夏の幻想
僕の乗った「東武動物公園」行きの東武電車は静かに浅草を発車してゆっくりと隅田川を渡って行く。陽は少しだけ傾きだした。そういえば、久しぶりにこの電車に乗った。
目的地は「東武動物公園」だ。いや正確には杉戸だ。もう杉戸駅が「東武動物公園駅」に変わって何年が経ったろうか。
子供の頃、叔父の家に行くのに良く乗ったものだった。その頃は杉戸までが禁煙でそこから先は普通の電車でも車内で喫煙出来た。但し、灰皿があったのかは知らない。僕は当時は小学校にも上がっていなかった。
やがて電車は「とうきょうスカイツリー」と名前が変わった業平橋に到着する。結構大勢の人が乗って来る。
「業平橋」粋な名前じゃないか、何故変えてしまったのだろう……無粋な名前だと思う「とうきょうスカイツリー」なんて。在原業平由来の名前を変えてしまうなんて……尤もかの業平がここまで来たと言うのは眉唾らしい。
次の駅は「曳舟」だ、ここは亀戸に行く線も出ているが、地下を通って来た半蔵門線と合流するのである。隣のホームに両方の電車が滑るように停車する。
だが、こちらは「区間急行」向こうは堂々とした「急行久喜行き」である。当然向こうが先発だ。
大勢のこちらのお客が向こうへ乗り換える。こちらへは少しの客。途中の北千住まで向こうは止まらない。逆にこちらはそこまで各駅に停る。北千住から先は同じだ。
数分しか違いが無いなら、わざわざ乗り換えて混雑する電車には乗りたくない。只でさえ余り行きたく無いのだ叔父の葬式なんて、いや今夜はお通夜か、兎に角今までの人生で最も参列したくない儀式と言う訳だった。
それは、亡くなった叔父はとても僕をかわいがってくれたからだ。子供のいなかった叔父夫婦はすぐ上の兄貴の子供の僕を実の子のように思ってくれた。
夏休みには田舎の無い僕に、杉戸の自分の家に連れて行き、近くの雑木林でカブトムシやクワガタ捕り。付近を流れる川では小鮒などの川魚の捕り方を教えてくれた。
コンクリートとアスファルトしか知らない僕に取ってはちょっとしたカルチャーショックで、木に付けた蜜に群がるクワガタやカブトムシに中々触れなかった。
そんな僕に一から捕り方を教えてくれた人だった。親戚の中では一番好きな人だった。だから今でも信じたくないのだ。叔父が亡くなってしまったなんて……
電車は北千住を過ぎてスピードを上げ出した。ここから先は急行になる。西新井、草加、新越谷、越谷、せんげん台、春日部、そして終点の東武動物公園となる。
埼玉に入ると駅の間隔が長くなり電車はスピードを上げる。子供の頃はそれが嬉しかった。あの頃は見渡す限り田畑で、それが叔父の家に行く度に家や建物が増えて行った。今では家並みが連綿と続いている。
すっかり変わってしまった風景を見ているうちに電車は終点の「東武動物公園」についた。
駅はすっかり新しくなっていて、昔の面影は駅前のロータリーだけだった。タクシー乗り場に向かうと、地元らしき黒塗りの車がドアを開いてくれた。
「木津内までやってくれ」
「木津内のどの辺ですか?」
「浅間神社のあたり」
「浅間神社……」
「確かゴミ焼却場の……」
「ああ! 判りました」
少しのやり取りの後で運転手は場所を判ってくれたみたいだ。
冷房の効いた車内から久しぶりの杉戸の街を眺めると当然ながら街の様子はすっかり変わってしまっている。
特に「東武動物公園」が出来てからはすっかり変わった――運転手さんはそう言って少し昔を懐かしんだ。
「子供の頃、江戸川で鮒なんか釣ったり、近くの林でカブトムシなんか捕りましたよ」
