。
「何でも大層旨いものを食べさせてくれるそうだね。そんな噂を聞いてね、満月の晩に探していたんだよ」
「失礼ですが、お体が悪い感じがしますが、その状態でこの辺りを探していらしたのですか?」
 みちこは今にも倒れそうな老人の体を心配した。
「ワシはこれでも食道楽でな。今まで世界中の美食を味わって来た。だが、そのせいか、体はボロボロでな、もう余命は長くない。現にもうすぐホスピスに入る事になっている。だから、最後にとっておきの美食を味わいたくてここを探していたんじゃ」
 厨房から、まさやが顔を出して
「世界中の美味しいものを食べられたのですね?」
 そう尋ねると老人は懐かしそうに
「ああ、イタリアを始め、フランス、トルコ、中国、仕事の暇を見つけては訪れて、その国の超一流の店に通ったよ。それぞれが、その国の歴史に込められた味 があって、とても良かった。日本人の口には合わないと思う料理もあったが、そんな事は気にならなかった。その料理の背後にあるものを感じると、そんな事は どうでも良く思う程だったよ」
 そう言ってみちこが出したグラスの水を口に含んだ
「この水は普通の水ではないな……軟水……それもかなりの軟水だ。今の日本にこのような軟水が湧く場所があるか判らんが、貴重な旨さだ。体に優しく、料理 に使うと味が体に馴染むように浸透していく……どうやら噂は本当だったようだ。どうかね、私に最後の食事をさせくれんかな?」
「ホスピスとお訊きしましたが、大分お悪いのですか? その体で今まで通りの味覚が判りますか?」
 まさやが、老人の体の事を問うと老人は苦笑いを浮かべ
「そろそろ駄目になって来たと自覚してきた所だよ。今夜が最後かも知れない。もとよりホスピスに入れば、旨いものなぞ期待出来ないしな。そんな意味でも今夜が最後だと思っているんじゃ」
 そう言い切った顔は嘘を言っている感じはしなかった。
「そうですか、先程のお出しした水の事から言っても、お客さんの言っている事に嘘はなさそうですね。では、あなたにとって、最後のご馳走を出しましょう。 但し、今日は体の事もあり一品だけ出させて戴きます。どうやら、客さんは量は余り食べられないと思いました。それで如何ですか?」
 まさやの提案に老人は笑って
「店主は、どうやら普通の人では無い感じですな。こちらの事まで良く判っているみたいですな。そんな、ワシにどんなモノを食べさせてくれるか逆に興味が沸いて来ましたな」
「では作って参りますから、暫しお待ちを……」
 そう言って、まさやは厨房に入って言った。残ったみちこに老人は
「ここを探すのに三月掛かったよ。噂や、実際にここで食事をしたという人に会って話を聞いたりした。それがとうとう叶って、ワシは幸せだ」
「そうだったのですか……でも、ご家族の方は……」
「家族……そんな者は居ない……ワシは美食に命を掛けて来たのじゃ。地球の果てまで行って命を落としそうになった事もあった。そんな者には家族なぞ持つ資格なぞありはしない。だから人生の最後をホスピスで暮らすんじゃよ」
 みちこは、老人の言葉を聞いて、それほどまでに、美食がこの老人を動かしたその動機が知りたかった。
「食べる以外にも、人生には色々な楽しみがあると思うのですが、なぜ美食だったのですか?」
 みちこの言葉に老人は笑いながら
「それは、食べると言う事は命だからじゃ。命イコール食べる事じゃ。だから美食を追求すると言う事は自分の生きて行く目的を追求すると言う事じゃよ。それ に比べたら他の楽しみは二次的なものだと思う。神に与えられた命の真実を追求する事が一番楽しいし、人生の目的だと思ったからじゃ」
 たしかに、そんな理屈もあるとは思ったが、みちこは自分は、かって他にも色々な楽しみを持っていたと思った。
「お待ちどう様」
 気がつくとまさやが、老人に料理を出していた。
「松茸の土瓶蒸しです」
 出された土瓶蒸しの猪口をひっくり返すと老人は静かに土瓶蒸しのお汁を口にした。
