夜の調理室 1 入学

chouri3-1 誰でも人生に於いて「通過儀礼」というものがあるのなら、僕にとって、あの期間がそうだったのかも知れなかった。

 二週間前に高校を卒業した僕は、都内のある大学のキャンパスで呆然と立ち尽くしていた。受験した学部の合格発表の日だったが、目の前の掲示板には僕の受験番号は無かった。
 予備校や高校の模試でAランクの言わばすべり止めの大学だった。数回模試を行って一度もBに落ちた事の無い安全パイのはずだった。
 普通ならここで途方にくれるとか、自分の将来を悲観するとか選択肢があるのだが、その時の僕にはそんな選択肢は無かった。
 何故なら次の目的の学校の願書の締め切りまで一時間しか無かったからだ。だから掲示板の前で喜んでいる男女をかき分けて、キャンパスを出てタクシーを探す。振り返ると掲示板を見て悲観してるのは自分しか居なかった。他の受験生は皆喜んでいるか、当たり前の顔をしていた。そりゃそうだよな。僕だってこんな大学。まさか落ちるなんて少しも思って居なかった。でも現実だった。信じられない事だがこれは現実なのだ。
 タクシーは直ぐに捕まって、乗り込み次の学校を目指す。さすがに締め切り前に到着して願書を出した。受験票を貰って学校の表に出て来た。そしてもう一度振り返り学校の名前を確認する。そこには「丸々栄養専門学校」と書かれていた。そう僕は大学に行くことを諦めて調理師学校に入る事に決めたのだった。
 専門学校といえども試験はあるらしい。受験の当日少し早めに学校に向かう。受験票を見せて建物の中に入る。そして「受験会場」と書かれた一室に入る。そこは講堂になっていて、机が並んでいて、その両端に受験番号と思われる数字の書いた紙が貼られていた。僕の受験番号と同じ数字の書かれた席に座る。隣を見ると現役の女子高生とおぼしき女子が座っていた。僕は実は一浪で、昨年は高望みの学部ばかり受験して落ちていたのだった。だから今年は確実に合格する所ばかりを選択したのだが、まさかこんな事になるとは思ってもいなかった。
 講堂を見渡してみると、様々な年齢の人が居る事に気がついた。そこで黒板を確認すると、この専門学校には昼間の部と夜間の部があるそうだ。今日は最終の試験の日なので昼の部と夜の部の合同の受験だと説明が書かれてあった。それで納得する。
 時間になり試験官が入って来て、試験の?明をした。何でも開始から二十分を過ぎたら、試験用紙を裏替えして退出しても良いと言う。入学試験でそんなのは珍しかったので、やはり大学とは違うのだと思った。その後に面接を行い、結果を発表するという。
 時間になり、用紙が配られ試験が開始された。問題を読んで見ると内容は中学の理科の時間に学ぶ事ばかりだった。これなら間違い様がない。二十分で退席しても良いと言う意味が判った。これなら全問解くのに五分もあれば充分だと思った。
 開始から二十分丁度で答案用紙を裏返して講堂の外に出た。僕に続いて続々と講堂から受験生が出て来た。
 喫煙所でたばこを吸っていると、確か二列ほど向こう側に居た女性から声を掛けられた。特別目立つ人だったので覚えていたのだった。
「あなた、昼の部の方?」
「ええ、そうですけど」
「私は夜間部なの。一緒になれないのね。少し残念」
 僕は女性から、そんな事を言われた事が無かったので、何と返事をして良いか判らなかった。
「面接まで時間があるから、お茶でもしません?」
「そうですね。行きましょうか?」
 そんな会話をして、僕と女性は学校の隣のビルにある喫茶店に入った。面接までは一時間あった。その時間までに先程の講堂の自分の席に帰れば良い。
 喫茶店では僕も彼女もブレンドを頼んだ。女性は二十五~三十歳ぐらいだろうか? そんな事を考えていたら
「私は秋山節子と言います。新宿の法律事務所に勤めているのよ」
 いきなり自己紹介をされた。僕は面食らってしまったが、何とか
「風間翔太と言います。一浪して大学受験に失敗してここを受けました」
 それだけが口をついて出た。
「受験失敗しちゃったんだ。高校はどこなの?」
 確かに卒業した高校を言わないと話題が出難いかも知れなかった。
「望洋台付属です」
「あら、結構レベルの高い所でしょう?」
 節子さんはコーヒーカップにミルクを入れてかき回しながら僕に尋ねる。
「まあ、世間的には中の上ぐらいですかね。でも生徒が皆大学に進学出来る訳じゃ無いんです。成績と入学の為の試験があって、一定以上のランクにならないと進学出来ないんです。僕は僅かの差で落ちてしまって、一般入試に回ったんです。そこでも落ちて、一浪して今年は絶対に入れるはずのレベルの大学ばかり受けたのですが何故か皆落ちてしまって、そこで線路を挟んで反対側の予備校から毎日眺めていたここに入る事にしたのです。でも、まさかここでも簡単とは言え試験があるなんて」
 普段の僕からは信じられない事だった。初対面の人、それも女性相手にこんなにペラペラ言葉が口から出るなんて初めてだった。
「そうなんだ。それはきっと神様があなたを大学に進学させたく無かっただと思うわ。あなたは調理師になるべき人だったのよ。私は何かそんな気がする」
 節子さんはそんな事を言ってコーヒーを美味しそうに飲んだ。僕はブラック派なのでそのままカップを口にした。苦くも魅惑的な香りが鼻を突いた。
 面白い考えをする人だと思った。確かに僕にとって、どこの試験の答案も完璧に近い形だったから落ちた理由は正直、判らなかった。
「そうなんですかね。大学に行っても、調理師学校には入ろうと考えていました。職業としての調理師に魅力を感じていた事は確かですけど。秋山さんはどうして調理師学校に入ろうと考えたのですか?」
 夜間部に入ろう等と言う人は、きっと自分で店を持ちたい等の理由だと決めつけていた。だが節子さんは
「私には弟が居るのだけど、中学にも満足に行かなかったの。校長先生の配慮で卒業はさせて貰えたけど、正直読み書きも満足に出来ないの。今は飲食店に勤めているのだけど、将来は自分でお店を持ちたいと考えていて、それなら私が資格を取って名前を貸してあげる。って言う事になったの」
 飲食店を持つのは通常では調理師や栄養士の資格が居る。だが厚生省は資格を取れない人の為に「食品衛生責任者」と言う資格を拵えた。これは保健所などの開く講習会に参加すれば資格を貰える。だが通常これも「平日に開催される事が多い。平日は仕事で休めないと言う人も居るのも事実なのだ。だからこのような名前貸しと言う行為もあるのだ。僕はそんな事情は知っていた。何故なら僕の家の商売が代々続いた料理屋だからだ。だから調理師の資格を取るのは当たり前なのだが、僕の両親は家業を継がせたくなかった。労多くて益少ない商売だからという理由だった。
 節子さんは正直、美人だと思った。でも、その頃の僕にしてみれば六~十歳近くも歳上の女性は恋愛の守備範囲から外れていると思っていた。
 
