氷菓二次創作「誕生日とお祝い」

  昨夜まで降っていた雨は夜半に止んだようです。今は朝日に残った、雨の雫がキラキラと輝いています。
 わたしは窓を開けながら、朝の冷えた空気を胸いっぱいに吸い込みました。今日は奉太郎さんの誕生日です。高校の同級生の中でも一番早く誕生日が来ました。あれは確か高校二年生の時でした。古典部全員で奉太郎さんの家にお祝いに伺った事がありました。確か発案者は大日向さんだっと思います。
 彼女は古典部を一度退部しましたが、わたし達が三年生に進級した時に再入部してくれました。彼女なりの清算が済んだとの事でした。そのあたりの事情はわたしは詳しくは知りません。深く関わった奉太郎さんも、その事に関しては口をつぐんでいます。わたしは奉太郎さんが、わたしに教えてはならないと判断した事については、詳しく知りたいとは思いません。そのあたりの事は奉太郎さんの判断を信じているからです。
 冷たい風が入って来たので、部屋の温度が急激に下がりました。奉太郎さんが目を覚ましました。
「何時だ? 早いな……」
「雨が止んでいたので。思わず外の景色を眺めてしまいました」
「いや別に良いのだが、今日は休みではあるまい?」
「はい、ゴールデンウイークは後半は研究の当番なので行かなくてはなりません」
「そうか、俺はカレンダー通りだから、今日は仕事だ」
 パジャマを脱ぎながら仕事の格好に着替えて行きます。わたしも着替える事にします。籍を入れてから未だひと月経っていません。神山での披露宴が終わったばかりなのです。
「すぐ朝ごはんにしますから」
「悪いな。簡単なものでいいぞ」
 奉太郎さんの悪い癖です。すぐに簡単なもので良い、と言うのです。妻としてはしっかりと朝食は採って欲しい所なのです。
 ご飯はタイマーで炊けています。お味噌汁を作ります。今日はほうれん草と油揚げにしました。目玉焼きでハムエッグを作ります。それに実家で漬けたお新香と海苔です。
「納豆は召し上がられますか?」
「いや今日はいいよ。それより、こっちに来て一緒に食べよう」
 奉太郎さんが手招きをしてくれたので、わたしも向かいに座り、ご飯を戴きます。思えば昨年の末にはたった四ヶ月後に、こうしているなんて信じられませんでした。
「ちょっと待って下さい」
 わたしは、そう言って手を伸ばして奉太郎さんの口元に付いてるご飯粒を取りました。
「お弁当が付いていましたよ」
 そう言って、そのご飯粒を自分の口元に入れます。こんな時、わたしは心の底から幸せを感じるのです。
「今日は何の日だか判りますか?」
 わたしの意味深な言葉に奉太郎さんは首を傾げながら
「さぁ~何の日だ」
 考えています。本当に判らないのでしょうか?
「あなたの誕生日です。おめでとうございます!」
「そうか、この前まで覚えていたのだが、今朝は忘れていたよ。ありがとう! 二人だけで誕生日を迎えられるなんて、何だか夢みたいだよ」
 食事を終えて、出る支度をします。わたしは研究室に着けば白衣に着替えますので、特別な格好はしません。普段着の延長線上の服です。奉太郎さんは背広ですね。男の戦闘服でしょうか。
「今日は早く帰れるのですか?」
「ああ、今日は定時には帰れるよ」
「じゃあ、お祝いしなくちゃですね」
「楽しみにしてるよ」
 そう言って別れました。

