「桜の木を植える理由」

 長かった冬も終わり、やっと春になった。ここ神山は高地にあるせいか、東京や名古屋等と比べると春の訪れが遅い。
 それは何も急になった訳ではなく、俺が生まれる前からそうなのだ。
 
 四月の神山の行事は祭も確かにあるが、俺の周りではなんと言っても、陣出で行われる「生き雛祭り」である。
 俺は昨年千反田に頼まれて、生き雛である千反田に傘を差すという役目を仰せつかったのだ。何とかその大役をこなした後、俺は千反田邸の縁側で千反田の覚悟を聴いたのだった。だが俺はそれに対してはその時は何も言えなかった。

  今年も「生き雛祭り」は盛大に行われ、俺は今年も傘を持つ役目になった。昨年と違っていたのは、行列に出る前に俺を呼び出して、二人だけの場所で、その姿 を披露してくれた事だ。それが昨年の俺の唯一の心のこりだったのだが、どうやら千反田はそれを察していたようだ。その時の顔が、妙に嬉しそうだった。

 

 
「しかし、今年のちーちゃんの生き雛の素晴らしさは昨年の比じゃ無かったわ。そりゃ昨年も見事の一言だったけど、今年はその上を行って神々しい程だったわね」
 始業式が終わった放課後の地学講義室で伊原が先日の「生き雛祭り」の事を話している。
「ホント、まさにそうだったね。でも今年のホータローは呆けた表情で無かったのが以外だったね」
「そうなのよね。折木のくせに妙に余裕があったのよね」
 全くこの二人は言いたい事を言っている。だがここで俺が本当の事を言っても仕方ないと思った。あれは二人の間の出来事で、他人に口外すべきでは無いからだ。
「兎に角折木、あんたは二年も続けてちーちゃんに傘を差せることが出来たのは幸運だと思いなさいよ」
「まあ、摩耶花、そこまで言ったらホータローだって辛いよ。きっと千反田さんだってホータロー以外の人間に傘を持って貰うのは想像してないと思うよ」
 しかし本当に失礼な奴らだと思っていたら千反田が顔を出した。
「ああ、皆さんお集まりだったのですね。先日はどうもありがとうございました」
 千反田は部室の入り口で深々と頭を下げた
「ちーちゃん、お礼を言うのはわたしたちの方よ。あんなに素晴らしいものを見る事が出来て、今も話していた処だったのよ」
 伊原がそう言って里志に同意を求めると
「そうさ、それに参加出来たホータローは幸せ者だと言っていたんだよ」
 里志がすかざずフォローを入れる。こいつらの方がよっぽど抜群のコンビだと俺は想う。

 千反田は用事があるので帰らなければならないと言う。その前に「生き雛」の時のお礼を言いたくて部室に寄ってみただけだと言う。俺も特に部室に居なければならない理由が無いので千反田と一緒に帰る事にする。
「折木、ちゃんと送って行くのよ」
 伊原の厳しい指導を受けて俺達は部室を後にした。

「折木さん、わたしと一緒に帰っても良かったのですか? 何か御用がおありじゃ無かったのですか?」
 千反田が心配してくれて言ってくれるが
「なに、あのままいたら「生き雛」の時の事をいつまでも言われていた事だったよ。むしろ助かったよ」
「そうですか、なら宜しいのですが……」
 その千反田の言い方が何か何時もと違っていたので俺は気になり
「どうした? 何かあったのか?」
 そう言って千反田の表情を覗き込むと、千反田は作り笑いをして
「いいえ、本当に何でも無いんです」
 そう言ったが、どう見てもその顔は何かを隠している感じだった。
「実は今日は駅前で父の車に乗る事になっているのです。だから……」
「駅まで送って行こうか? どうせ大した距離で無いから」
 俺がそう言うと千反田は慌てて
「とんでも無い、そんな勿体無い。大丈夫ですから。あリがとうございます」
 千反田はそう言うと駅へ向かう道を歩いて行ってしまった。

