2014年06月

遙かなる流れ 6

 実は父は若い頃に肋膜炎を患った事があり、胸の病には強い方ではありませんでした。
戦後、青森に引き上げて来ましたが、その時に既に結核に感染していた様です。
それがここに来て発病して治療も受けていました。
中々良くならなかったのです。(女遊びが止まなかったりしたせいもあります)
一進一退を繰り返していましたが、かかりつけ医が当時薬として持て囃されていた「ストマイ」を手にいれてくれたのです。
それを治療に使うと父の結核はみるみるうちに回復をしてきました。
でもこの時、着き切りで看病していた私にそれが移っていたとはその時は思いませんでした。

大分元気になった頃でした。
父が「なんか体がだるい」と言うので、今度はすぐ近くに出来た県立病院に検査をして貰いました。
その結果は父に取ってあまり喜ばしいものではありませんでした。
先方の医師は本人に真実を告知するのを躊躇ったみたいですが、父は若い頃東京で医師の書生をやっていたので多少の医学の知識があるのを認めた医師は本当の事を告げた様です。
家に帰ってくるなり
「和子、布団引いてくれ。寝るから」
そう言って寝て仕舞いました。

結果としては父は1年後「肝硬変」で亡くなりました。
私はその最後まで看病し看取ったのでした。
大きなお腹をして、腹部に溜まった水をお医者さんが注射器で抜きます。
黄色い水が洗面器一杯溜まります。
「これは栄養の塊なんだけど、お父さんはもうこれを体に吸収出来ないんだよ」
お医者さんはそう説明してくれました。

また、浣腸もしてあげ、ありとあらゆる事を私はしたと思います。
生活は妹の給料が主になりました。
私も洋裁をしていましたが、以前より量が減ったので、その分収入も減りました。
父の医療代も掛かります。
そんな状況を見た下の弟の高俊は、東京の東大を受ける事を諦め地元の弘前大を目指す事になりました。
幸い、東京に出た上の弟の秀俊が学費を出してくれる事になり、私は一安心しました。
上の弟は中嶋家の遺産もあったので、それぐらいの余裕はあったのです。

下の弟の高俊は賭け碁や賭け将棋は辞めましたが、何処からか家庭教師の口を見つけて来て
中学生に教え初めていました。
そしてやがて「人に教えるのは自分に合ってるかも知れない」と大学で教師を目指す事になります。
弟は教育学部に入学する事になるのです。

そうこう言っているうちに父の溶体は段々悪化して行きます。
最初は「大した事無い」と強がっていた父もこの頃は弱気な言葉ばかりです。
何かと言うと「和子すまんな」と言う回数が増えて来ました。
色々な事をそれでも話しました。
その中でも以外だったのは、私にはあちこちから沢山お見合いの話があったそうですが、
尽く父が壊していたと言う事実でした。
周りの人に言わせると「お父さんは和ちゃんを嫁に出したく無いそうだよ」と言っていました。
また、「何でも婿さんが居ないか探していたみたいだよ」とも……
私自身は、そのどっちも興味ありませんでした。
父の女遊びを幼い頃から散々見て来た私には家庭を持ち夫と幸せに暮す、と言う事が思い描けなかったのです。

その後私は父と色々話をして、今までわだかまっていた気持ちが少しずる氷解して行きました。
母とのちょっとした気持ちのすれ違い、手を切りそこなった愛人の事など、もし父が寝付いてこうして私と話す時間が無かったら、そのまま父を恨んでいたかも知れません。
でも時間は待ってくれませんでした。
ある年の年6月、樺太で多くの人の命を救った父はお釈迦様の元に旅立ちました。

葬儀には予想を超える人が弔問に訪れてくれました。
中には引き上げの時に戴いたお金でなんとか生き延びる事が出来た。と住所を調べて訪れてくれた方もいました。
天に登る煙を見ながら私は父の冥福を祈るのでした。