 研究室では日常の事をします。研究観察の植物の世話をして記録すると殆どの仕事は終わりです。
 その時、メールが入りました。予定通りの時間に到着する旨でした。実はわたしは、奉太郎さんの誕生日に、あるサプライズを計画していました。幸いに明日から数日はわたしも休めます。京都に来る二人と一緒にこの街を廻りたいと考えたのです。
 記録を済ませてしまうと何もすることがありません。研究のパートナーに引き継ぐ事を整理したメモを残しておきます。そして、わたしは二人を迎えに京都駅まで出向きました。
 新幹線のホームではこだま号が到着する旨をアナウンスしています。二人は岐阜羽島から新幹線に乗ったのでした。
 定時丁度にこだま号が到着しました。すぐに二人が降りて来ました。
「ちーちゃん元気そうで良かった。神山での披露には参加できなくてごめんね」
「いいんです。あれは内輪だけでしたから」
「千反田さん。改めておめでとうございます! これは僕達二人からのささやかなプレゼントだよ。後で開けてみてね」
「まあ、本当にありがとうございます! 本来なら来て戴くだけで申し訳無いのに」
「いいのよ。わたし達も結局、新婚旅行はしてないから、これがそれの代りなのよ」
「そうだよ僕達も京都を楽しむつもりなんだ」
 もうお判りでしょう。二人とは、摩耶花さんと福部さんなのです。新婚旅行をなさっていない二人に奉太郎さんの誕生日と言うことで京都にお招きをしたのです。
 幸い、お二人は喜んで承諾してくれました。狭いですが、我が家に泊まって戴いて京都を観光して貰うのです。その前に今夜は懐かしの古典部四人でお祝いをしようと言うのが、わたしの企みなのです。
「折木の奴驚くかな」
「摩耶花、ホータローはもう千反田さんなんだよ」
「いいじゃない。わたしにとっては永遠に折木なんだから。それにあいつに『福部さん』なんて言われたら身の毛がよだつわよ」
 摩耶花さんはそう言って笑っています。確かに二人が違う名前で呼びあったら、かなりおかしな光景になるでしょうね。
 アパートに帰りながら買い物を済ませます。
「わたしも手伝うからね」
 今夜は摩耶花さんも手伝って戴けるので凝ったものが作れそうです。

 定時には帰れると言っていたので、そろそろ帰って来る頃だと思います。明日からは奉太郎さんもお休みですので今夜は少し騒いでも良いでしょう。階段を登る音が聞こえます。三人は口を閉じで黙ります。その次の瞬間
「ただいま~、あれ何か靴が多い気が……」
「折木お帰り!」
「ホータロー、やっと帰って来たね。誕生日おめでとう!」
「あれお前たちどうしたんだ?」
 懐かしい旧友との出会いに奉太郎さんの表情が崩れて行きます。
 わたしは、そこで事情を説明しました。
「そうか、それで俺の休みを何回も確認していたんだな」
「そうそう、お二人からプレゼントを戴いたのですよ」
 開けてみると、わたしと奉太郎さんの名前の入ったクリスタル・ロックグラスでした。
「二人で仲良く使ってね」
 その夜は皆、高校生に戻っていました。


                                                 <了>

テケツのジョニー 5

 オイラは場末の寄席のテケツに住むジョニーと言うサバトラの猫さ。オイラの飼い主は寄席で切符を売っている姉さんなんだ。オイラにはとても優しくてオイラも大好きなんだ。
 寄席は基本休み無しで営業している。例外は大晦日だけ。これとて、翌日からの正月興行の準備で従業員は休み無しだけどね。
 寄席は基本「噺家協会」と「噺家芸術協会」と言う二つの団体が十日間交代で興行をしている。この二つに所属していない噺家は出られないのさ。但し、大の月の三十一日だけは寄席を貸し出すので、その他の団体が借りれば出られる事もあるのさ。これを「余一会」と呼ぶ。先月の余一回は立山流の会が行われた。ここは結構人気者が居る団体なのでこの寄席も結構人が入っていたな。
 寄席に住んでいると目が肥えると言うか下手でやる気の無い噺家の高座は聴く気も起きないが、実は金魚以外にもオイラが注目している噺家が居るんだ。そいつは何でも食べる仕草が抜群に上手い。噺は下手ではないが、特別上手い訳ではないのだが、食べ物が出て来る噺になると、俄然冴えを見せる。最初はオイラはピンと来なかったのだが、このあたりを縄張りにしている野良猫のパピヨンが
「たまには落語を聴かせてくれよ」
 と頼んで来たのでオイラは
「ああ良いよ。でも噺の途中で鳴いたりしたら駄目だぞ」
 と言うとパピヨンは
「判っているって。俺の方がお前より世間を知ってるんだぜ」
 そう言い返えされてしまった。確かにパピヨンは世間の事を良く知っている。オイラが初めて寄席の外に出た時も、世間の事をオイラに色々と教えてくれた。何故パピヨンと言うのかと言うと耳が大きくて尖っているから、犬のパピヨンみたいだからだそうだ。元は飼い猫だったらしいが、飼い主が老人で亡くなってしまったらしい。それから野良になったそうだ。
 そのパピヨンと一緒に高座を見ていたら
「こいつ、食べる仕草が抜群に上手いな。他は駄目だけどな」
 そう言っていたのだ。それからオイラも注目して見ているのだ。
 でも寄席に二つ目の噺家が出るのは半年に一回ぐらいだ。それも大勢の仲間と交代で出るので十日間でも二~五回ぐらいしかない。だから普段は他で高座に上がる機会を自分で作っているのだそうだ。
 名前を三金亭大柳と言って二つ目になって八年目だそうだ。あと数年で真打の声が掛かる経歴なんだ。
 大柳は大勢居る二つ目の中でも最近注目されて来たのか、寄席に出る機会が少しずつ増えて来たんだ。ウチでも二月に一度ぐらいは出るようになった。それも交代ではなく一人で十日間を任せられている。そんな状況を知ってパピヨンは
「ほら、俺が前に言った通りだろう。あいつは面白いよ。噺はまだまだだけどな」
 そんな事を言って自慢している。
 今日から始まる芝居でも大柳は「食いつき」で出る事になっている。「食いつき」とは中入り後で最初に出る位置の事を言う。何故そう言うのかと言うと、中入りの休憩の後は未だ弁当を食べている客がいたり、トイレや煙草を吸いに出て戻って来ていない客が居たりしてざわざわしているんだ。そんな中で演じるのはかなりの技量が要るか、若手で極端に元気が良い者に限られると言う訳なんだ。大柳は声も体も大きいし、何よりその食べる仕草の上手さで客を取り込むのが評価されたそうだ。

