「千反田邸にて」 前編

 大晦日の昼下がり。俺は千反田の家で過ごしていた。約束だったとは言え、まさか朝から車で親父さんの鉄吾さん直々に迎えに来るとは思ってもみなかった。
「お早うございます! 折木さん。わたし我慢出来ずにお迎えに来ちゃいました」
 長い髪を綺麗に輝かせた千反田は笑顔を俺に見せてくれた。その後ろには親父さんがこれもにこにこしながら立っている。
「おはよう! 折木君。早いとは思ったのだが、えるが聞かなくてね。それに、わたしも君にどうしても教えてあげたいことがあってね」
 親父さんの『どうしても教えてあげたいこと』とは一体何なのだろうか? 俺は気になりながらも迎えの車に乗り込んだ。千反田が助手席から俺の隣の後席に移って来た。
「クリスマス以来ですね。ここ数日用が重なって電話も出来ませんでした」
 千反田は狭い車内ということもあり俺に体を預けて来る。デニムのワンピースに薄緑のカーデガンが普段の千反田を現していた。明日は着物姿になるのだろう。そういえば髪型はどうするのだろう。
「今日は美容院にも行かなくてはなりません。少しでも一緒にいられる時間が欲しかったのです」
 恐らく千反田は先日の電話の時からずっと待っていたのではないかと思うとその気持がいじらしかった。思い切り抱きしめてやりたかったが、運転席にいる親父さんのことを思うとそう言う訳にも行かなかった。見えないようにそっと手を握った。
「……」
 千反田が何も言わず目を閉じた……

 千反田邸に到着すると、既に正月の飾りが済ませてあり見事な門松が立っている。御飾りも見事なものが飾ってある。町会の印刷しただけのものの我が家とは大違いだ。
 家に上がらせて貰うと千反田が手招きをする。何事かと思い後を歩いて行くと、俄に化粧の匂いが鼻をついた。招かれた部屋には二枚の着物が掛けられていた。
「明日着ようと思う着物です。どちらが良いか折木さんに選んで戴きたくて……選んで欲しいのです」
 なるほど、俺が選んでも良いのかと思いながら着物の柄を見ると、片方は昨年見た蝶が飛んでる小紋だった。もう片方は白地に桜が描かれていて小さいが鶴が番で飛んでいた。こういうのを比翼と言うのだろうかと思った。前のも良かったが比翼の鶴を見せられては文句無かった。
「こっちが良いな。白地に桜と比翼の鶴だ」
「はい。やはりこっちを選んでくれると思っていました。嬉しいです」
 部屋には二人だけだったとはいえ、千反田は俺に寄り添って来たので、腕を回して抱きしめて唇を重ねた……

 居間に戻って来ると台所で親父さんが俺を呼んでいた。台所なんてと思い不思議に思って呼ばれるままに行くと
「折木くん。我が千反田では大晦日の年越し蕎麦はその時の当主が打つことになっていてね。これからわたしが打つんだが、良かったら手伝って貰えないかと思ってね。厚かましいのは重々承知してるのだが、駄目かね?」
 親父さんに言われら断る訳には行かない。それに千反田はあの後「それじゃ美容院に行って来ます」とお袋さんんと一緒に出かけてしまったのだ。この家にはおばあさんを除くと俺と親父さんしか居なかった。
「勿論手伝わせて戴きます!」
 俺はそう言うと着ていた上着を脱いで手渡された前掛けを締めた。やけに用意が良いとは思わなかったがこの時はさして気にも止めなかった。
  親父さんは大きなボール(何と言うのかは知らなかった。後でこね鉢と知った)に水とそば粉を入れると丁寧にかき回して行く。水が回ると粉の端から丁寧に折 りたたむ様に捏ねて行く。 やがてひと固まりになると力を入れて捏ね始める。台所は火の気が無く寒いが親父さんの額にはみるみるうちに汗が吹き出してい る。俺は思わず
「捏ねるだけなら出来そうなのでお手伝いします」
 そう言葉が口をついて出ていた。それを聞いた親父さんは嬉しそうに
「そうか、やってくれるかい! ならお願いしようかな」
 その言葉を聞いて捏ねる役目を親父さんと交代した。見よう見まねでやり始めるが思ったより力が要る。これは汗が吹出すはずだと思った。
  所々で親父さんも指導が入る。俺は言われた通りに捏ねて行く。やがて捏ね上がるとまな板に麺棒で伸ばして行くのだが、これは流石に初心者の俺では上手く行 かないので親父さんが伸ばして行く。流石に見事だと思う。プロの職人と比べては判らないが素人としてはかなりの腕前ではなかろうか。
 やがて蕎麦切り包丁で伸ばした蕎麦の生地を麺にして行く。これも見事で細く均一に麺になっていく。
「折木くんもやってみるかい」
 言われて、下手ながらもやってみたくなった。包丁を借りると同じように板を添えてやってみるが一回は細く切れても同じ太さにならない。結局俺が切った所はやや不揃いになってしまった。
「すいません。折角なのに台無しにしてしまって」
「いやいや、始めてでこれだけ出来れば上々だよ。これから毎年やって貰うんだから直ぐに慣れるよ」
「いや~そう言って貰えると助かります」
 言ってから気がついた。毎年って……