大学に通う様になり高俊は増々家庭教師のアルバイトに精を出しています。
ここ青森では弘前大生と言うと随分箔が付くのです。
結構いいお給料を貰ってるみたいでした。
妹の保子も彼氏が出来たそうです。
何でも日本鉱業の社員で、あるサークルで妹と知り合ったみたいです。
背の高いとてもハンサムな人で、妹は面食いなんだとその時思いました。
そんな中、叔父や知り合いから幾つかのお見合いの話が来ました。
私は、最初は気が乗らなかったのですが、妹や弟がたまに連れて来るガールフレンド(あくまでも弟はそう言っていました)を見ていると、お見合いぐらいならしても良いと思う様になっていました。
叔父も「和ちゃんももう26歳だし、決して早くは無いからね」
そう云われて仕舞いました。
今と違い女で26といえば遅い方でした。
何人かと会ってみたのですが、私はどうしてもその気になりませんでした。
「気持ちが乗らなければ無理をする事は無い」
そう言われたので、全てお断りしたのです。

そうこうするうちに、納骨の話になりました。
実は父は東京の北千住に友達が住職をしているお寺があり、そこにお墓を買って自分の父等を埋葬していたのです。
だから、亡くなる時に「千住に埋葬してくれ」と残して亡くなったのです。
その北千住の隣町の五反野と言う所には父の腹違いの弟夫婦(叔父ですね)が暮らしていました。戦後、米軍の払い下げの冷蔵庫を修理して塗装し直して売っていて、それが当たって大層羽振りの良い暮らしをしていました。
小学生の頃北千住に住んでいた頃は良く遊びに行ったものでした。
「納骨に来るならウチに泊まってついでに東京見物して行けば良い」
そう言われ私は9月の末に東京に旅立つ事になったのです。

遙かなる流れ 5

 上の弟は高校を卒業すると東京の大手の電機メーカーの関連会社に就職しました。
その大手の会社のグループ企業で主に金融関係を扱う会社でした。

東京へ出て行く時に私と下の弟は青森駅まで見送りに来ていました。
「向こうは陽気も何もかも違うから気をつけるんだよ」
そう言う私に弟は
「大丈夫だよ、そんなヘマはしないから。それより高俊の事頼むな」
そう言いました。
弟は高校でもトップクラスの成績でしたから、先生からも進学するように言われたのですが、『先生、俺は勉強が嫌いだから就職しますよ』そう言って進学しなかったのです。

でも本当はそうじゃないのを私だけに打ち明けました。
「俺は勉強しても、そう大した者にはならないけど、高俊は違う。あいつは本当に出来る頭を持っているから、あいつだけは進学させて欲しいんだ」
就職すると決めた晩に私にそう言ったのです。
県下でも一番の青森高校で常に10番以内に入っている者がなんで、大した事が無いのでしょう……弟はそう言う奴なのです。
「出来たら仕送りするから」
そう言い残して弟は旅だって行きました。
この春には妹が高校に進み学費の支払いも増えて来たこのごろだったのです。

「兄貴!」
中学3年の高俊は短くそう叫ぶと兄の手を堅く握りました。
「青高行って東大でもめざせ!」
そう言い残して車上の人になりました。
その後、私は父が亡くなるまで弟に会う事はありませんでした。

父は相変わらず女の所に入り浸りになっています。
家に入れてくれるお金も以前ほど多くはありません。
必然的に私の洋裁の仕事も増えて行きます。
私もいつの間にか二十歳を過ぎていました。
せめてもと、近くの写真館で簡単なポートレートを撮って貰いました。
これだけが私の青春の記録となりました。

翌年、下の弟、高俊が青森高校に入りました。
なんでも創立以来の試験の成績だったそうです。
でも、弟はなんでもない様な顔をしていました。
私は相変わらず、洋裁に明け暮れています。
妹も高校3年になり、早々と就職を決めてしまいました。
「何処に決まったの?」
そう言う私の問いに妹は
「青森銀行よ。父さんの顔が利いたみたい」
そう言って笑っていました。
どうやら、父の知り合いに青森銀行の人が居て、それもかなり地位の上の人だったみたいです。
何でも『あそこの家だったら間違いは無いし成績も優秀なはずだ』と言ってくれたそうです。
それ自身は間違いはありませんですが……
父もたまには子供孝行するのかと思ったものでした。

