2014年08月

「出合い」 番外編~エピローグのようなもの~

「出合い」 番外編~エピローグのようなもの~

DSC00903 国内線を那覇で乗り換えて更に南に行く。着いた島は俺でも多少は聞いた事のある島だった。小さな空港の玄関には一応タクシーが停まっていた。
 荷物をトランクに載せると薫は「『クラブかりゆき』までお願いします」と運転手に伝え、運転者が「かしこまりました」と言って車が動き出した。
「会員制のリゾートクラブなの。わたし、メンバーなんだ」
 嬉しそうな顔で薫は上機嫌だ。飛行機でもほぼ一人で喋っていた。俺はそれを頷きながら訊いていただけだった。きっと、こいつは今まで色々と言いたい事も言えなかったのかと思った。

 ホテルに着くと、従業員が荷物を持ってくれる。薫はフロントで「立花ですが」と予約してある事を確認する。
 ちなみに、薫の芸名は『橘薫子』(たちばな ゆきこ)だ。フロントも薫が今をときめく女優だと気がついた感じだ。なんとなく判る
 この会員制のホテルはコテージと低層の客室とに分かれる。薫はコテージを取ったみたいだ。従業員が中庭を抜けて案内してくれる。
 着いた先は周りを南国の木々に囲まれた赤い屋根の丸みを帯びたコテージだった。従業員がコテージの説明をしてくれる。バス、トイレ、ベッド、その他色々と説明してくれる。更に
「低層の方には大浴場があります。そちらも二十四時間お使いになれます」
 そう説明してくれた。下がる時に薫が手に何かを握らせた。色々な意味があるのだろう……
 
 コテージは基本円形になっていて、そこにセミダブルのベッドが二つ。更に衣装を入れるロッカータンスや化粧台などもある。仕切られた隣の部屋にはソファーとテーブルがあり、ここで食事を採る事も可能だ。大きく開け放たれた窓からは紺碧の海と白い砂浜が広がっていた。
「やっと二人だけになりました。わたし、この時を待っていました」
 スーツケースから荷物を出してロッカーダンスに仕舞いながら嬉しそうに言う。そして片付け終わると、冷蔵庫を開けて二人分の飲み物をテーブルに用意した。そして俺が荷物を整理するのを待ってソファーに俺を誘った。
「本当は神山さんが来てくれるのか不安だったの。随分長いことろくな連絡もしていなかったし、それに神山さんに誰か素敵な人でも出来ていたらどうしようと思って、随分心配したの。でも来てくれて本当に嬉しかった」
 薫は両手に持ったグラスの片方を俺に掴ませた。そして嬉しそうに微笑むと
「二人の将来に乾杯しましょう。アイスティーだけど」
 そう言ってグラスを軽く合わせた。
「もし、俺が旅の支度をして来なかったらどうしたんだ? それに俺なんかに恋人なんか出来るわけ無いだろう。こんな中年のオッサン誰も相手にせんよ。それよりお前の方はどうなんだ、色々と週刊誌を賑わしていたじゃないか」
 俺は、薫の言った事は恐らく心の中の奥にある真実だろうと判っていたが、少々遊んでみたくなった。そんな俺の問いかけに
「それは、ああいう業界だから、付き合いが大事ということもあるし……」
 流石に歯切れが悪くなった。少し可愛そうなことを言ったと思った。
「いいよ、そんな事言わなくても。そもそも気にして無いしな。あんまり連絡が無かったので少しチクリとやっただけだ」
「もう……わたし……イジワル!……でもホテルで二人だけなら……」
 グラスを置いた俺に薫はむしゃぶりつく様に抱きついて来た。唇を重ねると、薫の目から一筋の涙が流れた
「う、れ、し、い」
 薫の心からの声だと思った。例えこれが女優としての演技だとしても、これだけの演技をされれば男として本望だ。
「それより、お前ちゃんと辞められるのか? あの業界は売れっ子女優を簡単に辞めさせ無いだろう。そっちが問題だろう」
 俺の言葉が核心をついていたのか、薫は真剣な表情になり
「うん……野沢先生は『仕方ない』って言ってくれたのだけど。テレビ局のプロデューサーが何と言うか……とりあえずは休暇ということで『仕事は入れないで』と言って、空けて貰ったのだけど……帰ったら色々とあると思う……」
 やはりそうだったのかと思うが、こればっかりは本人の意思次第だ。
「お前は俺と一緒になったら、女優はやりたくないのか?」
 根本的な事を訊いてみた。
「本当は、専業主婦になりたいけど、神山さんが薦めてくれるなら、やっても良いと思ってるけど、結婚してまでわたしに需要があるのかは判らない」
 恐らく、これも薫の本音だろう。俺は
「ある程度仕事をセーブすれば良いと思うが、こういうのは意外と難しいからな」
「そう、考えても仕方無いから、帰ったら結婚に向けて行動します。神山さんにわたしの両親にも会って欲しいし……」
 そうだ、結婚するなら、そういうことも行わなければならない。
「だから、今は思い切り楽しみましょう! 今日から七泊八日は二人だけだからね!」
 そう言って薫は俺に再び抱きついて来た……

 南の島の夏は暑い。とても日中は表で泳いでなどいられない。従って夕方とか夜に泳ぐことが多くなる。このクラブにはプールもあるので、夕方にそこで泳ぐことが多い。
 薫も結構大胆な水着を着てプールに現れ、周りの男共の目を楽しませている。久しぶりに抱いた時『前より胸が大きくなった』と思った。その体を申し訳程度 の小さな布切れに包んでプールサイドを歩くのだから、若い男の目が釘付けになるのは仕方なかった。まさに女としての魅力が花開いた感じだ。
 それでも薫は肌を焼かない様に入念に日焼け止めを塗っていたし、日除けのパラソルの下にいる事が多かった。
 どうやら、ここに居るのが女優の橘薫子と判かっている者もいるみたいだった。小さな声で話し声が耳に入る。
 部屋で、テレビを就けると薫の出ている化粧品のコマーシャルが流れる。それを見ていると、今、俺の目の前にいる人間とは同じとは思えなかった。
「明日は、船で隣の島に行ってみましょうよ。ね!」
 休日を満喫している薫は色々と俺に提案する。その全てを俺は二つ返事で頷いている。確かに、ここでは何もかも忘れられる。いいものだと思った。薫はここ にどれぐらい来たのか知らないが、このクラブは全国に何箇所かあるという。冬はウインタースポーツを楽しむ為に北の施設に……また春や秋には古都を楽しむ 為の施設もあるということだった。

