それは高校3年もそろそろ卒業が見えて来た頃の事でした。
わたしたちの進学先も決まり、やっと一息ついた時でした。
「供恵さんが婚約!」
地学講義室で折木さんが、わたしと摩耶花さん、それに福部さん相手に、そう語ったのです。
「へえ~それはめでたいじゃないか、大学の友達か誰かかい?」
福部さんが興味深そうに尋ねると摩耶花さんが
「折木、式はいつごろなの?」
と二人で質問をしました。わたしも凄く興味があります。と言うのも良く知っている方がお嫁に行くなんて始めてだからです。
「式は、俺が大学に行った後だから、秋あたりじゃないかな。それで相手だが大学の先輩で県の職員をやってるそうだ。但し将来を嘱望されているそうだ」
「ほお、それは楽しみだね」
福部さんは、自分の事の様に嬉しそうに言いました。摩耶花さんが
「じゃあ、結婚後もあの家に住むのね」
そう確認をすると
「ああ、そう言う事だ。そこで俺は都会に出て行くと言う訳さ」
折木さんは諦める様な感じでそう言いました。その理由をわたしは知っています。
進学先ですが、福部さんと摩耶花さんは県内の大学に進学する事が決まりました。摩耶花さんが少しレベルを下げたのです。でも二人で同じ大学へ進学するなら、そんな事は気にならないと思います。
わたしは京都の国立大の農学部に決まりました。折木さんは東京の私立大に進学します。一緒にこうしてお話ができるのもそう多くありません。お別れが近づいています。
わたしも正直言ってこのままでは進学するのには多少の憂いもあります。でもそれは自分だけではどうしようもない事なのです。
それは、わたしと折木さんの事なのです。
わたしたちはお付き合いをしてる様なしていない様な感じなのです。恐らく周囲は二人の事をカップルだと見ていると思いますが、二人の間には何の約束もあり ません。恐らくこのまま卒業と言う事になり、次第に疎遠になって行くのでしょうか……語尾をハッキリと言えなかったのはわたしの弱さです……
「兎に角、家の事は姉貴が面倒を見る事で決着がついたと言う事さ」
折木さんはさっぱりとした顔で言うとすかさず福部さんが
「じゃあホータローは堂々と婿入り出来ると言う事だね」
そう言うと折木さんは黙ってしまいまいした。他の人から見ればそうなのでしょうが、わたしと折木さんの間では何の話もある訳ではないからです。
「それとこれは別だ。第一俺が大学を卒業しても東京に残ると言う選択もあるかも知れないしな」
折木さんがそんな事を言うと、それまで黙って聞いていた摩耶花さんが
「ちょっと折木、まさかちーちゃんを放ったらかしにするんじゃ無いでしょうね。そんな事したらわたしが許さないからね」
真剣にそう言って牽制をしました。
わたしは、ただ待つだけなのでしょうか……もっと積極的に出れば良かったでしょうか?
