2014年07月

目標 第8話 「大切なもの」

目標 第8話 「大切なもの」

家に帰ったらもう日付が変わってしまっていた。
暗くなった裏口から家の中に入ると奥で明かりが点いていた。
「おかえり」
お袋の眠たそうな声が迎えてくれる。
「ただいま、風呂入れるかな?」
「今日は沸かしたから入れるよ」
「じゃすぐ入るわ」
そう言って自分の部屋からタオルを出して風呂場に入ろうとしたら、店と居間の境にある電話が鳴った。
「俺出るから」
そうお袋に言って受話器をあげると真理ちゃんだった。
「遅くに御免なさい……もう帰ってるかなと思って……」
「いま、さっき帰って来たんだ。ナイスタイミングだよ」
電話の向こうの真理ちゃんの声がちょっと緊張している。

「あのね、私今まで飛鳥ちゃんと電話していたの。飛鳥ちゃん、私に『正先輩、ちょっとだけ借りちゃいました』って言ってたの」
なんだ、飛鳥の奴、真理ちゃんに報告していたのか……全く油断がならないな
俺はそう思ったが口には出さず
「うん、店が終わってから飛鳥がな……」
「聴いたよ。みんな飛鳥ちゃん話してくれたよ」
「全部? ……聴いたの?」
「うん、みんなだよ……大丈夫、私別になんとも思っていないから」
「いや、でも……」
真理ちゃんは戸惑ってる俺に
「あのね、正さんは自分では思わないかも知れないけれど、正さんは女の子が甘えたくなる人なの」
そんな事は初めて聞いたぞ。今まで女の子に甘えられた事なんか無いぞ……
「そんな事今までなかったよ」
「忘れちゃった? 私があの人に捨てられた時、私自分でも判らないけど、正さんの顔が見たくなったの。そして見たら抱きしめて貰いたかった……あの日……」
そうか、俺は思い出した。あの日も真理ちゃんは遅くなった調理場の隅に立っていたんだ。

更に真里ちゃんは
「あの日、抱きしめて貰って、私心の整理がついたの。そして正さんによって生まれ変わった気がしたんだ。だから貴方は私の全てなの……」
なんかドサクサに紛れてとんでも無い事を言った気もするが、真理ちゃんがそう思うなら俺がなんか言う問題じゃ無いよね?
「だからね。飛鳥ちゃんもきっと心の整理がついたと思うの。私は最近のことは知らないけれど、きっと飛鳥ちゃん正さんに精神的に甘えて仕事していたと思うの。なんて言うのかな、心の拠り所とも言った方が良いかも知れないけどね」
確かに仕事をしている飛鳥はやたら俺に五月蝿かった気がした。
「良く判るね」
そう俺が言うと真理ちゃんは
「判るわよ……だって何時も正さんのこと考えているから、何時も想っているから……」
判ってはいたが、そう口に出して言われると、心に響く。
「俺も何時も想ってる……でも飛鳥を抱き締めてしまった……ごめん……」
「大丈夫! それぐらい器の大きな人にならなくちゃ!」
「うん……そうだね。ところで、今度の休みはいつ?」
俺は真理ちゃんに訊くと、真理ちゃんは俺と同じ休みの日を口にした。
「じゃあ、逢えるかな? 」
「うん、大丈夫よ。私がそっちの家に行っても良い?」
「ああ、いいけど……」
「実は相談したい事もあるんだ。だから……」:
「じゃ、待ってる」
そう言ってお休みの言葉を口にして受話器を置いた。
風呂は結局シャワーで済ませてしまった。
布団に入って色々と考えているうちに寝てしまった。

次の日から店には皿洗いにバイトの子が入って人数だけは同じになったが、内容は違っていた。
圭吾が盛り付けになったのだが、いかんせん全くの素人だっただけに、未だ色々な処が出来ていない。
当然その出来ない処は俺が手伝う。そうすると焼き方が間に合わない事がたまにだが起こる事がある。
その時は由さんがカバーしてくれるが、その時に煮方の……と言う具合だ。
俺は、結局圭吾をしごくしか無いのだった。

次の休みの日、真理ちゃんが俺の家にやって来た。
「早かったかな?」
そう言うので時計を見ると未だ11時だった。
夜の襲い仕事の俺らには朝の11時は普通の人の7時ぐらいに感じる。
「いや、早くから逢えて嬉しいよ」
そう偽りの無い事を言う。
真理ちゃんはお袋に挨拶し、おみやげを渡した。
「いつもすいませんねえ」とお袋は言っていあたが、そんなに「いつも」と言う程来ているのだろうか? 謎だ!

俺の部屋に入って貰い、コーヒーを沸かして持って行く。
「ありがとう! ほんとに御免ね。今日になったら、どうしても待てなくて」
真理ちゃんは俺の隣に座って上目づかいで俺を見る。
そんな顔をされたら、俺もいい顔をしなければならない。
俺は真理ちゃんをそっと抱きしめて口づけをする。
今までは軽い唇と唇だけの口づけだったが、今日は初めて俺は真里ちゃんの口に自の舌を入れて、真理ちゃんの舌と絡ませる。
真理ちゃんも最初はょっと驚いた様だったが、すぐに反応してくれた。
お互いがお互いの口と舌を吸い合い、俺達は取り敢えず一つになった。
真理ちゃんの目に涙が浮かんでる
「嬉しい……」
それ以上は言葉にならない様だ。
俺はもう一度しっかりと真理ちゃんの体を抱き締める。
小柄で、簡単に持ち上げられそうな体、でもその小柄な体にそぐわない大きな胸が俺の胸を圧迫する。
「お願い!もう少しこのままにしておいて……」
「ああ、いいよ……」
俺はそのまま暫く真理ちゃんを抱きしめていた。

暫くして、真理ちゃんは
「やはり甘えたくなる正さんね……」
そう言って頬を染めながらはにかむ様に笑う。
やがて、俺の胸に抱かれながら
「私ねもうすぐ寮を出ないとならなくなるの」
「え!」
それは俺の人生に於いて新しい局面へ誘う言葉だった。
それは後ほど……

 お昼には未だ若干の間がある初春の日曜日
真里ちゃんは俺の腕の中にいた。
「正さん、私、いいよ。正さんが望むなら何時でも……」
違う、俺はなんて事を真理ちゃんに言わせてるんだ。
そうじゃない、そうじゃ無いんだ……
俺は更に強く抱き締めて
「ありがとう……でも、それは今じゃ無いんだ。俺は、今の俺には真里ちゃんを完全に自分のものにする資格は未だ無いと思ってる。そうなる為には自分の中で乗り越え無ければならないんだ」
そう俺は上手く言えなかったが真理ちゃんに説明した。
「いつか、言っていた一人前になるって事? 私、そんなに待てないよ」
「いや違う、もう少しなんだ、もう少しでそれが見えて来るんだ。だからもう少し……」
そう俺が言うと真理ちゃんは、優しい笑顔を俺に向けて
「判った、その時まで私待つわ……でも、今日からは私だけの正さんでいてね」
そう言って俺に唇を重ねて来て、積極的に行動をして来た。
俺は黙ってそれを受け止めて抱き締める。小柄な体が俺に包まれた。
「わたしだけのまささん……」
腕の中でそう言ったのを感じる。
「ああ、そうだ。今日からは真理ちゃんだけだよ」
「うん」