 そんな訳ですっかり休暇を満喫して帰路に立つという時に薫のスマホに劇団のマネージャーからメールが入った。
『こっちでは芸能マスコミが情報をキャッチして羽田で出迎える気らしい。晒し者になる可能性があるから那覇からは別便か関空経由に変えた方が良い』
 というものだった。
「神山さん、どうやら、そっとしておいてはくれなさそう……」
 メールを読み上げながら俺に半分ふざけたような顔で言う。
「実は判っていたんだろう!? どうする強行突破か?」
 薫は半分困った顔をして
「わたしはいいの、マスコミに顔を出してナンボの世界だから……でも大事な神山さんを晒し者にはさせない……関西から新幹線でもいい?」
 そんなことを言って済まなそうな顔をした
「どっちでも構わん。堂々としていたって別に良い。気持ちは一緒だろう?」
「うん……ごめんね……わたし配慮が足らなかった……」

 結局、堂々と羽田で降りる事にした。他のお客の迷惑になるので、一番最後にして貰った。先を俺が歩く。俺の格好は麦わらのファッションキャップを 被りサングラスをしている。サングラスは兎も角、帽子は薫が「似合うから」と言って買ってくれたものだ。恐らく、俺の顔は帽子とサングラスで良くは判らな いだろう。という訳だ。
 逆に薫はいつもどおりの化粧の他は薄い色のサングラスだけをしている。
 出口を出ると。何十人というカメラマンが一斉にシャッターを切った。記者が口々に何か言うが薫は一言
「後ほど記者会見を行います」
 それだけを言うと俺達は、記者達を振りきってタクシーに乗った。
 車内で俺は
「記者会見には俺も出ようか」
 そう言うと薫は悲しそうな顔をしながら
「ううん、気持ちは嬉しいけど、神山さんは一般人だから巻き添えに出来ないよ。わたしだけで頑張るから」
 その晩は薫のマンションは記者達が張っている、との情報で俺のマンションに泊まった。
 翌日、スポーツ紙を買ってみると芸能欄の見出しには
『役者座女優 橘薫子愛人と南の島で逃避行旅行から帰る! 大胆な行動!!』
 とデカデカと書いてあった。何が「逃避行旅行」だ。勝手に決めつけるな!
 朝のコーヒーを入れながら文句を言ってると薫が横から
「芸能記者なんて、そんなもんですよ。彼らは事実より自分達が報道したい事のみを取材するんですから。新聞報道は眉唾で見る事って父も良く言ってました」
 そう言って甘えて来た。
「こら、コーヒーが溢れるぞ」
「だって今日と明日はまだお休みでしょう……昨日は疲れてたし気が立っていたから……ね……」
 泣く子と地頭には勝てぬとその昔北条何とかが言ったそうだが、俺の場合はこいつだ。確かに俺の休暇が終われば、こいつも厳しい現実が待っている。俺との 仲も正直どうなるか判らない。それを薫も感じ取っているのだと感じた。今日と明日は思い切り甘えさせてやろう……全てはその後だ……

 
 その翌日の休暇の最後の晩、薫は俺に申し訳なさそうに
「もう二三日居てもいいかな? その……」
 言い難そうな表情をしているので
「ああ、構わないよ。何なんなら一生居てもいいぞ」
 そう冗談を言ったら、そこで初めて笑顔を見せた。
 俺の仕事が始まると何日かはまるで妻のように振る舞ってくれた。朝飯や夕飯を作ったり、身の回りの事をやってくれた。ちょっとした所帯の真似事だったのかも知れない……
 ほとぼりが冷めて、明日は自分のマンションに帰るという晩、俺と薫は本気で愛しあった。正直この時、心の底から薫を一生自分のものにしたかった。それだけの想いを込めて愛した……そして、この日から薫は俺の事を孝之さんと下の名前で呼ぶようになった。

 翌朝、マンションを出る時
「これから記者会見するけど、孝之さんの名前は出さない。嘘は言わない。ちゃんと正直に答えるから見ていてね」
 そう言って笑顔で出て行った。……

 記者会見がテレビで中継されるなんてことは無かったが、部分的にワイドショーで流され、簡単な模様がネットにも載せられた。それによると……
――記者 「先日一緒に旅行された方とはそのようなお付き合いで、どのような関係なのでしょうか? よろしければ詳しい情報をお願いします」
――薫  「結婚を前提に交際させて戴いております。女優になる前からのお付き合いです。一般の方で社会人なので、名前は伏せさせて戴きます」
――記者 「年齢はお幾つですか?」
――薫  「37歳です」
――記者 「随分お歳が離れていますが?」
――薫  「関係ないと思います」

