氷菓二次創作「授乳に関する一考察」

 俺と千反田もとい、えると一緒になって二年が過ぎようとしていた。える自体は千反田家の本業である農業そのものは継がなかったが、旧家としての千反田の家は継ぐことになった。父親の鉄吾さんの考えでは、えるを千反田の軛から解き放して自由に人生を過ごして欲しかったみたいだが、肝心の後継者が見つからない。それはそうだと思う。江戸の初め頃からこの地方を納めていた千反田家という大きな存在を簡単に継ごうという者が見つかるはずもなかった。
 現在は形だけだが、俺が養子に入り千反田家を継いでいる。千反田家の用事などは主に鉄吾さんが行っているが、常に俺が帯同している。所謂顔を繋ぐということだ。そのうち俺が表に出ることになるのだろう。
 その俺達夫婦に待望の第一子が誕生した。長女で名を「めぐみ」と名付けた。えるは乳の出も良く母乳で育てることにした。実はそのことで意外な一面を発見してしまったのだ。
 それは授乳にあった。普段の千反田家の家の中はえるの母親と祖母、それにえるとめぐみと女性しか居ない。朝夕はそこに俺と鉄吾さんが加わる程度だ。だからと言う訳ではないが、めぐみがお腹を空かせると所構わず授乳をするのだ。
 ご存知の方もいると思うがえるは決して胸の小さな方ではない。むしろ大きい方だと言える。誰かが「隠れ巨乳」だと言ったが、正にそうだった。その点では非常に好ましかったのだが、出産して授乳するようになると乳が張って今までよりかなり大きくなっていた。それを家の中だと所構わずに出すのだ。
 それが悪いという訳ではない。家族しか居ないのだから我が子がお腹を空かせれば授乳するのは当たり前のことだ。白くて大きな乳房に娘が吸い付き、ごくごくと飲んでいる姿は親としても好ましいのは言うまでもない。
 それを微笑みながら家族が見ている……それも理解出来る。だがだ、俺の中に何かモヤモヤしたものが湧いているのも確かなのだ。めぐみが泣くとえるはすぐに白く大きな乳房をポロッと出して授乳する。それが当たり前なのだが、何かそこに釈然としない感情が芽生えているのも事実なのだ。当然、えるは俺がそんな感情を持っていることなぞ知りはしない。
「どしたのですか奉太郎さん。最近何かお悩みですか? 何か悩みがあるなら仰って下さいね。夫婦の間に隠し事は無しですよ」
 えるは授乳しながら俺にそんなことを言う。別に隠しごとをしてる訳では無い。何か判らないものが俺に湧いてるだけなのだ。
「昼間はめぐみのものですからね」
 俺の視線をどう勘違いしたのか、意味あり気な表情を浮かべた。
「別に、それはそれで楽しみだけど、そうじゃない」
 俺は何を言っているのだろうか……。
「でもこうやってお腹を痛めた子が、すくすくと育って行くのを見ると早く二人目も欲しくなりますね」
 えるは微笑みながらそんな事を言う。確かに二人目を作るのは吝かではない……そうじゃない! そうでは無いのだ。そこまで考えて、この道では先輩に当たる里志夫婦が思い当たった。
 それから暫くして里志夫婦が遊びにやって来た。伊原はえるとめぐみと楽しそうに話してる。二人には沙也加という女の子が居るのだが、今日は保育園に行っていて今日は連れて来ていなかった。俺は里志を別室に呼び出した。
「どうしたんだいホータロー。二人だけで話なんて何かの悪巧みかい」
 奥の座敷で二人だけになると里志はそんな冗談を言った。
「悪巧みではないが女性陣が居ると話しずらい事なんだ」
「へえ、それは何かな。ホータローがそんなことを言うなんて珍しいね」
「実はな……と言うよりお前の時はどうだったのか教えて欲しいんだ」
「僕の時?」