……どのくらい、そのままでいただろうか?
「そう言えば、さっき、寮に居られなくなるとか……」
俺はさっき真理ちゃんが言った事を思い出していた。
「どういう事?」
俺の問に真理ちゃんは説明をしてくれた。
「あのね、私の入っている寮なんだけれど、今は定員一杯なのね。そうすると新人の子が入ると古い子から寮を出なくちゃならないのね」
「そうか、新人さんは給料が安いから寮に入らないと生活出来ないからか」
「うん、そうなの。寮は数千円で2食と6畳の部屋がついてくるから楽なんだ。お昼は工房の子が皆で持ち寄って交代で自炊するから、幾らも掛からないのね。 それでね、私古い方から数えて3番目なんだけど、今度の春二人入って来るの、もし後一人増えたら私出なくちゃならないの」
真理ちゃんは自分の置かれてる状況を簡単に説明してくれた。
「そうか、そう言う事か」
俺にはそれしか言えなかった。
「部屋借りると苦しいの?」
俺の端的な問に真理ちゃんは短く
「うん、たぶんやって行けない……」
そう言って俺の胸に頬をくっつける。
背中を優しく撫でる俺……

どうすれば良いんだ?
真理ちゃんが住めて生活出来る位の安いアパートなんかあるのか?
「やっぱり工房から余り離れたら駄目だよね」
「うん、交通費掛かってしまうから、出来たら歩きかせめて自転車で通える所……」
店と工房は割合近くにあって、寮は工房の傍で、俺の家は店からそう離れてはいない……
それって、ウチか?
確かに部屋はひとつ開いてるが、しかし、それは不味いだろう。
なら俺が家を出て真理ちゃんと暮す……未だ早い!
どうすりゃいい?
「でも、3人目が入らなければ、出なくても良いから」
「でも、来年は確実と言う事か……」
「うん、出るとなったら、多少お給料上がるけどね」
俺はその額を真理ちゃんに聞いてみて、俺より余りにも少ないので愕然とした。
ファッションの世界って、若い娘の犠牲の上に成り立っているのか……そうその時は感じたのだ。
俺達の料理の世界でも、京都などには無給とか、小遣い程度しかくれない所は山ほどある。
まあ、店の格が違うから一概には言えないが、ウチの店のオーナーはそう言うのに反発するタイプだという。
だから、小僧にも安いがちゃんと給料が出るし、ボーナスもひと月分だが一応出してくれる。
料理の世界にはこちらから月謝を払ってでも使って欲しいと言う店が沢山あるのも事実で、それは未だに続いている。

結局、その場は何も言えずに、俺達は映画を見に行って、お昼を食べて、喫茶店で話して、
そして、夕方になった。
その間に何回もキスをして、抱き締め合った。
そして寮の門限より少し前に送って行った。
次の休みも逢う約束をして別れた。
真理ちゃんは寮の前で俺の姿が見えなくなるまで、見送ってくれた。

店にはこの春は調理師学校からは入って来なかったので、バイト君と圭吾は結構忙しい。
さすがの圭吾も何ヶ月かしたら様になって来た。
俺は圭吾に「何とかなるようになって来たな」そう言って褒めた。
その時の圭吾の喜び様はな無かった。
真理ちゃんは結果だけ言えば、この春は寮を出なくても良かった。
だが来年は確実と言う事だ。最古参になってしまったのだから。

そんな時に煮方の由さんが秋に結婚する事になった。
相手は2歳年上の人で、昔由さんが働いていた店で仲居さんをやっていた人だという。
そんな時由さんが俺を飲みに誘ってくれた。
何時もの居酒屋に落ち着くとそれぞれ好きなものを頼む。
ちびちび飲んでいると由さんは
「正、お前最近なんか悩んでいるだろう?」
そう言われてしまった。
「判りますか?」
俺は正直に答えてた。すると由さんは
「女の事だろう、真里ちゃんか?」
バレていた! 由さんの口ぶりだと皆判っているのかも知れない。
「知ってましたか……」
俺が恐縮して言うと由さんは
「あてずっぽうだよ。お前が悩むのはそれしか無いだろう!」
俺の性格まで判っている。
「参考になるか判らんが俺達の事を話してやるよ」
そう言って由さんは自分と今度結婚する奥さんになる人との事を話してくれた。

「あいつと出会ったのは、俺が最初の店に入った時だった。その時ホールで仲居をしていたよ。
最初は全く知らなかったけど、ある日俺が仕事でドジを踏んで皆に迷惑を掛けて、親方にこっぴどく叱られて、しょげかえっていた時にさ、店から帰ろうとした ら、あいつが店に忘れ物をしたとかで、戻ってきたんだ。それで、俺がしょげてるんで「どうしたの?」って聞いて来て、それが最初だった」
「その後は、どうしたんですか?」
そう俺が訊くと由さんはチューハイをチビリチビリ飲みながら
「それからは、普通のやつらと同じだが、店は変えたよ。それがけじめだからな。
俺も来年は29だ。アイツは今年30になっちまった。アイツの20代は俺が食っちまったからな、
責任取らないとな……俺にはそれぐらいしか出来ないし、今更他の奴じゃ嫌だしな」
「部屋なんかもう決めたのですか?」
そう聞く俺に由さんはちょっと嬉しそうに
「この春から一緒に住んでるんだ。二人暮らしはいいぞ」

そのノロケの言葉をおみやげに貰って俺は家に帰る道についた。
この前はまだ寒かったのに、何時の間にか汗ばむ様になっていた。
今度の春までに俺は答えを出さないとならない……
少し飲み足りない……
俺は家の傍の自動販売機でビールのロング缶を買って家に向かった。
俺が煮方になるには未だ2~3年はかかる。
それまでは結婚なんて出来ないし……するべきでもない。
缶ビールの口を開けて、ビールを喉に流し込む。
今夜のロング缶はやたら苦かった。
取り敢えず、春までに考えよう。
そう思い直して家路を急ぐ。
初夏だと言うのにやたら星のきれいな晩だった。

目標 第7話 「別れ」

目標 第7話 「別れ」

 2月になると俺たちの仕事も普段通りになる。
1月の末の休みには真理ちゃんとデートをして一日中楽しんだ。
真里ちゃんは仕事の事で色々と悩んでいて「自分にはデザインの才能が無いかも知れない」とこぼしていた。
俺は「そんな事無いよ。気にし過ぎだよ」
と慰めたのだが、恋人が不安な時にはやはり傍にに居て励ましてやりたいとつくづく思った。
そんな時真理ちゃんは俺の胸の中でひとしきり泣いて甘えてくる。
俺はそんな真理ちゃんを愛しいと思うのだ。

まあ、のろけはこれぐらいにして、俺たちの世界ではこの2月は新年会が開かれる。
今年は、俺が入って始めてだと思うが、「新日本料理」の店と合同で行う事になった。
会場は、「新日本料理」の店のビルにあるビヤレストランだ。
日時だが向こうは駅のターミナルに入っているので土日は忙しいので向こうの休みの水曜の昼になった。
昼に新年会とは以外と思うが店の営業が終わってからだとほとんど出来る店等無いのでこうなるのだ。
その日はウチの店もランチタイムはお休みになる。
店長が渋い顔をしていたのもうなずける。
去年まではランチタイムの無い土曜にやっていたからね。

その日は両方の店の職員全員。アルバイトも参加出来る人は参加する様にと言われていて出席が義務付けられている。
俺は少し早めに行ったら健さんがスーツを着て店の中に立っていた。この時間は貸し切りになっているので関係ない人物は居ない。
「おう!暫くぶりだな。どうだい焼き方は?」
そう言って声を掛けてくれた。
「健さんも凄いそうじゃ無いですか!ステーキをかっこ良く焼いて切ってるんですって?」
「まあ、慣れだよあんなのはな」
噂話を咲かせていると、やがて飛鳥もやってきた。
飛鳥は今でもたまに手伝いに行くので、向こうの人とも顔なじみだ。にぎやかに話をしている。