 今日もパピヨンがやって来て
「大柳の出るところだけ覗かせてくれよ」
 そう頼むので快諾したのさ。二階席の一番上の席の脇にある照明のライトがある押入みたいな空間にオイラとパピヨンが並んで座っている。休憩が終わって緞帳が上がった。めくりには「大柳」と書かれている。オイラだって寄席に住む猫さ、寄席文字ぐらいは少しは判る。姉さんが膝にオイラを乗せて教えてくれたんだ。
 出囃子の「勧進帳」が鳴って大柳が出て来た。ニコニコと愛想を振りまいている。
「え~お暑い中ようこそのお運び、ありがとうございます。もう噺家一同。寄席の従業員も大喜びでございます」
 挨拶をして、簡単なマクラを振ると噺に入って行った。どうやら今日は「蕎麦清」らしい。この噺は清さんという賭蕎麦というのを職業にしていると知らない八五郎達が無謀にも清さんに賭蕎麦食べ比べを挑むのだが、最初は簡単に負ける。悔しいので段々エスカレートして遂に五両という金額になってしまった。百枚食べれば五両貰えるのだが、流石に清さんも自信が無い。その場は言い逃れしてしまった。
 その後、本職の商売で信州に行き、蕎麦の食べる修行等をして江戸に帰ろうと山道を歩いていると山中で蟒蛇(うわばみ)が人を食べる所に出くわしてしまった。人を簡単に飲み込んだ蟒蛇だが苦しがる。でも傍に生えていた草をぺろぺろ舐めると、あら不思議、大きな蟒蛇のおなかが小さく元通りになってしまった。これを見ていた清さんは「あの草は強力な消化薬だ」と思いこみ、これさえあれば幾らでも蕎麦が食べられると、その草を摘んで江戸に帰って行った。
 江戸に帰って早速、賭蕎麦を申し込まれると、快諾して賭が始まった。何とか九十枚までは食べられた清さんだったが残り十枚がどうしても入らない。そこで、「風にあたりたい」と言って縁側に出して貰った。そして、こっそりと懐から、あの草を出してぺろり……
 八五郎達は何時まで待っても清さんが戻って来ないので、さては逃げたかと障子を開けてみると、そこには蕎麦が羽織着物を着て座っていた。
 と言う噺なのだが、大柳は蕎麦を食べる仕草が上手い!
 猫のオイラでさえ感心をしてしまう。パピヨンはオイラの横で
「これを見ていたら、蕎麦が物凄く美味しいものだと思うだろうな。まあ、実際、旨いものだけどな」
 そんな事を言って感心している。オイラは正直、蕎麦は食べた事は無いが、大柳の仕草を見ていると食べたくなってしまった。大勢入った客席からも
「帰りに蕎麦食べて行こうか?」
 なんて声が聞こえる。その昔、黒門町こと八代目文楽師匠は売店の甘納豆を売りつくしたそうだ。「明烏」という噺で甘納豆を食べるシーンがあるのだが、その食べる見事さに客が売店に甘納豆欲しさに殺到したそうだ。文楽師匠は噺も抜群だったそうだが、大柳も何時の日かそうなって欲しいとオイラは思うのだ。
 高座が終わって帰る時に二匹で出口で大柳を待っていた。
 大柳は芸人と言うには若干地味な格好で出て来た。出口でオイラとパピヨンを見つけると
「おお、二匹とも今日は聴いてくれていたね。ありがとうな」
 判っていたのかと感心をしたので
「にゃーん」と鳴いて出来を誉めてやった。
「ありがとうな。明日も鳴いてくれるように頑張るよ」
 大柳は大きな体を揺すって場末の街に出て行った。オイラとパピヨンはそれを見送るのだった。