ふとそんな気持ちがわたしの心の隅によぎりました。折木さんは摩耶花さんの言葉には直接答えずに少しだけ笑う様な顔をしました。照れ笑いでしょうか……
進学が決まってから、ほぼ毎日折木さんと一緒に帰っています。わたしが自転車の時は一旦折木さんの家に寄って自転車に乗って送ってくれます。バスの時は校 門の前のバス停から一緒に乗って北陣出まで一緒に乗ってくれます。折木さんはそのバスで折り返してそのまま帰って行くのです。本当に優しい方です。わたし がお礼を言うと「ついでだから」と言って少しも驕る事がありません。わたしには過ぎた方だと思います。
今日も自転車で家まで一緒でした。帰る時は古典部では言えなかった事等もお互いに言うのです。本当の二人だけの時間なのかも知れません。
でも……わたしは、折木さんの口からちゃんと言って貰った事は無いのです。わたしも女の子です。その時はちゃんと言って欲しいと思っています……
「千反田、こっちにいる間に何回か携帯で連絡してみるよ。メールの練習等も兼ねてな」
考え事をしていたので、折木さんの言葉を聞き逃してしまいました。
「あの……携帯って……」
わたしの戸惑った表情と言葉を見た折木さんは
「携帯だよ。慣れておかなくてはならないから、こっちに居る間に練習がてら掛けて見るって言ったんだよ。メールもな」
そう言う事だったのですか、そうです、大学に行く事になり家を離れるので、お互いに携帯を持ったのです。最もわたしはスマホで折木さんは携帯でした。
「通話とメールしかしないだろうから、スマホなんて無駄だ。その金で東京に行ったら秋葉で中古のノートパソコンでも買って早い回線の契約をするさ」
そう言って携帯である事を気にしませんでした。わたしも自分のノートパソコンは持って行きます。入居するアパートは光回線が敷いてあるので、引っ越した日からすぐに使えます。折木さんが入居するアパートは回線が敷いて無い様です。
「毎日連絡するからな。最低メールはするよ」
「はい、わたしも毎日します」
そう言う会話はするのですが……
□
俺の進学先が東京の私大と決まった時の千反田の落胆ぶりは傍で見ていても可哀想な程だった。俺としてもなるべくなら京都にある私大にしたかったのだが、 いかんせん希望の学部のある大学がなかった。大阪や神戸まで足を伸ばせばあったのだが、それなら東京でも変わりはしないと思ったのだ。
それに、第一俺自身に未だに迷いがあった。何のことは無い、千反田の背負っている荷物の大きさに俺は尻込みをしているだけなのだ。
卒業までには答えが出せると思っていたが、それも目前に迫っている。それでも未だ俺は決められないのだ。
全く、俺自身こんなに優柔不断だったとはお笑いぐさだ。
その償いと言う訳では無いが卒業までは必ず毎日い送って行くと決めた。雨が降っても風が吹いてもだ。
それは俺自身の千反田に対する贖罪か? それは俺自身にも判らない。ただ、少しでも一緒に居たい。千反田と二人だけで語り合いたい。それだけの想いだった。
楽しい時間はすぐに過ぎてしまう。千反田は家が近づくと、ペダルを漕ぐ速さを遅くして時間を稼いでいる。同じなのだ。気持ちは俺と同じなのだ。なら何故……
「今日もありがとうございました。また明日」
千反田の明るい言葉で我に返る。
「あ、ああまた明日な」
それだけを言うと今来た道を帰って行く――毎日同じ事の繰り返し……俺は何をやっているのだろう……
帰り道、ゆっくりと坂を登って行く。坂の頂上で自転車を止めて、後ろを振り返る。陣出の一帯が目に入る。その中にはこんもりとした木々に囲まれて千反田邸 が見える。あいつは、あいつはこの地域を、ここに住んでいる人々のすべてを背負うとしている。その為に京都の国立大の農学部に進学しようとしている。も し、俺が、同じ立場だったら、どう思うだろうか?