 およそ、こんな感じだった。薫は一人で大勢の記者を相手に一歩も引かなかった。堂々とした声で会見をした。それだけを見たら随分気の強い娘だと思うだろう。薫も24歳を過ぎた。充分大人の女性だ。大したものだと俺は思った。
 秘密にしていたつもりでも、何処からか情報は漏れる。俺の周りにも記者のような人間の姿を見る事が増えた感じがした。もしかしたら薫がここに寄るのではないかと張っているのだろう。ご苦労なこった……
 そのせいか、薫は深夜にメールを寄越すがこちらには姿を見せなくなった。そして、新しいドラマに出る事になり、そのロケや撮影で、メールも毎日とは次第に来なくなった。
 そんな時だった。俺のマンションに何と野沢せいこうが尋ねて来た。正直、驚いた。部屋に上げて案内すると、野沢せいこうは
「熱海でお会いしましたね。あの頃にはもう知り合われていたんですね。なら、話は早い。あの時、私は橘君に『女優の才能がある』と言いました。それはお世 辞でも何でもなかったのです。今日はお願いがあってやって来ました。あの子には今二本の映画の話が来ています。莫大な制作費をかけた文芸大作です。一本は ヒロインで、もう一本は準主役です。私はあの子に映画の主演をさせてやりたいのです。どうか、それが終わるまで、二人の結婚は待って戴きたいのです。今日 は、それをお願いしにやって来ました」
 本来なら、天下の野沢せいこうが俺の所に来て言う話では無い。でも、俺ではなく薫にはそれだけの価値があると言うことなのか……
「私からも質問があります。薫は女優として、そんなに素晴らしいのですか? そこの処の本音をお聞かせ願いたいです」
 俺としては、それだけだった。本当の処を訊いてみたかったのだ。俺の言った事を理解した野沢せいこうは
「彼女は素晴らしい才能です。女優として必要な要素を全て過不足無く持っています。セリフを理解する頭の回転の速さ、覚えの良さ、表現の上手さ、そして相 手をその気にさせる魅力、更に何といっても素晴らしいのは華がある事です。舞台でも彼女が現れただけで、パアーツと明るくなります。これは天性のもので す。女優になるべくして生まれた存在なのです」
 野沢せいこうの評価は最大級だった。
「判りました。女優の話があった時に嫌がる薫に勧めたのは私です。ここは私も薫の成長を見守る事にします」
 それだけは覚えていた。後何を話したか覚えていない。薫が俺の手から抜け出てしまった瞬間だった……
 その晩、薫から長いメールが届いた。内容は、野沢せいこうが来た事に対するお詫び。そして映画の事へのお礼。そして、素の薫としての愚痴、いいや俺に対する恨み事かな……最後にひとこと『孝之さんのいない世界は寂しいです』そう書いてあった……

 それからは結果だけを書こう……二本の映画はともに大ヒットし、映画の賞を沢山受賞した。薫も主演作品でcolumn_ph1は、主演女優賞。準主役作品では助演女優賞を受賞した。押しも押されぬ女優になったと思った。
 会社でも、薫の事を覚えている者は大勢いる。中には俺と薫の関係を知ってる者も居る
「神山さん、逃した魚は大物だったね」
 異口同音に同じことを言われた。別に俺は釣り逃したとは思っていない。リリースしたのだと思っている。そしてそれは立派に大きくなった。それでいいじゃ無いか……世界に通用する女優の誕生だそうだ。これが喜ばずにいられるか、というものだ。
 
 ある男と女が出会って、そして女は化学反応を起こして、変幻し蝶になり世界に飛び立って行った。男はそれを見て、満足をする……それでいいじゃないか……俺は触媒だったのかも知れない……そう思って気持ちを鎮めた……
 結果から言うと蝶は元に帰って来なかった。俺はそれも覚悟していた。あの時のメールはお別れのメールだったと……

 それから暫くして住んでいたマンションを売る事にした。元はと言えば親父と一緒に住む為に大きめのマンションを買ったのだ。親父が入院してしまった後 は、もしかして俺も結婚でもするかと思ってそのまま住んでいたが、もはやその必要も無い。処分して一人用のマンションに買い換えるつもりだった。
 それに、僅か数日だが、ここは薫と暮らした場所でもあった。もうすぐ四十になろうとする俺には広すぎると思った。
 幸い仲介業者に頼むと、新しい所を紹介してくれた。ここは売れ次第新しい場所に引っ越すと決まった。
 程なく、買いたいと言う人が現れたそうで、手続きを業者に任せた。引っ越しから転入手続き等も一切をやってくれるそうだ。本当に楽なものだった。
 新しいマンションは通勤に便利な場所で、間取りは2LDKで一人で住むには丁度良い。もとより大した荷物がある訳では無かったので、引っ越しも簡単に終わった。俺には青いアルファを停める場所さえあれば良いのだから……

 薫は更に売れっ子になって、何とハリウッドからオファーがあり、向こうの俳優と共演することになった。それもヒロインだ。何とまあ凄いじゃないかとテレ ビの液晶に向かって乾杯をする。今の俺にはこれが精一杯だ。でも本当に良かったよ。未だ薫は若い! 活躍する場はいくらでもある……本当に良かったとグラ スを空けた……
 薫と出会ってもう五年が経ってしまった。女子大生だった薫も二十代後半だ。女盛りだ。あれだけの女を周りの男が放おって置かないだろう。きっと良い相手を見つけるだろうと思う。もしかしたら、向こうで見つけるかも知れないなとも思う。

 新しいマンションでの生活にも慣れた頃、俺はマンションの駐車場からアルファを出そうとしてエンジンを掛けた。こいつも更に歳を食ったが、整備だけはちゃんとしているので、安心して動かす事が出来る。
 サイドブレーキを外して、オートマのセレクターをDに入れて走りだそうとした時だった。いきなり女が飛び出して来た。
「危ないな! 良く見てくれないと轢いてしまう寸前だったよ」
 そう声を掛けると、その女は
「あの時も本当に轢かれていたら、その後はどうなっていたかしらね……」
 そう言って笑顔を見せた。その顔を見て「やっぱり悪くない」と思った。
「横に乗るか? 但し今度は何があっても降ろさないぞ」
 そう言ったら女は黙って横に乗って来た。
「行き先は?」
「あなたの望む所なら何処でも……」
 俺は未来に向かって静かに車を走らせた。