僕の言葉がきっかになったのかは判らないが、話は昔の子供の遊び方が話題になっていた。
「ありがとうございました!」
運転手の言葉に送られて車を降りるとムッとした風に包まれた。僅かな砂埃が足元をすり抜けて行く。
叔父の家は、今は目の前にある「浅間神社」からすぐの場所だ。ゴミの焼却場がこの前に出来たりしたが、僕が良く連れてこられた頃とそう変わったてはいな
い。小さな畑があったり江戸川の傍の土手も変わりはしない。勿論、カブトムシ狩りをした雑木林も多少小さくなった気がするが未だ健在だった。林の陰から叔
父が今にも出て来そうだと感じた。
叔父の家に顔を出すと、父親の一番下の弟の細君、つまり叔母なのだが、が顔を出し
「お父さん、博士くん来たわよ!」
大きな声で奥に呼びかけている。奥から叔父が出て来て
「ああ、遠いところ、良く来たな。ま、上がって線香をあげてくれ」
もとより今夜の通夜と明日の告別式に出る為にやって来たのだから、叔父に言われなくても線香をあげさせて貰う。
玄関を上がり、右手の奥の部屋に祭壇が飾ってあった。前に進み線香をあげてリンを鳴らして両手を合わせて拝む。心に思う事は『今まで色々とありがとうご
ざいました。どうぞ成仏して下さい』だ。本当はもっと色々と言いたいが、僕が迷うことで叔父が成仏出来なくなると困るので、あえて言わないようにする。
更に奥に進んで、叔父の連れ合いの叔母に挨拶をする。
「遠いところを良く来てくれたねえ。ウチの人も喜ぶわ」
そう言って穏やかな顔を見せてくれた。
通夜は、叔父の顔の広さもあり、地元の人達も大勢焼香に来てくれた。僕は親戚の一人として、挨拶をしていた。
ふと見ると、小学生とおぼしき男の子が家の中にいて、あちらこちらと顔を出している。誰かの子供か孫かと思ったが、格好が何かおかしかった。
最初は気のせいかと思っていたが、気になるので、父の一番下の叔父に尋ねてみた。
「さっきから、あちこちに顔を出してる子、知ってる?」
僕の訊き方が悪かったのか、叔父は酔っ払っていたのか
「子供? しらんぞ! お前、酔ったか」
知らないと言うのだ。信じられなかった。現に今も、地元の自治会の会長さんと言う人を玄関で見送って……あれ? いない……
他の親戚に呼ばれて酒の相手をしているうちに、その子供は見えなくなってしまっていた。
ふと、袖を引かれた。振り返ると、あの子だった。
「ねえ、明日の朝カブトムシ捕りに行こうよ。オイラこの前から蜜を仕掛けてあるんだぜ」
この前から、と言うことは、きっと夏休みで遊びに来ていたんだろう。昔の僕みたいに……きっと叔母の親類の子なのだろう。
その時はそう思ったが、何故かこの子に関しては違和感が消えなかった。またその原因も思いつかなかった。
告別式は十一時からだ。夜明けの時刻は寝ているだけだ。
「ああ、判った。今でもこの辺は捕れるのかい?」
僕の質問にその子は笑いながら
「ああ、凄いよ。今の方が捕れるから」
今の方が……って何時と比べているのだろう。疑問が残った。
「五時に玄関に起きてきてね」
その子はそう言うと奥の部屋に去って行った。そっちは祭壇しかないはずだが……
酔っていたのだろうか、その子を見失ってしまった。
「まあ、いい、明日の五時だ」
それだけを思い、その晩はこの家に泊まらせて貰った。
翌朝、陽も明けきらぬ暗いうちに目が醒めた。ねぼすけの自分としては珍しいと思った。時計を見ると四時を少し過ぎたばかりだった。
早いかなと思ったが、着替えて玄関に出て見ると、昨日約束した子は既に玄関で待っていた。
「早いな! もう支度していたのかい?」
「うん、寝ないから」
