目標 第28話 「予感」

 恵は良くお乳を飲んで順調に育って居るように俺には見えたのだが、母親の真理ちゃんには違って見えているらしい。
「なんかおっぱいが、余り張らないんだけど、出が悪いのかな?」
 そう言って自分のお乳の出が悪いと思っているらしい。百グラム単位で量れる体重計を俺に買ってこさせて、毎日恵をカゴに入れて体重を量り
「今日は二百グラム増えた」とかやってるのだ。
 俺はこれは良くない、と思い真理ちゃんに
「一々量るのは良くないよ。神経質になりすぎだよ」
 そう言うのだが真理ちゃんも
「うん、そう思うのだけど、私のおっぱいの出が悪いから……」
 そう言って不安な顔をする。元々細かい処に気がつく性質だから、自分の子供という事で余計に神経質になっているのだと思うのだが、俺も実際どうすれば良いか判らない。
 毎日帰って来ては真理ちゃんに
「大丈夫だよ、大きくなってるから」
 そう言うのが関の山だった。

 そうこうしているうちに三ヶ月検診となった。保健所に午前中の九時に俺と真理ちゃんで恵を連れて行った。
 寝かせるタイプのベビーカー(A型)に恵を寝かせて、俺が押して行く。真理ちゃんはベビーカーの横について、恵を見ながら歩いて行く。
 保健所で受付の札を取って順番を待っていると、真理ちゃんは、同じ時期に同じ病院で生まれた赤ん坊のお母さんと親しく話をしている。
 そうだ、こういう情報の交換が足りないと俺は思い、明日から暖かい時間なら、公園を散歩させて、公園デビューも悪く無いと思った。

 母子手帳を出して、順番を待っているとやがて名前が呼ばれた。恵の身長、体重、頭囲、胸囲などの測定をして、お医者さんの診察を受ける。心音を聞いて何の問題も無いと言われる。
 その後、色々な事をする。内臓の様子を触ったり、首の座り具合を調べたりする。その途中で保健婦さんから
「体重は平均より多いくらい増えていますが、人工栄養と併用ですか?」
 そう訊いてきたのだ。
「いいえ、母乳だけです」
 そう真理ちゃんが言うと保健婦さんは驚いて
「まあ、それじゃ量も随分沢山出るのでしょうが、中身も栄養価が高いお乳なんですね。羨ましいぐらいですね」
 そう言ったのだ。真理ちゃんのお乳の出が悪いんじゃ無い、恵が沢山出るお乳を皆飲んでしまうのだ。この娘は若しかしたら大食らいなのも知れないと俺は思った。

 その日から真理ちゃんの体重計に恵を乗せる事は終わりを告げた。
「あたしの、お乳の出が悪いんじゃ無かったのね……よかった……」
 ほっとした顔の真理ちゃんが印象的だった。
「ごめんね、私なんか神経質になっていたみたい。お医者さんと保健婦さんから言われて目が覚めたわ」
 寝ている恵の横で俺たちは笑いあったのだ。

 そんな事で俺は仕事と恵の事しか眼中に無かったのだが、実は飛鳥達の関係がかなり進展していて、二人では結婚の約束をしたらしい。
 らしい、と言うのは直接では無く、間接的に聞いたからだ。何でも、きちんと決まったらちゃんと報告しに来るという伝言付きだった。それを聞いて真理ちゃんはとても喜んだ。
「嬉しそうに来てくれるといいな」
 そう言った顔は希望に満ちた顔だった。

 四月になると、もう春本番となるので、お花見帰りのお客さんなどが結構来る。
 その日も店内はほぼ一杯のお客さんが入っていた。俺は天麩羅を揚げながら善さんの刺し身を手伝っていた。
混んでる時は余り来ない柴崎さんが珍しく人を連れて来ていた。
 接待かも知れないと俺は思い、柴崎さんの所に出す料理は特に注意をして出していた。まあ、どれもちゃんと細心の注意をしているのだが、この場合は特にという意味だ。
 柴崎さんには出産祝いも貰っているので、先ほどお礼を言った処だった。トイレに行った帰りにカウンターに寄り
「盛況でいいねえ~。処で俺さ、なんか胃の調子が悪くてね、歳のくせに食い過ぎ
だなんて医者に言われたんだけどさ、今度暇な時に来るから、旨くて消化の良い物を食わしてくれよ」
「大丈夫なんですか? ちゃんと調べて貰ったほうがいいですよ」
 そう俺が言うと柴崎さんは
「判っているって、それとは別に頼んだよ」
 そう言って自分のテーブルに帰って行った。
 柴崎さんは定年なのだが、会社が役員にしたので、辞められないと自分で言っていた。俺は、ちょっと痩せた感じがするのがなんか気になったのだ。
 その時は気のせいかな、と思っていたのだが、この日の柴崎さんの言葉を聞いて医者に行くように進めたのだった。

 柴崎さんはお花見の時期が終わって一息入れた頃に一人で店にやって来た。俺は、考えていた献立を柴崎さんに出して行く。ゆっくりと、しかし確実に柴崎さんは料理を楽しみながら食べて行く。
 それは実に楽しそうで、その口から出て来る薀蓄のある言葉は俺の胸に残った。
「なあ、正、俺は今、これだけの料理を口にする事が出来て幸せだよ。
 伸び盛りの料理人の作る料理は想像以上の味なのさ。俺は、その幸せを充分に今日楽しんだ。ありがとう……」
 柴崎さんはそう言って帰って行った。俺はなんだか、らしく無い言葉に何か嫌なものを感じていた……