 了

「出会い」 第10話 「最終話」

「出会い」 第10話 

 「ああ気持ち良かった! お先に貰いました」
 体にバスタオルを巻いて、頭をタオルでゴシゴシと拭きながら薫がバスルームから出て来た。
「神山さん。お湯、張ったままですけど、わたしの入った後じゃ気持ち悪いですか? なら抜きますけど」
 頭のピンクのタオルを被ったまま俺に言う様は何か余裕さえ感じさせた。
「構わんよ。俺も入る」
 バスタオルだけ出して俺もバスルームに入った。烏の行水で腰にタオルだけ巻いて出る。
 薫はパジャマに着替えていた。それを横目で見ながら、ベッドルームにある下着が入っているタンスから新しいパンツを出して履く。そういえば薫の替えの下着のことまで考えていなかった。
「お前、下着はどうする? 今からコンビニに買いに行くか?」
 そう俺が言うと薫は笑いながら
「洗濯機ありますよね? それで洗います。乾燥機能付いています?」
 洗濯機はドラム式の新しいやつだ。勿論乾燥機能も付いている。そうで無ければ一人暮らしは不便だ。
「一緒に神山さんのも洗いましょう。わたしだけじゃ勿体無いですから」
 そう言うと薫は俺の洗い物と自分のものを抱えて、俺が案内する洗濯機の場所に行った。
 慣れた手つきで操作すると
「これで、明日の朝には乾いています。それまで必要無いですよね?」
 そう言って俺を見つめる目が少し妖しかった。

 ソファーの上に二人で並んでいる。部屋の明りは落としてあり小さな照明だけが僅かに薫の姿を照らしている。
 その薫の唇にキスをして、パジャマのボタンをひとつひとつ外して行く。
 全て外して襟を左右に広げると、ふくよかな膨らみが飛び出した。俺の手のひらよりも僅かに余る膨らみの感触を楽しみながら、その先端を軽く指の先で転がすようにすると、薫の口からは今まで聴いた事の無い甘い吐息が漏れた。
 パジャマの上着を脱がし、下も脱がせ一糸まとわぬ姿にする。そして、素裸の薫を横向きに抱きかかえると、自分のベッドに運んで行った。初めてという薫に対して慎重に接して行く。充分になったと感じて、俺達はひとつになり、他人ではなくなった。初めての事で、俺と結ばれた喜びもひとしおだった様だ。その様子が可愛くて、恥ずかしい話しだが俺も興奮して、朝まで何回も求めてしまった。そして、そのまま抱き合って昼過ぎまで寝ていた。

 
 
 四万六千日が過ぎて東京にも夏が今年もやって来た。仕事が終わりマンションに帰りテレビを点けると、馴染みの女優が画面に出ていた。こいつのドラマは一応全部録画することに決めている。
 このドラマでは準主役ともいうべき役柄で、二年ほど前の放映したドラマでブレイクしたのだ。
 三年近く前、こいつと俺が結ばれたなんて、今では信じられない感じだった。だが売れて良かったと思った。やはり野沢せいこうは大したものだと思った。
 「役者座」に入った当初はよく電話を掛けて来たり、泊まって行き、色々な裏話等を話してくれたが、ドラマで売れ出すとその間隔は遠のいて行った。
 売れればそうなると思っていたし、彼女もゴシップ週刊誌に色々な記事が載るようになった。それだけ見ても出世だと思う。
「売れて良かったよな薫」
 氷を入れたバーボンの入ったグラスを傾けながら、俺は感慨に耽っていた。俺があいつにしてやったことは女の喜びを教えてやったことぐらいだった。
 画面を通してでも、今の薫は輝いている。周りの男が放って置かないだろう。
 少なくともあの頃は本気で俺の事を好きだった。その好きな人と結ばれるという喜びを与えてやれた事だけでもあいつの芝居に役にたったのかと思う。
 
 今年は少し長い夏休みが取れた。だから何処かに行くつもりだった。場所は何処でも良い。生まれ育った場所に行っても良いし、何処か誰も知らない場所でも良かった。
 来月の頭から10日ほど休めることが決まった。それまでに行く場所を決めておこう。
 そんな事を思っていた時だった。久しぶりにアイツからメールが来た。
『八月一日、午前七時に羽田空港のANAの出発口に旅行用の支度をして来て下さいお話があります』
 と、それだけが書かれていた。
 何だ? 午前七時とはばかに早いな。そうか、ロケにでも行くので、俺に話があるが、こっちには来れないので、ここに来いという訳だと理解した。だが話と は何だろう……俺には思い当たる事はない。アイツの就職だって、正式に取り消した。問題は何も残ってはいない。まあ、当日行けば判ると思い直す。丁度その 日から俺は休暇なのだから……
 それきり、何の連絡も無いので実は忘れていた。思い出したのは前夜にまたメールがあったからだ。
「よっぽど大事な話なのか、メールや電話じゃ駄目な話なんだな」
 携帯を閉じながらそんな独り言が口から出ていた。
 その晩は久しぶりにアイツの夢を見た。夢の中のアイツは女優なんかでは無く女子大生のままだった。どうやら俺の中では、アイツは進歩が無いらしい。