「ああ、確か沙也加ちゃんも母乳で育てたんだよな」
「そうだよ。尤も最初の半年ぐらいかな。それからは混合栄養で、一年を過ぎる頃は人工栄養に切り替えたけどね」
「そうか、それでも最初の半年は母乳だけだったんだな」
「ああ、そうだよ。それが?」
「ああ、伊原もとい奥さんは主に何処で授乳していた?」
「場所? そうだね。家の中なら何処でもだね。仕事場が一番多かったかな。仕事しながら授乳させていた事もあったからね」
 そこまで聴いて福部家は姑と一緒に住んでる訳では無かったと思った。でも確か漫画家の井原花鶴にはアシスタントが居たはずと思った。
「仕事場でも授乳していたのか?」
「ああ、アシスタントは女性だから別に気にもしなかったよ。はは〜ん、大体判ったよ。ホータローは千反田さんが何処でも授乳するんで、そのあたりがモヤモヤしてるんだね」
 図星だった。こいつも経験があるのかと思った。
「僕の場合は昼は会社に行ってるから知らないけど。実家でも平気で晒していたよ。摩耶花も授乳の時は凄く大きく張っていたからね。僕も嬉しかったけど本人が一番喜んでいたかな」
 そんなものなのか。それで良いのか……。そんな思いの俺に里志は
「まあ千反田さんは元からある方だからホータローも余計に気にかかるんだろうけど、誰も変な目で見てはいないって。心配無用だよ」
 そうだろうか……まあ普通はそうか。
「ホータローのそのモヤモヤは嫉妬だよ。嫉妬から来るものだと思うよ。自分だけの千反田さんであって欲しいという思いから来る」
 嫉妬と言われ妙に腑に落ちた感じがした。
「お前は感じなかったのか?」
 俺の質問に里志はニヤッと笑いながら
「僕の場合は既に摩耶花は多くの人に自分の才能を分け与えていたからね。読者にとって摩耶花こと井原花鶴は読者のものでもあったからね」
「お前はそれで納得したのか?」
「納得も何も、僕は売れっ子漫画家を娶る事に納得したのだから」
 そうか、里志の場合はまた俺とは違っていたのかと思った。
「千反田さんだって、来客中は自分たちの部屋か何処かでするんだろう?」
「まあ、そうだが」
「なら何も問題はないじゃや無いか。恐らく千反田さんは誇らしい気持ちもあると思うよ」
「誇らしい?」
「ああ、だって子供を生むという事は連綿と続いて来た家系を絶やさないことだからね。それこそ、千反田家のような旧家にとっては、大事な事なのだと思うよ」
「そうか」
 里志の考えを聴いて納得した自分が居た。三人が居る部屋に帰ると伊原もとい里志の奥さんが
「ふくちゃん。ちーちゃんたちは二番目の子を作るそうだから、わたし達も頑張りましょう!」
 それを聴いた里志は苦笑いをするのだった。
 それから二年後に我が家に長男が誕生した。

                                                                             <了>

                                  

「駆け抜けるもの」

 キスしてしまった!
 しかも夫以外の人と……。その人とは仕事での付き合いは長かったが、一度でもその気になったことなんて無かった。それなのに気がつけばクスをしていた。
 思えばキスなんて久しぶりで、この前のことなんか何時したのか思い出せない。ファーストキスのことなら覚えているのだけど、夫と最後にキスした日なぞ思い出せない。
 尤もキスどころか、夫婦の営みさえご無沙汰している。どうやら夫は、私が子供を産んだあたりから、私を「おんな」ではなく「母親」として見始めたようで、しかも「乳臭い」とか言って敬遠するようになってしまった。