暫くは何も無く日常が過ぎて行きました。
ある日、近所の人から
「高俊くん、この前囲碁倶楽部で見かけたけど、囲碁好きなんだね」
そう言う話でした。
それからも何回か違う話を別な人から聞きました。
中には「なんか賭碁してたみたいだぞ」なんて言う人もいました。
私は穏やかではありませんでした。
大人しかった弟がまさか賭碁をするなんて……
私はある日、弟に問いつめてみました。
「高俊、あなた賭碁をしてるって噂があるけど本当なの?」
その私の問いかけに弟は
「してるよ。向こうから申し込まれた時だけね」
「なんで、そんな事を……」
「だって、勝てば小遣いになるし、囲碁は好きだからね」
「賭なんて違反でしょう!」
「姉さん、囲碁倶楽部じゃみんなやってるよ。お巡りさんだって仕事じゃ無い時に来て僕とやるんだよ」
私がいくら言っても弟は聞く耳を持ちませんでした。
後で分かったのですが、弟は囲碁倶楽部のほかにも将棋倶楽部でも賭将棋をしていたのです。
ここでも負けなしで、ちょっとした話題になっていたのです。

ある日私は弟に、もう決してやってはいけない事を言い、約束させました。
その時の弟の言いぐさは
「もういいや、随分稼いだからアルバイトより効率がよかったからやっていたのだから、もうやめるよ」
そう言って、辞めたのでした。

その後弟は東大を諦めて弘前大学へ進学します。
それは、その頃から父の具合が悪くなって来たからでした。
お医者さんに見て貰った処、肝硬変と診断されました。
この日から私には父の介護という仕事も増えたのです。

遙かなる流れ 4

 母が家を出てからひと月程経ったある日私は、近所の人が、母が酸ヶ湯温泉の旅館で働いていると教えてくれたので、その話を頼りに酸ヶ湯温泉に行ってみる事にしました。
青森は北海道から渡って来る人や渡る人が多いので割合列車は動いていました。
まあ、青森からそんなには時間も掛からないのですが、酸ヶ湯はバスで無いと行かれません。

バス停を降りてその旅館を目指します。
目指す旅館はすぐ判りました。
入口で掃除をなさっていた方に、母の名を告げて居るか訪ねます。
もしかして旧姓を使ってるかも知れないので、それも告げます。
するとその方は
「ああ、いるよ、ちょっと待っておいで」
そう言い残して奥に消えました。
暫く待っていると、その奥から母が姿を表しました。
「和子……きたの……」

その旅館の休憩室みたいな場所で母と私は向かいあって座っています。
「ご免ね。あんた達には悪いと思ったのだけどね。もう堪忍袋が切れちゃって……」
そう言って母は遠い目をしました。
「お父さん、昔から女癖が悪かったから、またかと思ったけど、本当に別れるなんて思わなかった」
私は正直な気持ちを話します。
「うん、樺太の頃からだからね。あんた保子が生まれた時の事覚えて居るだろう?」
忘れる訳はありません。あの日は私はまだ小学校1年生で、朝から吹雪の激しい日で、私は母から「生まれそうだから、お産婆さんとお父さん呼んで来ておくれ」と言いつけられて、カッパを身に纏うと、吹雪の中を歩き出したのです。
風が強く前屈みになってないと前へ歩く事も出来なかった程でした。
苦労してお産婆さんの家迄行き、「もうすぐ生まれそうなんです」と告げ来てくれる様に頼みました。
幸いお産婆さんはすぐ出てくれて、しかも後ろからの風なので家までは楽そうでした。
私は更に先にある村の旅館に急いだのです。
行き先なんか言われ無くても父の場所は判っているのです。どうせ村のだれかと泊まっているのです。
父は本当に女の人に良くモテました。
恐らく樺太時代は一人で寝た晩などは無かったのでは無いでしょうか。
又、村の女の人もお金が無くなると父を誘惑して寝て小遣いを稼いだ、いやこの場合は生活費を稼いだのです。
今では考えられませんが当時は良くあった事だという……でも子供のあたし達は嫌でした。
母との間に男女二人ずつの子供を産んで、更に年中他の女性と関係を持ってるなんて、
当時の私には不潔な感じがしたのです。

旅館に着いて吹雪に備えて戸板が閉まってる玄関を手で何回か叩くとやっと返事がして、番頭さんが玄関を開けてくれました。
中に入って雪を落として、父の名を言うと、番頭さんは、ちょっと変な顔をして
「ああ、いるよ。すぐなのかい?」
「はい、子供が生まれそうなのです。私の弟か妹……」
それを聞くと番頭さんは呆れた様な顔をして
「待ってな、今連れて来るから」
そう言って奥に消えて行きました。

