目標 第8話 「大切なもの」

家に帰ったらもう日付が変わってしまっていた。
暗くなった裏口から家の中に入ると奥で明かりが点いていた。
「おかえり」
お袋の眠たそうな声が迎えてくれる。
「ただいま、風呂入れるかな?」
「今日は沸かしたから入れるよ」
「じゃすぐ入るわ」
そう言って自分の部屋からタオルを出して風呂場に入ろうとしたら、店と居間の境にある電話が鳴った。
「俺出るから」
そうお袋に言って受話器をあげると真理ちゃんだった。
「遅くに御免なさい……もう帰ってるかなと思って……」
「いま、さっき帰って来たんだ。ナイスタイミングだよ」
電話の向こうの真理ちゃんの声がちょっと緊張している。

「あのね、私今まで飛鳥ちゃんと電話していたの。飛鳥ちゃん、私に『正先輩、ちょっとだけ借りちゃいました』って言ってたの」
なんだ、飛鳥の奴、真理ちゃんに報告していたのか……全く油断がならないな
俺はそう思ったが口には出さず
「うん、店が終わってから飛鳥がな……」
「聴いたよ。みんな飛鳥ちゃん話してくれたよ」
「全部? ……聴いたの?」
「うん、みんなだよ……大丈夫、私別になんとも思っていないから」
「いや、でも……」
真理ちゃんは戸惑ってる俺に
「あのね、正さんは自分では思わないかも知れないけれど、正さんは女の子が甘えたくなる人なの」
そんな事は初めて聞いたぞ。今まで女の子に甘えられた事なんか無いぞ……
「そんな事今までなかったよ」
「忘れちゃった? 私があの人に捨てられた時、私自分でも判らないけど、正さんの顔が見たくなったの。そして見たら抱きしめて貰いたかった……あの日……」
そうか、俺は思い出した。あの日も真理ちゃんは遅くなった調理場の隅に立っていたんだ。

更に真里ちゃんは
「あの日、抱きしめて貰って、私心の整理がついたの。そして正さんによって生まれ変わった気がしたんだ。だから貴方は私の全てなの……」
なんかドサクサに紛れてとんでも無い事を言った気もするが、真理ちゃんがそう思うなら俺がなんか言う問題じゃ無いよね?
「だからね。飛鳥ちゃんもきっと心の整理がついたと思うの。私は最近のことは知らないけれど、きっと飛鳥ちゃん正さんに精神的に甘えて仕事していたと思うの。なんて言うのかな、心の拠り所とも言った方が良いかも知れないけどね」
確かに仕事をしている飛鳥はやたら俺に五月蝿かった気がした。
「良く判るね」
そう俺が言うと真理ちゃんは
「判るわよ……だって何時も正さんのこと考えているから、何時も想っているから……」
判ってはいたが、そう口に出して言われると、心に響く。
「俺も何時も想ってる……でも飛鳥を抱き締めてしまった……ごめん……」
「大丈夫! それぐらい器の大きな人にならなくちゃ!」
「うん……そうだね。ところで、今度の休みはいつ?」
俺は真理ちゃんに訊くと、真理ちゃんは俺と同じ休みの日を口にした。
「じゃあ、逢えるかな? 」
「うん、大丈夫よ。私がそっちの家に行っても良い?」
「ああ、いいけど……」
「実は相談したい事もあるんだ。だから……」:
「じゃ、待ってる」
そう言ってお休みの言葉を口にして受話器を置いた。
風呂は結局シャワーで済ませてしまった。
布団に入って色々と考えているうちに寝てしまった。

次の日から店には皿洗いにバイトの子が入って人数だけは同じになったが、内容は違っていた。
圭吾が盛り付けになったのだが、いかんせん全くの素人だっただけに、未だ色々な処が出来ていない。
当然その出来ない処は俺が手伝う。そうすると焼き方が間に合わない事がたまにだが起こる事がある。
その時は由さんがカバーしてくれるが、その時に煮方の……と言う具合だ。
俺は、結局圭吾をしごくしか無いのだった。

次の休みの日、真理ちゃんが俺の家にやって来た。
「早かったかな?」
そう言うので時計を見ると未だ11時だった。
夜の襲い仕事の俺らには朝の11時は普通の人の7時ぐらいに感じる。
「いや、早くから逢えて嬉しいよ」
そう偽りの無い事を言う。
真理ちゃんはお袋に挨拶し、おみやげを渡した。
「いつもすいませんねえ」とお袋は言っていあたが、そんなに「いつも」と言う程来ているのだろうか? 謎だ!

