「風邪ひき折木さん」

 十一月になり神山も急に寒くなった。上垣内連峰から降りてくる風が兎に角冷たいのだ。俺は熱いのは嫌いだが寒いのには弱い。まあ、結局両方弱いのだが……
 クラスでもインフレンザの予防接種の事が話題になっていた。特に、小学生の兄弟がいる家では既に接種させているみたいだ。女子の中にも接種したと言う声が聴かれた。
 まあ、俺は風邪は良く引くがインフレンザには掛かった事がない!…… 多分。
 調べて無いだけかもしれないが、記憶に無いのだ。だから予防接種等をしようという考えが浮かんで来なかった。

 高校生にもなってインフレンザの予防接種も無いだろうと、古典部で発言したら、伊原が
「折木、あんたそれは、おかしいでしょう! これからわたしたちは受験を迎えるのよ。予防接種で軽く済むなら、めっけもんでしょう」
 そう云われてしまった。
「おいおい、俺達は未だ高二だぞ!受験は来年だ」
 そう言ってから失言だったと思った。来年のこの時期は推薦ならもう終わってる大学もあると言う事を忘れていたのだ。更に千反田が俺の顔に近づいて
「折木さん、わたしはもう済ませましたよ。折木さんは未だなのですか?」
 そう訊いて来た。そして伊原も
「わたしも、もうやったわよ。福ちゃんと一緒にして貰ったから」
 そう言ったのだ。するとそれまで黙っていた里志が
「ホータローも受けて来た方がいいのじゃ無いかい? 千反田さんの為にも」
 そんな事を言うのだ。何故、俺がインフレンザの予防接種を受ける事が千反田の為になるのか。俺には理解出来……なくは無かったが、それとこれは別だろうと思った。いくら、俺と千反田が最近付き合い始めたからと言って、それとこれは別だ。
 なんだか、大事な事をさらっと言ってしまった気がするが、俺と千反田は先月の文化祭の打ち上げの晩に付き合う事を決めたのだ。
「千反田、俺はお前の役に立ちたい、そして常に傍にいたいんだ」
 我ながら大げさだったとは思うが、その時は真剣だったのだ。
「折木さん、わたし嬉しいです。でも、本当によろしいのですか? 多くの可能性を秘めている折木さんをこの神山に、陣出に閉じ込める事になって仕舞います」
「ああ、構わない! それこそが俺の望みなのだ……」
 そう言って涙を流す千反田を必死で抱きしめたのだ。

 そんな事を部室で話していた週の週末のことだった。本来なら今日は金曜で明日と明後日は休みなので気分的にも気持ちが軽くなるのに、何故か今日は気分が重いのだ。始末に悪いのはこれが気のせいでは無いらしいと判り始めた事だ。先ほどからやたら寒気がする。。風邪をひいたか? そう思うが次の瞬間嫌な事が連想された。どうもかなりの熱がある感じだった。
 そうだ、インフレンザになったのでは無いか?と言う事だ。間抜けだ。先日この事を古典部で話しあったばかりなのに……
 俺が予防接種など要らないと言ったので罰があたったのだろうか? まさかなとは思うが、あの時既に俺の体内にウイルスが混入していたのだろうか? こんな日は早く帰って寝た方が良い。
 夕方からは医者もやっているだろうし、インフレンザならタミフルか何か飲めば早く治るはずだ。
 そう思って今日は授業が終わり次第にまっすぐ帰ろうとすると、廊下で伊原にあった。
「ああ、良かった。伊原、里志と千反田に、見かけたらでいいが、今日は部活に出ないで帰ると伝えておいてくれ」
 そう俺が言うそ早速伊原の寸鉄が飛び込んで来た。
「何よ折木、あんたが部活を休むのをなんでわたしが皆に言わなければならないの? そんなの自分で言いなさいよ。第一、ここでたまたまわたしに出会ったから、言える事でしょう。本来なら、わたしとあんたはここで出会わなかったかも知れないのよ」
 お説ごもっともです。やはり伊原は伊原だった……が……
「あれ、そう言えばあんた顔色が悪いわよ。そうか風邪かインフレンザでも引いたんでしょう。この前強気な事を言っていたから罰が当たったのね。ふううん、良いわ、言っておいてあげる。特にちーちゃんには特に丁寧にね。
だからあんた暖かくしてちゃんと寝ていなさい」
 伊原は言いたい事だけを言うとサッサと何処かへ行ってしまった。何はともあれ、伝言してくれるのはありがたい。
 さあ、さっさと帰ろうと階段を降りて行くと声を掛けられた
「おや、折木くんじゃないか、久しぶり」
 振り返ると女帝こと入須先輩だった。
「暫くぶりじゃ無いか、元気にしていたかい?」
 輝く様な笑顔で語り掛けて来るのだが、正直今の俺にはうっとおしいだけだ。
「先輩は今日は?」
 しまった、余計な事を言ってしまった。
「うん、今日は推薦の書類を受け取りに来たんだ。私の進学したい大学は推薦の面接試験は
一月だからね」
 そうか、そう言えば先輩は国立大の医学部だったな。それにしても、国立の医科に推薦で入れる成績とは、恐れ言ったものだ。気がつくと、目の前に先輩の顔があった。驚いて半歩下がると入須冬実先輩が俺に訪ねて来る
「何だか顔色が悪いが、風邪かインフレンザか? 良く無いな。早く家に帰って寝るか、それともウチに来るか」
 そう言って俺の腕を捕まえ様とする。
「いや、先輩大丈夫です。一人で帰って病院に行きますから」
 そう言うと先輩は
「途中まで送ろうか?」
「いや、大丈夫です。それより先輩、推薦の書類を……」
 俺がそう言ったので本来の用事を思い出したらしい。
「残念だが、今日は諦めよう。わたしは大体運が悪いな……折木くん、済まないがこれで失礼するが、くれぐれも早く帰って寝る様にな」
 そう言い残して入須先輩は廊下を去って行った。