氷の音

61582_1500720112「カラン!」
 人の居ない静かな店に、グラスの氷が溶ける音が響き渡った。
 その音に気がついて顔を上げると向かいの席に座っていた女性は居なかった。
 薄っすらと漂う彼女の付けていた化粧の香りが物悲しかった。少し前までその女性は僕の彼女だった。
 溶けた氷は彼女が飲んでいたレモンスカッシュの入っていた氷だった。解けてグラスの底に落ちた様が、まるで今の僕の気持ちのようだった。
『何が悪かったのだろうか? 僕には彼女と恋人で居る資格なんか無いのだろうか?』
 そんな想いが心に渦巻く。僕の何が彼女を怒らせてしまったのだろうか?
 怒らせた、と言うのは少し違うかも知れない。彼女は僕の返事を聞く前に席を立ってしまったのだから……。
 交際して、足掛け三年になる。ついさっきまでは順調だったのだ。今年の末には婚約して、来年には結婚する……そんな想いを抱いていた。恐らく彼女の胸の内も、それほど違わないと思っていた。実際、言葉の端々にもそれが伺えたからだ。
「わたしと趣味とどちらが大事?」
 彼女が最後に僕に問うた質問だ。
 僕は直ぐには答えられなかった。だって、彼女と趣味なんて比べられるものでは無いからだ。少なくとも僕の思考回路はそう出来ている。
『大事な彼女と自分が中心の趣味では比べる価値観が違う』
 素直にそう思った。そして答えた
「そんな、比べられないよ」
 重い時間が経過して、彼女が大きなため息をついて席を立ったのだ。そして踵を返して店から出て行ってしまった。「さよなら」と一言だけ残して……。