 私も、それなら面倒くさくなくて良いわ、と考えてそのままにして来た。だからお互い様なのだから夫ばかりを責められない。夫は私が授乳している姿を見ても何も思わないらしい。平時より1.5倍は大きく張った乳房を見ても何も思わないらしい。まあ以前から人並みぐらいはあったから、今更なのかも知れないけどね。
 夫婦の営みは全く無くなった訳ではなく、それを忘れた頃にしてはいた。まるで盆暮れの行事のように……。
 でもそれもここ数年は無い。だから二番目の子が出来る訳もなく、可哀想だがウチの子は一人っ子になってしまった。そのことを夫に言うと、
「俺も一人っ子だから」
 そんな答えが返って来た。駄目じゃん。だから兄弟が欲しいとか思わなかったのか尋ねたら
「そうだな……小さい頃だけだな。大きくなってからは思ったこと無いな。大丈夫、すぐ慣れるから」
 慣れる慣れないの問題では無いと言ったが駄目だった。だから二番目の子は諦めた。そんな矢先だった。私は産休が明けると職場に復帰した。情報処理の分野で会社は私を必要としてくれていたからだ。夫だけの収入では心許ない事もあった。
 以前からコンビを組んでいた彼と再びコンビを組んだ。仕事の相性としては最高でお互いをリスペクトしていて、お互いの先を読みベストな進路を採用していた。だから男女の感情なんて入り込む余地なぞ無かったのだ。現に彼は妻子があり良く写真を見せてくれていた。
 その日は仕事の都合で残業することになってしまった。私は夫に
『残業で遅くなるから祐介を保育園に迎えに行って欲しい』
 と連絡を入れた。夫の会社は基本的に残業の無い仕事なのでOKの返事を貰った。だから安心して仕事に打ち込んでいた時だった。
「腹減らないか、何か買って来ようか?」
 彼のその言葉に時間を確認すると、我が家での夕食の時間が過ぎていた。
「もうこんな時間なんだ」
「ああ、何が良い?」
「コンビニ?」
「そうだね」
「サンドイッチか何かで良いわ。コーヒーなら廊下の自販機で挽きたてが飲めるし」
「そうだな。じゃ買って来るよ。量は?」
「小さなパックなら二個で大きなのなら一個で良いわ」
「判った。じゃ行って来る」
 ドアを締めて行く彼を見送りながら、無意識に夫と比べていた。私の母は県立高校の数学の教師で、私を産んだ後半年の産休で職場に復帰した。バリバリのキャリアウーマンの走りのような人で私にも同じ事を求めた。
 それに従った理由では無かったが、私も産休が明けると直ぐに復帰した。会社もそれを歓迎してくれた……とその時は思った。
 それが間違いでは無かったが、それ以上でも無かったのは復帰して判った。要するに会社とはそういうものだと理解した。
 廊下に出て自販機でコーヒーを買う。私はレギュラーで無糖。ついでに彼の分も買う。彼はアメリカンが好みだった。二杯を煎れて戻ると直ぐに彼が帰って来た。まあ、その時間を見計らって買いに行ったのだが……。
「BLTサンド買って来たよ確か好きだったよね」
「ありがとう。よく覚えていたわね」
「何年付き合っていると思うんだい。旦那より長いんだぜ。まあ、俺の方もそうだけどな」
 そうなのだ彼とコンビを組んだ年数は夫婦の年月を消費した月日を上回る。それは彼も同じだと言ったのだ。
 隣に座りお互いのPCのデータを確認しながらサンドイッチを口にしてコーヒーで流し込む。彼が私のPCのデーターを覗き込み、やはり買って来たお握りを頬張りながらアメリカンコーヒーで流し込んで行く。その様を見て、彼と自分は似たもの同士だと感じた。こんな事は今まで感じた事は無かった。何故だろうか?