 俺はもう誰にも捕まらない様に早足で階段を下まで降りると、下駄箱で靴を履き変えていた。すると、聞き慣れた声を掛けられた。
「やあ、ホータロー、今日は帰るのかい?」
 振り向くと里志だった。よりによって、今日と言う日に限って……
「ああ、今日は帰らさせて貰う、先ほど伊原にも言ったのだが、千反田にはそう言っておいてくれ」
 俺はそう言って靴を履いて帰ろうとすると里志が
「さっき摩耶花に会ったと言う事は千反田さんだけには会っていないんだね。そうか、それじゃ千反田さんにも言っておくよ。ところで何か顔色が悪いけどもしかしたら、具合が悪いで帰るのかい?」
「ああ、そうだ、何か熱ぽくてな、風邪かあるいはインフレンザかも知れない。だけど千反田に余計な事は言うなよ」
「そうか、なら尚更千反田さんに言っておかなくてはね」
 何と言う事をこいつは言うのだろうか、千反田が俺の具合の悪い事を知ったら、只では済まない。すると里志が薄笑いを浮かべて
「ホータロー、でもね自分が具合の悪い時に、愛しい人に看病されると言うのも乙なものだよ。じゃあ、ちゃんと千反田さんには伝えておくから、お大事に……」
 そう言って里志は階段を上がって行ってしまった。
 そうか……そうなのだ、里志と伊原はもう付き合って半年以上になる。そのぐらいはもう経験済みと言うことか、と俺は思い、自分と千反田の事を考えた。あいつは、恐らく……やって来るだろう。里志が何と言おうとやって来る……そんな予感だけが頭の隅を巡っていた。

 家までの道のりを歩きながら、俺は自分の具合が増々悪化して来たのを自覚していた。不意に里志の言葉が頭を過ぎる
『自分が具合の悪い時に、愛しい人に看病されると言うのも乙なものだよ』
 確かにそうなのかも知れない。俺は自分の部屋で寝ている姿を想像する。そこに、千反田がやって来て色々と世話を焼いてくれる……確かに悪く無いかも知れない……
 だが、俺の部屋にそのまま千反田が入って来て大丈夫だろうか? 見られて困る様なものは……無いはずだ。
何と言っても俺の部屋の本棚にある本の大半は姉貴のものだ。だから、姉貴は部屋の現在の主である俺に何の断りも無しに勝手に入って来るのだ。だから、そんな時に見られて困る様な物は置いて置けないのだ。この点については大丈夫だという自信があった。
 まあ、そんな事を考えていなくても、千反田は来ないかも知れないし、いや、その可能性の方が高いかも知れない。そうだ、そうに決まっている。
 熱のせいか、何だか普段とは違う思考回路になっているようだ。そこで、またくだらない事を考えてしまった。
 里志はどのぐらい伊原に看病されたのだろうかと……