「どうですかねえ?」
「陳腐だな。五十年前だったら褒められたかもしれんが、今では素人のネット作家でもこれよりマシな文章を書く。お前一応プロの作家なんだから、もう少しマシなものを書いて欲しいな。書き直しだ」
 僕の書いた文章が印刷されたA4の原稿の束を、先輩は無造作に突っ返した。それを受け取って
「次の締切は何時ですか?」
 僕の質問に、咥えていたタバコを灰皿に潰して
「明後日の午前十時だ。それまでに俺が納得出来るモノを書けなかったら、この話は無かった事にして貰うからな。この陳腐な文章じゃ無いけど、溶けて無くなると思いな」
 その言葉を胸にしまって、炎天下の街に出た。自分の部屋には帰りたく無かった。エアコンの調子が悪く、ロクに冷えない部屋で創作はしたく無かった。何処かクラーの効いた場所でこの文章を推敲したかった。
 結局、行きつけの喫茶店に向かう事にする。先輩の勤務している出版社から地下鉄で一駅の場所にある店だ。
 財布を探って見ると持ち合わせが少ない事に気がついた。Suicaの残高は僕が部屋に帰る分しか無かったはずだった。結局、喫茶店まで歩く事にした。距離にして一キロと少し。十五分も歩けば到着するはずだった。
 正直、七月の炎天下に東京の街を歩きたいとは思わない。でも今の僕にはそれしか選択する事が出来なかった。
「いらっしゃいませ」
 聞き慣れた声が迎えてくれた。お金が元心許無いのにこ、の喫茶店に来たのには理由がある。僕はこの店で飲み物を飲める回数券を持っているのだ。メニューの中から五百円以内のものなら回数券で飲めるのだ。回数券の残りは五枚はあったはずだった。
 要するに僕はお金が無いので節約したいのだ。今日、先輩に見せた原稿が採用されたら、原稿料が入るので、楽になるはずだった。取らぬ狸の皮算用では無いが、正直宛てが外れたのだった。
 いつもの席に座って、回数券を見せて「レモンスカッシュ」を頼む。ウエイトレスさんが「かしこまりました」と言って回数券を一枚千切って行った。出されたグラスの水を一口飲む。炎天下を歩いて来た者にとっては心地よい冷たさが喉を通り過ぎる。中に入っていた氷の欠片の一部を口に入れて噛み砕くと一層、その心地よさが増した。
 黒い自分の鞄からポメラを出す。ポメラと言うのはテキストだけを入力出来るツールで簡易パソコンみたいな奴だ。僕は、外で創作をする時はかならずこれを使う。
 ネットに繋がらないので創作に集中出来るのだ。結構愛好者は多く、新機種が出ると話題になる。最近D200という新機種だ出たのだが、少し価格が高いので今の僕には買えない。僕が使っているのは一つ前の機種のD100という機種だ。これも新型が出るので格安になったので買ったものだ。新しい機種はかなり評判が良いみたいだが、今の僕にはこれで充分だ。創作活動においては不便さは感じない。
 出先で、入力して部屋に帰ってPCに移して推敲、校正する。だからポメラさえあれば僕にとっては何処でも書斎になりうるのだった。
「おまちどうさまでした」
 ウエイトレスさんが僕が注文したレモンスカッシュを紙のコースターの上に置いてくれた。
「あ、ありがとうございます!」
 形ばかりの礼を言うと彼女は
「良くわからないけど、お仕事、余り上手くは行って無いみたいですね」
 そんな事を言われてしまった。
「そんな事判るのですか?」
「判りますよ。毎日のように見ていれば」
 ここには、ほぼ毎日来るが、彼女にそんな事まで見られているとは今まで思ってもいなかった。
「それは知りませんでした」
「だって、わたし、先生の作品、結構買ってるんですよ」
「え、僕が作家の端くれだって知っていたのですか? マスコミになんか全く出ないのに……」
「だって著作のカバーの扉に作者近影って載っているじゃありませんか」
 言われて見ればその通りだった。最近は自分の姿を載せない作家も居るが僕はそんな事はしない。というより、そんな事も思いつかなかった。
 半分笑顔を見せながらウエイトレスさんはカウンターの方に帰って行く。その後ろでマスターが笑っていたのが印象的だった。
 二人の笑顔を見て、何か良い作品が書けるような気がした。その時グラスに入ったレモンスカッシュの氷が「カラン」と音を立てた。


                   <了>

カラスよお前は……

0121 ここの所、庭の隅に置いた猫の餌を目当てにカラスの姿を見かけるようになった。人が見ていない時に餌を喋んでいるらしい。
 どうして、そう思うのかと言うと、猫の姿を見かけ無い時でも入れ物に入れた餌が減っていたからだ。
 最初は、ゴミの袋を破って中の残飯を漁る野良猫に困り、その傍に猫の餌を置いた事が始まりだった。
 数匹の野良猫はゴミを漁るのを止めて餌を食べる様になった。ここで目的は達成されたのだが、その副産物として、猫の餌を他の動物も狙うようになった事だった。その代表がカラスだったという事だ。
 猫の食べ残した餌を狙って朝方に来るのだ。朝に来るカラスだから「明烏」と言いたいがそんな粋なものではない。
「カアーカアー」と朝から鳴いて人の安眠の邪魔をする。猫は黙って食べて行くので世話なしなのだが、鳥と言うか特にカラスは煩くて仕方ない。
 カラスが食べ散らかした後を色々な鳥がやって来る。雀を筆頭に、椋鳥、ヒヨドリ、オナガ等色々な鳥がやって来ては猫の餌を喋んで行くのだ。当然鳴き声も聴こえるが、カラスほど人の感に障りはしない。
 それが最近、そのカラスに鳴き声が二種類ある事に気がついた。始めは単に二匹のカラスが来ているのだと思っていたのだが、どうやら違うらしいと気がついたのだ。
 カラスに詳しく無い人の為に一応書いてみるが、都会に生息しているカラスには基本的に二種類あり、「ハシボソガラス」と「ハシブトガラス」という種類のカラスが居るのだ。
 この二匹の違いは明瞭で、クチバシが細く長いのが「ハシボソガラス」で逆に短く太いのが「ハシブトガラス」である。
 元々、人里に住んでいたのは「ハシボソガラス」で、これは大体大人しいとされている。かの「七つの子」のカラスはこの「ハシボソガラス」だと言われている。
 元々は山に住んでいたのが「ハシブトガラス」で、これは元来狩りをするので攻撃的で気が荒いと言われている。
 昔は、住み分けられていたのだが、山の環境が悪くなり餌が少なくなった「ハシブトガラス」は山里に降りて来たのだ、そうして大人しい「ハシボソガラス」のテニトリーに侵入したのだ。
 大人しい「ハシボソガラス」は逆に山に棲家を求めたり、「ハシブトガラス」の来ない地域に避難したりして暮らしている。
 あなたの街はどちらのカラスが居るか見て見るのも面白いかも知れない。