 お互い配偶者と子供を家に残してこんな都心のビルの一室でPCとニラメッコしている。客観的に見れば滑稽だ。でもの対価で生計を立てている。
「このデータだけど」
 彼はそう言って私のPCに表示されているグラフを指差した
「どうかした?」
「昨年より下がり方が激しい気がするんだけどな」
「そう?」
 私はそう言って彼を頬がくっつく程に近づいてPCの画面を眺める。彼はコーヒーを飲み終わってテーブルに紙コップを置いた。その時だった。彼の手が私の肩に伸びて私を抱いた。私も右手を伸ばして彼の肩を抱く。そしてお互いに顔を正面にして唇を重ね合った。お互いの舌が絡み合い、何かが二人の間を駆け抜けて行く。何か大事で大切なものが二人の間を走って行くのだ。物凄いスピードで走って行く。何かが満たされて行く。それが何なのか判らない。でもこれからのあたしに必要なものなのだろうとは想像がつく。多分、それは彼も同じだと直感した。やがて唇が離れた
「ごめん。そんなつもりじゃ無かったんだけど。何か衝動に駆られて」
「ううん。私も同じだったから」
「何なのだろう。あれ」
「うん。よくわからないけど、きっとお互いに足りなかったものだと思う。確信は無いけど」
「そうなのかな」
 その時はそれで済んだ。それ以来彼とはキスをしていない。変わったことと言えば、あれから、矢鱈に夫が私を求める事が多くなった。
「どうしたの? ご無沙汰でさっぱりだったのに」
「うん。ここ所、物凄く君を抱きたいんだ。自分でも驚いている」
 週末は必ずだし、平日でも仕事が早く終わった日などは、子供を寝かしつけると早々とベッドに潜り込む
「授乳してた時さ、物凄く大きく張っていたじゃない」
「あら関心ない感じだったじゃない」
「あの時は母性を感じてたんだけど、今思えばもっと触っておけば良かったと思ってさ」
「じゃあまた大きくさせる?」
「うん」
 その後私は第二子を身ごもった。そうしたら彼の奥さんも子供を身ごもったそうだ。きっとお互いの夫婦の寝室で同じような会話がなされたのだと思っている。

                                              <了>

「噺家ものがたり」第13話 目指すもの

 落語関係の雑誌はかっては色々と出ていた。月間「落語」季刊「落語ファン」、月間「演芸」とかあったがどれも休刊か廃刊となってしまっていた。今では不定期に「噺の友」という雑誌が刊行されるだけとなってしまっていた。
 世間では落語ブームとか言われているが、浅いブームなのが判る。かってはコアなファンがそれらを買い支えていたのだが、今のファンはCDも買わず、ネットで済ませてしまう。
「ま、録音したのは高座を記録したものでは無く、その時の会場の雰囲気を高座ごと記録したものに過ぎませんですからね」
 柳生は「まさや」で酒を口にしながら雅也の疑問に答えていた。雅也が出したのは、先日半年ぶりに刊行された「噺の友」だった。
 A4のその雑誌に先日柳生が末広亭で演じた「たちきり」の評論が載っていたのだった。内容は柳生の高座を高く評価しており「以前は只旨いだけの噺家だったが、復帰してからは噺に凄みが加わった」と評されていた。
「それほどじゃありませんよ」
 凄いと褒める雅也に対して柳生は謙遜する。いや本当の気持ちなのだろう。彼の目指す噺は未だ先にあると考えているからだ。
「今日はふぐの刺身を食べて戴きます」
 雅也はそう言って柳生の目の前に網の目の白い皿に綺麗に並べられたふぐを出した。
「冬と言ったらふぐですよね。落語にもふぐを扱った噺があるんですよ」
 柳生の言葉に雅也が反応した
「へえ~。どんな噺なんです?」
「ある旦那の所に出入りの幇間が尋ねて来るんです。丁度ふぐが手に入った所なので食べて行けと言うのですが、お互い万が一の事があれば怖いので誰かに食べさせて大丈夫なのを確認してから食べようと話しが纏まります。そこへ乞食がやって来ます。一旦は追い返したのですが、呼び止めて例のふぐ鍋を与えます。
 幇間が乞食の後をつけて行き、様子を見るとイビキをかいて昼寝しているんです。それを見て大丈夫だと思った旦那と幇間は食べ始めます。食べるとやはり旨いのでたちまち食べ尽くしてしまいます。