暫くして父が浴衣の上に丹前と言うだらしない格好で出てきました。
私は「お母さんもう生まれるよ!」
そう大きな声で言うと父は
「ああ、判った。今帰るからお前は先に帰ってなさい」
そうめんどくさそうに言うのでした。
私は本当は父と一緒に帰れるものと思っていましたから、その言葉は子供心にショックでした。
そんな事が幾度もありました。

「なんで今度は切れちゃったの?」
私の問に母は
「青森に来て、苦労して家まで立てたのにまた作ったろう。しかも今度の女は図々しくてさ、なんか腹が立つんだよね。それで今度ばかりは別れてくれって本気 で頼んだけど、一向に別れないから実力行使にでたら「離婚だ」と言ってきたので、それならどうぞって言ったのさ。それで離婚したの」
「そうか、今度は父さん遊びじゃ無く本気だったのか」
母は何度も私に謝りましたが、例え父が謝って来ても帰る積りは無いとの事でした。
父は仕事では人望があり商売も上手で、リーダーシップもありますが、唯一の欠点がこの女癖だったのです。

母の所へ行った事は兄弟には内緒です。
特にまだ小学校に通う末の弟の高俊には言えません。
それに私たち兄弟には思いも及ばぬ事が湧き上がっていました。
父の伯父に当たる人に中嶋と言う人がいます。
私なんかは「中嶋の伯父さん」と呼んでいましたが、この人は子供がいないのです。
しかも中々の資産家だったのでいずれ養子を取ってと考えていました。
目をつけていた人がいたのですが、戦争で亡くなって仕舞いました。
そこで中嶋の伯父は父に「上の秀俊を養子にくれないか」と言ってきたのです。
最初は兄弟が別れ別れになるのか?と思っていましたが、後で名前だけ継いでくれれば良いと言う事でほっとしました。

生活費は父が一応入れてくれていましたが、なんせ兄弟はこれから学校に進学するので、幾らでもお金が掛かります。
私は少しでも家計の手助けになればと洋裁の仕事を回して貰う事にしました。
当時高かったミシンを借りて洋裁の注文服を縫うのです。
幸い注文は次から次へとありましたので、毎日の食費ぐらいにはなったのです。
そうして暮しは段々落ちついて行きました。

やがて上の弟が県立青森高校に合格し、妹は中学からキリスト教系の女子中高に通い出しました。
私は兄弟の世話で日々の暮しが過ぎて行きました。
困った事はたまにですが、あの女が家に来て泊まって行く様になった事です。
私は父に随分言ったのですが、父の言い草は
「今度は手を切りそこねたよ」
そう言った言葉が本気の言葉でした。
恐らく、離婚したのは早まったとの思いがあったのでしょう。
その様な親の姿を見るにつけ、私は結婚なんて夢は見なくなりました。
最も私たちの世代にあう男性の人は多くが戦争で亡くなっていて、非常なアンバランスな人口構成になっていたのです。
ですので私の青春時代は洋裁に明け暮れて行ったのでした。

遙かなる流れ 3

 父は落ち着くと精力的に出かけて行きました。
何処へ行くのかは教えては貰えませんでしたが、私にはここでは無く、きちんと住める場所を探しているのだろうと云う想像はつきました。
10月になって少し経った頃でした。
夕食の時に父は皆を前にして
「家を建てる土地が見つかった。青森市内だ。いい場所だぞ。近くに秋谷さんの夫婦も住んでいる」
秋谷さんというのは父の妹夫婦のことです。
「じゃあ長島?」
「「ああ、そうだ。あそこに大きな布団屋さんがあったろう? あそこが焼け出されてな。もう田舎に引っ込んで商売はしない、というから土地を譲って貰う約束をした」
私は思わず「お金どうしたの?」そう訊いて仕舞いました。
「金か? ちゃんと家から持って来た。だから遅くなったんだ」
父はその時は詳しく言いませんでしたが、後に病床で私に言ったのは、
船に村の残っている人を皆載せて港を出たのですが、北海道では荷物の検査があるかも知れない、
というので一人で大金を持ってるのは怪しまれるので、小分けにして乗っていた人々に
「向こうへ着いたら半分返してくれれば良いから」と言って預けたそうです。
村の人々は父の事を良く知っていたので大体4割は帰って来たそうです。
村の方々も一文無しより遥かに良かったので大体上手く行ったそうです。
全く父の考える事は私には想像もつきません。