「うん。堪らないな……松茸の香りにそれを強調させるゆずと三つ葉の香り。また旨味を出す小海老と銀杏。全てにおいてバランスが取れていて見事じゃ。それ に、何と言っても水が良いから素材も出汁の旨味も優しく溶け出している。この猪口の中に、この日本の海と地の全ての恵みを感じる事が出来る」
 満足気な老人にまさやは
「松茸と銀杏は丹波産の最高級のものを、小海老は伊勢産の近海物を、ゆずと三つ葉は静岡産です。出汁は焼津産の上節、だし昆布は松前産です。次はすだちを絞ってお楽しみください。勿論徳島産です」
 まさやの通りに老人は二つに割れたすだちを絞って先ほどと同じように猪口に注いで飲んで行く
「味を壊さず、引き立てる、すだちの味……これがかぼすだと若干酸味が強い……この辺りの選択も見事じゃ」
 次に老人は箸で中の具材を摘み出して行く
「ほう……利休か……贅沢じゃな。箸の使いが楽しくなるわい」
 ひとつひとつを、じっくりと味わうように食べて行く。そして、全て食べ終わってしまうと
「噂に違わぬ見事な出来じゃった。昔はさぞ名のある料理人だったのじゃろう。未だ若そうなのになぁ……でも、そのお陰でこうして人生、最後で最高のものを食べさせて貰った。お代は?」
「はい五百円です」
「赤字じゃな」
「良いのです。利益を追求していませんから」
「そうか……そうじゃな……ワシもすぐに行くから、向こうへ行ったら宜しくな」
 老人は満足気な表情をして出て行った。心なしか、来た時より足取りが軽くなって居る気がした。
「土瓶蒸しは小さな一人用の土瓶を型どった入れ物に、松茸、海老、銀杏、三つ葉。それにゆずの皮を少し、中には吸汁といって、吸い物に張る出汁と同じもの を入れて、蒸すか、小さな一人用の焜炉等に載せて温めて、火が通ったらすだち等を絞り、中の具を楽しみながら、蓋代わりの猪口で松茸や海老の旨味が出た汁 を味わう料理だ。食べ方も決まっていて、最初に具材を食べてしまうのは愚の骨頂。今日みたいな食べ方が良いとされている。あの食べ方であのお客が言ってい た事は全て本当だと判ったよ」
 まさやの言葉にみちこは
「あら、わたしは、その前に本当だと判っていましたよ」
 そう言って笑うとまさやが
「その辺りは、昔からお前には叶わないな」
 笑って、みちこの肩を抱いた。
「でも、本当に、あれで、あのお客さんの人生は幸せだったのでしょうか?」
「さあ……それは、俺たちには判らないな。人生の幸福度は人それぞれだからな。俺たちみたいに人に旨いものを食べさせて幸せを感じる輩もいるしな」
「そうですね……」
 その後、何回目かの満月の晩に二人は世界的な美食家が亡くなったと言うニュースを見ていた。
「もうすぐ来ますね。向こうの店に」
「ああ、ま、それは仕方ないがな。忙しくなるな……しっかり頼むな」
「はい、任せて下さいな」
 
 その夜は、輝くような明るい月夜だった。


           続く
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氷菓二次創作  「深夜の思惑」

 二学期が始まりました。今年は八月の末になって急に涼しくなり、野菜の管理が大変でした。このまま季節が早く過ぎて行けば「早霜」の恐れもあります。父もその辺を心配していました。
「大丈夫だ。お前が心配する事はないよ」
 そう言ってくれましたが、やはり気になります。でもこればかりは幾ら気になっても折木さんに尋ねる訳には行きません。今日は文化祭で売る文集「氷菓」の 最終編集会議です。昨日摩耶花さんは自分のマンションに福部さんを招き、原稿を描き上げるまで帰さないと言って帰って行きました。
 摩耶花さんは事情があり、ご両親と離れてマンションに一人暮らしをなさっています。福部さんもたまには摩耶花さんのマンションに寄る事はあるそうです が、今まで泊まった事は無かったそうです。昨夜が初めてだと言う事は、もしかして、甘い夜になったのでしょうか? わたし、それも気になってしまいまし た。