やがて皆揃うとオーナーの挨拶が始まる。
俺はこの時始めてオーナーと言う人を見た。
飛鳥も同じだという。
隣の由さんに聞くと、何でも3年に1回ぐらいはこうして合同で新年会を行うのだそうだ。
由さんも2回目だそうだ。
去年までは店の傍のフレンチレストランで土曜の昼にやっていた。
そう、俺たち日本料理の料理人の世界ではこうしたプライベートな事では洋食とかフランス料理が出てきたりする。
日本料理だと色々とお互い判ってしまうからね。

料理はスープから始まってサラダ、メインの肉料理と続いて行く。
この時出されるのはもちろんパンだ。
ワインがたらふく用意されてるが皆あまり飲まない。
だが店が休みの向こうの連中はかなり飲んでる様だ。
俺は「これはハンデがあるじゃないか」と思わずにはおられなかった。
アイスクリームが出たのだが、甘いのが苦手な由さんは飛鳥にそれを譲った。勿論彼女がそれを喜んで食べたのは言う間でもない。

最後にコーヒーが出て終わりだ。
まあ、昼だからこんなものなのだろう。
後で聞いたが善さんが言うには、その昔は立食で行ったら評判が悪かったので、この様になったのだという。
俺は土曜が良かったと思わずにいられなかった。

終わるとホールの人もバイトの子も皆店に向かう。
歩いても1キロぐらいだから、酔い冷ましにゾロゾロと歩くのだ。
その中で由さんが
「飛鳥だけどな、もしかしたら向こうに好きな奴でも居るんじゃないか?なんかやたら嬉しそうに話していたな」
そう俺に言う。なんで俺?
「そうですか、、まんべんなく話していた感じでしたが」
「いいや、あれは居るな、完全に……うん」
まあ、由さんの個人的感情は俺にはどうでも良いが、そういえば今日は飛鳥とろくに口を利いていないと思う。
オーナーの事を訊いただけだったと思う。
まあいいけど……

店に帰ると何時もと同じ夜の営業の仕込みが始まる。
なんか変な感じだ。
最初から全員揃ってるなんて本当に変だ。
ホールの娘達は掃除や来客のセットを終えてしまうと暇になるので調理場に入って来て「何か手伝おうか?」と言う一見親切な感じの邪魔をしにくる。
「いいよお茶でも飲んでれば」
俺はそう言うのだが、何人かはおれの傍にくっついて仕事ぶりを見て「やっぱり大したものねえ」なんて言う始末だ。ホント困る。

それでも営業が始まれば何時もの店になっていく。
その日もまだ個人的なグループで新年を祝おうとするお客が来て結構忙しかった。
店が終わり帰ろうとすると飛鳥が俺の所にやって来て
「今日、これから時間ありますか? できれば相談したい事があるのですか……」
そう言ってきた。俺は「これは由さんが言っていた通りの恋愛の相談か?」と思い
「ああ、いいぞ。大丈夫だ。おまえは遅くなってもいいのか?」
そう訊くと飛鳥は「大丈夫ですよ。だから私の方から訊いたのですよ。正先輩ってそう言う処には気が回るんですね」そう言って笑っていた。
悪かったな……でもそういう処って何だ?
俺の小さな疑問を置いて、俺は飛鳥の相談を受ける事になったのだ。

俺と飛鳥は明け方までやっている居酒屋にいた。
飲みたかった訳じゃ無いがこの辺ではこの時間まで営業している喫茶店など無いし、
まさか「同伴喫茶」なんか入る訳にもいかない。

口の付けないビヤタンが二人の前に並んでる。
さっきから飛鳥は黙ったままだった。
「なあ、相談って何だ?」
俺は黙ったままの飛鳥に訊くのだった。
すると飛鳥はやっと口を開き始めた。

「今日、私みんなより先に呼び出されていたんです。店長に」
「そうなのか、何か話があって呼びだされたんだな」
「はい、隣の喫茶店を指定されました。それで行って見たら、ウチの店長と向こうの店長、それにオーナーがいて、3人に囲む様に座らされて……」
「何言われたんだ?」
「はい、まずウチの店長から『飛鳥くん君を向こうの店が是非欲しいと言って来てね。ウチとしては大切な人材だから困る、と言ったんだが、どうしても君にステーキを焼いて欲しいそうなんだ』って言われました」
それから飛鳥の言う事を要約すると……

ウチの店長の後を受けて向こうの店長が、「いや、飛鳥くんは良く手伝いに来て貰っていて前から思っていたんだけど、立ち姿が綺麗だから、お客さんの前でステーキを焼かせたら映えると思ってね。第一華があるから若しかしたらウチの看板になると思うんだ」
そう云われたのだと言う。
大したものだと思う。
確かにこいつは姿勢が良い。何時か訊いた事があったが、何でも家が合気道の道場を開いていて、自身も幼い頃から習っていて2段だそうだ。
それに華があると言うのも確かだと思う。
高校や調理師学校時代はモテまくったそうだ。
だが自分は日本料理に憧れていたので髪を切ってこの道に入ったのだと聞かされてる。
その後、オーナーも、移籍してくれたら給料のアップを約束してくれたそうだ。

俺は飛鳥の全ての話を聴いて、こう訊いた。
「それで、何を迷っているんだ?」
飛鳥は俺の顔をじっと見つめていたが、思い切った様に
「先輩は今、焼き方やってますよね。お客さんの評判も良いし、だからこのままウチの店にいても、焼き方には先輩が居なくならないとなれない、と言われて……」
飛鳥は辛そうな顔をして下を向いている。
「行くのが嫌なのか?」
俺の問に飛鳥は、顔をあげて
「私、先輩の事が好きです。男性としてでは無く、料理人として先輩として、大好きなんです。
だから、何時までも先輩の下で働きたいと思っていました。そんな事って無理だと判っていたんですが、若しかしたらずっとこのままで居られるかもって思ってたんです……」
飛鳥の目は真剣だった。
俺はどう答えれば良いか、考えていた。そこで、年末に親方から言われたこ事を話した。
「ええ!先輩でも店を移る事も考えておけって言われたのですか……」
「すぐじゃ無いけれどな」
俺はぬるくなったビールを腹に入れてこの先どう言おうか考えていた。
どうすれば、飛鳥を傷付けずに済むかを…・・

不意に飛鳥が語りだした。俺はそれを黙って聴いてやる。
「私、先輩が私に教えてくれた様に、圭吾にも教えていた積りでしたが、ある時圭吾に言われました。飛鳥さんは教え方がキツイって……訊いたら私がいない時 に先輩が圭吾に色々と教えてくれたそうですが、その時は『キツイけど丁寧で親身だった』って、それで私とは違うって、言われて、私先輩は実は凄い人だった と思ったんです」
そこ迄言って喉が渇いたのか、飛鳥もビールを口にする。
「それからは、必死で先輩の仕事を盗んで見ていました」
「俺はそんな板前じゃ無いぞ。未だ半人前でだらしなくて……」
そう言うと飛鳥はムキになって
「でも柴崎さんに認められました。それだけでも凄いって、みんな言っています」
「柴崎さんとはたまたまウマが合っただけだ」
「先輩、先輩の集中力は凄いと思います。私には真似出来ません。でも先輩にも弱点があって、真理さんの事を忘れちゃうんですよね」
飛鳥は何だか違う方向へ話を持って行った。
「何だ? 真理ちゃんがどうした?」
そう言った俺の顔は見ものだっらしい。
「真理さんは、じっと先輩からの電話を待っていたんですよ。私、余りにも可哀想だから、言わなくても良いよ。と言われていたんですが、あの時言いました」
「ああ、あれか、あれはありがとうな」
今年の正月の事だと俺は思った。