まさか、僕とカブトムシ狩りが嬉しくて寝られなかったのか――そんなことはないと思い直した。
僕とその子は浅間神社の裏手にあるこんもりとした雑木林の中に入って行った。その子が先頭に立ち案内してくれる。そして一本の木に到達した。
「ほら、見て」
その子が指差す場所を見ると、蜜で光る場所に二匹のカブトムシがいた。
「凄いな。そうだ、昔もこうやって捕ったな。思い出したよ」
すると、目の前の子が
「思い出したか博士」
間違い無く叔父の声で言ったのだ。
「叔父さん?」
僕の問いかけに静かに頷くその子
「向こうへ行く前にもう一度子供に帰ってカブトムシ捕りをしてみたかったのさ」
そうか、それで僕にしか見えなかったのも納得する。
二匹のカブトムシを籠に入れて、子供の叔父は
「閻魔様への土産が出来た」
そう言ってニコニコしている様は、確かに往年の面影があった。
「元気で暮らせよ。何時も見ているからな」
そう言って、その姿が段々と薄くなって行き、やがて消えて行ってしまった。
「あ、叔父さん……」
僕の耳に再び叔父の声が聞こえる
「この次は鮒を捕りに行こうな」
僕は心の中で答えた
『ああ、必ずだよ叔父さん……』
「キヤーカブトムシ!」
金切り声で目が覚めた。周りを見ると未だ通夜の席だった。どうやら夢を見ていたらしい……親戚の一人から
「博士は案外酒に弱いんだな。あれくらいで酔いつぶれるなんてな」
そう言われてしまった。見ると縁側を一匹のカブトムシがのっしのっしと歩いていた。僕はそれを手に取り、祭壇に載せた。するとカブトムシがすううっと消
えたのだった。それに気がついていたのは恐らく僕だけだろう。このカブトムシは叔父のおみやげなのだから、ここにいなければならない。
祭壇の横を見ると、叔父が愛用していた野球帽が飾られていた。そう、あの子が被っていた野球帽だ。
僕は、あの、子供姿の叔父の違和感の原因が判った。原因はこの野球帽だ。僕の子供の頃はその球団は余り強く無かった。だが、少し前まではとても強くでアンチが生まれる程だったと言う。
数々の名選手が生まれ名言が生まれた。後の生まれの僕が聞いて感動したのが、杉浦と言う投手が日本一になった時に語った言葉「ひとりになって泣きたい」だった。
昔、大阪の難波にあった野球チーム「南海ホークス」、その帽子は緑の地にHのマークが着いていた。
叔父は関東の生まれだが熱心な南海ホークスファンで、チームが東京に来ると僕を連れて後楽園とか千住の東京球場とかに連れて行ってくれた。
今はそうでもないがその頃は、東京の子でYGマーク以外の帽子を被った子はいなかったからだ。
カブトムシともう一つ大事な叔父の思い出……
了
最近一番のお気に入りの作者。
彼は幅広いテーマで色々な小説を書いているが、不思議な味の作品も時々書いている。
他の作品も悪くはないが、虚実が入り交じったような作品こそが彼の持ち味だと思う。
今作も掌上小説とでも呼ぶのだろうか、日常の中の非日常が見事に描かれていた。
東武動物公園が舞台だ。いや、舞台は登場人物の心かな。
東武動物公園には行ったことはないが、カバ園長が好きだった。
テレビに出てくると、その愛敬のある顔と彼の話に夢中になったものだ。
漫画にもなったっけ、動物物が得意な漫画家だったな。
動物の悲しい話も多かったけど、毎週、毎週、ワクワクしながら読んだ。
お気に入りの作者の小説でもカブトムシが生き生きと描かれていた。
彼岸と此岸とを結んだカブトムシ。
次は鮒で作品を書いてくれるのかな。
間に合うかな……
彼岸からカバ園長と漫画家の顔が近付いてくる。