 家に帰ると誰も居ない。それはそうだ、親父は出張で姉貴は高校時代の友人と京都に紅葉を見に行っていない。
 日曜の晩に帰って来る予定だから、今夜と明日そして明後日の夕方までは一人と言う事だ。時計を見ながら着替えると、もう医者のやっている時間だ。のろのろと自転車を出して医者に向かう。時間が早かったので、待たずに診察となった。
「風邪だね。薬出しておくから」
「風邪ですか?インフレンザじゃ……」
「ないね!だが風邪と言っても侮っては大変な事になるし、今流行りの奴だと熱が結構出るから薬を飲んで、大人しく寝ているんだね」
 そう医者に言われて調剤薬局で薬を出して貰って家に帰ると玄関で千反田が待っていた。
「里志に訊いたのか?」
 千反田は、俺の顔を見て喜びの表情を見せて
「摩耶花さんから訊きまして、その後福部さんからも、そして昇降口で入須さんからも訊きました」
 なんて事はない、俺が蒔いた種を千反田が回収してとは、なんと言う皮肉だろう。
「医者に行って来た処だ。只の風邪だそうだ。インフレンザじゃ無いから心配しなくて良い」
 玄関を開けながら、千反田に医者の診察結果を伝えると
「風邪でも、ちゃんと養生しないと大変な事になります。お薬を飲んだら着替えて寝てくださいね」
 そう言って俺を着替えさせて、ベッドに寝かせ、俺が薬を飲むのを確認すると
「お借りしました」
 千反田は白いセーラー服の上から、姉貴が良く掛けているエプロンをして、その姿を俺に見せに来た。熱のせいか、中々良く似合ってると思ってしまった……
 僅かの間、姿が見えなくなったと思ったら、湯気の立ったマグカップを持って来た。
「冷蔵庫を拝見したら牛乳があったので温めて来ました」
 そう言って、俺の前に差し出す。
「ありがとう、すまんな」
 礼を言って牛乳に口をつけると、僅かに甘く、温かい牛乳がこんなに美味しいと初めて思った。すっかり飲み干してしまうと
「少し眠った方が良いですよ」
 そう言ってベッドの傍らで微笑ながら軽く掛け布団の上を叩いてくれる。子供じゃ無いんだし、と言おうとして、里志の言葉が再び蘇った。
『自分が具合の悪い時に、愛しい人に看病されると言うのも乙なものだよ』
 確かにそうかも知れない。あいつらは、こんなことをもう何回も繰り返したのだろうか……
 そう思っていたら意識が薄れてきた……

 目が覚めると、枕元には千反田の姿は無かった。俺はきっと帰ったのだと思い、窓際の目覚まし時計を見ると、時計の針は七時を指していた。
 あたりはすっかり暗くなっていて、窓からは陽の光では無く街灯の光りが注いでいた。上半身だけ体を起こすとかなり汗を掻いており、着替えなくてはと思い脇を見ると、ベットの脇に着替えが置いてあった。
 千反田が用意してくれたものだろうか、それなら俺の着替えが入っているタンスを開けたのだろうか? 少し気になった。
 着ていたものを脱いで着替え終わると千反田が部屋に入って来た。とっくに帰ったものとばかり思っていた。
「なんだ、帰ったと思っていたよ」
 千反田はコートを着ていた。先程は制服のはずだったが……
「一旦家に帰ったのか?」
 千反田に確かめると嬉しそうに
「はい、良く寝ていらしたので、一旦家に帰って、途中買い物をしてまたお邪魔しました。日曜の夜までお一人と伺いましたので、その……少しでもお役に立てればと思いまして……」
 そう言って買ってきた荷持を俺に見せた。覗くと、色々な品物が袋の中に入っている。
「お腹空いたんじゃ無いですか?用意してきますね」
 そう言って片手で荷物を持ち空いてる手で俺の脱ぎ捨てた衣類を抱えて部屋を出て行った。階下から「洗濯機お借りしますね」と聞こえる。
 俺は「ああ、好きに使ってくれ」と返事をして、千反田が何を洗うか気がついた。
 今更、何と言えば良いか、言葉が見つからないまま洗濯機が動く音が聞こえてきた。
 そこで俺は、今着替えた分だけでは無く、洗濯機に放り込んでいた、昨日の分も一緒だと気がついた。既に遅かったが……
 程なく階下の千反田が部屋に入って来て
「折木さん、夕食ができましたが、食べに降りられますか? それともお持ちしましょうか?」
 そう言うので俺は未だ、熱が完全に下がった訳では無いが、リビングに行く事ぐらいは出来そうなので
「大丈夫だから行くよ」
 そう言って一緒に降りて行った。

「今夜は消化の良いものにしてみました」
 見ると、彩りも綺麗な料理が並んでいた。
「美味そうだな」そう言うと
「調味料などはお借りしました」
 そう言って俺が座る席の前に向かい合わせに座った。
「ごはんは、おかゆにしてしまったのですが、普通のごはんの方が良かったですか?」
「いや、今夜はおかゆで良かったよ」
 先ほどまでかなりの熱だったのだ、それに今でも回復した訳では無いので、これで良かったと思う。そして味付けも風邪を引くと塩分に敏感になり普通の味付けでも濃いと感じるが、その点でも良く考えられており、申し分なかった。千反田も一緒におかゆを食べてくれた。