 ある日の朝、カラスの声で目が覚めて、庭を覗くとカラスが猫の餌を喋んでいた。元々人の姿を見ると一時的に避難するので、カラスには構わずガラス戸を開けると、案の定驚いたカラスは飛び立ってしまった。
 普通ならそこで終わりだが、飛び立ったカラスは戻って来て塀の上に止まってこちらを見ているのだ。
「なんだこいつ?」
 そう思って近づいても逃げる素振りをしない。『図々しい奴」だと思ったが、逃げないのでは仕方ない。荒っぽい事をしてカラスに逆襲されるのは御免だ。
 そのカラスのクチバシが短くて太い事に気がいた。
「こいつ『ハシブトガラス』か、どうりで図々しいと思った」
 そう呟くと、カラスは首を傾げて俺の言葉を聴いているような素振りをした。
 カラスは俺が家の中に入ると直ぐ様餌を喋み始めた。
 別な日の事である。空が曇って「雨模様」の朝だった。その日もカラスの声が聴こえた。だが何か違う感じなので庭に出て見ると、カラスが一羽、猫の餌を喋んでいた。その姿を見て何時も来るカラスとは違うと直感した。喋んでいるクチバシが長がかったので「ハシボソガラス」だと思った。躰も「ハシブトガラス」に比べるとスリムというが細い。
 俺の姿を見て少し驚いた様子だったが、最後まで餌を喋んでから俺の姿を目に止めた感じだった。それから大きく首を縦に動かすと、羽を広げて飛び立って行った。俺には礼をしたように感じた。
 それから注意深く観察していると、「ハシブトガラス」が来てる時は「ハシボソガラス」は決してやっては来ない。
 だが「ハシボソガラス」が居る時に、たまにだが「ハシブトガラス」がやって来て「ハシボソガラス」を追っ払ってしまう事がある。この時は何故か「ハシブトガラス」を憎いと思ってしまう自分に気が付き可笑しくなった。
 猫の餌を取られる事には違いが無いのに……。

僕にとっての夏休み

 あれは僕が中学一年生の時だった。
 その頃、僕は母方の叔父の家に夏になると遊びに行った。夏休みのうち半分ほどを緑に囲まれた山深い叔父の家で過ごす事が多かった。
 勿論、長逗留するのは僕だけで、母も父も弟さえも二、三日で東京の家に帰ってしまった。
「明彦は田舎が好きなんでしょう」
 僕だけが取り残される理由を問うた時の母の答えだった。言っておくが僕は特別田舎が好きな訳ではなかった。なかんずく、田舎の夜になると窓いっぱいに群れる蛾や見たこともない虫が鳥肌が立つほど嫌いだった。その頃の僕は休みにはゲームをしたり、録画しておいたアニメを見たりするのが休みを過ごす日常で、太陽の下、表で遊ぶ等と言う事は考えもしなかったのだ。
 その年も夏休みになると家族四人で叔父の家に遊びにやって来たが、二泊もすると何時も通り僕だけを残して三人は帰って行った。帰り際に二歳下の弟が
「にいちゃん、二学期までには帰って来てね」
 そんな事を言って僕の顔を見ないで車に乗り込んだ。その時はその意味が全く判らなかった。退屈な田舎暮らしが、また続くと思っていただけだった。
 叔父の家には二つ歳上の女の子が居る。明美と言って田舎には珍しいくらいの美人で、中学でもマドンナ的存在だという。だが、僕にとっては従姉妹であり、この家で唯一の同じ価値観で話せる人間だった。
「明、明日、瀧に行こうよ。久しぶりに明と一緒に泳ぎたい!」
 元より、嫌な訳はなく、毎年この先にある滝壺で泳ぐのも楽しみだったのだ。それは色々な意味でだった……