 俺が黙ってその後ろ姿を眺めていると後ろから肩を叩かれた。振り向くと里志だった。後ろに伊原もいた。
「千反田さんは、何かホータローに知られては困る事がこの後あるという事だね」
 いったいこいつらは俺と千反田の会話を盗み聞きしていたのだろうか?
「里志、お前……」
「でも、それなら何故、今日わざわざ部室に顔を出したの? 折木に知られて困る事ならそのまま帰れば良かったのじゃ無い?」
 確かに伊原の言う事は最もだ。まるで、俺がその事に深く介入するのは避けたいが、多少の事情は知っておいて欲しいという様にも感じる。
「まあ、そのうち判るさ」
 変と言うよりも妙な違和感を抱いたが、二人に別れを告げて帰り道を急いだ。
 それから特に変わった事があった訳ではない。千反田もほぼ毎日放課後は部室に顔を出していたし、伊原や里志とも特に変わった事があった訳では無い。だが、学校内で、常に誰かの眼差しに晒されている様な感じを覚えたのも事実だ。そして、その事はいきなり露わになった。

 春の雨というのは一雨ごとに暖かくなるのが俺でも判る。その日も雨が降っていた。春の雨らしく、小雨というか柔らかい雨で、俺と千反田は放課後帰りが一緒になり、昇降口から出て来た処だった。
 校庭の向こうから、一年生だと思う女生徒がこちらに歩いて来たのだ。その生徒は千反田の顔を見るなり
「千反田先輩、こんにちは。お帰りですか? ああ!そちらが「生き雛祭り」で傘を差された婚約者の折木先輩ですね」
 そう言ったのだ。俺は焦って千反田の顔を見ると、口をパクパクさせて真っ赤になっている。その態度が不思議に感じたのか、くだんの一年生は
「あれ? 違いましたか……祖父から訊いたものですから」
 それだけを言うと一礼して俺達の前から消えて行った。

「あの、吉田さんのお孫さんで、印字中出身なんです」
 おい、大事なのはそこじゃ無いだろう……そうか、この前から感じていた妙な違和感や眼差しの正体はこれだったのかと納得が行った。 
 俺が黙っていたので、千反田が自ら話しだす。
「あ のう……実は、先日の「生き雛祭りで、折木さんに傘を差して戴いたのですが、昨年は怪我人の代理という名目があったのですが、今年はさしたる理由も無く折 木さんにわたしが頼んだのです。その結果二年連続で折木さんが傘を差す事になり、周囲の人々から『きっと千反田さんの娘さんの想い人なんだろう』と噂が立 ちまして……そのう……」
 千反田が事の次第を話してくれたので、大体は判ったが、それにしてもいきなり『婚約者』とは飛躍しすぎだと思う。まあ、その元が吉田さんなら仕方あるまい。なんせ初対面の俺に『しっかりしていなさる』と言った人だ。勘違いしてもおかしく無い。

「なあ、千反田、先日親父さんと駅前で待ち合わせた時に『俺に送って貰わ無くても良い』
と言ったのは、そう言う噂がある中でわざわざ俺の顔を見せたくは無かったと言う事なんだな?」
 俺の言った事が、恐らく外れては居なかったのだろう。千反田は黙って頷いた。そして
「それもあります。それから、父が折木さんの人となりをもっと良く知りたがっているのも事実なのです。だから、片方はそう言う目で見ているのに、肝心の折木さんが何も知らないのはフェアでは無いと思ったのです」
 なるほど、千反田の中での拘りなのだと思った。
 
 校門を出るとすぐにバス停だ。
「千反田、そう言う事なら、今日はここで失礼する。そんな噂がある中、俺がお前の家には行かない方が良いだろう」
 俺の言葉を理解した千反田は
「本当に申し訳ありません。時間が経てば状況も変わると思います」
 そう言って始めて笑った。その笑顔に
「だがな、俺は別に何時でも人となりを見られても構わない。そんな簡単に繕っても意味はあるまい。自分自身を晒せば良いだけだ」
 俺の想いをぶつけると千反田は嬉しそうにして、来たバスの車上の人になった。