俺の部屋に入って貰い、コーヒーを沸かして持って行く。
「ありがとう! ほんとに御免ね。今日になったら、どうしても待てなくて」
真理ちゃんは俺の隣に座って上目づかいで俺を見る。
そんな顔をされたら、俺もいい顔をしなければならない。
俺は真理ちゃんをそっと抱きしめて口づけをする。
今までは軽い唇と唇だけの口づけだったが、今日は初めて俺は真里ちゃんの口に自の舌を入れて、真理ちゃんの舌と絡ませる。
真理ちゃんも最初はょっと驚いた様だったが、すぐに反応してくれた。
お互いがお互いの口と舌を吸い合い、俺達は取り敢えず一つになった。
真理ちゃんの目に涙が浮かんでる
「嬉しい……」
それ以上は言葉にならない様だ。
俺はもう一度しっかりと真理ちゃんの体を抱き締める。
小柄で、簡単に持ち上げられそうな体、でもその小柄な体にそぐわない大きな胸が俺の胸を圧迫する。
「お願い!もう少しこのままにしておいて……」
「ああ、いいよ……」
俺はそのまま暫く真理ちゃんを抱きしめていた。

暫くして、真理ちゃんは
「やはり甘えたくなる正さんね……」
そう言って頬を染めながらはにかむ様に笑う。
やがて、俺の胸に抱かれながら
「私ねもうすぐ寮を出ないとならなくなるの」
「え!」
それは俺の人生に於いて新しい局面へ誘う言葉だった。
それは後ほど……

 お昼には未だ若干の間がある初春の日曜日
真里ちゃんは俺の腕の中にいた。
「正さん、私、いいよ。正さんが望むなら何時でも……」
違う、俺はなんて事を真理ちゃんに言わせてるんだ。
そうじゃない、そうじゃ無いんだ……
俺は更に強く抱き締めて
「ありがとう……でも、それは今じゃ無いんだ。俺は、今の俺には真里ちゃんを完全に自分のものにする資格は未だ無いと思ってる。そうなる為には自分の中で乗り越え無ければならないんだ」
そう俺は上手く言えなかったが真理ちゃんに説明した。
「いつか、言っていた一人前になるって事? 私、そんなに待てないよ」
「いや違う、もう少しなんだ、もう少しでそれが見えて来るんだ。だからもう少し……」
そう俺が言うと真理ちゃんは、優しい笑顔を俺に向けて
「判った、その時まで私待つわ……でも、今日からは私だけの正さんでいてね」
そう言って俺に唇を重ねて来て、積極的に行動をして来た。
俺は黙ってそれを受け止めて抱き締める。小柄な体が俺に包まれた。
「わたしだけのまささん……」
腕の中でそう言ったのを感じる。
「ああ、そうだ。今日からは真理ちゃんだけだよ」
「うん」

……どのくらい、そのままでいただろうか?
「そう言えば、さっき、寮に居られなくなるとか……」
俺はさっき真理ちゃんが言った事を思い出していた。
「どういう事?」
俺の問に真理ちゃんは説明をしてくれた。
「あのね、私の入っている寮なんだけれど、今は定員一杯なのね。そうすると新人の子が入ると古い子から寮を出なくちゃならないのね」
「そうか、新人さんは給料が安いから寮に入らないと生活出来ないからか」
「うん、そうなの。寮は数千円で2食と6畳の部屋がついてくるから楽なんだ。お昼は工房の子が皆で持ち寄って交代で自炊するから、幾らも掛からないのね。 それでね、私古い方から数えて3番目なんだけど、今度の春二人入って来るの、もし後一人増えたら私出なくちゃならないの」
真理ちゃんは自分の置かれてる状況を簡単に説明してくれた。
「そうか、そう言う事か」
俺にはそれしか言えなかった。
「部屋借りると苦しいの?」
俺の端的な問に真理ちゃんは短く
「うん、たぶんやって行けない……」
そう言って俺の胸に頬をくっつける。
背中を優しく撫でる俺……