 IMG_1763翌朝、羽田までは電車で行けるので、地下鉄に乗り込む。『旅行の支度』と書いてあったので、話が終わったらキャンセル待ちで何処かに行こうと思い数日分の支度だけはして出て来たのだ。
 約束の時間より随分早く到着したので、場所の確認だけしたらモーニングのコーヒーでも飲みに行くつもりだった。
 未だ、人もまばらな空港のコンコースにかって知った女が、大きめのスーツケースを持って立っていた。
 その姿に近づき声を描ける。
「よお、元気そうだな。何時もテレビで見ているよ。ところで今日は何かな? 話とは何だ?」
 俺の言葉にアイツは少しむくれた顔をして
「約束忘れたんですか? ひどい……」
 その顔は売れっ子になった女優の顔ではなかった。
「約束? 何かしたか、いま、芸能界を騒がしている旬の女優さんと……」
「やっぱり、忘れている……」
 アイツいや薫は真剣な顔になり
「わたしが野沢先生の所へ行く時に期間限定で頑張ってみろって、言ったじゃないですか! だからわたし、期限付きで頑張ったんですよ」
 そうか、そう言えばそんな事も言った気がする。
「まあ、三年経ったけどな……それで、どうしたんだ?」
 俺の質問を待っていたかのように薫は
「わたし、女優辞めたんです。野沢先生にもお許しを貰いました。退団しても良いって……」
 よく許してくれたものだと思う。週刊誌によれば薫と野沢せいこうとは愛人関係にあるとかないとか、書かれていたが……
「それは無いですよ。だって先生、女の子より男の子の方が好きなんですから」
 ほお、そうだったのか、それは知らなかった。週刊誌の記事は偽装か。
「そういう事です。でも最初は引き止められましたが、わたしが強く言って許して貰いました。あの世界は正直わたしには合いません。人の足の引っ張り合い や、陰での中傷なんか、つくづく嫌になりました。この三年、神山さんと一緒にいた頃の楽しさや、安らぎなんて一度もありませんでした。わたし、判ったんで す。わたしにとって喜びとは神山さんと一緒にいる事だって……」
 随分俺も見込まれたものだ。それで、今期では薫の出るドラマが無かったのか……
「神山さん、今日から十日間の休みでしょう。会社に電話したら教えてくれましたよ。だから一緒に南の島に行こうと思って誘い出したんです。行きましょう! チケットも押さえてあります」
 薫はバッグから二枚の航空券を出して見せた。
「さ、チェックインしましょう」
 俺は薫に押されてカウンターに歩き出した。良いだろう、ここに来て俺もジタバタしないつもりだ。三年の間、薫も世間を見て大人になったと思った。今の薫はあの頃よりも遥かに磨かれて綺麗になっている。だけど心のうちがあの頃のままだと判り俺は嬉しくなった。
「芸能マスコミが騒ぎ出すぞ」
 冗談半分で言うと薫は
「それでも良いじゃないですか。わたし達はその頃は南の島で二人だけです。新婚旅行にしましょう。帰ったら籍入れて、荷物をマンションに運びますね」
「おいおい、あそこで暮すのか?」
「そうですよ。これからはサラリーマンの妻ですから」
 そう言って笑った笑顔は、この間の俺の心の空白を埋めるのに充分な価値があると思った。

出会い   了

「出会い」 第9話

「出会い」 第9話

 「やった!」
 薫が小さく叫んだ。いや叫んだというよりも呟いたというべきだろう。
「遂に、神山さんの口から結婚の二文字を出させましたよ」
 爛々と輝いた瞳で俺を見つめて薫はテーブル越しに迫って来る。俺はここに来て、薫の策略にハマッたと思った。
「今まで言ったことは嘘なのか?」
 俺の少し中腹で言った言葉に薫は笑いながら
「嘘じゃないです。本当ですよ、でも正直女優になるより神山さんの奥さんになりたいんです。もっとはっきり言うと、神山さんに抱かれたいです」
 こう言う表現をする所はやはり世代が違うと感じた。別に年貢の納め時などとは思ってもいないが、それを選択するのは薫の可能性を否定してしまわないかと考えた。
「そんなに俺に抱かれたいなら今夜でも構わんよ。だけど、お前自分の可能性を考えたことはないのか?」
 俺の言葉に気色ばみながら俺の隣に席を移して
「神山さん、本当にわたしに女優の才能があると思ってるんですか」
 そう言って俺の膝を抓った。本来膝を抓られるのはもっと色っぽいはずだ。
「才能があるかどうかは俺には判らんよ。俺は野沢せいこうじゃ無い」
「そう平気で我関せず、って顔をするのが憎いんです」
 今度は俺の腕を掴んで自分の胸に持って行く
「わたしの心は何時も神山さんのことばかりです。見せてあげたいです」
 何ともストレートな表現だと思う。今時の中学生でも、もっと色っぽい言葉を選択するだろう。
「お前の気持ちは良く判ってると思う。だがな、その二つを分けて、別々に考えられないのか?」
 俺は正直、俺との事と、野沢せいこうに、女優にならないかと誘われたことが両立して考えられないかと思っていた。
「どうだ、期間限定で自分を試してみれば」
 俺の提案が自分の想像を越えていたのか薫はポカンとした顔をしている。
「期間限定って何ですか?」
 鳩が豆鉄砲食らったというより、水槽に居る金魚がガラスを叩かれて、違う世界があると知ったような感じだった。
「ああ、お前はまず、俺の紹介で就職口が決まった。仕事も自分に合っていると思っている。そこで今「役者座」に行くことになったら、バイトの時は良いが本採用になったら、就職を選択は出来ない。俺の顔に泥を塗る……そう思ってるじゃないのか?」
 恐らく本心ではそうなのだろうと薄っすらと感じていた。
「そうです……それもあります。わたしが本当に役者として開花すれば兎も角、目が出ない方が確立高いじゃないですか。それに、無碍に断ると、文化会館と野 沢先生との関係にも響く気がして……今でも野沢先生は良く使ってくれるんです。だから、その公演の時は切符の売上も凄いんです。それも関係してくると思う と……」
 大体は想像した通りだった。
「なあ、会社のことは俺の裁量でかなりどうにでもなる。卒業までは臨時扱いで卒業と同時に本採用となる手はずだったが、それを変えても良いしな。本採用を一年凍結してもよい」
「神山さん、そんなこと出来るんですか?」
 驚きの表情で俺を見ている
「人事部長は俺の友達だ。それぐらいの無理は効く」
 いきなり薫が抱きついて来た。人目があるだろう……全く……