 翌朝、早くに起こされて、叔父の自転車を借りて明美と一緒に走りだした。明美は白いシャツに赤いスカート姿だった。赤と言っても何回も洗濯して色あせてしまった赤だった。明美にとって普段着、それもどちらかと言うと下の方の服だったのだろう。夏の風を受けて明美のシャツの前が膨らんだ。下は何も身に付けていなかった。僕はそれを横目で見ながら明美は水着を着ないで泳ぐのだろうか? と不安半分、妄想半分で自転車を漕ぎ続けた。夏の朝は既に太陽によって充分泳ぎたくなる温度に達していた。
 滝壺に通じる小路に自転車を乗り捨てて草むらを下に滑り落ちるように歩いて行くと程なく瀧の音が聞こえて来る。
「ご~ご~」
 唸るような瀧の音に少しばかり胸がワクワクする。
 すぐに滝壺の場所まで辿り着いて荷物を草むらに置く。着替えようとバッグから水着を取り出そうとしたら、横で明美がいっぺんにシャツとスカートを脱ぎ捨て滝壺に素裸のまま飛び込んだ。
「あー気持ちいいよ! 海パンなんか履いてないで明も早く来なよ。気持ちいいよ。どうせ誰も見ていないんだから」
 誰も見て無くてもお互いが見ているじゃないか。と思ったけれど、履きかけた水着を放り出して自分も裸のまま滝壺に飛び込んだ。海とも違う勿論都会のプールなんかとは比べ物にならない清涼感で胸までいっぱいになった。
「気持ちいいな」
「でしょう! 裸のまま泳ぐと気持ち良いのよ。自分もこの自然の一員になった気がするの。そうすると誰に肌を見られても気にならない」
 確かに、そう言い切ってしまえるほどの気持ちよさだった。でも僕はそこまで気持ちが徹底しておらず。つい明美の方を見てしまう。勿論いやらしい気持ちでだ。
「ふふふ、明、見たいんだ……いいわよ。見せてあげる」
 明美はそう言ったかと思うと勢い良く水から立ち上がった。豊満な胸をした明美の体から沢山の水の粒が滴り落ちた。僕は明美から視線を動かす事が出来なかった。
「明の中には虫がいるんだよね。女の子の裸を見たいと言う虫がいるんだよね」
「そ、そんなの男だったら誰でもそうだよ」
「じゃあ、やっぱり虫がいるんだ……でも、あたし、その虫嫌いじゃないよ」
 僕は偉そな事を口にしていても、明美の裸から目を逸らす事が出来なかった。それどころか僕の中の虫は増々大きくなってしまっていた。
「見せてあげたから、もうお終い」
 明美はそう言うと瀧の水が落ちている傍まで泳いで行った。僕より泳ぎの達者な明美はスイスイと瀧のすぐ傍まで行くと
「明も来なよ。瀧のしずくが頭から掛かって気持ちが良いよ」
 だが僕は明美の言う通りにはしなかった。前に、あそこまで行って溺れかけた事があるからだ。
「やめておく。いつかみたいに溺れたら嫌だから」
「勇気がないのね。そうだよね。あたしが裸見せてあげても何もしないんだものね」
 その言葉に反論は出来なかった。実はたわわな胸に触りたかった。でもそんな勇気は少しも持っていなかった。僕が持っていた「スケベの虫」は思ったより小さかったのだ。