 わたしと折木さんはお互いの気持は確認したものの、その後の進展具合は進んでいません。だから、先輩でもある摩耶花さんと福部さんのカップルがとても気になるのです。

 HRが終わり地学講義室に向かいます。途中で鍵を持った折木さんに逢いました。
「おう、千反田。早いな、さすがだ」
「いえ、折木さんこそ職員室に寄って貰いすみませんでした。本来なら部長であるわたしが行くべきなのに……」
「まあ、細かい所はいいよ。俺の方が職員室に近いだけの事なのだからな」
 やはり折木さんは素敵な方です。自分のやった事を自慢したりする事のない人なのです。
「昨夜、福部さんは原稿を書けたでしょうか?」
「まあ、伊原があれだけ真剣に言っていたんだ。書かせたと思うけどな」
「そうですよね。でも二人だけで一夜を過ごしたんですよね……」
 わたしの言葉に折木さんも意識してしまったようで
「ま、それは、あいつらは交際して長いからな……そんな事もあるんじゃないかな……」
「正直、わたし、少し羨ましいと思ってしまいました」
「ち、千反田。それは……」
「すいません! 今のは聴かなかった事にして下さい」
 自分の言った事の恥ずかしさに耐え切れず小走りに走ってしまいました。
 地学講義室の前に行くと、既に摩耶花さんと福部さんが待っていました。
「あら、お早いですね」
 わたしが声を掛けてもお二人は頷くだけで、返事をしてくれません。それにどうも顔色が悪い気がします。
「どうなされたのですか?」
 わたしが摩耶花さんに尋ねると福部さんが
「摩耶花は気が動転しているから、中に入ったら僕が説明するよ」
 後ろから折木さんがやって来て部屋の鍵を開けてくれました。それぞれが何時もの席に座ると、福部さんが鞄から原稿を出して
「昨日、夕方から書き始めて、八時頃には書き終えたんだ。ご飯を一緒に食べてね、帰ろうとしたら摩耶花が引き止めるんだよね。初めは僕も変に勘違いしてい たんだけれども、摩耶花の様子が段々おかしくなってきてね、理由を問い正したら『幽霊が出るから今夜は一緒に居て欲しい』って言うんだよ。それで家に電話 して摩耶花のマンションに泊まる事を伝えたんだ」
「それで幽霊は出たのですか?」
 わたしの質問に今度は摩耶花さんが
「出たのよ! 間違いないの!」
 そう言って、両手で頭を抱え込んでしまいました。それを見て福部さんが
「まあ、出たと言うより確かに聴いたと言う感じかな……あれは人以外の何かだとは思うけどね」
 福部さんは以外に冷静な分析をなさる方です。その方が「人以外」と言うからには何かあったのだと思いました。すると黙って聴いていた折木さんが
「里志、どんな音を聴いたんだ? 人の声らしきものでも聴いたのか?」
 そう言って会話に割り込んで来ました。折木さんなら何か判るかも知れないと思い、わたしは黙って折木さんの隣に席を移しました。
「そうだね。隣の部屋から音がするんだよ。それも『ドン』とか壁が『ギンギンギン』って言う音がするんだ」
「伊原、その音はいつ頃からするようになった?」
 折木さんの問に摩耶花さんは震える声で
「隣の人が引っ越して行って、空き部屋になってから聴こえるようになったの。それも夜とかが凄いの。最初は隣の部屋に誰か物件を見に来たのかと思っていた ら、隣は相変わらず空き家だし、誰も部屋に来た人は居ないし、同じ階の部屋は誰もそんな音を出したりしていないと言っていたし、それに同じ階の人もその音 を聴いているのよ。だから、これは幽霊の音なんだと思ったの! 間違いないわ!」
 摩耶花さんは無闇に幽霊だとは言っていないと、主張しています。わたしは出来るならその音を聴いてみたいと思いました。
「伊原、確かめるが、その隣の部屋には誰も入ってはいないんだな?」
「うん、音がした時は誰も居ないわ。わたしが居ない昼とか管理人さんが入っているかも知れないけどね」
「マンションの高さは何階建だ?」
「七階建てよ。それが何か……」
「屋上に給水塔が備わってるな?」
「当たり前じゃない。無かったら水道が使えないじゃない!」
「そうか、そうだな……」