青森市は戦争で米軍の空襲にやられ、全てが灰塵となって仕舞いました。
でも周辺の街は無事だったので、今は建設ラッシュが始まっているそうです。
「実はなもう大工も頼んで来た」
父はちょっとだけ得意そうに言うのでした。

恐ろしい程の速さですが、11月の始めには小さいながらも親子が住める家が出来ていました。
私達家族は、この親戚に別れを告げて青森へ引っ越して行きました。
最もろくな荷物もありません。
その家に着いてみると、なるほど、本当に住むだけの家でした。
でも贅沢は言っていられません。
玄関に台所と6畳、4畳半の間取りの家でした。
父の買った土地の半分も使っていませんでした。
後にこの土地の半分に商店に使える店舗形式の家を立てて、賃貸しをする事になります。
目の前には長島小学校が焼け残っていました。
県庁も目の前ですし、一等地だった所で、私たちはここでこれから暮らす事になりました。

年を越した頃、父が女学校への編入の話を持って来てくれました。
青森市の郊外にある私立の女学校です。
私の真岡高女の生徒手帳を確認するだけで編入させてくれました。
程度は推して知るべしですが……
兎に角4月から1年間4年生として通う事になったのです。

弟や妹も目の前の長島小学校へ通い出しました。
こうして、私たちは以前の生活を戻して行ったのです。

父は家を立てて残っていたお金で商売を色々と始めました。
その中には「興信所」なんてのもありました。
なんでそんなのを開業したのか訊きましたら
「仕入れの資本が要らないから」という事でした。
でもこの商売が上手く行ったのかは私には判りません。

学校の授業は恐ろしく詰まりませんでした。
公立と私立の差はこんなにも違うのかと思ったものでした。
それでも気の良い子ばかりで、その点では真岡高女よりマシでした。
真岡時代は結構神経を使ったものでした。
皆、学校で1~2番を取っていた娘ばかりでしたから、戦争が無ければ都会に出て女子大まで行きたいと思う様な娘ばかりだったからです。
その点この学校にはそんな事を思う娘はいません。
皆、今を必死に生きています。
私は忘れていた事を思い出した様な気がしました。

女学校を卒業すると私は洋裁の学校に進みました。
裁縫が得意だった私は、早く父の手助けをしたかったのです。
実はこの頃、父に今で言うと愛人が出来、母との関係が怪しくなって来ていました。
一触即発だったのです。
母も言いたい事を我慢しているのが良く判りました。
父は元々女好きで、樺太時代も常に愛人が居たそうです。
それなので母も堪忍袋の尾が切れたのかも知れません。
私が1年制の洋裁の学校を出る頃に大げんかをして家を飛び出して仕舞いました。
母は酸ヶ湯温泉で仲居として働き出して仕舞いました。

私は父をなじりましたが、事遅しです。
その日から私が母の役割を兼ねる様になったのです。
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遙かなる流れ 2

私達家族は16日の夜に南名好の港を出港しました。
目標はとりあえあず、隣の港の本斗です。
父によると、もう50°線をソ連軍は突破して南下して来ているそうです。
それに、直ぐ傍までソ連の軍艦も近づいて来ているみたいです。
私達の船はなるべく沖に出ない様にしていたので、隣町なのに時間が掛かります。
夜半になりやっと到着しました。
本斗の港には正式な引き上げ船が泊まっていました。
父は私達に
「お前達はここであの引き上げ船に乗り換えなさい。引き上げ船ならソ連の軍艦も狙わないだろうからな」
「お父さんはどうするのですか?」
「わたしなら大丈夫だ。暫くしたら街の皆と一緒に引き上げるから」
「そんな、だって……」
私の他に妹も弟も納得していません。
「お父さんは海運会社の責任者だ。責任者はそれなりの仕事が待ってるんだ。大丈夫だ、必ず帰るから心配するな。それより内地に帰ったら、青森の弘前のおばあさんの所へ行きなさい。以前に手紙を出して頼んであるから」

私達と父は結局ここで別れる事になりました。
引き上げ船に乗りこむ姿を父が最後まで見ていました。
やがて17日のお昼になると「ボー」っと汽笛を鳴らして船は満員の人を載せて港を離れて行きました。
私は父が最後まで見送ってくれた姿を何時までも甲板で見ていました。