飛鳥の言いたい事は大体判ったので、俺は飛鳥に言わなければならない事を告げた。
「なあ、俺もお前がそこでステーキを焼けば評判になると思うぞ。首に紅いネッカチーフかタイをすれば映えるからな。だけどそれよりも地道な料理の修行がし たい。料理人だったら誰でも思うよ、それは……だけど、料理の技術的な事は自分で練習すれば良い。大事なのは料理のセンスを磨く事だと俺は思う。だから今 日の新年会の料理だって、何か得るものは無いかと俺は思いながら食べていたよ。お前はどうしてた?」
そう俺が言うと飛鳥は
「……そうか、そう言う事だったんですね。場所じゃ無く人じゃ無く、自分の心構えが大事だと言う事なんですね……」
「そう言う事さ。俺も自信は無いが、俺はそういう心構えをしている」
そう言って残りのビールを飲み干す。
「判りました。私もその心構えでやって行きます! やっぱり先輩、いい人です……」
そう言った飛鳥の顔に迷いは無かった。

次の週の冒頭から飛鳥は移る事になった。
俺は努めて感情を出さない様にしていた。
俺にとって始めて出来た後輩。
とっても可愛い後輩だ。
それが自分の元から去って行くのは正直つらい。
でも俺達の商売はそう言うもの。
店を移りながら成長していくものだから、俺は悲しみも涙も見せない様にしていた。

そして、最後の日になった。
仕事が終わると店長が飛鳥の移籍を正式に話す。
皆、知ってはいたが、口々にお別れの言葉を口にする。
誰かは花を用意したみたいで、飛鳥はいつの間にか小さな花束を持っている。
俺は「頑張るんだぞ」と言う月並みな言葉しか掛けられ無かった。
「みなさん、今までありがとうございました。向こう行っても頑張りますので、たまには遊びに来て下さい」
そう飛鳥が言って、お別れになった。

俺は圭吾を先に帰して、店でちょっとぼおっとしていた。
感慨に浸っていたのかも知れない。
俺が最後になったので、鍵を掛けて店の戸締まりを確認して帰ろうとすると、
入口の先の暗い空間に飛鳥が立っていた。
「どうした、忘れものか?」
そう言うと飛鳥は
「先輩……本当に好きでした! お別れに1度でいいから、思い切り抱きしめて下さい!
抱きしめて、先輩の事を忘れない様にして下さい。そして私に辛い事があったら、
抱き締められた事を思い出して、乗りきれるパワーを下さい!」
そう言って俺に迫ってきた。
別れの挨拶の時でも涙を見せ無かったのに、今はその目は涙で溢れている。
その時俺は飛鳥の本心が女心が判った様な気がした。
そして、俺は何も言わずに黙って思いきり抱きしめてやった。
背の割には華奢なその体を俺も忘れない様に、思い切り抱きしめたのだ。
「先輩……本当は本当は……」
「飛鳥、その先を言ったら駄目だ。言えば先輩後輩でいられ無くなる」
そう俺が言うと飛鳥は頷いて
「そうでした・・…じゃあ思い切り抱きしめて下さい」
俺はその望みを叶えてやった……

その後、飛鳥は涙の乾いた顔に笑顔を作りながら帰って行った。
俺はその姿が見えなくなるまで、そこに立っていた。
自分自身にも「これで良かったのだ」と言い聞かせながら……

目標 第6話 「思いと想い」

目標 第6話 「思いと想い」

 冬と言うのは飲食店にとって、最も忙しい時期なのだが、ウチの店も例外では無い。
12月に入ると忘年会が開かれるので、ウチも予約がかなりあるし、座敷は連日その流れなのか満席が続いていて、テーブル席の方も結構賑わっていた。

俺はと言えばその中でも刺身の練習をしていた。
いつもの様にこんにゃくを使って刺身を引く様に練習をするのだ。
お陰で、圭吾は連日まかないにこんにゃくを使うはめになっている。
たまにだが、板長が刺身用の魚が余ると俺に引く様に言ってくれる。有り難い事だ。

そんな中でも柴崎さんが遅くまで残って飲んでいる時に俺がその刺身用の魚で刺身を拵えて柴崎さんに出す事がある。
柴崎さんは「食べて死なないだろうな?」等と言いながらも何時も残さず食べてくれる。
「ああ、酷い刺身食べちゃったから、もう帰ろう」
そう笑いながら言うのだ。
何時も心の中で感謝をする。

年内の営業は12月29日で終わりだ。営業が終わりまかないも終わるとそれから大掃除が始まる。
最も調理場だけなのだが、ホールは正月の5日の夕方からなので、その日の午前中にホールの人間だけで掃除をするのだ。
俺たちは2時に店に入ればよい。
11時半ごろから掃除を始め、なんだかんだ冷蔵庫の掃除まで終わったのは3時に成ろうかと言う頃だった。

「じゃあ、これから皆で忘年会に行こうぜ」
店長がそう言って板場6人と一緒に飲みに行く。
飛鳥も女の子だが関係なく連れて行く。
店からしばらく歩いた隣町に店長が行きつけの店があり、そこは朝まで営業しているので、
そこに行くのだ。
3時過ぎだというのに店の中はまだ人がかなり居た。
「7人だけどいいかな?」
そう言って店長は遠慮なく空いてる席に座ってしまう。
注文をして、飲み物が出されると、店長と板長の挨拶があって「お疲れ様でした!」の声で乾杯する。
「あー労働の後の一杯が最高だな!」
由さんがにこにこしながら楽しそうに言う。
「あれ?圭吾と飛鳥は二十歳になったんだっけ?」
善さんがトボケて意地悪にからかうと飛鳥はムキになって
「なりましたよ!来年は成人式なんですよ!お祝い下さいね!」
そう言ってやり返す。
善さんも苦笑いだ。

すると圭吾が「俺誕生日2月なんで未だ19なんですよ」
そう言って小さくなるのを由さんが
「よし、黙っててやるからこれからは俺の言う事を聞けよ!」
そう言ってからかってる。
皆、暫く仕事から離れるので陽気になっている。
それでも5時を過ぎると各自「それじゃ良いお年を」と言って帰って行く。
最後まで残ったのは、親方の板長さんと俺だけだ。
朝になって始発も動き出したとは言え、未だ外は真っ暗だ。
板長はそんな表を気にしながら
「何時迄だっけ?」と店の人に訊く
「5時半オーダーストップで6時半閉店です」
「じゃ未だ大丈夫だな」
時計を見ながらそう呟くと俺に向かって
「お前も大変な人に魅入られたものだな」そう言って俺の飲み残しのグラスにビールを注ぐ。
俺はそれに口を付けながら
「どうしてですか? まあ今だから言えますけど……」
そう言う俺に板長は
「柴崎さんな、前は結構若い奴に色々とやっていたんだ。お前にした様な事な。
まあ大抵はメガネには叶わなかったがな」
そうだったとは初めて聞いた事だった。