 それだけを言うと折木さんは右手で自分の前髪を触り始めました。わたしは知っています。ああして、折木さんが右手で前髪を触り、目の焦点が纏まりなく なった時は、あの人の頭の中は灰色に覆われた頭脳の細胞がフル回転しているのです。その出す答えにわたし達古典部の皆はどれだけ助かった事でしょう。
「伊原、もう一つ教えてくれ、隣が空いたそうだが、マンションの住民そのものは増えているんじゃないのか?」
 折木さんの質問に摩耶花さんは少し考えて
「そう、そう言えば、そうなの。でも折木何でそんな事まで判るの?」
 折木さんは摩耶花さんの言葉を聴きながら
「やはり、そうか……」
 凄いです! 折木さんは既に何か判ったみたいです。現場を見た訳でもないのに判るなんて……
「折木、何か判ったの?」
 摩耶花さんは真剣です。
「ああ、大凡はな。まず間違い無いと思う。マンションは七階建てで、屋上に給水塔が備わっていた。伊原の隣の部屋は空いたがマンションの住民そのものは増 える傾向だった。そして夜に多く音が発生した。そこから導かれる結論は幽霊の音などではない。それは、人工的に引き起こされた『ウオーターハンマー現象』 だ」
「『ウオーターハンマー現象』って何よ?」
 驚く摩耶花さんに折木さんは
「里志の方が詳しいかもしれんが、昨夜気がつかなかった所を見るとデータベースには入って無いみたいだな。では説明しよう……」
 折木さんはそう言って地学講義室の黒板の前に立ちました。そして図解入りで説明をしてくれました。
「『ウオーターハンマー現象』とは水圧管内の水流を急に締め切ったときに、水の慣性で管内に衝撃と高水圧が発生する現象と言われている。弁の閉鎖や配管の 充水時、ポンプの急停止といった急激な圧力変化によって生じるとされている。つまり、水道管に強い圧力が加わっている時に急に水道を止めた時に起こる音だ な。伊原のマンションは七階建てで屋上に給水塔がある。そこまで水を組み上げるので水道管の水圧は高い。最近住人が増えて来て益々高くなっていただろう。 そこに急に伊原の隣の部屋が開いてしまった。今までバランスが取れていたシステムが崩れてしまったんだ。伊原、お前の家もそうだが、住人の殆どが、全自動 洗濯機だろう? それに乾燥機能も付いているだろう?」
「うん、そうだと思う。でもそれが……ああ、そうか! あれは急に水が止まる!」
 驚いている摩耶花さんに折木さんは
「それも、今は夜に洗濯をする家が多い。一斉とは言わないがマンションの住民のうちかなりの家がそれを行なったら『ウオーターハンマー現象』ぐらい起こると思わんか?」
 折木さんの推理は鮮やかでした。
「でも、どうすれば止める事が出来るの?」
「何でも、それを防止する装置があるらしい。五千円ほどらしいが、そんなのを買わなくても、水道局で配ってる節水コマを各家庭で取り付ければ直るそうだ。 これは管理人さんに言うかマンションの管理組合に頼めば良いだろう。他の住人も気にしているなら、直ぐに対策してくれるだろうさ」
 その後、摩耶花さんが管理人さんに言って組合で節水コマを取り入れ、各家庭に配ったそうです。その結果、深夜の謎の音は止まったそうです。
「ほんと、折木の頭の中、ちーちゃんと一緒に覗いてみたいわ」
 摩耶花さんが半分感心して、半分は呆れています。「氷菓」も今年は間違いなく発注しました。後は出来上がって来るのを待つばかりです。

 その日は折木さんが送ってくれる事になりました。今日はそれも嬉しいのです。バスに揺られながら、わたしは摩耶花さんが味わったであろう恐怖の事を口にしました。
「福部さんが居て本当に良かったですね。一人だったらどんなに怖かったでしょうねえ」
 すると折木さんは半分笑いながら
「なあ、本当に伊原が言った事が全てだと思うか?」
「え、本当じゃないのですか?」
「まあそれなら、、それでも良いけどな」
 折木さんは何かを知っています。知っていてわたしに隠しているのです。それがとても気になります。何を隠しているのでしょうか?