「美味しかったよ千反田、ありがとう。でもそろそろ帰らないと遅くなるんじゃ無いか?」
 片付け終わり、時計を見て時間を確認した俺は、お礼と千反田の事を心配して言うと千反田は
「今夜と明日の晩はこちらに泊まらせて戴くつもりで参りました。せめて、折木さんの具合が良くなるまでお世話させてください」
 そう言って黄色いエプロンの裾をいじって見せた。なんだって! 泊まる? 今夜と明日の晩もか?
「いや、その気持は嬉しいが、それは不味いだろう。若い男女が二人だけで一つ屋根の下で過ごすなんて……」
「折木さん、ご迷惑でしたか……わたしならリビングのソファーで寝ますので、折木さんのお邪魔はしませんので、駄目ですか?」
 千反田は悲しそうな表情で俺を見つめながら俺を見ている。確かに、今の俺は千反田と間違いなんて起こせない程弱っているが、だからと言って……
「出て来る時に両親にはちゃんと説明したら、『家の事は良いから折木くんのお世話をちゃんとして来なさい』と言われましたので両親も納得済みです」
 そこまで言われては俺は何も言えない。
「それに……」
「それに?」
「先程の洗濯物が未だ干していませんから」
 千反田はそう俺に言って笑顔を見せた。もう完全に俺の負けだ、千反田を泊めざるを得なくなってしまった。
 別な部屋……姉貴の部屋とかで寝かせれば良いか……俺はそう考えていた。
「千反田、本当にいいのか?」
 再度確認をすると千反田は笑顔で
「はい、宜しくお願い致します」
 そう言って俺に夕食後の薬を差し出した……正直、忘れていた。
 俺は千反田に来客用の布団が仕舞ってある場所を教え、風呂の沸かし方等もレクチャーして自分の部屋に戻った。気のせいか、また熱がぶり返しつつある様だ。
 早く布団に入ったほうが良いと思いベッドに横になり布団をかぶるとすぐに眠りに落ちた……

 何時頃か判らないが目が覚めて、部屋を見ると自分で灯りを消した記憶が無いのに真っ暗になっている。きっと千反田が見に来てくれて消してくれたのだと理解した。だが、何となく部屋の感じがおかしいのだ。いや自分の部屋には違い無いのだが違和感を感じるのだ。
 誰かかこの部屋にいる……瞬間的にそう感じて暗い部屋に慣れて来た目で確認すると、俺のベッドの下と言うか脇と言うか隣に来客用の布団が引いてあり、そこに千反田が寝ていた
「……!」
 その時の俺の驚きを想像して欲しい。
『なんで、お前がここに寝ている?』
 俺は声には出さなかったが口はそう動いていた。実は寝姿の千反田を見るのは初めてで、その姿は流石良家の子女の事はあると思った。
 きちんとした格好で寝ている。やや右を下にして横向にした顔はとても安らかな寝顔だ。俺は薄暗い部屋で暫く千反田の寝姿を楽しんでいた。
「う、うん……」
 しまった、俺の気配でどうやら起こしてしまったらしい。
「あ、折木さん……実は下のリビングで寝ていたのですが、寂しいので、引っ越して来ちゃいました」
 薄っすらと笑った優しげな顔が愛しかった。
「熱は如何ですか?」
 千反田が俺の額に手を当てる。
「大分下がりましたね」
 そう言って手を離そうとした処を逆に右手で千反田の手首を掴み、左手で腰に手を回して抱き抱える様に自分のベッドにあげる。自分でも大胆だと思う。
 何と言っても、俺と千反田は未だキスさえ片手でさえ余る程しかしていないのだから。
 抱き上げて、自分の布団の上に下ろす。布団が無ければ俺の膝の上に横向きに抱える形になった。
「折木さん……わたし……」
 何か言いそうな唇に自分の唇を重ねる。
「すまんな風邪を移すかも知れないな……」
「いいえ、構いません。でも折木さん……火の様に熱いです」
「お前も熱いよ千反田」
 両手でしっかりと千反田を抱き締める。
「このまま、朝まで折木さんに抱きしめて貰いたいです」
「ああ、構わないよ」
 千反田が俺の膝の上に乗りながら、ベッドの下にある自分の掛け布団を持ち上げると自分の上に掛けた。
「これで、朝まで寒くありません」
 俺と千反田の間には俺の掛け布団しか遮るものは無いが、今夜はこのままでいたい。本当は一枚の布団に一緒に包まっていたい……でもそれは俺達には未だ……
千 反田も俺の背中に腕を回してお互いに抱きしめ合う。
「わたし、大胆ですか?」
「いいや可愛いよ」
 もう一度キスをすると千反田は俺の胸に顔を埋めて安らかな寝顔を見せた。俺も、このまま寝る事にしようきっと明日には風邪も直っているだろう……

 そのまま俺も夢の世界に落ちて行った。



 了