目標 第3話 焼き方修行
俺は今、盛り付けをやっているが、俺が今しなければならない事は焼き方の練習だ。
最もこれは簡単には出来ない。なんせ魚が相手だし、焼き台も必要だ。
そこで俺達はどのように練習をするかと言うと、コンニャクを使うのだ。
コンニャクを買って来て串打ちの練習をする。
頭と尾が上を向く様に串を打って行くのだが、最初は頭だけが上とか、尾に気をつけていると頭が下を向いたりしてしまう。
何回もやってると出来る様にはなるのだが、コンニャクでは出来ても本物の魚で出来なければ意味は無い。
そこで、飛鳥に言って、たまにはまかないに魚を買わせる。
もちろん安い魚だ。何たってまかないには予算が決められているからだ。
なんでもこれも店の売上として計上しないとならないらしい。
だからきちんと金額が決まっているのだ。
その予算内でまかないを作るのだ。
飛鳥はそう言う時は自分が楽を出来るから大喜びだ。
「今日は、鯵が安かったので買ってきました」
「おう、ごくろうさん」
そう言って魚を見せて貰うと、まあまあだ。
始めはこういう時の魚の選び方なんかも教えたものだ。
せっかくの魚だから処理の仕方を教える。
ぜいごを取って腸を出して、大きければエラも取る。
そう言う下ごしらえをきちんとやらないと、美味しい料理は出来ない。
それにこのようなのは下っ端のうちに覚えるものだからだ。
店の営業が終わると、健さんに言って焼き台を使わせて貰う。
勿論きちんと終わったら綺麗に掃除をする。
魚は頭を左にして盛り付けるので、その状態の裏側から焼き始めるのだ。
裏側は七分通り火を通し、表は焦がさぬ様に三分火入れをするのが基本だが、
あまり表が綺麗すぎると生ぽいので多少はきつね色になるまで焼くのだ。
今日は鯵の塩焼きがまかないのメインのおかずだ。
先輩達に色々と注意を与えられるので、きちんと覚えておく。
後で忘れないうちにノートに書いておくのだ。
後で書くなら、その時書けば良いだろう?
そんなみっともない事は出来やしないし、それぐらい覚えられなくては駄目だと言われてる。
まかないの時ばかりでは無く、店で売れ残ってしまった魚が練習台になることもある。
この時も緊張する。魚が余ったら、刺身になるなら健さんが刺身の練習として使うので、俺の処に来るのは刺身にはならない鮮度の落ちた魚だ。
だから、腸が出てしまっているのもあったりして、身が柔らかいので返って難しいのだ。
大きな魚などは切り身にして照り焼きなんかにするが、この時は平打と言って平行に打っておいて横にも串をさして全体で扇の様になる感じにするのだ。
そして、一気に幾つもの切り身を焼いて行く。
これも身が柔らかいから要注意が必要だ。
なんだかんだ言ってやる事は沢山あるのだ。
昼休みだったが店に残ってコンニャクを相手にしていた時だった。
何時もは7時頃に店に入る真理ちゃんがもう店にやって来た。
俺が居たのでちょっと驚いた様だったが、手をひらひらさせて挨拶すると店長の処へ向かって行った。
そして何やら話をしていて、話がついたのか、真理ちゃんが頭を何回も下げていた。
俺は、もしかして……と思ったが、話が終わると俺の処に来て
「今、時間ある?」
そう言って来たので「今なら休み時間だから大丈夫だよ」
「なら、話があるの……」
「じゃあ、コーヒーでも行こうか」
そう言って俺と真理ちゃんは近くの喫茶店に入った。
コーヒーを前にした真理ちゃんは、初め黙っていたが、俺が
「もしかして店辞めるのかい?」
そう訊くと、コクリと首を上下に動かした。
「あのね、こんどお針子さんでも少し上に行く事になったの。大事な部分をやらせて貰える様になったんだ」
そう嬉しそうに真理ちゃんは言う。めでたい事じゃ無いかと思う俺。
「良かったじゃ無いか、おめでとう! 出世だよ!」
「うん。そうなんだけど、お給料もね、やっと税金払うくらいは出る様になったの。でもその代わり時間が……」
「そうか、それでアルバイト出来なくなったのか」
「うん、だから今週一杯でお店辞めるってさっき店長に言ったの。お店、お給料が良いから辞めたく無かったんだけどね。収入は減っちゃうかも……」