 正月の料理は昨日迄に殆んどを仕込んでしまったそうだ。それで女性陣は髪を結いに行っている訳だった。当主がその間蕎麦を打って帰って来たら食べさせるのだそうだ。
 出来上がった蕎麦はお俺を含めても四人で食べるのは量が多いと思った。すると親父さんはタッパを幾つか出して、切った蕎麦を分けて入れ始めた。
「それはどうなさるのですか?」
 まさか保存でもするのか、と思っていたら
「これは、近所の方におすそ分けをするんだよ。わたしだけでは持てないので、すまないが一緒について来て貰えないだろうか?」
 親父さんの頼みだ、嫌なはずがない。
「勿論です!」
 俺は親父さんの後をタッパを入れた袋を持ちながら陣出の田圃の中を歩き始めた。最初に行ったのは水梨神社で、これは奉納の意味もあったらしい。神主さんが
「毎年すいません。ありがたく頂戴致します」
 そう言いながら受け取ってくれて、お守りの御札をくれた。
 それをしまって向ったのは吉田さんの家だった。吉田さんが直接出てくれて、俺が親父さんの後ろに控えているのを見て
「おお、これは折木さんじゃ……そうですか。やはり、そうなりましたか。これで千反田家も陣出も安泰ですな」
 目を細めてそんなことを言う。俺は、こんな蕎麦を配る事が千反田の家の事とどう繋がりがあるのかイマイチ理解できずにいた。
 それから回った家は、やはり陣出でそれに水梨神社の祭礼では重要な役をする家ばかりだと気がついた。やはりこれは何か大事な儀式だったのでは無かったのかと思いなおした。

 帰るとお袋さんと千反田が帰っていて、俺と親父さんが作った蕎麦の出来を見ていた。
「折木さん、手伝ってくれたのですね。それも近所や水梨神社に収めるのにも一緒に行って下さって本当にありがとうございます!」
 髪をアップした千反田に見とれながら俺はこの蕎麦の一件がそんなに大事なことだとは思っていなかった。それよりも目の前の美しい人に目を奪われていたのだ。
「少し遅いがお昼にしましょう。このお蕎麦を戴きましょう」
 お袋さんが、海老の天ぷらを揚げ始めていた。隣では親父さんが大きな鍋に蕎麦を茹でる網を幾つか入れて火に掛けている。そのたっぷりと沸いてるお湯の中にひと網にひとリ前の蕎麦を入れて行く。
 一分ほど茹でると網ごと鍋から上げて冷水に晒す。それを良く水で洗って笊に上げる。これを人数分繰り返した。
 そして予め作っておいた蕎麦汁と葱の小口切りを用意した。
「さあ出来ました。食べましょう。折木さんもどうぞ、さあ」
 言われて、千反田の隣に座る。千反田が横目で俺を見ている。その目がいつもと違う感じなのに気がついた。何だろうと考えていたら
「さ、戴きましょう!」
 おふくろさんの声で我に返ってしまった。
「戴きます!」
 各人声を出して蕎麦に箸を伸ばす。箸ですくった麺の半分ぐらいを汁に漬けて一気に口ですする。新蕎麦の香りが鼻に抜けて行く。
「旨い!」
 心の底からそう思った。細いが腰のある麺がやや濃い目の汁に絡んで何とも言えない味がする。これほどの蕎麦は食べたことがなかった。また、揚げたての海老の天ぷらも旨い。海老の締まったプリプリとした食感が僅かに匂う胡麻の香りと相まって何とも言えなかった。
 俺が食べるのを見ていて千反田も食べ始める。何だ、俺が食べるのをわざわざ見ていたのかと思った。
 
 旨い蕎麦を食べてしまうと、片付けが終わった千反田が俺を自分の部屋に呼ぶ。
「折木さんのことですからお気づきになっていますでしょう?」
 何やら訳の判らないことを言い始めて、俺に両手を回して俺を抱きしめた。
「何だ? どうしたんだ? もしかして、あの蕎麦に意味があったのか?」
 俺の顔のやや下にある千反田の顔を上げさせて問うと
「千 反田の家では大晦日に当主がお蕎麦を手打ちします。それは陣出の方々に、来年も宜しくお願いします。と言う意味なんです。これに折木さんが参加したという ことは、次の当主としての顔見世の意味があったのです。黙っていてごめんなさい。わたしも、成功して欲しくてつい黙っていました。悪い子になっていたんで す」
 正直に言えば、半分はそんな意味もあるのだろうと思っていた。それは親父さんの態度が余りにもわざとらしかったからだ。
「千反田、構わないよ。正直、今はその気持でも将来は判らない。いや、将来も変わらないようにしなくてはならないのだが、今の俺はただ『努力する』意外に道は無い。つまり、同じだと言うことさ。俺がお前に思う気は変わらないよ」
「嬉しいです……」
 千反田は俺の胸で呟くと俺を思い切り抱きしめた。
 夜は、親父さんに酒の相手をさせられて千反田が頬を膨らまして怒っていた。未成年の俺の体に何かあったらと心配したらしい。
 風呂に入らせて貰い湯上がりの体を縁側で冷やしていると。千反田が来て
「縁側は寒いですから一気に冷えてしまいます。こちらにいらして下さい」
 手を引かれて連れてこられた場所はやはり千反田の部屋だった。部屋の戸を閉めると、再び俺の体に頬を寄せて
「暖かいです。折木さんの体……将来、一緒になったら一緒にお風呂に入りましょうね。千反田の家の家訓では『夫婦は一緒にお風呂に入ること』とあるんです。これは、喧嘩していても一緒にお風呂に入れば、すぐに仲良くなるという意味なんだそうです」
 やはり、今日の「蕎麦の儀式」の影響か千反田はいつもの千反田ではなかった。今まででも公認されていたが、今日のようにほぼ正式に認められたという事で千反田は一緒の興奮状態になっているのだと思った。きっと明日は俺もいい子いい子していなくてはならないのだろう。
 遠くで除夜の鐘が鳴っていた。

 後篇に続く……