「折木さん、わたし気になります!」
「はは、それが出てしまっては仕方ないな。伊原は前から『ウオーターハンマー現象』に悩んでいたと思うな。まあ、それほど気にする程度では無かっただろ う。あの日は里志を自分のマンションに連れて来た。初めてでは無いのかも知れんが、夜に二人きりになれる。伊原としたらこれを利用しない手はない。怖がれ ば、里志が慰めてくれて、朝まで抱きしめて守ってくれるかも知れない、と言う程度は考えたとは思わないか?」
 ああ、そうだったのですね。わたしは、そんな思惑が隠れているとは気が付きませんでした。
「考えての行動だったのですね」
「思惑違いだったのは、里志まで本気で怖くなってしまった事。あの夜の音が何時もより大きかった事だな」
 折木さんの説明を聴いて、わたしは折木さんに尋ねてみました。
「もし、わたしが摩耶花さんのように怖くなったら、福部さんのように朝まで一緒に居てくださいますか?」
 わたしの言葉に折木さんは尤もらしい顔をして
「当たり前だろう。でも、お前がそんなに怖がる事なぞ何かあったか?」
「はい、最近、一人で寝るのがとても怖いんです!」


                 了

心の食堂  第4話  心の味覚

 浩二が帰って暫くして、一人の少女が店にやって来た。
「こんばんは~また来ちゃいました」
 十代後半らしき年頃で、高校生ぐらいではなかろうか、髪を短くしている以外は特別変わった感じはしなかった。
「あら、やはり髪を切ったのね。それも良く似合うわ。いらっしゃい! その後はどう?」
 みちこが少女に尋ねると嬉しそうに
「はい、染めていた所と新しく生えて来た所が混じって汚らしいので、切りました。生まれ変わった覚悟です。食べ物は、大分色々なものが食べられるようになりました。味もよく判るし、美味しさも感じます」
 そう答えるとみちこも嬉しそうに
「良かったわ。食の楽しみが無いと言うのは人生で一番損をしてしまうからね」
 そう言って答えると少女は
「はい、本当にその通りだと思います。あの日このお店を見つけられなかったらと思うと、心が寒くなりました」
 そう言って遠くを見つめた。
「でも、あなたは、あれから満月の度にやって来て、少しずつ色々な美味しさを理解して来たわ。それは、あなたの努力だと思う」
「いえ、それまでが単なる我儘だったのです。自分の好きな口に合うものしか食べていなかったので、色々な味覚が判りづらくなってしまっていて、何を食べても美味しく感じなくなってしまっていたのです。それを、蘇らせてくれたのです」
 奥からまさやが出て来た
「でも、それではいけないと思っていた。それでこの店にやって来ましたね。最初は驚きました。濃い味の食べ物以外は殆ど味を感じる事が出来なかった」
 半分笑いながら懐かしむと、みちこが
「でも、自分でも良くないと思っていたのよね?」
 問いかけると少女は
「そうなんです。高校に進学して友達と色々なお店に行っても自分だけは美味しく感じなくて、段々友達とも話が合わなくなって、とうとう高校を辞めしまっ て、良くない連中と遊んでいたんです。そんな時に、深夜この店を見つけました。お腹に入れば何でも良いって思っていたんです。でも、あの時出された雑炊は 驚きました。何の味も感じなかったからです」
「あれはね、ワザと味は薄くしました。逆に旨味はかなり濃くしました。それが、あなたの味覚をリセットする為に必要だと思ったからです」
 まさやの言葉に少女は半分笑って
「最初は『なんだこれ?』って思いました。でも、熱くて直ぐには食べられないので、時間をかけてゆっくりと食べていたら、最後で旨味が何となく判ったんです。だから、またこのお店に来たいと思いました」
「そこであなたに、この店の秘密をお話しました。それからあなたは、満月の度にやって来ました。でも、それも今日で終わりですよ。今日は旨味を感じる最後の料理です。これを感じる事が出来たら、もう何処で何を食べても、その美味しさを享受出来るでしょう」