そう言う真里ちゃんは半分嬉しそうで半分は辛そうで……
「若しかしたら、正ちゃん(俺の事です!)とお別れになるかな……なんて……」
「なんでお別れなんだよ。寮の電話番号だって知ってるし、俺の家の番号だって知ってるだろう」
「うん……これからも連絡してもいい?」
「当たり前だろう! 何気にしているんだよ。俺達は職種は違うけど同じ時期に職人の世界に入って、お互いを認めていた間柄だろう?」
そこまで言うと真理ちゃんは明るい顔になり
「そうだよね。わたし……」
その言い方で真理ちゃんが何を思っていたのかが、俺は判った。
俺と飛鳥の事を真理ちゃんは思っていたのだった。
「あいつは後輩だ。そりゃ可愛い後輩かも知れないけど、それだけだよ。心配していたのかい?」
「うん、ちょっと……」
「心配しなくていいよ」
俺はそう真理ちゃんに言ったのだが、これってもしかして真理ちゃんは俺を……
そうか、そう言う事か……
「休みの前には連絡するよ」そう言うと真理ちゃんは
「寮長さんが煩いからわたしからするね」
そう約束をしてしまった。
なんて事だ、一緒に働いている時はなんでも無くて、辞める事になったら付き合う事になったなんて、全くおかしな話だ。
だが、そうなれば、一層真理ちゃんに相応しい男、板前にならなくてはと俺は新たに思うのだった
日常と言うのは意識しようがしまいが淡々と過ぎて行くものだと思い知らされる
俺が盛り付けになってから1年以上が経ってしまった。
その分俺が上達したかと言うと、そんな事は無く相変わらず焼き方の練習をさせて貰っている。
それよりも洗い方の飛鳥が要領がいいので驚いている。
俺の時と比べるとどうなのだろうと考えてしまう。
考えても仕方ない事なんだけどね。
但し後輩には抜かれたくないよね。正直な処……
ウチの店は他に支店と言うのは無いがこの店のオーナーは他にも店を経営していて、
純日本料理のウチと山手線のターミナル駅の駅ビルに新日本料理とも言うべき店を出している。
ウチでは肉料理は余り出さないし、メニューにも載っていない。
月替りの献立に何ヶ月かに一度登場するぐらいだ。
それも煮物に「牛肉のごぼう巻時雨煮」とか言う具合だ。
「すき焼き」や「ステーキ」も出していない。
それに比べて新日本料理の店は豊富に肉料理を出している。
比べると魚関係より多いかも知れないと思う。
どうして、そんな事を知ってるのか? と言うと、忙しくて人数が足らない時にお互いに人を応援させるからだ。
その人員は上の人は派遣出来ないので、俺とか焼き方の健さんが選ばれる事が多い。
飛鳥は洗い方なので論外だ。
向こうの店はウチより新しく、駅ビルに入っている為か店そのものが近代的だ。
入口にも洒落た小さな庭が拵えてあり、そこを入って行くと、右手が調理場になっているが、レジ等がありお客からは見えない。
そのままカウンターに繋がっていて、その右側にテーブル席がある。
更に奥に行くと山水が拵えてありそれを取り囲む様に5~6人の座敷が並んで居る
かなり大きな店で、ワンフロアーの半分は使っていると思われる。
テーブル席は中央が回転して最新の電磁調理器になっていて鍋やステーキが焼ける様になっている。
俺も初めて電磁調理器というモノをみたが、触っても熱くないのだ。勿論鍋は熱くなっているが。
日本料理なのでステーキも箸で食べる趣向なのだ。
中々繁盛しており、俺なんかはウチと客層が余りにも違うので驚いて仕舞った。
ウチなんかは会社で使う人が多いからか中年以上の男の人が多い。
女性でも若い娘は滅多に来ない。
この店は全体的に若い客が多い感じだ。
ウチの店は最も、調理場からはホールの様子は殆んど見えないのだ。
仲居さんが顔をのぞかせる空間しか客席は見えない。
店にカウンターが無い性なのだが、今では正直カウンターも必要だと思う。
テーブル席それも仕切りがあってお互いが判らない様になっている席と個室の座敷で構成されているのだ。
料亭の雰囲気と言うのがウリらしいのだが、正直古くなりつつあると思う……
そこに今日は健さんが応援で行ってしまった。
健さんはちょっと嬉しそうで「じゃあ行って来るからな」と珍しく上機嫌で行ってしまった。