好きな人と同じ大学に行く、里志や伊原と同じ様に……それが自然じゃ無いのか? それが出来な い。それをしたくてもする事が許されないと言う現実とあいつは今まで戦って来たのでは無いのか? 俺は、俺は、そんな現実を判っていながら見て見ぬふりを していたのでは無いのか? 俺は千反田の苦しみを判っていながらそこから逃げていたのだ。改めて自分に言い聞かせる。
曇り空だったが、どうやら雨が降って来たようだ。道に雨粒の跡がついて行く。見る見るうちに道が濡れて行き乾いた所を無くして行く。それはまるで俺の気持ちに決断を迫る様に感じた。
雨は段々激しくなり、俺の肩を濡らし始める。頭に、足に、体に雨が俺を襲う様に降り続ける。顔を空に向けて雨を直接顔に受けると、俺の心も洗い流されて行く様だ。
その時、不意に思った『言わなくてはならない』『いま言わなくては』――雨が顔に当たる度に決断が強くなって行く。それは、今まで俺の中にあった迷いを洗い流してくれる様だった。
無駄に過ごした時間を恨めしく思う。だが今なら間に合う……今なら伝えられる……
俺は自転車を再度反対に向けるともう一度千反田の家に向かって走り出した―決断を伝える為に……
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わたしたちの進学先も決まり、やっと一息ついた時でした。
「供恵さんが婚約!」
地学講義室で折木さんが、わたしと摩耶花さん、それに福部さん相手に、そう語ったのです。
「へえ~それはめでたいじゃないか、大学の友達か誰かかい?」
福部さんが興味深そうに尋ねると摩耶花さんが
「折木、式はいつごろなの?」
と二人で質問をしました。わたしも凄く興味があります。と言うのも良く知っている方がお嫁に行くなんて始めてだからです。
「式は、俺が大学に行った後だから、秋あたりじゃないかな。それで相手だが大学の先輩で県の職員をやってるそうだ。但し将来を嘱望されているそうだ」
「ほお、それは楽しみだね」
福部さんは、自分の事の様に嬉しそうに言いました。摩耶花さんが
「じゃあ、結婚後もあの家に住むのね」
そう確認をすると
「ああ、そう言う事だ。そこで俺は都会に出て行くと言う訳さ」
折木さんは諦める様な感じでそう言いました。その理由をわたしは知っています。
進学先ですが、福部さんと摩耶花さんは県内の大学に進学する事が決まりました。摩耶花さんが少しレベルを下げたのです。でも二人で同じ大学へ進学するなら、そんな事は気にならないと思います。
わたしは京都の国立大の農学部に決まりました。折木さんは東京の私立大に進学します。一緒にこうしてお話ができるのもそう多くありません。お別れが近づいています。
わたしも正直言ってこのままでは進学するのには多少の憂いもあります。でもそれは自分だけではどうしようもない事なのです。
それは、わたしと折木さんの事なのです。
わたしたちはお付き合いをしてる様なしていない様な感じなのです。恐らく周囲は二人の事をカップルだと見ていると思いますが、二人の間には何の約束もあり ません。恐らくこのまま卒業と言う事になり、次第に疎遠になって行くのでしょうか……語尾をハッキリと言えなかったのはわたしの弱さです……
「兎に角、家の事は姉貴が面倒を見る事で決着がついたと言う事さ」
折木さんはさっぱりとした顔で言うとすかさず福部さんが
「じゃあホータローは堂々と婿入り出来ると言う事だね」
そう言うと折木さんは黙ってしまいまいした。他の人から見ればそうなのでしょうが、わたしと折木さんの間では何の話もある訳ではないからです。
「それとこれは別だ。第一俺が大学を卒業しても東京に残ると言う選択もあるかも知れないしな」
折木さんがそんな事を言うと、それまで黙って聞いていた摩耶花さんが
「ちょっと折木、まさかちーちゃんを放ったらかしにするんじゃ無いでしょうね。そんな事したらわたしが許さないからね」
真剣にそう言って牽制をしました。
わたしは、ただ待つだけなのでしょうか……もっと積極的に出れば良かったでしょうか?
