目標 第31話 「未来に向かって」 

 それから暫くして、斎藤さんと飛鳥が正式に結納を交わす日が決まったと知らせてくれた。そのなかで、俺達夫婦にどうしても仲人が無理なら立会人になって欲しいと言われてしまった。
「式の時は別な仲人を立てるから」
 そう言うので、俺と真理ちゃんは仕方なく「立会人」として臨席することになった。何でも、両家で結納を交換した後で俺が「確かに両家で結納が交わされました」とか言えば良いらしい。
 当日は、何とうちの店の個室で行われる事になった。飛鳥の店の休みの火曜日が選ばれた。
 俺はその日は慣れないスーツで店に通勤して、皆から散々からかわれた。その日飛鳥は桜の花が散りばめられた小紋と言う着物を着ていた。
 何でも正装にも着て行ける「江戸小紋」と言うそうだ、と真理ちゃんが教えてくれた。我が妻は洋裁だけでなく和裁にも詳しいのだ。

 その日の飛鳥は本当に綺麗で輝いていた。初めて調理場で見た時は痩せていて男の子みたいだった。そんなことを思いだしてしまった。
 リラックスしている飛鳥に比べ斎藤さんは緊張しているみたいだ。表情がやや硬い。それを飛鳥が気にして笑顔で語りかけている。もう立派な奥さんだと思った。
 両家の結納が無事に終わり俺が
「これで、斎藤家、田中家、両家の結納が無事に済みました事を確認させて戴きました。この上は両家が幾久しくお付き合いが続きますように……」
 と挨拶して、結納自体は終わった。俺の横に座っていた真理ちゃんも笑っている。両方の家の両親も斎藤さんも飛鳥も俺も皆笑っていた。
 その後、真理ちゃんは恵が心配だからと、タクシーで家に帰って行った。お袋が面倒を見てくれてはいたが、やはり心配なのだろう。そして、店では両家の会食が始まった。結納用の縁起の良い料理が並べられて行く。俺も腕を振るって頑張った。

 それから半年後に二人は結婚した。飛鳥は子供が出来るまでは勤めます。と言ってそのまま店に出ていた。
 ……結論から言うと、飛鳥達には中々子供が出来なかった。
 原因を調べたら、斎藤さんが高校生の頃に高熱を出した事があり、それが原因で精子の数が普通より少なかったのだ。その後二人は「人工授精」を選択して、飛鳥は三十代になってしまったが、無事に一児の母になった。飛鳥によく似た男の子だった。
 飛鳥のように「母子栄養」をちゃんと修めた娘が母親になれないなんて何という皮肉かと思ったけれど、ちゃんと母親になれて良かったと思ったのだった。
 店の方はその前に斎藤さんが自分のブランドを立ち上げる事になったので、飛鳥は
「傍で一緒に支えて行きたい」と言って店を辞めた。まあ、一人前にはなったから良しとしよう。
 そう、その頃に俺と真理ちゃんにも第二子が生まれた。今度は男の子だった。真理ちゃんに似て中々のイケメンになると俺は思ったのだ。

 次に俺の事や店の事だが、飛鳥が店を辞めて、色々と移動が済んだ頃の事だが、モール店の板長を開店以来ずっとやっていた由さんが、のれん分けと言う形で独立することになった。
 これは、由さんに独立の資金を何割か出して同じ店の名前を名乗って貰う。由さんは仕入れを、こちらの店と共同で行うので安く仕入れられると言うメリットがあり、
 さらに由さんの店が軌道に乗るまではある程度の収入の保証をするというものだった。まあ、借りた金額は長い間掛けて返済して行くのだが……事実上四店目の店だった。

 実際の独立は飛鳥の出産の時期と重なって、めでたい事が続いたのだ。その移動で善さんが由さんの代わりにモール店の板長として行く事になった。
 今や、モール店はウチより売上が多く、若者だけじゃ無く、あらゆる層のお客さんが来てくださる様になった。その為にかなり本格的な料理も出し始めているのだ。善さんならうってつけだと言う訳だ。
 では本店の板長は誰がなるのか?
 まさか、と思うでしょうが、実は私が任命されたのです。俺自身驚いてしまった。
 かって親方が居た場所に俺が立つなんて……まず初めに思った事は「俺でいいのだろうか?」
 そう言う事だった。
 オーナーと店長連は色々な人の意見を訊いたみたいだ。その結果だとしたら、なんか申し訳無いと思うのだった。でも、指名されたら頑張らねばならない。俺は調理の責任者として店に神経を行き届かせたのだった。