今日の焼き方は、由さんがやるのだが、開店前に俺を呼んで
「正、今日はお前が中心になって焼き方やれ。俺が見ていてやるから、出来る処までやってみろ。いいか」
そう言ってくれた。俺は感激して「有難う御座います! 一生懸命やらさせて戴きます!」
そう言ってしまった。
やるしかない、この日のために練習したんだ。怒られながらも一生懸命にやって来たんだ。
そう思うと身体が緊張するが興奮で燃えて来た。
そんな様子を飛鳥が見て笑っている。
俺は飛鳥に「お前、笑ってるけど、俺が焼き方をやると言う事は、盛り付けお前がやるんだぞ。判ってるのか?」
そう言うと事の次第が飛鳥も判った様で
「そうですか!あたし頑張ります!」
と陽気に叫んでいた。全く物怖じしないヤツなんだな……
実際、開店してみて、自分が思ったより出来ない事が判ったし、また暇な時は出来ても忙しくなって来ると上手く出来なかったりもした。
店が終わり由さんは「初めてにしてはまあやっと合格の60点だな」
そう言って慰めてくれた。
かなり由さんに迷惑を掛けてしまったと思う。
それを謝ると由さんは
「謝るのも大事だが今日の事忘れるなよ。忘れずに練習に繋げれよ。いいか、今日、お前に任したのは俺の責任だ。失敗を恥る事は無い。だがそれを次に必ず繋げる事が大事だ。判ったか!」
「はい、肝に命じました」
「ならいい、片付けて飯くおうぜ」
「はい!」
俺はこの時程、由さんの下で働けた事を喜んだ事は無かった。
それに比べ飛鳥は破綻無くちゃんと俺の代わりを果たした様だ。
盛り付けのセンスも俺より良いかも知れないぐらいだった。
心の中で「くそ!こいつには負けられない」
そう固く思うのだった。
次の日、健さんが店に帰って来た。
何やら上機嫌で嬉しそうだ。
「お前なあ~向こうはさ、仲居さんも若い娘が多くてさ、俺なんか偶にしか見ない顔だから、モテちゃってさぁ~」
上機嫌の理由はこれだった様だ。
そんな事が何回かあった頃の事だ。
その日も健さんは向こうの店に応援に行っていた。
俺と飛鳥はもう慣れて来たもので順調に仕事をこなしていた。
それを見ていた、由さんや板長さん向板の善さんが何かを話していた。
その時は何かは判らなかったのだが、翌日それは判った。
ランチタイムが終わり休憩に入ろうとする時だった。
健さんが俺を呼んで「話があるんだ」そう言うので喫茶店に向かった。
二人で向かいあわせに座りコーヒーをすすっていると
「俺、昨日さあ、向こうの店長と板長さんに、こっちへ移らないかって誘われたんだ」
健さんはどうしてか余り嬉しそうでは無い。
「どうしたんですか? あっちの店は若い娘が多いって喜んでいたじゃ無いですか」
そう言う俺に健さんは
「馬鹿野郎、あれは冗談さ。やっぱさあ料理の修行と言えばウチの店だよな。あっちはさあ、新しい料理が多くてさ、なんか違うんだよな……軽いと言うか……お前なら判るだろう?」
言われて俺にも納得出来た。
そう、店の感じも新しいのだが料理も「新日本料理」なのだ。
正直、あそこで修行してちゃんと一人前になるかは判らなかった。
でも、これは機会でもある。
あの店が繁盛してると言う事は、これからの料理の世界を暗示しているのかも知れない。
少なくとも、肉の扱いはちゃんと覚えられると思う。
俺はそんな事を健さんに言った。
健さんも「そうだな、いい方に考えようじゃ無いか」
そう言って笑顔を見せてくれた。
来週の始めから健さんは店を移る事になった。
自動的に俺が焼き方、飛鳥が盛りつけに昇進する事になった。
皿洗いから丸3年、早いかも知れないが、俺は焼き方になり、やっと板前の端くれに立つ事が出来た。
まだまだ出来ない事の方が多いのは変わらないし、偶然が重なる事が多かったが、俺としてみれば遂に……と言う感じだ……
嬉しくて帰りに真理ちゃんに電話をした。
「おめでとう!遂に焼き方ね!」
電話の向こうでも一緒に喜んでくれた。
そして真理ちゃんも少しデザインや責任ある立場に近づいたそうだ。
お互いを記念して近々逢う約束をした。
若しかしたら今迄の人生で最も嬉しい時が来たのかも知れない。
受話器を握りながら俺は更にやる気を出していた……