『美味かった』と言っていると例の乞食がやって来て
『先ほどのものは、すべてお召し上がりになりましたでしょうか?』と訊くので
『全部食べてしまったからもう無い』と答えます。すると乞食は
『お二人とも大丈夫そうですね。それならユックリと食べさして戴きます』
 と落とす噺なんです。昔は中毒になることが多かったですからね」
 柳生の噺を聴いて雅也は
「ふぐはそれまで食べたものによって毒が出来るんですよね。だから毒にならない餌を食べて育ったふぐは無毒なんですよ」
 思いがけない雅也の言葉に柳生は
「ホントですか! じゃあ今日のふぐは?」
「今日のは養殖です。でもこれには毒があります。そもそも無毒のふぐでも肝は出してはならないと決められていますからね。ふぐの内蔵の管理が厳しいのは同じなんです。でも天然と養殖では身の硬さが違うんです。当然養殖の方が柔らかいのですが、面白い事に身の柔らかい方を好む方もいらっしゃるですよ」
 雅也に言われて刺し身を口に運んで見ると確かに天然に比べると少し柔らかいが、返って旨味が口に広がるのが速いと感じた。
「捨てたものじゃ無いでしょ」
 確かにそう感じた。
「コリコリした食感だけを楽しんで、旨味を感じる前に飲み込んでしまう人もいますからね」
 確かに食感を第一にして、それだけを大事にする人も居ると柳生は思った。
「大体、日本では鮑の水貝のコリコリ感が良いとされていますからね」
 雅也の言葉に頷く柳生だった。
「神山さんだったら、どう食べるでしょうかね?」
 柳生は今日は来ていない神山の事を思った。
「そうですね。黙って出したら気がつかないかも知れませんね。天然のふぐでも身の柔らかいのはありますからね」
 それを聴いて柳生は落語も演者が色々と考えて演じても、受け手の客が、それを感じられ無ければ何もならないと思った。全てに於いてそうだが、特に落語と料理は似ていると感じた。
「私は料理人として、理想はお客さん一人ひとりに合わせた料理を出せればと思っているのですが現実には難しいです。師匠は理想とする落語の形ってどんなものなのですか?」
 雅也は一度柳生の追求する噺の形を訊いてみたいと考えていた。恐らく神山ならそんな事は訊かないであろうとは思った。何故なら、数多の名人を見て来た彼ならそれぞれが違った特徴を持っていて、そのどれもがオリジナルに溢れており、誰かの二番煎じでは無いことを良く理解しているからだ。
 落語関係の雑誌の編集者として神山はそれだけの資質を持っていると柳生は考えていた。
「そうですね。古典落語はどれも本当に良く出来ています。だから演じるにあたって、自分の考えて簡単に噺を変えないことですかね」
「噺を変えない?」
「そうです。良く落語は大衆芸能だからお客にウケるように変えて行くべきだ。という意見の人が居ます。間違いではありませんが、それだけでは落語が死んでしまいます。お客にウケるだけなら何も落語でなくても良い訳です。漫才でも漫談でもコントでも構わない訳です。でも幾ら爆発的にウケたとしても、それらは残りません。かっての漫才ブームの時の漫才が残っているかと問えばお判りでしょう」
 柳生がここまで己の考えを口にするのは初めてだった。
「勿論、全く変えなくても良いという訳ではありません。変えて行くべきですが、それらは良く考えて、独りよがりではならないと思っています。その意味で個人的にはお客さんの耳に心地よい噺が出来れば良いと思っているんです」
「耳に心地よいとは、深いですね」
 雅也は柳生の真意を理解したみたいだった。
「ふぐの中骨で出汁を取ってありますから、〆に雑炊作りますか?」
「ああいいですね。寒い夜にはピッタリですね」
 小料理「まさや」は静かに更けて行くのだった。

「噺家ものがたり」第12話 葱鮪の殿様

 寒くなると食べたくなる料理に鍋料理がある。入れる材料によって幾らでも変化して行くのが面白い。白菜、キノコ、白身魚やエビ、ホタテ等を入れて鰹と昆布で出汁を取った汁を加えて鍋にすれば「寄せ鍋」となる。