 一時間後に戻って面接の準備をしていると受験番号順に名前を呼ばれ講堂の入り口とは廊下を隔てて反対側にある面接室に入る算段だった。
 次々と名前を呼ばれ、やがて僕の番になった
「風間翔太さん。どうぞ面接室にお入り下さい」
 係の人に呼ばれて僕は面接の部屋に向かった。ドアを開けると、部屋の中は窓の側に机が置かれ、その前に椅子が置かれていた。
「失礼致します」
「どうぞお入り下さい」
 その声で部屋に入り一礼する
「どうぞおすわり下さい」
 椅子に座って前を見ると、学校のパンフレットに副校長と載っている人だった。
「風間翔太さんですね」
「はい、そうです」
「実は問題がありまして」
「どうような問題でしょうか?」
「実はこの募集は三次募集なのです。例年では三次まで募集しないと定員にならなかったのですが、今年は応募者が多く、昼間部は定員が一杯になってしまったのです。通常ならあなたを落とす所なのですが、成績を見ると、あなたは素晴らしいです。落とすには余りにも惜しいので、空きがある夜間部なら如何でしょうかと思いまして。どうでしょうか?」
 何だ、僕は本当に受験の運が無いのだろうか。確かに調理師の仕事は学校を卒業したからと言って出来るものではない。実際の現場で修行しないと使い者にならない事は知っていた。夜なら昼は家を手伝っていれば良いと思った。
「そうですか、僕は夜間部でも構いません」
 そう返事をした。それで面接は終わりだった。後から聞いた話では他の人はもっと色々と訊かれたらしい。
 面接後小一時間で結果が発表された。僕の名前と受験番号は夜間部に載っていた。それでも落ちた人もいる。むしろ、その事に驚いた。
 夜間部に僕の名前を載っている事を確認した節子さんは、僕の所に近寄って来て
「良かった! 翔太くんが夜間部で。これからよろしくお願いね」
 そう言って右手を出した。僕も右手を出して握手したが、その手は白く、細くて少し冷たくて、とても柔らかかった。
「こちらこそよろしくお願いします!」
 夜に学校に通う……そこで行われる事は僕にとって全てが未知の世界だった。期待と不安が心に渦巻いていた。
 