「柴崎さん後で俺に言ってたよ。『特別に才能があるとか器用だと言うのでは無いが、集中力が普通では無い。そこが不可能を可能にする力を秘めている。道を間違わなければ、それなりの板前になる』ってな。そう言ったんだ」
言われて俺は自分でも恥ずかしくなった。
「最近、お前が残りで作った刺し身を出すと、柴崎さん綺麗に食べるだろう?」
「はい、そうです。下手くそだから残されると思っていたのですが……」
「柴崎さんよっぽどお前の事気に入ったんだな。期待を裏切るなよ」
「はい!がんばります!」
そう俺が言うと板長は
「来年からは焼き方もそうだが、広く店の仕事を覚える様にしろ」
「何故ですか?」
「それはな、お前、ずっとウチの店だけでずっと行く積りか? そうじゃあるまい。何時かは他所の店に行くだろう。その時に困らない様に間口は広げておけ。健のやつ居るだろう?」
板長は以前焼き方をしていて、同じオーナーの店に移った先輩の事を話題にした。
「あいつな、今、お客の前でステーキを焼いてるそうだ。結構大変らしい、なんたってお客の目の前で焼くから姿勢とか良くしてカッコ良くしないとならないからな」
そうか、そう言う見てくれも大切なのか。
「ウチはオープンキッチンじゃ無いから、調理時の姿勢が問題になる事は無いが、客席から調理場が見える店の場合はそうじゃ無い。見せる事も大事になって来るんだ。だからお前も将来そう言う店に行った時の事もそろそろ考えた方が良い。それが俺から来年に向けた言葉だ」
それを聞いてしみじみこの親方の下で良かったと思った。

何回も礼を言って、夜明けの街を家に帰る。
来年はどんな年になるのかと思いながら……

  正月休みは俺はTVを見てコタツで一日中過ごしミカンをを食べてお袋の作ってくれた雑煮を食べて過ごした。
ただ、それだけ……
真理ちゃんとは逢っていない。
なぜか。と言うと、真理ちゃんの先生が何人かで5日に新春ファッションショーをするのでその準備にかかりつけになっているのだ。
とても俺となんか逢ってる暇は無いのだ。

1月の飲食店は何処も忙しい。
もちろんウチの店も大忙しで、俺達も気の抜けない季節だ。
冬と言えば鍋のほかに特に出るのが日本酒だ。
ウチの店では2種類用意してある。
一つは甘口の飲みやすい酒。
もう一つは淡麗辛口の酒だ。
これは好みで選んでも良いし、初めは甘口で飲み始めて、途中から辛口に変える飲み方もある。
だが、ウチで出してる淡麗辛口の酒は京都の伏見の酒蔵の酒で最初からこれだけでも非常に飲みやすいし、変な癖が無いので、料理との相性もバッチリなのだ。
俺はそんな事も今年からは勉強して行かなければならない。
常連のお客さんの趣向も気にしなければならない。
それには自分でもある程度飲まないとならないのだが、今はそんな暇は無い。
毎日終電間際まで店に居るからだ。
やることが非常に多いから、帰るのも遅くなるのだ。
家に帰ると風呂も入らずに寝てしまう日も少なく無かった。

ある日、いつもの様に店で仕込みの仕事をしていると、飛鳥が
「先輩、最近真理さんと連絡とっていますか?」
そう訊いて来たのだ。俺は不思議に思いながらも
「ここの処は取って無いな。第一真理ちゃんも忙しかったハズだし。やっと暇になってのんびりして居るんだろう? 下手に電話なんかしたら休め無いじゃ無いのかな?」
そう俺が言うと飛鳥は呆れて
「ああもう!何言ってるんですか!乙女というのはですね。好きな人の声をいつでも聞きたいものなのですよ。判ってないですねえ。女心を……」
言うじゃないか飛鳥よ。それは俺は真里ちゃんとつきあっている、と言う関係かも知れないが、まだ深い関係にはなっていない。この前の(もうあれは夏か!)キス止まりなのだが……
くそ!飛鳥の奴知ってるな!
俺は心の中でそう思うのだった。

「先輩!兎に角真里さん絶対に先輩の電話待ってますから電話して下さいね」
そう言われてしまった。
女ってなんで余所の事まで言うのだろうか……
でもそう言われるとしなくてはイケナイ気分になって来る。
余り遅くなると不味いので、皆がまかないを食べてる間に電話をした。
何回かの呼び出し音の後で電話が繋がる
「もしもし、敬愛寮ですがどなた様でしょうか?」
ここの寮はある程度の遅い時間になると、寮生が電話等を管理する仕組みで、古参ほどその係りになるそうだ。
「わたし、田中正也と申します。鈴木真理さんを……」
そこまで言った時に
「あたし」短くも嬉しそうな声がした。
「今、大丈夫?」
「うん平気だよ。正さんは大丈夫なの?」
「少しの間なら大丈夫だよ。みんなまかない食べてるから」
「忙しいんでしょう?」
「そっちだって正月休み返上だろ」
「うん、でも終わったから」
「そうか、じゃあ、次の休みに逢えるかな?って月末だけどね」
「大丈夫!月末の日曜は休めるから!」
「そうか、じゃあその日予定入れておいて、また電話するから」
「うんありがとう……あ、それから今月は私、電話当番だから大丈夫だよ……」
真理ちゃんの言う意味を俺は十分に理解した。
「判った、必ず電話する。真理ちゃんも気にしないでしてくれて良かったんだぞ」
「そう俺が言うと真里ちゃんは電話の向こうで
「でも、やっぱり私は待ってしまうかな……」
そう言ったのが印象的だった。
真理ちゃんはずっと俺からの電話を待っていたのだ。
しかも、今月は電話番だと言っていた。
今日まで何回も掛かって来た電話を、俺からかも知れないと思いながら落胆して他の人に取り次いでいたか……
全く豆腐の角に頭をぶつけて死んでしまった方が良いとさえ思った。
「ごめん……」
それしか言葉が出て来なかった。
「ううん、いいの。私も悪いから……」
それから少し話して受話器を置いた。
気がつくと後ろの方で飛鳥と圭吾がニヤニヤしていた。
俺は「バカ!」と小さく叫んだが、飛鳥とすれ違う時に
「ありがとうな」と短く小声で伝えた。

俺は本当に不器用だと思う。
色々な事を平行して出来ない。
きっと器用な奴は、こういうのも平気なんだろうな。
まあ、今まで女の子にモテた事など無い俺だから、こう言う事は初めてだった。

1月の宴会は陽気だ。
それは新しい年に皆期待をしているからだ。
だから店の中も陽気になる。
でもそれは人々の希望と期待が混じった想いなのだ。
俺達はそのお手伝いができれば良い。
お客さんがいい気持ちで家に帰れればそれで良いのだ。
そう思いながら今日も焼き台の前に立つ。
皆に支えられながら……

目標 第5話 「賭けの報酬」

目標 第5話 「賭けの報酬」

季節の移ろいは早いもので、11月になると寒さも感じる様になる。
店ではそろそろ鍋物の季節がやって来る。
鍋と言ったらやはり「寄せ鍋」だ。
色々なやり方があるが、ウチの店では白菜を大きな葉のまま茹でて、水に晒して冷やした白菜の葉を簀巻きで葉を何枚も重ねて巻いて白菜の海苔巻状に巻く。
これを四等分くらいに円柱状に切り、これを土鍋の底に並べるのだ。
後は蛤、白身の魚、海老、肉団子、蟹、の具を入れて、更にしめじ、椎茸、えのき等きのこ類を入れる。そして仕上げに葱と春菊を入れて完成する。
出汁は煮方の由さんが味をつけるのだ。

今言った仕込みは本来、盛り付けの飛鳥の仕事だ。
まあ簀巻きの使い方さえ覚えれば訳は無いのだ。
俺の時もそうだったが、飛鳥も圭吾を使っている。
これは、やらせておかないとイザと言う時本人が困るからだ。
飛鳥は中々厳しくしている。圭吾は飛鳥より不器用なので、飛鳥は多少苛ついてるみたいだ。
だが、俺と同じで調理師学校を卒業してこの仕事に就いた俺たちと違って圭吾は全くの未経験でこの道に入ったのだ。長い目で見てやらないといけない。
俺は、その事を飛鳥に忠告するのだった。
飛鳥も「そうなんですよね。でも見てるとなんか、苛立っちゃって」
そう言って笑ってる。
それからは多少優しくなったみたいだ。