 折木さんは、わたしが思っていたよりも、しっかりとした考えを持っていらっしゃいました。
 事実、水梨神社の氏子の間では折木さんの事が話題になっていました。その中心になっていたのが、吉田さんなのです。
  吉田さんは折木さんの事を大変気に入ってます。それは私も嬉しいのですが、いきなり婚約なんて飛躍しすぎです。だってわたしは折木さんとは何の約束もして いません。それは折木さんとはお休みに一緒にお買い物に行ったり、お互いの家を行き来して一緒に勉強したり、たまには二人で映画や遊びに行ったりもします が、これってお付き合いしてると言う事ではありませんよね? 違うのでしょうか……
 福部さんと摩耶花さんはお付き合いしていますが、どのような事をなさってるのでしょうか? わたし気になります! 今度ちゃんと訊いてみましょう。
 お付き合いと言うのはやはり、結婚を前提としていなければならないと思います。それ以外は友人関係の延長ではないでしょうか?
 
 そんな事を考えながらバスに乗っていると、バスの窓にはあちらこちらの桜が花をつけて来たのが見えました。次のお休みには満開になるでしょうか? きっと、あの早咲きの桜も今年は時期を間違えずに咲いている事でしょう。
 そうです! 折木さんを、お誘いして二人で見に行きましょう。そう決めました。帰ったら早速電話をしましょう……




 千反田と別れて家に帰り暫くすると電話が掛かって来た。何でも陣出のあたりの桜がこの次の休みあたりに満開になるので、あの『狂い咲きの桜』を見に行こうという誘いだった。
 いったい、あいつの頭はどうなっているのだろうか? 先ほどまで、話していた事なんか忘れている見たいだった。まあ、気にしないのなら結構な事だ。その誘いには改めて了解をする。

 次の土曜日はいい天気で、しかも春本番と言っても良い陽気だった。俺は自転車で千反田邸に向かう。確かにあちらこちらの桜も程よく咲いていて、この週末が見頃だと納得させてくれる。
 家を出る前に千反田に電話していたので、門の前で千反田が自転車に乗り待っていた。前の籠には荷物がある。恐らく弁当なのだろう。それはそれで非常に楽しみだ。
「お待ちしていました。早速行きましょう」
 千反田はレモンクリームのワンピースに少し薄い緑のカーディガンを羽織っている。足元の白いソックスと茶色い靴が良く似あっている。
 「何だか、随分楽しそうだな?」
 俺が軽口を叩くと千反田は俺に質問をぶつけて来た。
「折木さん。ここで問題です。こうやって田圃の間を走っていると、あちこちのあぜ道や土手に桜が植わっていますが、この意味が判りますか?」
 そうなのだ、田圃のあぜ道などにぽつんと一本だけ桜が植わっていたりする。並木にもなっていない一本だけの桜の木……

「それはだな、農作業の合間に皆がお昼を食べながら桜を見る事が出来る様に植えたのさ。ご先祖さまや、お祖父さんなどが家族や手伝いの人の事を思って植えたのさ。だから一本だけ植わってるのが多いのさ」
 俺の回答を黙って聞いていた千反田は嬉しそうに
「正解です! 良く折木さんご存知でしたね。お見事です」
 そう言って千反田は褒めてくれたが、違うのだ
「千 反田、種明かしをすると違うんだ。この前の「生き雛祭り」の時に吉田さんと話していたら、昨年の事になってな。吉田さんが同じ事を俺に言ったのさ。当然俺 は知らなかった。そうしたら吉田さんが今の様な事を教えてくれたのさ。『春は花、夏は葉が茂り木陰を作って皆を休ませてくれる。その為に植えてあるの だ』ってね」
 俺は正直に種明かしをすると千反田は
「そうですか、それは吉田さんがやはり折木さんをお認めになっているからですね」
 そう言いながら嬉しそうだった。
 実は、それを聞いた時に俺は、千反田家の当主として大切なのは、農作業の技術よりも、そう言った細かい処に気を使えるか、なのだと思った。如何に気持ち良くみんなに働いて貰えるかが大事なんだと……吉田さんはそれを俺に教えてくれたのだと……

 やがて目的の「狂い咲きの桜」が見えて来た。今年は時期は普通だが、昨年以上の見事な花をつけている。
「折木さん満開ですよ! 見事です!」
 そう言って満開の花の下ではしゃぐ千反田は、俺には何とも形容し難く、花に負けない美しさに想えたのだった。


 了