その後、散々泳いで明美の裸を見せつけられてから叔父の家に帰って来た。
「お互い内緒だからね」
 明美はそう言うと自分の部屋に行ってしまった。僕は仕方ないので、自分が寝起きしている客間で夏休みの宿題をすることにした。叔父の家に長逗留していても、普段過ごしてることは家でやっている事と余り変わりはない。只、少しばかり環境が違うだけだと僕は思った。
 昼食を食べ終わると明美は友達と逢うと言って出かけて行った。僕は明美が着ていた服から、友達と言うのは彼氏だと思った。それに明美の目が普段の目とは違っていたからだ。僕は、その間も宿題をすることにする。一日でも早く終わらせたかったからだ。僕は東京に帰れるだけの交通費は持っていた。叔父の家の事情等から両親が迎えに来る前に自分だけで帰った事があり、それ以来母親は交通費だけは僕に残しておいてくれたからだ。
 そのお金を取り出して眺めながら
『今年はこれを使ってやろうかしら?』
 などと思うのだった。
 ある年だった。急にホームシックになった僕は叔父からお金を借りて、黙って家に帰った事があった。暗くなった表から玄関を開けようとすると、楽しそうな両親と弟の会話が聞こえて来た。それは僕が居る時には決して聞く事が出来ない楽しそうな団欒の会話だった。僕は結局家に帰らずに、朝まで公園に居て、始発でまた叔父の家に帰った。叔父は帰って来た僕を見て驚いたが詳しい事は何も聞かずにそのまま家に入れてくれた。それ以来僕は常に家では他所者だと思っている。

 夜になり明美が帰って来た。田舎で嫌なのは夜になると網戸いっぱいに虫が集る事だった。見たこともない大きな我や得体の知れない昆虫が窓の網戸いっぱいに停まっていて、始めてそれを見た時は本当に鳥肌がたってしまって身震いが止まらなかった。
「明は怖がりだね」
 明美が言った言葉だ。怖がりなんじゃない。得体が知れないから気味が悪いだけだ。そう返答したら明美は「同じ」だと言ってせせら笑った。
 同じなんかじゃない。僕はホラー映画など見ても全く怖くないが虫が、それもあんなに沢山集まっているのが気味が悪いと言ってるのだ。
 明美の部屋の窓にも数えきれない程の虫が集っている。明美はそれを見ながら
「ねえ、朝のこと驚いた? あたしがいきなり裸になって」
 真顔でそんな言われも返答に困る。
「あたしの裸見て興奮した?」
 興奮はしたのだ。だが緊張の方が勝って肉体的な変化は無かったのだ。それを明美に言うと
「ねえ、面白い事教えてあげようか?」
「なあに、面白い事って?」
「前に、いきなり家に帰った事あったでしょう? あの時一晩で帰って来たよね。訊いたら家に入らずに公園で一晩過ごしていたって……」
「うん。そうだよ」
「もしかして、その時自分が他人じゃ無いかって、思わなかった? そんな感じを受けなかった?」
 明美の言っている事は本当で、実はそう思っていた。
「あたしの名前とあんたの名前に同じ「明」の字が付いてるのって偶然だと思う? 何も感じ無かった?」
 すぐに言ってる意味は判った。でも、なんて返事をしたら良いのだろう? 『そうです』なんて軽々しくは言えない。だが『知らない、思わない』等とも言い切れない自分が居る。どうしようか……答えあぐねていたら
「聞いた話だけど、あたしと明は実は姉弟なんだって。事情があってあんたは伯母さんの家に貰われて行ったそうよ。そうしたら弟が生まれたんだって……本当かどうかは知らない。聞いたの……」
「誰から?」
「それは言えない。約束だから……でも言われたの。あんたが悩んでいたら本当の事を教えてあげて、って……」
 もしかしたらとは考えない事も無かった。あの日玄関で感じた日からずっと思って居たことだ。
「姉弟だから裸見せたの?」
 何だか酷く損をした気分だった。
「嘘よ! みんな嘘! あたしのイタズラの虫のせいよ!」
 明るく笑う明美だったが、僕は笑え無かった。多分、それは本当の事だろうから……
「今日は、彼氏とセックスして来たのか?」
 明美は、その言葉に少し驚いて
「セックスはしてないけど、どうしてあたしが彼氏と逢ったと判ったの?」
 驚いている明美に僕は
「さあね。もしかしたら血のせいかもね」
 そう返答すると明美が嬉しそうに笑った。
            
                               了
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