俺は今、盛り付けをやっているが、俺が今しなければならない事は焼き方の練習だ。
最もこれは簡単には出来ない。なんせ魚が相手だし、焼き台も必要だ。
そこで俺達はどのように練習をするかと言うと、コンニャクを使うのだ。
コンニャクを買って来て串打ちの練習をする。
頭と尾が上を向く様に串を打って行くのだが、最初は頭だけが上とか、尾に気をつけていると頭が下を向いたりしてしまう。
何回もやってると出来る様にはなるのだが、コンニャクでは出来ても本物の魚で出来なければ意味は無い。
そこで、飛鳥に言って、たまにはまかないに魚を買わせる。
もちろん安い魚だ。何たってまかないには予算が決められているからだ。
なんでもこれも店の売上として計上しないとならないらしい。
だからきちんと金額が決まっているのだ。
その予算内でまかないを作るのだ。
飛鳥はそう言う時は自分が楽を出来るから大喜びだ。
「今日は、鯵が安かったので買ってきました」
「おう、ごくろうさん」
そう言って魚を見せて貰うと、まあまあだ。
始めはこういう時の魚の選び方なんかも教えたものだ。
せっかくの魚だから処理の仕方を教える。
ぜいごを取って腸を出して、大きければエラも取る。
そう言う下ごしらえをきちんとやらないと、美味しい料理は出来ない。
それにこのようなのは下っ端のうちに覚えるものだからだ。
店の営業が終わると、健さんに言って焼き台を使わせて貰う。
勿論きちんと終わったら綺麗に掃除をする。
魚は頭を左にして盛り付けるので、その状態の裏側から焼き始めるのだ。
裏側は七分通り火を通し、表は焦がさぬ様に三分火入れをするのが基本だが、
あまり表が綺麗すぎると生ぽいので多少はきつね色になるまで焼くのだ。
今日は鯵の塩焼きがまかないのメインのおかずだ。
先輩達に色々と注意を与えられるので、きちんと覚えておく。
後で忘れないうちにノートに書いておくのだ。
後で書くなら、その時書けば良いだろう?
そんなみっともない事は出来やしないし、それぐらい覚えられなくては駄目だと言われてる。
まかないの時ばかりでは無く、店で売れ残ってしまった魚が練習台になることもある。
この時も緊張する。魚が余ったら、刺身になるなら健さんが刺身の練習として使うので、俺の処に来るのは刺身にはならない鮮度の落ちた魚だ。
だから、腸が出てしまっているのもあったりして、身が柔らかいので返って難しいのだ。
大きな魚などは切り身にして照り焼きなんかにするが、この時は平打と言って平行に打っておいて横にも串をさして全体で扇の様になる感じにするのだ。
そして、一気に幾つもの切り身を焼いて行く。
これも身が柔らかいから要注意が必要だ。
なんだかんだ言ってやる事は沢山あるのだ。
昼休みだったが店に残ってコンニャクを相手にしていた時だった。
何時もは7時頃に店に入る真理ちゃんがもう店にやって来た。
俺が居たのでちょっと驚いた様だったが、手をひらひらさせて挨拶すると店長の処へ向かって行った。
そして何やら話をしていて、話がついたのか、真理ちゃんが頭を何回も下げていた。
俺は、もしかして……と思ったが、話が終わると俺の処に来て
「今、時間ある?」
そう言って来たので「今なら休み時間だから大丈夫だよ」
「なら、話があるの……」
「じゃあ、コーヒーでも行こうか」
そう言って俺と真理ちゃんは近くの喫茶店に入った。
コーヒーを前にした真理ちゃんは、初め黙っていたが、俺が
「もしかして店辞めるのかい?」
そう訊くと、コクリと首を上下に動かした。
「あのね、こんどお針子さんでも少し上に行く事になったの。大事な部分をやらせて貰える様になったんだ」
そう嬉しそうに真理ちゃんは言う。めでたい事じゃ無いかと思う俺。
「良かったじゃ無いか、おめでとう! 出世だよ!」
「うん。そうなんだけど、お給料もね、やっと税金払うくらいは出る様になったの。でもその代わり時間が……」
「そうか、それでアルバイト出来なくなったのか」
「うん、だから今週一杯でお店辞めるってさっき店長に言ったの。お店、お給料が良いから辞めたく無かったんだけどね。収入は減っちゃうかも……」