 2俺も薫も程よく酔っていた。俺は薫を送ってくつもりでタクシーを捕まえようとしていたら
「今夜は神山さんの部屋に行きたいです。結ばれるなら神山さんの寝てるベッドがいいです」
 そうか、もう完全に決めたのか、なら俺にも迷いは無い。今夜そうなることは今日逢うことが決まった時に思っていた……迷いは無かった。
 街を歩きながら腕を絡めて来る。傍から見れば恋人同士に見えるのだろうか、あるいは怪しい関係に見られるだろうか、くだらないことを考えていた。
 俺の部屋は下町と呼ばれる場所にある。薫の柴又よりは都心に近いし電車一本で通える。数年前に親父が住んでいた田舎の家を売った。その金で今のマンショ ンを買ったのだ。お袋はその数年前に癌で亡くなっている。親父は事故が元で今年亡くなった。ツインスパークを運転していて、横から追突されたのだ。事故で 受けた傷は大腿骨骨折だったが、それが元で余病を併発して、結局腎不全で亡くなった。長い闘病生活だった。
 生きているうちに親父が住んでいた田舎の家は処分して、退院したら一緒に住もうとマンションを買ったのだ。だが親父がこの部屋に来る事は無かった。
 ツインスパークは奇跡的にドアを交換しただけで済んだ。この頃の欧州車は結構頑丈だ。国産車とは思想が違う。
 地下鉄に乗りながら薫にそんな事を話した。思えばろくにこいつに自分の事を話して無かったと思った。
 ガラガラの地下鉄で、思い出したように薫に語ると、俺の肩に頭をもたげて来て
「神山さん、ひとりなんだね。でも今日からはわたしが一緒だからね」
 そんな事を言っている。
 地下鉄を降りて、マンションまでの道で、薫は俺の脇腹に腕を回して来た。俺は腕を薫の腰に回す。お前は俺のものだという意思表示だった。今までこんな事をしたことはない。その意志が判ったのだろう。薫はもう何も言わなくなった。

 「ここだ。ここの五階だ」
 マンションの前で薫に言うと目を輝かせて
「良いマンションですね! 流石にわたしのアパートとは違いますね」
 玄関を入り、エントランスを抜けて、エレベータで五階に登る。そこの十一号室が俺の部屋だった。
 鍵を解いてドアを空け、薫を招き入れる
「お邪魔します。わあ、綺麗になってるんですね」
 玄関で靴を脱いで、いそいそと上がって奥のリビングに歩いて行く、その後ろを俺は
黙って付いて行く。
 リビングのソファーに座らせて、タンスからタオルとバスタオル。それに俺のだが使っていないパジャマを出して渡した。
「いま、アイスコーヒーを入れるから飲んだら風呂に入ってたら良い。最もパジャマは必要にならないと思うがな」
 俺の言葉をどのように受け取ったかは判らないが、出したアイスコーヒーを飲むと、パジャマはソファーの上に置き、バスタオルとタオルだけ胸に抱えてバスルームに消えて行った。

「出会い」 第8話

「出会い」 第8話

97799a12c3a736ebb998006783d6e1a1 翌朝、起きて見ると薫の姿は布団の中には無かった。腕時計を見ると針は六時前を指してした。
 何処へ行ったかは想像出来た。顔を洗う代わりに朝から温泉に入るのも悪くないと思い、タオルだけを引っ掛けて、例の露天風呂に降りて行った。案の定人魚のなりそこないが一人泳いでいた。
「思い切って川で泳いだらどうなんだ」
 俺の声に見上げると嬉しそうな顔をした。
「良く寝ていたから起こさないで来ちゃいました」
「かまわんよ。こっちこそ朝からお宝が拝めて有難い」
 冗談で言ったつもりだったが薫は口を尖らせて
「そう言うジョークはもろ中年ですよ」
 そう言って俺の顔にお湯を浴びせた。
「目、覚まして下さい」
 俺が顔を手で拭っているとやっと笑顔に戻った。
「その顔の方がいい」
 そう俺が言ったのを聴いた薫は川と露天風呂を仕切っている石段を登って、川に素裸で飛び込んだ。そして流れに逆らって泳いでいる。その姿はまるで水の妖精の様だった。携帯を持って来て写真を撮っておけば良かったと真剣に思った。薫は決して望まないだろうが……

 帰りの車内でも薫は上機嫌だった。タブレットを出して昨日の野沢せいこうの言った言葉をメモ帳を見ながら入力している。
「文化会館の来月のパンフに載せようと言われているんです」
 そうか、文化会館としても大物野沢せいこうのインタビューとなれば、載せる価値はあるということだと俺は理解した。
 海老名で昼食を取って、午後には帰京した。薫を柴又の部屋まで送って行き自分の部屋に帰った。未だ陽が高かった。
 天城の旅館では手を繋いで寝て、夜半に薫が俺の布団に入って来た。抱きしめて、キスをして薫の髪の毛を撫でているうちに薫の寝息が聞こえたので、そのま ま俺も眠ったのだ。とりあえずキスはした。これはこの次は……という予約みたいなものだ。訊けば薫は何とファーストキスだったらしい。本当かどうか判らな いが、本当なら悪いことをした……そう言ったら少し拗ねていたっけ。
 兎に角、可愛くて仕方がない。段々と俺の気持ちも固まってきつつあった。そんな頃だった。

 薫と伊豆に行ってから次の週末だった。つまり一週間後という訳だ。薫から金曜の昼休みにメールが入った。
「相談したいことがあるので、今日、退社後逢ってくれますか?」
 勿論OKの返事をした。待ち合わせの場所はこの前と同じ居酒屋にした。
 夕日が沈みかけて、街が真っ赤に染まった頃に薫はやって来た。今日は白いパンツ姿だった。足が長いから映えると思った。
「すいません。遅れてしまって」
「構わないよ。それより相談って何だ?」
 そう俺が尋ねると薫は少し言い難くそうに
「うん、中で話すから」
 そう言って、俺の腕を掴んで中に入って行った。