やがて船は小樽の港に着きます。
降りてくる人、人、人の山です。
それに他の港からの引き上げ船も次々と到着します。
私と母は弟と妹を連れて、列車に乗り込み青森を目指します。
幸い、青函連絡船も内地の鉄道も動いていましたので私達は3日ほどで青森の弘前の郊外の祖母の家に着く事が出来ました。
でも、歓迎してくれたのは70になる祖母だけで、あとの従兄弟や伯父叔母は冷たい視線を浴びせられました。歓迎されざる者だったのです。

私達には庭先の物置があてがわれました。
朝から弟や妹と物置の掃除をします。
そうしないと満足に寝る事も出来ません。
母は近所の農家に食料を仕入れに出かけて行きました。
暫くすると母は両手に一杯の芋などを持って帰ってきました。
後から判ったのですが、母は家をでる時に大きな袋一杯の木綿針を持って来ていたのです。
その針が物を交換して貰うのに役立ったそうです。
私達はその御蔭で飢えなくて済みました。

それからの毎日は本当に生きる為の生活でした。
身内からもよそ者扱いされ、家族だけが信用出来る有様でした。
この時「もう少しで父が帰って来る」と信じていなければ、どうなっていたか判りません。
結果から言うと父が帰ってきたのは9月も10日を過ぎた頃でした。
帰って来た父は酷く痩せていて、ここまで辿り着けたのが信じられないくらいでした。
でも家族が再び揃ったので嬉しさは格別でした。
あまり、父に懐いていない上の弟も涙ぐんでいました。

やがて落ち着くと父は恐ろしい事を私達には話してくれました。
私達の乗った引き上げ船が出た次の日にはもうソ連の軍艦が真岡にやって来たそうです。
そして引き上げ船を待っていた500人の人を艦砲射撃で皆殺しにしたそうです。
これは後に同級生の芳子さんも私に語ってくれました。
芳子さんは、集まる場所に遅れてしまったので、急いで行こうとしたら射撃が始まったので、急いで防空壕に隠れたそうです。
暫くして射撃が収まった頃にソ連兵がやってきて、連れだされたそうです。
「自分ももう終わりだ」と覚悟を決めたそうですが、生き残った住民と一緒に、その亡くなった500名の死体を整理させられ、最後の方はもう腐り始めていてとても嫌な匂いがしたそうです。

ソ連兵は父の居る所にもやって来たそうですが、口々に何か言っているので、良く聞いてみたら「ウオッチ、ウオッチ」と言ってるのに気がついたそうです。
ですので、腕時計から目覚まし時計やら時計と言う時計全てかき集めて渡すと大人しく帰って行ったそうです。
また、父は残った人の中では支配階級に当たるので、たまに将校から食事に呼ばれたそうです。
ロシア語がいくいらか判る父は向こうのお気に入りな一人だった様です。

父達の決行は二百十日の晩に決まったそうです。
本斗の残った人々は皆連絡を取り合い、父が隠していた500トン余りの石炭運搬船で夜半に出る計画を建てたそうです。
その頃のこの辺りは河が入り組んでいたので、船を隠すのには好都合だったそうです。

その日がやって来ましたが、この日は海は大荒れで、上手く出港出来ても沖に出られるか不安だったそうです。
しかし、ナギの日に出港してソ連の軍艦に見つかれば撃沈されます。
現に正式な引き上げ船がソ連の軍艦の停戦命令を聞かなかったばかりに攻撃され沈没してしまったそうです。ですので返って好都合なのですが、上手く船を操縦出来るかが不安なのです。

深夜になり各地から人が船を隠していた河の河口に集まります。
父の合図で偽装が解かれ、人々が乗り込みます。
エンジンが掛かり船を出港させます。
沖に出ると波が荒く船を上手く操縦出来ません。
仕方ないので父が代わりに操縦します。
大波が襲い船は木の葉の様に波に揉まれます。
しかし、ソ連もこんな嵐の晩に船を出す者はいないと思い無警戒だったそうです。
船の操縦は決死で楽ではありませんでしたが、必死でした。
漁船に毛が生えた程度の大きさの船ですが今はこれだけが命の綱です。
やがて、何とか利尻島に辿り着き、父は役場に駆け込み訳を言って保護して貰ったそうです。
やがて皆は、引き上げ証明書を貰って内地に散っていったそうです。

まさに父は映画顔負けの行動でした。

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