 これに鶏肉を沢山入れれば「鶏すき」とか「水炊き」となる。また、魚を排し、牛肉とか焼き豆腐とか白滝を入れて溶き卵を絡ませて食べれば、すき焼きとなる。
「今日はこちらを食べて戴きます」
 いつものように、仕事が終わった後で寄った「まさや」のカウンターで神山と柳生は雅也が出したものに目を見張った。
「これは……」
 怪訝な顔をする神山に柳生が
「これ小鍋立てですよね。でも中身は……」
 そう言って二人の前に置かれた小さな土鍋の中を覗き込んだ。
「これは葱鮪ですね」
「さすが師匠ですね。そうです葱鮪鍋です」
 少し小さめの土鍋の中には濃い醤油の出汁に幾つもの四角く切られた鮪と筒状になった葱が浮かんでいた。
「熱いうちに食べてください」
 鍋の下には焜炉があって火が焚かれていた。
「燃料が切れると冷めますので」
 雅也に言われて二人は小さめの鍋用のお玉杓子で煮えた鮪と葱を少し深めの取皿にすくった。それを箸で摘み口に入れる。
 柳生は神山が慌てて食べるので
「急ぐと鉄砲で撃たれますよ」
 そんな物騒なことをいう。
「アチチチ!」
 神山が慌てグラスに入っていたビールを口に流し込む
「葱鉄砲に当たりましたね」
 柳生が愉快そうに言うので神山が
「葱鉄砲って言うのか。熱々の葱を噛んだら中身が飛び出して喉の奥が熱いのなんの。火傷したかも知れないなぁ」
「慌てるからですよ。葱鮪はその熱さも醍醐味なんですよ」
 雅也がカウンターの向こうから語りかける。
「全く『葱鮪の殿様』だな」
 神山はもう一口ビールを飲んで喉を冷やすと二回目の葱鮪に取り掛かった。
「『葱鮪の殿様』って落語があるんですよ」
 少し不思議な顔をした雅也に今度は柳生が説明をする。
「へえ〜どんな噺なんですか?」
 雅也の言葉に柳生が説明を始めた。
「明治時代に、先々代の立川談志師の作を昭和になって古今亭今輔師が直した噺なんですよ」
「へえ〜じゃあ新作なんですか?」
「今は古典となっています。冬になると寄席でも掛かります。筋を言いましょうか?」
「是非!」
 雅也の頼みで柳生が語りだした。
「あるお殿様、三太夫を連れて向島の雪見にお忍びで出掛けました。本郷三丁目から筑波おろしの北風の中、馬に乗って湯島切り通しを下って上野広小路に出てきますと、ここにはバラック建ての煮売り屋が軒を連ねています。
 冬の寒い最中でどの店も、”はま鍋”、”ねぎま”、”深川鍋”などの小鍋仕立ての料理がいい匂いを発していますので、殿様 その匂いにつられて、下々の料理屋だからと止めるのも聞かず、一軒の煮売り屋に入って仕舞います。
 醤油樽を床几(しょうぎ)がわりに座ったが、何を注文して良いのか分かりません。小僧の早口が殿様にはチンプンカンプンで、隣の客が食べているものを見て聞くと”ねぎま”だと言うが、殿様には「にゃ~」としか聞こえません。
 さて、ねぎまが運ばれ見てみると、マグロ は骨や血合いが混ざってぶつ切りで、ネギも青いところも入った小鍋でした。三色で三毛猫の様に殿様には見えたのですが、食べるとネギの芯が鉄砲のように口の中で飛んだので驚き。酒を注文すると、並は36文、ダリは40文で、ダリは灘の生一本だからというので、ダリを頼みます。結局向島には行かず、2本呑んで気持ちよく屋敷に戻ってしまいました。
 家来は、その様な食べ物を食べたと分かると問題になるので、ご内聞にと言う事になったが、こ殿様は味が忘れられぬ有様です。
 ある日、昼の料理の一品だけは殿様の食べたいものを所望できたので、役目の留太夫が聞きに行くと「にゃ~」だと言います。聞き返す事も出来ず悩んでいると、三太夫に「ねぎまの事である」と教えられます。
 料理番も驚いたが気を遣って、マグロは賽の目に切って蒸かして脂ぬきし、ネギは茹でてしまった。それで作った”ねぎま”だから美味い訳はないのです。
「灰色のこれは『にゃ~』ではない」の一言で、ブツのマグロとネギの青いところと白いところの入った 本格的な三毛(ミケ)の”ねぎま”が出来てきた。満足ついでにダリを所望。これも三太夫に聞いて燗を持参。大変ご満足の殿様、
『留太夫、座っていては面白くない。醤油樽をもて』こんな噺なんです」