俺と言えば、実はそろそろ、刺身を引ける練習をしないとならない。
未だまだ先だが、「焼き方」を卒業すれば「煮方」だ。
出汁のとり方は盛り付けの頃にやっていたが、「煮方」になるともっと高度な技が要求される。
それに「煮方」は一応一人前扱いされるから、刺身も引けないとならない。
それには、「柳刃」と云われる庖丁を買わないとならない。
実は調理師学校で買わされたのだが、薄刃と呼ばれる野菜用の庖丁。これは桂むきに使う。
そして出刃包丁、そして柳刃である。
それに洋食用の牛刀とペティナイフと一応は持ってるのだが、牛刀とペティナイフは別としても、柳刃や薄刃はプロが使う様なものではない。だから薄刃は買ったのだ。
出刃はなんとか使えるシロモノなのだが……
だから今度の給料が出たら、浅草の河童橋に買いに行こうと思ってるのだ。

次の日が店が休みと言う日、珍しく柴崎さんが遅くまで残って飲んでいた。
若い編集者を連れて来て、色々と話をしていた。
やがてお勘定をして帰って行ったのだが、少しして戻って来た。
そして、調理場を覗ける所に立ち止まると
「正くん、ちょっと」と呼ばれた。
「はい、なんでしょう、忘れ物ですか?」
そう言う俺に柴崎さんは「まあ、忘れものと言ったらそうかな? 明日店休みだろう、用事あるのかい?」
そう意味ありげな言葉を口にした。
「用事、と言うかその……」
俺が口ごもったので柴崎さんは判ったらしく
「彼女か? ふうん、やるじゃないか! まあ彼女連れでも良いから少しの間、俺に付き合わないか?」
柴崎さんは恩人だ。その人の誘いなら断れない。
「あ、じゃあ、そっちは断りますから」
そう俺が言うと柴崎さんは、笑って
「いや、いいよ。一緒の方が好都合かも知れない。真面目に付き合ってるなら尚更だ」
そう言って約束させられてしまった。
12時に出版社の前と言う事になった。

次の日、12時に俺と真理ちゃんは、柴崎さんの務める出版社の前にいた。
会社の中を見ていると、中から柴崎さんがやって来た。
「やあ、お待たせ」そう言って真理ちゃんを見ると
「うん? 君は以前店で働いていた子だな。中々隅におけんな。でもいい娘と付き合ってるな。
確かこの娘はお店の中でも他の娘とは動きが違っていたからな……うん」
そう言って笑ってる。
真理ちゃんもなんか恐縮してしまって面白い。

「飯食いに行こう。寿司は嫌いか?」
とんでも無い!この世に寿司が嫌いな人間なんて居ないですよ柴崎さん。
「じゃあ、付いてきな」
そう言って柴崎さんは俺達を裏道へと連れて行った。
どこをどう通ったかは知らないが、俺達はある寿司屋さんの前に来ていた。
「朝、電話で予約したから大丈夫だと思うがな」
そう言って柴崎さんは引き戸を引いて入口を開いた。
「いらっしゃい!」
そう生きの良い声に迎えられて店に入る。
見ると、親方と思しき職人さん一人しか居なかった。
カウンターに座ると熱いおしぼりと熱いお茶がが出て来る。」
「親方、任せるからなんか握って」
柴崎さんがそう言うと親方は
「へ、判りました。じゃあシバさんの好きなのからね」
そう言って、何かを握り出した。
「はいお待ち」
出されたのは白身の魚の握りだった。俺はもしかしたら平目かもしれないと思った。
「さあほら食べた、食べた!」
柴崎さんに促されて食べると、シャリが口の中で自然と解凍するように崩れて行く。
平目の蛋白ながらもそれでいて、ある種の海の濃厚さを感じる混布締めの身もシャリとのバランスが取れていて、両者が合わさって得も言えぬ満足感が襲って来る。
「美味しい~こんなお寿司食べたの私初めて」
思わず真理ちゃんが口をつく。
俺は、余りの事に言葉さえ思いつかない。
「どうだ、俺が思う東京で一番の親方の寿司の味は」
そう柴崎さんが言ってくれなかったら、恐らく俺は言葉を発せなかったかも知れない。
「想像の上を行くと人間って話せ無くなるものなのですね。素晴らしいです」
それを聞いて柴崎さんは嬉しそうに鼻で笑っている。
「シバちゃん。何時も大げさなんだから」
「いや、大げさじゃ無いよ。正くん、そりゃ銀座なんかには有名な店があるし、確かに良いネタを使ってる。だがお客の心を無視している。そんな店は私に云わせれば失格だよ。
見てごらん、この店は普通と違うだろう? 判るかい?」
云われて俺は店の中を見回すが分からない、真理ちゃんが
「もしかして、ビールクーラーが無いとか?」
「そうだ!良く判ったね。さすがホール経験者だ。そうこの店はビールは売らないんだ。
昼間は酒も売らない。夜だけ、しかも一人2合までだ」
「なんでなのですか?」
俺は親方に訊いてみた。
「まあ、ビールを飲むとあれ刺激が強いでしょう? その後に繊細な魚の旨味が判るかどうかと思いましてね。酒に関しては昼間から飲むのは言語道断です。夜だって一人2合を超えると味覚が可笑しくなります。そんな理由ですね」
親方はそう言って笑って説明してくれた。
確かに、ここの握りはそれだけの価値があると俺は思った。

それからも、俺達は親方の腕を堪能して店を出た。
「今日は本当に有難うございました。俺だけじゃなく連れまでご馳走になって」
そう俺が礼を言うと柴崎さんは
「礼なんかいいよ。それよりもう少し時間あるか?」
「はい、大丈夫ですけれど……」
「そうか、それは良い」そう柴崎さんは短く言うとタクシーを止めた。
「さあ、乗って」
その声に3人で後ろの席に乗りこむと柴崎さんは
「河童橋、河童橋通りのあたりで」
そう運転手に言った。
河童橋に行ってどうするのだろうか?
そう思ってるうちに車は河童橋に着いてしまった。

車から降りて連れてこられたのは「鍔屋」と書かれた庖丁専門店だった。
「いるかい?」
そう声を掛けて柴崎さんは中に入って行く。
「やあ、いらっしゃい。今日はどうしたの?」
店の親方はなっこい笑顔を見せて尋ねる。
「いやね。今度初めて柳を持つんだけど、ふさわしいのがあるかと思ってね。いや良い物で無くても良いんだ」
そう言います。俺の事でした。
親方はそれを訊いて俺の体を見て、何本かの柳刃を出してくれた。
「こんな処ですかねえ」
柴崎さんはそれを見て更に2本に絞りこみ
「正くん。どちらが良いか持ってご覧」
そう云われて俺はそれぞれを持って振って見る。
柳刃はその庖丁の重みで刺身を切るのだが、余り重いと疲れてしまったり、身の柔らかい魚は身を崩してしまう。その程度は自分でないと分からないのだ。
俺は考えて刃渡り40センチのやや軽めの柳刃を選んだ。
「ほう、そっちを選んだか!」
「はい、これが自分にはバランスが取れていて、使って疲れない様な感じがしました」
「よし、親方これを包んでくれ」
柴崎さんはそう言うと勘定をして、俺に箱に収まった柳刃を渡してくれた。
「柴崎さん……これは……」
「ああ、いつかの賭けの報酬だよ」
「だってあれは……」
「お前さんは見事に俺のメガネに叶ったんだ。今度はその柳で俺に上手い刺身を食べさせてくれ。だから今日、あそこに連れて行ったんだ」
そうだったのか……俺はそんな事も知らなかった。
俺が何も言えないでいると真理ちゃんが柴崎さんにお礼を言ってくれた。
それを聴いた柴崎さんは真理ちゃんに
「こいつはこんな奴だけど、見捨てないでやってね」
そう言うのだった。