奥の四人がけのテーブルに向かい合いで座る。注文を取りに来た娘に生を二つ頼む。
「で、相談って何なんだ?」
 別に高圧的に訊いた訳ではないが、薫は黙ったままだった。
「どうした? うん、話し難い事なのか?」
 黙って下を向いている薫にもう一度言う。すると、やっと顎を上げて語り出した。
「実は……野沢先生から電話を貰って……インタビューした時、別れ際に私に役者にならないかって言っていたでしょう……」
 確かにそう言っていたが、あれは社交辞令じゃないのか? 少なくとも俺はそう思っていたし、こいつだって気にしてなかったはずだ。
「冗談じゃ無かったの……私に「役者座」で舞台俳優の勉強する気はないかって……」
 「役者座」は入所するだけでも大変な所だ。毎年、幾人かは募集するが、その時は全国から大勢の役者志願の若者が集まる。選考過程も厳しいそうだ。そんな所に野沢せいこう自身から誘われたということは大変な事だ。
「で、どう返事したんだ」
「今まで役者になるなんて考えても無かったので、直ぐには答えられません。って答えたの。そうしたら……」
「そうしたら?」
「では、真剣に考えて下さい。って……一年でも二年でも待ちます……って……どうしよう神山さん……」
 一年でも二年でもって、本気という事じゃないか、これは大変だ。
「とりあえず、大学は卒業しろ。それから「役者座」に入ったとしても、食べる為に仕事をせにゃならん。それは判るな」
 薫は黙って頷いた。
「他に何て言われたんだ。つまり口説き文句さ」
 俺の言い方が可笑しかったのか、薫は少し笑って
「口説かれたなんて……いやだわ……う~んと確か『君は明鏡止水だ。何のわだかまりも邪念もない。見事なものだ。そんな君ならきっと女優として大成する』って……」
 随分大げさなことを言ったものだと思うが、野沢せいこうはマスコミで言われているには、自分から女優を口説いて作品に出演させることは無いということだった。
「お前自身はどうなんだ? すぐには兎も角、将来は女優になってみたいか?」
 俺は極めて冷静に言ったつもりだったが、薫にはそうは映らなかったようだ。
「酷い……本当なら『そんなの止めて直ぐに俺の嫁になれ』って言ってくれると思ってました」
 全く、どうして「俳優座」に誘われた事と俺の嫁になる事が同列になるのだ? そこが俺には判らなかった。
「言って下さい! そうすれば直ぐに断ります!」
 何とも強烈な求婚だ。男冥利につきるかな? それは兎も角、この娘を冷静にしなくてはならない。
「どうなんだ? 女優になってみたいのか、みたく無いのか? どちらなんだ」
 薫は黙って俺の目を見つめていたが、やがて
「一番は、大学卒業したら神山さんと結婚して、共稼ぎで今の仕事を続けていけること。二番目は神山さんと結婚して専業主婦になってカワイイ赤ちゃんを産んで幸せな家庭を作ること。三番目は神山さんと結婚出来なくても恋人関係で今のままの関係が続くこと……それから……」
「もういい! 結局お前の選択肢には女優になることは無いんだな?」
 確認の意味で尋ねると薫は小さく首を立てに振った。次に俺は最終兵器的な事を言ったのだが、これは後々まで響いて来るとは思わなかった。
「あのな、女優になって俺と結婚するという選択肢は考えられんか? それか、期間限定で頑張って見るとか……」
 それを聴いた薫の目が途端に輝きだした。

「出会い」 第7話

「出会い」 第7話

12062636 伊豆の山深く、天城の温泉に俺と薫は居る。
 俺が姿を見せた時に旅館の女将が、意味ありげな表情をしたので、首を左右に振っておいたが、通じたかは判らない。
「わぁ~下に川が流れていて、緑が濃くて素敵な部屋ですねえ~」
 薫は部屋に案内され、仲居さんが部屋を出て行くと、部屋の窓の下を眺めながら嬉しそうな言葉を口にした。
「あれ? 下って河原が露天風呂になっているんですね。いいですねえ。温泉に入りながら横に清流が流れているなんて、まるで人魚になった気分を味わえるかも知れませんね」
 人魚はアンデルセンで、海だろうと返そうとして、俺はとんでもないことに気がついた。そう、下の露天風呂は混浴だったことを……
 こいつのことだ、一緒に入ろうなんて言い出しかねないと思う。別に嫌じゃないが、男としてどうだと言うことだと思う。
 何の事を言ってるのか判らないかも知れないが、つまり、子どもと一緒に風呂に入る訳ではない。薫は痩せて背が高い娘だが、天下の女子大生だ。つまり大人の女だ。そんな存在と一緒に露天風呂に入って俺はどうすればいいんだ?
 薫の女性の部分を無視して扱えば良いのか、あるいは、イヤラシイ中年男丸出しで接すれば良いのか、あるいは……
 恋人でもない、部下でもない、まして赤の他人でも行きずりの愛人でもない。そんな俺達はどうすれば良いのか、答えが出せなかった。
 そんな俺の思惑を無視して薫は
「下の露天風呂に入ってきますね。さっき番頭さんが言っていたのは、あそこの事だったのですね」
「番頭さんが何か言っていたか?」
 俺は考え事をしていて聞き逃したのかも知れなかった。
「ほら、『このあたりの土地は皆旅館の土地だから、露天風呂も安心して下さい』って」
 そういえば言っていた気がするが、俺としては既に確認事項だから耳に入らなかったのだと思う。
「わたし、先に入ってますね。待っていますからね」
 薫はタオルを持ち、いつの間にか浴衣に着替えていた。
「お前、いつ着替えたんだ?」
「あらいやだ。今着替えますから後ろ見ないで下さいって言いましたよ」
 どうやら俺は相当おかしいらしい。そんな言葉も聞こえないなんて……
「じゃ、待ってますから」
 そう言って薫は部屋から出て行った。俺だけが一人広い部屋に残された。