ふとそんな気持ちがわたしの心の隅によぎりました。折木さんは摩耶花さんの言葉には直接答えずに少しだけ笑う様な顔をしました。照れ笑いでしょうか……
進学が決まってから、ほぼ毎日折木さんと一緒に帰っています。わたしが自転車の時は一旦折木さんの家に寄って自転車に乗って送ってくれます。バスの時は校 門の前のバス停から一緒に乗って北陣出まで一緒に乗ってくれます。折木さんはそのバスで折り返してそのまま帰って行くのです。本当に優しい方です。わたし がお礼を言うと「ついでだから」と言って少しも驕る事がありません。わたしには過ぎた方だと思います。
今日も自転車で家まで一緒でした。帰る時は古典部では言えなかった事等もお互いに言うのです。本当の二人だけの時間なのかも知れません。
でも……わたしは、折木さんの口からちゃんと言って貰った事は無いのです。わたしも女の子です。その時はちゃんと言って欲しいと思っています……
「千反田、こっちにいる間に何回か携帯で連絡してみるよ。メールの練習等も兼ねてな」
考え事をしていたので、折木さんの言葉を聞き逃してしまいました。
「あの……携帯って……」
わたしの戸惑った表情と言葉を見た折木さんは
「携帯だよ。慣れておかなくてはならないから、こっちに居る間に練習がてら掛けて見るって言ったんだよ。メールもな」
そう言う事だったのですか、そうです、大学に行く事になり家を離れるので、お互いに携帯を持ったのです。最もわたしはスマホで折木さんは携帯でした。
「通話とメールしかしないだろうから、スマホなんて無駄だ。その金で東京に行ったら秋葉で中古のノートパソコンでも買って早い回線の契約をするさ」
そう言って携帯である事を気にしませんでした。わたしも自分のノートパソコンは持って行きます。入居するアパートは光回線が敷いてあるので、引っ越した日からすぐに使えます。折木さんが入居するアパートは回線が敷いて無い様です。
「毎日連絡するからな。最低メールはするよ」
「はい、わたしも毎日します」
そう言う会話はするのですが……
□
俺の進学先が東京の私大と決まった時の千反田の落胆ぶりは傍で見ていても可哀想な程だった。俺としてもなるべくなら京都にある私大にしたかったのだが、 いかんせん希望の学部のある大学がなかった。大阪や神戸まで足を伸ばせばあったのだが、それなら東京でも変わりはしないと思ったのだ。
それに、第一俺自身に未だに迷いがあった。何のことは無い、千反田の背負っている荷物の大きさに俺は尻込みをしているだけなのだ。
卒業までには答えが出せると思っていたが、それも目前に迫っている。それでも未だ俺は決められないのだ。
全く、俺自身こんなに優柔不断だったとはお笑いぐさだ。
その償いと言う訳では無いが卒業までは必ず毎日い送って行くと決めた。雨が降っても風が吹いてもだ。
それは俺自身の千反田に対する贖罪か? それは俺自身にも判らない。ただ、少しでも一緒に居たい。千反田と二人だけで語り合いたい。それだけの想いだった。
楽しい時間はすぐに過ぎてしまう。千反田は家が近づくと、ペダルを漕ぐ速さを遅くして時間を稼いでいる。同じなのだ。気持ちは俺と同じなのだ。なら何故……
「今日もありがとうございました。また明日」
千反田の明るい言葉で我に返る。
「あ、ああまた明日な」
それだけを言うと今来た道を帰って行く――毎日同じ事の繰り返し……俺は何をやっているのだろう……
帰り道、ゆっくりと坂を登って行く。坂の頂上で自転車を止めて、後ろを振り返る。陣出の一帯が目に入る。その中にはこんもりとした木々に囲まれて千反田邸 が見える。あいつは、あいつはこの地域を、ここに住んでいる人々のすべてを背負うとしている。その為に京都の国立大の農学部に進学しようとしている。も し、俺が、同じ立場だったら、どう思うだろうか?
好きな人と同じ大学に行く、里志や伊原と同じ様に……それが自然じゃ無いのか? それが出来な い。それをしたくてもする事が許されないと言う現実とあいつは今まで戦って来たのでは無いのか? 俺は、俺は、そんな現実を判っていながら見て見ぬふりを していたのでは無いのか? 俺は千反田の苦しみを判っていながらそこから逃げていたのだ。改めて自分に言い聞かせる。
曇り空だったが、どうやら雨が降って来たようだ。道に雨粒の跡がついて行く。見る見るうちに道が濡れて行き乾いた所を無くして行く。それはまるで俺の気持ちに決断を迫る様に感じた。
雨は段々激しくなり、俺の肩を濡らし始める。頭に、足に、体に雨が俺を襲う様に降り続ける。顔を空に向けて雨を直接顔に受けると、俺の心も洗い流されて行く様だ。
その時、不意に思った『言わなくてはならない』『いま言わなくては』――雨が顔に当たる度に決断が強くなって行く。それは、今まで俺の中にあった迷いを洗い流してくれる様だった。
無駄に過ごした時間を恨めしく思う。だが今なら間に合う……今なら伝えられる……
俺は自転車を再度反対に向けるともう一度千反田の家に向かって走り出した―決断を伝える為に……
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