 柳生が語り終わるのを待っていた神山は
「だから噺と同じ事をしてしまったと言う事なんですよ」
 そう言って笑った。
「お殿様はちゃんとした葱鮪を食べられて良かったですねえ」
 女将がそんな感想を言った。
「だって、『目黒のさんま』のお殿様は結局、焼いたさんまを食べられなかったのでしょう。可哀想ですよ」
 落語の噺なのに真剣にそんな事を言う女将が微笑ましいと柳生は思うのだった。
「大将。これに合う酒はなんだい?」
 神山が雅也に尋ねると
「そうですね。日本酒ですね。それも辛口がいいですね」
 そう言って棚から一本の酒を出して来た。
「『黒松剣菱』です。どの鍋料理にも合いますよ」
「他には」
 今度は柳生が尋ねる
「そうですね。個人的な好みですが、『亀の井酒造』の『くどき上手 純吟辛口』ですかね。酸味と辛味のバランスが良いんです」
 雅也はそう言って「黒松剣菱」の封を切って、酒用のグラス二つに酒を注いだ
「さあ試して下ださい」
 雅也に進められて二人はグラスを口にする。透明に僅かに琥珀がかった液体が喉を通って行った。
「今夜は良い夜になりそうだな」
 神山の言葉に三人が頷いた。

「噺家ものがたり」第11話 告白

 半月後、柳生が編集部に顔を出した。手には東北のお菓子を下げていたので、土産を持って来たのだと判った。
「これ編集部の皆さんでお茶請けにでも食べて下さい」
 そう言って土産を神山の机の上に置いた。
「悪いね。気を使わなくても良かったのに」
「でも手ぶらじゃ来づらいですよ」
 そう言って笑った。
「今日はこの後あるの?」
「いいえ。あちこち挨拶回りして、ここが最後なんです。神山さんさえ良ければ、あそこに行こうと思いまして」
 あそこが「まさや」だとは直ぐに判った。
「もうすぐ終業の時間だから待っていてくれ。一本記事を書いたら終わりだから」
 柳生はその言葉に頷いて他の部署に行って来ると編集部を出て行った。
 それから一時間後、二人は編集部を出て「まさや」に向かった。勿論車は置いて出た。
「いらっしゃいませ~」
 女将さんの声に迎えられて、何時ものようにカウンターに座ろうとすると神山が
「奥のテーブルで良い?」
 そう柳生に確認を取った。
「あ、いいですよ」
 そう言って二人は奥の四人掛けのテーブルに座った。神山がこの席を選択したので、柳生は今日の神山の腹の内が推測出来た。
「お通しです」
 女将が持って来たのは薄緑の小鉢よりも更に一回り小さい器に入った鮮やかな緑色の豆だった。
「これ、空豆?」
「はい翡翠豆です」
 雅也の言葉に柳生が
「今の時期で採れるのですか? 空豆というと初夏のものだと思ってました。噺でも豆の出る噺がありますが、『明烏』の甘納豆以外は大体夏の噺です」
「初物なんです。指宿で今頃から採れるんですよ。まあ、ハウス物ですけどね。珍しさだけですけどね。塩で揉んで茹でて皮を剥くと鮮やかな緑の豆が出ます。今の時期は季節的な色で言うと茶色でしょう。だからこんな鮮やかな緑が目の保養になると思いまして」
 神山は雅也の言葉を聴いてなるほどだと思った。味だけではなく目でも楽しませる料理の奥深さを感じた。一方柳生は、料理は落語に通じるものがあると感じたのだった。
「飲み物はそうしますか?」
 女将の言葉に神山が
「そうだな。ビールよりも酒かな。ヒヤで良いよ」
 そう言って日本酒を頼んだ。すると雅也が
「今日は珍しい酒が手に入ったのですよ」
「珍しい酒?」
 今度は柳生が興味を持った
「ええ、京都の伏見の酒なんですが、江戸時代からの酒蔵なんですが、昔から江戸には下らせなかったそうなんです」
「下り物じゃ無いという事か。噺だとくだらないと洒落てしまいますけどね」
 柳生の軽口に雅也は
「余り量を作ってなかったので上方で消費されてしまっていたのです。だから江戸では飲めない酒だったんですね。今でも同じなのですが、たまたま手に入りましてね。それならお二人に是非とも飲んで欲しいと思っていたのですよ」
 二人は素直にありがたいと思った。
「燗でも良いのですが、やはり最初はヒヤで飲んで欲しいと思います」
 雅也はそう言って女将にお銚子を二本持たせた。