「柴崎さん!俺、俺必ず旨い刺身を食べさせます」
「ああ、待ってるからな」
それを聴いた真理ちゃん、俺、柴崎さんはお互いの顔を見て笑ったのだった。

目標 第4話 「焼き方として板前として」

目標 第4話 「焼き方として板前として」

焼き方になり、元気一杯の俺だが、飛鳥が盛り付けになったので洗い方に一人入って来た。渡利圭吾と言う奴だ。今まで全く調理の経験が無く、前はガソリンスタンドでアルバイトしていたのだという。
歳は飛鳥と同じで俺より2歳年下だが、この世界は歳は関係ないので、飛鳥も「圭吾」と呼び捨てにしている。
洗い方も全くなっていないので、飛鳥が着き切りで教えている。
「先輩、圭吾は特別不器用ですよ」
そう言ってコボしていた。

季節はいよいよ夏だ、焼き方で夏となれば鮎と相場は決まっている(俺だけかも知れないが)
6月の1日が関東では解禁日だ。
この日以降なら天然の鮎を売れるのだ。
最も最近多いのが「天然仕立て」と言う奴だ。
これは、養殖である程度大きく成るまで育て、その後川に放流するのだ。
そして数週間後に捕まえて市場に出すのだ。
全くの天然でない為に「天然仕立て」と呼ばれるのだ。

ウチの店は基本天然だけど、市場に入荷が無かったり、少ない時は「天然仕立て」を使うのだ。
焼き方としては、天然は身が締まっており、苔のいい匂いがする。
これは天然は育つ時に川底の苔を、下顎で掬うように削いで食べるので下顎が出て居るのだ。
だから顔つきが養殖と違い厳しい顔をしている。
養殖は全体的に身が締まっておらず、脂肪が乗ってるので柔らかいのだ。
苔なんか食べていないので顔つきは優しい感じがする。
焼き手としてはやはり天然がやりやすいが、「天然仕立て」はどうなのだ?と言うと
両者の間と言う感じだ。まあ妥協の産物かな。
鮎は1年魚だから秋には死んでしまう。儚い命なのだ。

鮎は串を刺すのは簡単だ
そう難しいものではない。だが焼き方と言うと中々大変だ。
鮎は裏も表もぎりぎり黄金色が基本。
それ以上は駄目なのだ。
焦がすなんてもっての外なのだ。

6月になっていく日か経った頃だった。
その日も鮎の注文があったので焼いていた。
ウチの店はお皿に蓼を引いて、その上を鮎が跳ねて居る感じで盛り付ける。
はじかみ生姜を忘れずに付ける。
それを蓼酢と言う蓼をもち米を蒸かした御飯とお酢を入れて当たり鉢でゴリゴリと当たって緑のお酢を作るのだ。それを付けて食べるのだ。
やや古風な食べ方をさせるのだ。
それが気に入って、味に煩い客が来てくれるのだ。

その日も鮎が結構出ていた。俺は一生懸命にやっていたのだが、
ある時仲居さんが調理場に顔を出して
「正さん、奥の個室に居るお客さんなんだけど、一口食べて『焼き方が替わったね』って言うのよ。それで、『手が空いたら是非話したい事があるから来て欲しい』って言うの……どうする?」
そう言うのだ。こう言う事はたまにある。
小言を貰う事もある場合と喜んでくれて、チップをくれる時もある。それは行ってみないと判らない。

俺は手が空いたので奥のさっきのお客の所へ行ってみた。
「先程は失礼致しました。私が焼き方で御座いますが、何か……」
そう言うとその客はメガネを掛けて痩せていて神経質な感じがした。
「やあ、君か、君は焼き方になってまだ間が無いのじゃ無いかね?」
そう言われたので、俺は正直に
「はい、この春から焼き方になりました」
そう正直に言った。すると
「じゃあねえ、一つ教えてあげよう。鮎はねえ熱い焼きたては兎も角、冷めてからね、こう箸でね」と言いながら鮎を何箇所か押さえて行く
「そして、こう」と今度は尾をつまみ、頭を押さえると、すっと、鮎の骨を抜いて見せた。
「どうだい、ちゃんと抜けただろう。ところが、さっき君が焼いたのは骨にほら身が付いてるんだ。これはねえ、未だ未だ焼きがなってないと言う事なんだ。判ったかい」
そう言って俺にその鮎を見せた。
確かに骨に身が付いてるのだ。
そのやり方は知っていたが、元は芸者さんがそう言う事をして旦那に食べさせた、と言うのが始まりと聞いた事があるくらいだった。
まさか、ここで言われるとは思わなかった。
下を向いて何も言えない俺にその客は
「どうだい、これから、10月の「落鮎」までの間に君がちゃんと焼ける様になるか、賭けないかい?」
「掛けるのですか? お金ですか?」
そう俺が言うとその客は
「冗談じゃ無い、男が本気で掛けるのは自分の名前、名誉だろう。君が俺が納得する鮎を出せたら、俺はこの店を本気で俺の周りの人間に宣伝しよう。こう見え ても俺の一言で50人は動かせる。逆に駄目だったら、事あるごとにこの店だけは辞める様に言う。結構影響力あるぞ。どうだい」
客は俺を挑発するように言うのだった。
俺は店長と板長さんの方を見ながら
「やります!やらせて下さい!」
そう言っていた。
「いいのかい?場合によっては、この世界に居られ無く生るぞ……いいのか?」
「俺も男です。必ずお客さんの満足の行く鮎を出してみせます」
俺がそう言い切るとお客は
「そうか、気に入った!勝負だ。期限は10月の10日でどうだ。それ以降だと鮎も品が落ちる」
「構いません」
「よし、この店の板さんや仲居さんが証人だ!楽しみにしてるぞ」
そう言うと客は俺に名刺を渡して勘定して帰って行った。
名刺を見ると、有名な雑誌の編集長だった。
それを見た向板の善さんは
「知ってるぞ、この人、食通で有名な人だよ。この人が褒めるととんでも無く繁盛するが、貶した店は尽く潰れているんだ。
正、とんでもない人と勝負する事になってしまったな」
そんな人だとは知らなかったが、俺も男だ。未だ10月迄日にちもある。
必ず満足行く鮎を出してやると、心に誓うのだった。

次の日からはもう1匹1匹が真剣勝負だった。
仲居さんに頼んでそれとなく鮎を食べるお客さんの様子を見ていて貰う。
だが殆どは食い散らかして帰ってしまう客ばかりだ。
あのような客は滅多に来ない。
ああ、そうだ名刺を貰ったのだからちゃんと名前で呼ぼう。
あの人の名は「柴崎」さんと言い、某雑誌の編集長だ。
それまで、ぱっとしなかったその雑誌を発行部数でトップにまで押し上げたのは柴崎さんの力だという事だった。只者では無いのだ。