どうすれば良いんだ?
真理ちゃんが住めて生活出来る位の安いアパートなんかあるのか?
「やっぱり工房から余り離れたら駄目だよね」
「うん、交通費掛かってしまうから、出来たら歩きかせめて自転車で通える所……」
店と工房は割合近くにあって、寮は工房の傍で、俺の家は店からそう離れてはいない……
それって、ウチか?
確かに部屋はひとつ開いてるが、しかし、それは不味いだろう。
なら俺が家を出て真理ちゃんと暮す……未だ早い!
どうすりゃいい?
「でも、3人目が入らなければ、出なくても良いから」
「でも、来年は確実と言う事か……」
「うん、出るとなったら、多少お給料上がるけどね」
俺はその額を真理ちゃんに聞いてみて、俺より余りにも少ないので愕然とした。
ファッションの世界って、若い娘の犠牲の上に成り立っているのか……そうその時は感じたのだ。
俺達の料理の世界でも、京都などには無給とか、小遣い程度しかくれない所は山ほどある。
まあ、店の格が違うから一概には言えないが、ウチの店のオーナーはそう言うのに反発するタイプだという。
だから、小僧にも安いがちゃんと給料が出るし、ボーナスもひと月分だが一応出してくれる。
料理の世界にはこちらから月謝を払ってでも使って欲しいと言う店が沢山あるのも事実で、それは未だに続いている。

結局、その場は何も言えずに、俺達は映画を見に行って、お昼を食べて、喫茶店で話して、
そして、夕方になった。
その間に何回もキスをして、抱き締め合った。
そして寮の門限より少し前に送って行った。
次の休みも逢う約束をして別れた。
真理ちゃんは寮の前で俺の姿が見えなくなるまで、見送ってくれた。

店にはこの春は調理師学校からは入って来なかったので、バイト君と圭吾は結構忙しい。
さすがの圭吾も何ヶ月かしたら様になって来た。
俺は圭吾に「何とかなるようになって来たな」そう言って褒めた。
その時の圭吾の喜び様はな無かった。
真理ちゃんは結果だけ言えば、この春は寮を出なくても良かった。
だが来年は確実と言う事だ。最古参になってしまったのだから。

そんな時に煮方の由さんが秋に結婚する事になった。
相手は2歳年上の人で、昔由さんが働いていた店で仲居さんをやっていた人だという。
そんな時由さんが俺を飲みに誘ってくれた。
何時もの居酒屋に落ち着くとそれぞれ好きなものを頼む。
ちびちび飲んでいると由さんは
「正、お前最近なんか悩んでいるだろう?」
そう言われてしまった。
「判りますか?」
俺は正直に答えてた。すると由さんは
「女の事だろう、真里ちゃんか?」
バレていた! 由さんの口ぶりだと皆判っているのかも知れない。
「知ってましたか……」
俺が恐縮して言うと由さんは
「あてずっぽうだよ。お前が悩むのはそれしか無いだろう!」
俺の性格まで判っている。
「参考になるか判らんが俺達の事を話してやるよ」
そう言って由さんは自分と今度結婚する奥さんになる人との事を話してくれた。

「あいつと出会ったのは、俺が最初の店に入った時だった。その時ホールで仲居をしていたよ。
最初は全く知らなかったけど、ある日俺が仕事でドジを踏んで皆に迷惑を掛けて、親方にこっぴどく叱られて、しょげかえっていた時にさ、店から帰ろうとした ら、あいつが店に忘れ物をしたとかで、戻ってきたんだ。それで、俺がしょげてるんで「どうしたの?」って聞いて来て、それが最初だった」
「その後は、どうしたんですか?」
そう俺が訊くと由さんはチューハイをチビリチビリ飲みながら
「それからは、普通のやつらと同じだが、店は変えたよ。それがけじめだからな。
俺も来年は29だ。アイツは今年30になっちまった。アイツの20代は俺が食っちまったからな、
責任取らないとな……俺にはそれぐらいしか出来ないし、今更他の奴じゃ嫌だしな」
「部屋なんかもう決めたのですか?」
そう聞く俺に由さんはちょっと嬉しそうに
「この春から一緒に住んでるんだ。二人暮らしはいいぞ」

そのノロケの言葉をおみやげに貰って俺は家に帰る道についた。
この前はまだ寒かったのに、何時の間にか汗ばむ様になっていた。
今度の春までに俺は答えを出さないとならない……
少し飲み足りない……
俺は家の傍の自動販売機でビールのロング缶を買って家に向かった。
俺が煮方になるには未だ2~3年はかかる。
それまでは結婚なんて出来ないし……するべきでもない。
缶ビールの口を開けて、ビールを喉に流し込む。
今夜のロング缶はやたら苦かった。
取り敢えず、春までに考えよう。
そう思い直して家路を急ぐ。
初夏だと言うのにやたら星のきれいな晩だった。