 俺が板長になったからと言って、お客さんが減ったと言う事は無かったが、仲居さんが言うのには、何人かの常連さんからは「板長が変わった?」そう訊かれたと言う。
 それは仕方ないかなとも思うが、俺自身は店の味を守っていると思うのだ。だが、それも初めのうちで、すぐに味の良さが評判になった様だ。お客さんが増えだしたのだ。これはありがたかった。

 それから数年、完全に俺が本店の顔となって働いていた頃のことだった。
 お袋が「歳だから店を辞めたい。本当ならお前たちで好きにやって欲しい」
 そう言い出したのだ。これは考えものだった。俺も既に三十を超えている。紅顔の美少年はおじさんになっていた。 え? なんか違うって? そこはまあ……
 本店の板長でいれば、給料は保証されているし生活に困る事は無い。でも、俺も何時かは親父の後を継いで……と言う気持ちはあったのだ。
 夜、皆が寝た後で真理ちゃんと……え?もう真理ちゃんじゃ無いだろうって? 仕方ないだろうって、急には言い換えれ無いものさ。兎に角二人で相談する。
 問題は、俺がやるとなったら店を改築したい。日本料理を食べさせる店にしたい。肩の張らない楽しい店にしたい。何時でも気軽にちゃんとした料理が食べられる店にしたい。小金でお腹一杯に出来る店にしたい。色々と考える事はある。
 お金を借りる……貯金はしているけど恐らく改築だけで最低一千万は掛かるだろう。新しい調理の器具や道具、それに機械を買うと五百万は掛かるだろう。
 製氷機や食器洗浄機はリースのほうが安くつくが冷蔵庫は俺が信頼するメーカーのが欲しい。そんな事を真理ちゃんと何回も毎日話あった。そして、出した結論は
「自分の店を持つ!」
 と言う事だった。

 それからが大変だった。銀行との交渉……オーナーが口添えしてくれた。
 店の改築はそれ専門の業者を紹介して貰って予算の八割で済んだ。余裕の出来たお金は食器などに化けた。
道具等は新古品で済むものはそうした。これがかなり低くなって、結果としては大助かりだった。回転資金も用意しておかないとならない。
 準備等に一年かかってしまったが何とか開店までこぎ着けた。店の名を改めて「御料理 まさ 」とした。
 俺自身はもっと別な名が良かったのだが、色々な人が幾つかあった候補からこれが良いと言われた。正直、かなり恥ずかしい。

 小学校の高学年の恵や、今年小学校に入学した悟の為の子供部屋も改装ついでに増築した。これからの返済は大変だ。
 だが、お袋や真理ちゃんは平気な顔をしている。
「イザとなったら、ここを売ればかなりの高額になるから、借金を返済しても、かなり残るので、残りで中古マンションでも買って暮らせば良い」と楽天的な事を言うのだった。まあ、そうはさせないと俺は誓ったのだ。

 開店には色々な人が来てくれて賑やかだった。特に柴崎さんは三日に一度はやって来て、俺の料理を楽しんで行く。
 もう既に年金生活者となっていて、ガンも気にしなくて良くなっていた。
「俺の胃袋が三分の一まだあるのは、正の料理を食べる為なんだぞ」
 そう言いながら少しの酒を飲み、季節の料理に舌鼓を打つのだった。
「人間、食べてる時が一番だよ」
 柴崎さんの言葉だ。確かにそうだと思う。

 あの日、親方に殴られた日からどのくらい経ったのだろう?
 俺は、あの日立てた自分の目標に近づけたろうか?
 いや、それは未だまだ先のことだろう。
 俺は死ぬまで現役でいたい。
 そして、その日まで修行は続くのだ……


「目標」