 まさやが、みちこに運ばせたのは、網目の大きめの皿だった。薄く白い白身が網目の皿に均等に並べられている。皿の文様がはっきりと見えるほど薄い。
「これは?」
 少女の疑問にまさやは厨房から
「ふぐですよ。ふぐの刺身。薄造りです。一気に食べないで一枚一枚口に運んで旨味を感じて下さい。普通、旨味は脂分がもたらすのですが、ふぐだけは全く脂 分がありません。純粋にタンパク質のみの旨味なんです。それ故に雑多な料理と一緒だと、その旨さが消えてしまいます。その辺を舌と記憶に残るように食べて 戴きたいのです」
 そう言って今日の料理について講釈した。
「判りました。でも、ふぐって真冬の魚じゃないんですか? 今の時期でよく……ああ、これは何時もの事でしたね」
 少女はこの不思議な食堂の事は判っていたが、改めてその不思議さを思うのだった。
「じゃあ、食べてみます。最初は何もつけない方が良いんですよね?」
「そうですね。そうして貰えるとその旨味が分かり易くなると思います」
 少女は箸で薄いふぐの切り身を摘むとそのまま口に入れた。目を瞑ってゆっくりと口を動かす。口全体でふぐの旨味を感じようとしてるように思えた。
「お・い・し・い」
 目を大きく開いて、その喜びを表した。
「物凄く淡泊なんですが、旨味が凄いんです。旨味を感じると頬の後ろが『キュキキューン』って引きつるようになるんです。こんなの初めてです。余りにも美味しいと体が勝手に反応するんですね。今まで知りませんでした。こんな世界があるなんて……」
 気が付くと目に涙が溜まっていた。
「あれ、嫌だ。何で泣くんだろうう?」
「それは、体の喜びの涙ですよ」
 みちこがやさしくフォローするように言うとまさやが
「美味しいものとか、体が必要なものを食べた時とか、なります。良く言うでしょう『ほっぺたが落ちる』って」
「ああ、そうなんですね。わたし、今までそれは単なる大げさな表現だとばかり思っていました。本当だったんですね。今まで知りませんでした」
 少女は改めてこの店に来て良かったと思っていた。
「さあ、次は酢醤油につけて、薬味の小葱やもみじおろしを入れて食べて見て下さい。味が膨らみます」
 みちこに言われた通りにしてみる。酢醤油をつけたふぐはその旨味を陰に隠しながらもより複雑な味を提供していた。
「ああ、凄いです! 本当に美味しいです。ふぐって淡泊だけど旨味の塊なんですね」
「それが判れば、もう大丈夫ですよ。何処で何を食べても前のようにはなりません。今日、あなたの体は、この旨味を覚えました。忘れる事は無いと思いますよ」
 まさやの言葉に少女は
「次の満月に来ては駄目ですか? 今度は純粋に料理を楽しむ為に……」
「勿論、それなら大歓迎です」
 少女は、ふぐ刺しを綺麗に食べてから、
「何かご飯ものが欲しくなって来ました」
 そんなリクエストをした。まさやが
「それなら、ふぐの雑炊を作りましょう」
「わあ、楽しみです!」
 暫く待って出されて来た雑炊は卵が掛けられていて、小さな土鍋がグツグツ言っていた。レンゲで茶碗にすくって口に運ぶ。その瞬間、少女は理解した。この味が、最初に自分がこの店で食べた雑炊と基本が同じだと言う事を……
「そうか……そうだったんだ」
 少女は思った。これでこれからは自分に自信を持って生きて行ける。何も恐れる事は無いのだと。そして、それを教えてくれたこの不思議な食堂を経営する夫婦に感謝するのだった。
「ご馳走さまでした! また、次の満月に来ます!」
「ありがとうございました。またお待ちしています」
 少女は帰って行った。その足取りが以前とは全く違っていた事を二人はすぐに理解した。
「さあ、そろそろ始発が走る頃だ。俺達も店じまいしよう」
「そうですね。また次の満月ですね」
 東の空が明るくなり始める頃、そこには食堂の姿は消えて無くなっていた。新聞配達夫が何も無かったように過ぎて行った。


                         続く
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