店で出すだけでは練習にならないので俺は店長に頼んで、市場に仕入れに行く時に連れて行ってくれる様に頼んだ。
一緒に行って自分用に鮎を買って来るのだ。
そう思い頼んで見ると
「朝5時半に店まで来られるか? 毎日じゃ無いがな」
そう難しそうな顔をする。俺は正直に
「市場を見るのも雰囲気になれるのも勉強ですし、鮎も一枚は買いたいですから」
一枚とは鮎が木の薄い箱に並べられていて、鮎の大きさに従って10本入とか12本入りとかあるのだ。大体10~12本入りが丁度良い大きさだ。それで練習をするのだ。

「始発に乗れば余裕で間に合います。お願いします。荷持持ちでもなんでもしますから」
「そこまで思っているなら仕方がないな」
そう言って店長は許してくれた。
翌日から早速築地に行く事になった。
始発電車に乗ると分けなく店には着く。始発が意外と混んでるのには驚いた。
店の前で待っていると店長の乗った車が店に着く。
店長は店の点検をしてから築地に向かうのだ。

築地は大きな屋根のある場内と塀の外の場外に別れる。
昔は場内は一般の人は入れ無かったのだ。
いまは誰でも入れるが買う量は多い。
店長はまず妻屋で妻物を注文しておく、妻物とは野菜だが、特に刺身に使う大葉とか穂紫蘇、赤目蓼、小菊、それに海髪や大根などを言うのだ。
これらや、その他煮物や酢の物、天ぷらにに使う野菜も頼んでおく。
大体は前の晩にFAXで送っているのだが、一応確認する。

その次は鮪屋さんに行き今日入荷した鮪から予算と品を天秤に掛けて、丁度良いのを買って来る。鮪屋さんでは毎日が「鮪の解体ショー」をやってる。ここに見に来ればスーパーより只で見放題なんだけどな。
そこでも、品物をチェックして次に向かう。

次は魚全般だ。刺身用に使う鯛から焼き物の魚まで買うのだ。
ここで俺も自分様に鮎が欲しかった。
店長が事情を言うと、向こうの店員さんが
「こっちおいで」と手招きするので行くと鮎が色々の大きさで並んで居る。
迷った挙句10匹入りを買う。
「2500円だけど2000円に今日はまけておくよ。頑張りなよ」
その言葉に礼を言って、そこを後にする。
次は練り物などを買って大体終了だ。
買ったものが車に乗るまで時間があるので店長は
「飯でも食うか?」
そう言って広い道路沿いにある飲食店街に俺を連れて行ってくれた。
「ラーメンでいいか?」
「はい、なんでもいいです」
そう言うと「井上」と書かれた間口5メートル程の店に俺を連れて行ってくれた。
店には3人しか座れないので、歩道にテーブルと長椅子が置いてある。
品物を受け取ったらその長椅子に座って食べるのだ。
「ラーメンふたつ」と店長が注文するとものの30秒でラーメンが出て来る。
麺が見えないほど大きな焼き豚とてんこ盛りの刻み葱が凄い。
熱々を片手で丼を持ちながら麺をすすって行く。
誰もテーブルなんかは使わない。
もし使っていたら素人だ。
ここはラーメンを食べるにも技が要るのだ。

店に着くと、車から買ってきた荷物を下ろして整理する。
これが意外と大変で、結構時間がかかる。
店長は今までこれを一人でやって来ていたのだ。
普段は調理をする訳でも無く、売上の計算ばかりやってて楽だと正直思っていた事もあったのだが、大違いだった。
きちんと冷蔵庫に仕舞うものを仕舞うともう9時を過ぎている。
あと少しで皆が来る時間だ。
「小一時間でも寝ておけ」
そう言われて眠くなって来た。
店長と二人で奥の座敷でごろ寝をする。
あっという間に寝てしまった。

圭吾に起こされた。
「正さん起きて下さい」
時間を見るともう10時だ、急いで着替えて普段の仕事に戻る。
こんな事をずっと繰り返していた。
練習に焼いた鮎はまかないで皆に食べて貰うのだが、そのうちに
「もう、飽きたな」と言われて仕舞った。
それからは、串を自分用に買って、家で焼ける様に串がガス台に置ける様に小物を買ってみたりして兎に角、家で練習が出来る様にした。
家ではと言うより小料理屋ではそんなものは出ないから必要無いからだった。

店で焼き、家でも買って来た鮎を焼く。
お袋は焼いた鮎を結構なんだかんだと言って客に食べさせていた。
だがどうしても綺麗に身と骨が剥がれないのだ、完璧にはならない。
あれから柴崎さんはひと月に一度は来て俺の鮎を食べて行くが、7月も8月も駄目だった。
残るにはあと僅かだ。
由さんなんかは「これでも良いと思うがなあ」と言ってくれるが、柴崎さんがOKを出さない限り俺の負けなのだ。

9月も進んだある日、仕事は休みだった。
家でも練習するために家に鮎は持って来てあった。
でもその日は何だかやる気にならなかった。
裏口でチャイムが鳴るので出て見ると何と真理ちゃんだった。
真理ちゃんとはお袋にも紹介済みだし、一度俺も真理ちゃんの実家に行った事があった。
「どうしたの?今日は仕事じゃなかったの?」
俺はいきなり来た真理ちゃんに面食らっていた。
「おじゃましてもいい?」
「ああ、どうぞどうぞ」
そう言って上がって貰う。
「飛鳥ちゃんから電話貰ってね。先輩が可笑しいから相談に乗って下さいって」
飛鳥にまで心配させるほど俺は可笑しかったのか。自分では判らなかった。
この二人は真理ちゃんがバイト時代に結構連絡していたと後から判った。
真理ちゃんに技術的な事を言っても仕方ないのだが、俺は何時の間にか話していた。
「ふううん。なんかあたし達の生地の扱いに似ているな、なんて思ったわ」
「え、どういう事?」
俺は参考になれば何でも聞く姿勢だったのだ。
真理ちゃんは俺にも判る様にお針子さんの事を話してくれた。

「あのね。生地を縫っていても、何か針が通り難い箇所があるのね。そこを縫わなくてもチョットだけずらして縫っても出来るんだけど、そう言う服は何だか変なのね。
固くても縫い難くてもそこに針を通して縫った服はねやはり違うのよ」
真理ちゃんは俺にも判る範囲で俺に語ってくれた。
そうか、そういう事もあるんだ。そう思ったのだが、俺はそこまで考えて
ハッとお思いあたった。
焼き方じゃ無い、串だ!串の打ち方だ!
鮎の骨を綺麗に貫通させて無かったのだ!だから綺麗に身が剥がれ無かったのだ。
鮎は串も大事だったのだ!
「真理ちゃん有難う!恩にきるよ!」
そう言って俺は店に出て早速鮎を出して串を打つ。
丁寧に、きちんと鮎の骨を貫通させて行く。
完璧な綺麗な串を打った鮎が出来た。
これを丁寧に焼いてみせる。
真理ちゃんも傍で見ていてくれる。
そして焼き上がった。
冷めてから箸で押さえてから骨を抜くと……今度は綺麗に身ひとつ無く骨だけの鮎が抜け出たのだ。
「正ちゃん、出来た!出来たじゃ無い!」
真理ちゃんが嬉しそうに俺に抱きついて来る
「うん、出来た!出来たよ。俺まだこの世界に居られるよ」
そう言って俺も真理ちゃんを抱きしめる。
気がつくと真理ちゃんの唇が目の前にあった。
それに優しく俺の唇を近づけて触れる。
柔らかい感触が俺を襲う。
もう一度忘れない様に今度はしっかりと唇を吸う。
この日の事を忘れない様に……


「やっと出来たな!」
柴崎さんはそう言って俺を認めてくれた。
以外にも柴崎さんも嬉しそうだった。
それから俺は柴崎さんの一番のお気に入りになったのだ。
この日程この道に入って良かったと思う日は無かった。

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