そう言う真里ちゃんは半分嬉しそうで半分は辛そうで……
「若しかしたら、正ちゃん(俺の事です!)とお別れになるかな……なんて……」
「なんでお別れなんだよ。寮の電話番号だって知ってるし、俺の家の番号だって知ってるだろう」
「うん……これからも連絡してもいい?」
「当たり前だろう! 何気にしているんだよ。俺達は職種は違うけど同じ時期に職人の世界に入って、お互いを認めていた間柄だろう?」
そこまで言うと真理ちゃんは明るい顔になり
「そうだよね。わたし……」
その言い方で真理ちゃんが何を思っていたのかが、俺は判った。
俺と飛鳥の事を真理ちゃんは思っていたのだった。
「あいつは後輩だ。そりゃ可愛い後輩かも知れないけど、それだけだよ。心配していたのかい?」
「うん、ちょっと……」
「心配しなくていいよ」
俺はそう真理ちゃんに言ったのだが、これってもしかして真理ちゃんは俺を……
そうか、そう言う事か……
「休みの前には連絡するよ」そう言うと真理ちゃんは
「寮長さんが煩いからわたしからするね」
そう約束をしてしまった。
なんて事だ、一緒に働いている時はなんでも無くて、辞める事になったら付き合う事になったなんて、全くおかしな話だ。
だが、そうなれば、一層真理ちゃんに相応しい男、板前にならなくてはと俺は新たに思うのだった
日常と言うのは意識しようがしまいが淡々と過ぎて行くものだと思い知らされる
俺が盛り付けになってから1年以上が経ってしまった。
その分俺が上達したかと言うと、そんな事は無く相変わらず焼き方の練習をさせて貰っている。
それよりも洗い方の飛鳥が要領がいいので驚いている。
俺の時と比べるとどうなのだろうと考えてしまう。
考えても仕方ない事なんだけどね。
但し後輩には抜かれたくないよね。正直な処……
ウチの店は他に支店と言うのは無いがこの店のオーナーは他にも店を経営していて、
純日本料理のウチと山手線のターミナル駅の駅ビルに新日本料理とも言うべき店を出している。
ウチでは肉料理は余り出さないし、メニューにも載っていない。
月替りの献立に何ヶ月かに一度登場するぐらいだ。
それも煮物に「牛肉のごぼう巻時雨煮」とか言う具合だ。
「すき焼き」や「ステーキ」も出していない。
それに比べて新日本料理の店は豊富に肉料理を出している。
比べると魚関係より多いかも知れないと思う。
どうして、そんな事を知ってるのか? と言うと、忙しくて人数が足らない時にお互いに人を応援させるからだ。
その人員は上の人は派遣出来ないので、俺とか焼き方の健さんが選ばれる事が多い。
飛鳥は洗い方なので論外だ。
向こうの店はウチより新しく、駅ビルに入っている為か店そのものが近代的だ。
入口にも洒落た小さな庭が拵えてあり、そこを入って行くと、右手が調理場になっているが、レジ等がありお客からは見えない。
そのままカウンターに繋がっていて、その右側にテーブル席がある。
更に奥に行くと山水が拵えてありそれを取り囲む様に5~6人の座敷が並んで居る
かなり大きな店で、ワンフロアーの半分は使っていると思われる。
テーブル席は中央が回転して最新の電磁調理器になっていて鍋やステーキが焼ける様になっている。
俺も初めて電磁調理器というモノをみたが、触っても熱くないのだ。勿論鍋は熱くなっているが。
日本料理なのでステーキも箸で食べる趣向なのだ。
中々繁盛しており、俺なんかはウチと客層が余りにも違うので驚いて仕舞った。
ウチなんかは会社で使う人が多いからか中年以上の男の人が多い。
女性でも若い娘は滅多に来ない。
この店は全体的に若い客が多い感じだ。
ウチの店は最も、調理場からはホールの様子は殆んど見えないのだ。
仲居さんが顔をのぞかせる空間しか客席は見えない。
店にカウンターが無い性なのだが、今では正直カウンターも必要だと思う。
テーブル席それも仕切りがあってお互いが判らない様になっている席と個室の座敷で構成されているのだ。
料亭の雰囲気と言うのがウリらしいのだが、正直古くなりつつあると思う……
そこに今日は健さんが応援で行ってしまった。
健さんはちょっと嬉しそうで「じゃあ行って来るからな」と珍しく上機嫌で行ってしまった。