 この旅館には普通の男女の浴場と露天風呂がある。それらは男女別に分けられている。薫が向かったのが、『特別露天風呂』で、旅館の下を流れる清流の脇に石で作られた露天風呂だ。ここだけが混浴となっている。
 一階の旅館の玄関を通り過ぎると突き当りがガラス戸になっていて、そこから先が渡り廊下となっている。そして、そこから階段を降りると脱衣場で、そこから目の前の露天風呂までは裸足で行くのだ。
 俺はこの期に及んでも考えがまとまらなかった。一回り以上も歳が離れている娘にどう接すれば良いのか、一緒に露天風呂に入ってもよいのか……考えているうちに脱衣場まで着いてしまった。
 脱衣場の籠を見るとどうやら薫の他にも人が入っていた。俺はここで、目の前が明るくなる想いだった。
 そうなのだ、特別な事ではない。自然で良いのだと想い直した。自分も浴衣と下着を脱いて露天風呂に向かった。
 細かく敷き詰められた小石の上を歩いて行くと程なく露天風呂に着く。中では薫が幼稚園ぐらいの女の子を連れた三十ぐらいの女性と話をしていた。奥にはその女性の旦那さんとおぼしき男性が二人の様子をニコニコしながら黙って見ていた。
 何事もなく自然だった。変に意識することはない。
「こんにちは」
 以前に挨拶が出た。
「こんにちは~」
 恐らく夫婦なのだろう。揃って挨拶を返してくれた。
「遅かったですねえ~何かありましたか?」
 薫が口を少しばかり尖らせていると、くだんの幼稚園児が笑っている。自分が笑われていることに気がついた薫は恥ずかしそうに笑いながら、露天風呂の奥の川と接してる部分に行った。そして露天風呂と川を隔てている積み上げた石を上半身だけ乗り越えて、手を川に漬けて
「不思議です! こっちは暖かいのに川の方はとても冷たいんです」
 俺の方を向いていたので、薫の様子が見えてしまった。綺麗だと思った。卓球で鍛えた体は筋肉が良く発達していてその上に女性特有の柔らかさが加味されて いた。この前背負った時に感じたが胸も想像以上あると思った。だが不思議とイヤラシイとは思わなかった。景色の一部のように馴染んでいた。
「こっち来て触って見ると面白いですよ」
 薫の誘いに乗って俺もその場所に行く。そして手を伸ばして川の水に触ってみる。確かに冷たい。それも心地よい冷たさだ。
 その水を薫の顔に掛けてやる。文句を言うかと思ったら
「つめたくて気持ち良いです。のぼせそうになったら、川で泳ぐのもありですね。ここは旅館の土地で周りは進入禁止にしてあるそうですから、自由が利きますね」
 確かに、そうやる奴も居るのだ。現に昔俺がやった。その事を薫に言うと
「やっぱり~ 神山さんだったらやると思ってました」
 そんなことを言って笑ってる。
「お先に……」
 夫婦と幼稚園児連れが先に上がって挨拶をして出て行った。残るは二人だけとなった。

「気持ち良いですねえ~、ホント別天地みたい」
 周りを木々に囲まれた清流のほとりの露天風呂に浸かりながら薫は語りだした。
「神山さん、今日は無理言ってすいませんでした。我儘聞いて貰って嬉しかったです。本当はわたし、自分が無理難題を言ってそれを神山さんが叶えてくれる事で、自分が大事にされているということを実感したかったんです」
 薫は俺の方を見ずに清流を眺めながら話を進める
「わたし、最初は自分の気持ちが良く判りませんでした。神山さんに対して、ちょっと父親のような感じを持っていたことは事実です。でも、果たしてそれだけ なのか……自分なりに考えました。そして、それは違うと気が付きました。わたし、男性として神山さんが好きです! 就職のこと無理言って頼んだのも、本当 は神山さんと繋がりを持っていたかったから……そうしたら本当にやりがいのある仕事をくれて、とても嬉しかったと同時に気持ちは揺るぎないものになりまし た。だから、こうやって一緒の露天風呂に入って自分の姿を見て貰うのも恥ずかしくはありませんでした。素のわたしを見て欲しかったんです」
 そこまで言って薫は俺の方に向き直って、湯船から立ち上がった。
「見て下さい、これがわたしです、立花薫です」
 俺の目の前には美しい裸身が立っていた。観賞するには充分過ぎるほど生々しかった。
「判った。座れ、充分に観賞させて貰った。気持ちは嬉しい。本当だ! 俺のような中年男を好きになってくれて、本当に有難いよ。君のような綺麗な娘が俺みたいな男なんて不釣り合いじゃないか、そうだろう……」
「いいえ、そうは思いません。神山さんほど素敵な人は同世代ではいません」
 再び湯船に浸かった薫は今度は俺の目を見つめて言い放った。これは本気の目だ。ならば俺も覚悟を決めよう。

「なあ、俺はお前とひょんなことから出会って、そして今まで付き合いとも言えぬ付き合いをして来た。俺のような中年の男にそう言って貰えて、正直嬉しい よ。これは本当さ、そしてお前のことを可愛く思って来た。可愛くて仕方がない。何でも我儘を聞いてやりたい。でもな、それって女性としてかと問われれば自 分でも正直判らない。今だってお前の綺麗な体を見て心がときめいたよ。だからって、今晩俺はお前を抱いていいのだろうか? お前と自分に嘘をついて抱いて 良いのだろうか? それはお前に対しても偽ることになる。だから、だから少しだけ待ってくれ……お前に恥をかかすようなことはしない……虫の良い話だと思 う。でもお前のことが大事だから嘘はつきたくないんだ」
 俺は思っていたことを一気に口にした。薫は最後まで黙って聞いていたが、恥ずかしそうに
「わたしも抱かれても良い、なんて偉そうに口にしましたけど、わたし男の人知らないんです。高校大学と卓球に明け暮れていて、恋人とか男女交際なんて余裕 なかったんです。まあ、モテなかったんですけどね……だから、色んな、普通だったらこの歳で知ってるような事も知らないんです……おかしいですよね」
 俺からの目線を僅かに外して少し俯いて話す仕草は、恐らく誰の目からも可愛く見えるだろう。
「なあ、なら改めて仕切り直しにしないか? 俺も何時迄も待たせるような事はしないから」
「はい、判りました。わたしのことそれほど思ってくれて嬉しいです」
 そう言って薫は俺に抱きついて来た。その感触が最高だったのは言うまでも無い。

 その晩、川のせせらぎを聴きながら、二つ引かれた布団の中にいた。
「ねえ、手を繋いでくれますか? 今夜だけ……次からは同じ布団ですよね。今夜だけせめて手を繋いで……」
 その言葉にそっと布団から腕を伸ばして差し出す。柔らかい手がそれに絡んで来た。
「わたし、やっぱり間違った人を選びませんでした。間違わなかったです」
 絡んだ指が少しだけ湿った気がした。
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