「どうぞ」
 受け取ってぐい呑みに酒を注いで口に運ぶ
「うん、何て言うか淡麗辛口とも言うのかな」
 神山の言葉に柳生が
「そうですね。私なんか先日まで北国の濃い酒ばかり飲んでいましたから余計に感じますね」
 そう言って目を細めた
「師匠、北の酒ってどうなの?」
「そうですね。淡麗というより辛口もありますし、濃厚な甘口もあります。地方によって違うんですが、酒自体の個性が強いですね。それと、お燗をした時に美味しく飲めるように調整されているものが多いですね」
 柳生なりの評価を話している時に肴が運ばれた
「わらさの刺し身です」
 わらさは鰤になる前の名前で上方ではハマチと呼ばれる。冬の魚の代表だ。鰤より脂の乗りが少ないが、魚自体の味のバランスが良い。ちなみに重量が10キロを越すと鰤と呼ばれる。
 神山は酒を一口飲んでから、わらさに山葵を乗せて醤油を着けてを口に入れた。そして酒を口に入れる
「これは……」
 驚いた顔を見た柳生も同じ事をしてみた
「あれ……」
 そんな二人の表情を見て雅也が
「料理を引き立てるでしょう。伏見の酒は大体、京料理に合うように作られているんです。京料理の繊細な味を壊さないように調整されているんですよ」
 その言葉に納得する二人だった。
「実はさ、旅に出ている間に『たけの子園』に行ったんだ」
 神山はこの前の行動について話した。「たけのこ園というのは先日神山が訪れた柳生と美律子の出身の施設の名前である。
「園長、いいや今は名誉園長でしたね。お元気でしたか?」
「ああ、達者なものだったよ」
「そうですか、それは良かった」
「そこで一つ判った事があったんだ」
 神山は先日の事を話した。
「美律子さんが卒園した時にお前さんが引き取ったと言う事を初めて知ったよ。そのままプロダクションに行っただと思っていたからね」
「一緒に暮らしたと言っても半年にも満たない期間ですよ」
「でも、プロダクションとの交渉には立ち会ったんだろう」
「そうですね。入門して七年。二つ目になって四年目。歳も二十二歳になってましたからね。業界のことも少しは判っていましたからね」
「親代わりが」
「そんなところです」
「男女の関係は無かったのか」
「私には、全くそんな気はありませんでした。だって赤ん坊の頃にオシメを何回も変えてあげたのですよ。女として見られる訳ないじゃありませんか」
 柳生はため息を吐くと酒を口に運んだ
「じゃあ、その想いは美律子さんだけが思っていたんだな」
「そうです。でもいつ頃から思っていたのかは判りません」
 神山は、想ってる方は常に思っているのだろうが、想われている方は解り難いのだろうと思った。
「まあ、そうだろうな。でも気がついたのはいつ頃なんだい」
 神山の質問に柳生は遠い目をして
「そうですね。いつの間にかという感じですが、告白されたのは彼女が成人した時ですね。寮から出てからです」
「なるほどね」
 納得できる話だった。この点について嘘は無いと思った。
「夜なんか部屋に帰ると待ってるんですよ。終電も終わってるから仕方なく泊まらせるんですが、そんな時に自分の想いを連々と告白しましてね。それが自分の仕事が暇な時には連日でした」
 神山はそこまでだったとは考えていなかった。
「そんなのが続いていた時だったんです。美律子が死にたいと言って来たのは。色々と聴きました。かなりの事まで強制されたそうです。そこで私は、あの時私が美律子の想いを叶えてあげていたら。一度でも美律子を抱いてあげていたら。ここまで思い詰めなかったと思ったのです。だから半分は、私が美律子を追い詰めたのですよ」
 柳生はお銚子から酒を注いで更に口に運んだ。
「それが真相か」
「そうです。単なる同情では無いんです。だから最後に私は美律子の想いを叶えました。男と女として結ばれたのです。彼女は『これで想い残すことは無いわ』と言っていました」
 神山は柳生の芸が復帰した時に以前より達者になっていたのにはこんな事を体験したからだと納得したのだった。
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