今日の焼き方は、由さんがやるのだが、開店前に俺を呼んで
「正、今日はお前が中心になって焼き方やれ。俺が見ていてやるから、出来る処までやってみろ。いいか」
そう言ってくれた。俺は感激して「有難う御座います! 一生懸命やらさせて戴きます!」
そう言ってしまった。
やるしかない、この日のために練習したんだ。怒られながらも一生懸命にやって来たんだ。
そう思うと身体が緊張するが興奮で燃えて来た。
そんな様子を飛鳥が見て笑っている。
俺は飛鳥に「お前、笑ってるけど、俺が焼き方をやると言う事は、盛り付けお前がやるんだぞ。判ってるのか?」
そう言うと事の次第が飛鳥も判った様で
「そうですか!あたし頑張ります!」
と陽気に叫んでいた。全く物怖じしないヤツなんだな……
実際、開店してみて、自分が思ったより出来ない事が判ったし、また暇な時は出来ても忙しくなって来ると上手く出来なかったりもした。
店が終わり由さんは「初めてにしてはまあやっと合格の60点だな」
そう言って慰めてくれた。
かなり由さんに迷惑を掛けてしまったと思う。
それを謝ると由さんは
「謝るのも大事だが今日の事忘れるなよ。忘れずに練習に繋げれよ。いいか、今日、お前に任したのは俺の責任だ。失敗を恥る事は無い。だがそれを次に必ず繋げる事が大事だ。判ったか!」
「はい、肝に命じました」
「ならいい、片付けて飯くおうぜ」
「はい!」
俺はこの時程、由さんの下で働けた事を喜んだ事は無かった。
それに比べ飛鳥は破綻無くちゃんと俺の代わりを果たした様だ。
盛り付けのセンスも俺より良いかも知れないぐらいだった。
心の中で「くそ!こいつには負けられない」
そう固く思うのだった。
次の日、健さんが店に帰って来た。
何やら上機嫌で嬉しそうだ。
「お前なあ~向こうはさ、仲居さんも若い娘が多くてさ、俺なんか偶にしか見ない顔だから、モテちゃってさぁ~」
上機嫌の理由はこれだった様だ。
そんな事が何回かあった頃の事だ。
その日も健さんは向こうの店に応援に行っていた。
俺と飛鳥はもう慣れて来たもので順調に仕事をこなしていた。
それを見ていた、由さんや板長さん向板の善さんが何かを話していた。
その時は何かは判らなかったのだが、翌日それは判った。
ランチタイムが終わり休憩に入ろうとする時だった。
健さんが俺を呼んで「話があるんだ」そう言うので喫茶店に向かった。
二人で向かいあわせに座りコーヒーをすすっていると
「俺、昨日さあ、向こうの店長と板長さんに、こっちへ移らないかって誘われたんだ」
健さんはどうしてか余り嬉しそうでは無い。
「どうしたんですか? あっちの店は若い娘が多いって喜んでいたじゃ無いですか」
そう言う俺に健さんは
「馬鹿野郎、あれは冗談さ。やっぱさあ料理の修行と言えばウチの店だよな。あっちはさあ、新しい料理が多くてさ、なんか違うんだよな……軽いと言うか……お前なら判るだろう?」
言われて俺にも納得出来た。
そう、店の感じも新しいのだが料理も「新日本料理」なのだ。
正直、あそこで修行してちゃんと一人前になるかは判らなかった。
でも、これは機会でもある。
あの店が繁盛してると言う事は、これからの料理の世界を暗示しているのかも知れない。
少なくとも、肉の扱いはちゃんと覚えられると思う。
俺はそんな事を健さんに言った。
健さんも「そうだな、いい方に考えようじゃ無いか」
そう言って笑顔を見せてくれた。
来週の始めから健さんは店を移る事になった。
自動的に俺が焼き方、飛鳥が盛りつけに昇進する事になった。
皿洗いから丸3年、早いかも知れないが、俺は焼き方になり、やっと板前の端くれに立つ事が出来た。
まだまだ出来ない事の方が多いのは変わらないし、偶然が重なる事が多かったが、俺としてみれば遂に……と言う感じだ……
嬉しくて帰りに真理ちゃんに電話をした。
「おめでとう!遂に焼き方ね!」
電話の向こうでも一緒に喜んでくれた。
そして真理ちゃんも少しデザインや責任ある立場に近づいたそうだ。
お互いを記念して近々逢う約束をした。
若しかしたら今迄の人生で最も嬉しい時が来たのかも知れない。
受話器を握りながら俺は更にやる気を出していた……