氷菓二次創作「千反田l家の家訓」

 俺と千反田えるは一時は不幸にも別れたが、結局一緒になることになった。それは運命の女神の仕業とも思えるほど偶然と思惑が重なった結果だった。今日は、その当時で一番思い出に残っている事を紹介してみたい。

 二人は、既に京都では一緒に暮らしていたが、やはり神山で式を上げる事になっていた。幾ら、えるが千反田家の農業を継がくても良いとは言え、千反田家はそれだけでは無い。長い家柄に代表されるように、神山の菩提寺には先祖代々の墓がある。それを守って行く事も千反田の家に生まれた者の務めなのだ。
 式の為に神山に帰った俺とえるは荷を解くと、鉄吾さんとお義母さんの待っている居間に向かった。
「ただいま帰りました」
 えるが挨拶をする。
「奉太郎です。改めて、よろしくお願いします!」
 俺も頭を下げる。尤も以前から二人とは顔見知りなので、改まってどうこうという事は無い。それが判っているのか鉄吾さんも
「やあ、奉太郎君。よくぞ婿に入ってくれた。こちらからも感謝するよ。これで千反田の家の心配事は解消した訳だ。こっちに居る間は色々と大変だろうが、ここが自分の家と思って欲しい」
 そんな事を言ってくれて、お義母さんも
「本当にそうですよ。注文があれば、わたしやえるにどんどん言って下さいね」
そう言って喜んでくれていた。すると鉄吾さんがえるに向かって
「そう言えば、あのことは奉太郎君には言ってあるのかな?」
 そんな事を問うている。「あのこと」とは一体何だろうか?
「未だですが、特に問題は無いと思います」
 えるが、そう返事をすると鉄吾さんも
「あれだけが我が家の家訓だからなぁ」
 等と言って笑うのを堪えたような表情をした。一体何なのだろうか、家訓とか言っていたが、まあ良い、後でえるに訊いてみよう。
 それから結婚式の打ち合わせに水梨神社に向かったり、披露宴の最後の確認をしたりして、出先で夕食を食べて帰って来たのはもう夜の九時近かった。
「はあ、今日はいろいろあって疲れたな」
「そうですね。でも一日で色々と決めてしまって、改めて奉太郎さんの素晴らしさを再認識しました」
「よせやい。それは俺のセリフだよ。お前こそ迷うことなき決断力で見事だったよ」
 二人でそんなやり取りをしながら、用意された離れの座敷に入った。床の間には鶴と亀にの書かれた掛け軸が掛かっており、中庭が覗く事が出来る半障子の嵌った縁側の障子を薄く開けると庭の桜の木の花びらが、静かに舞っていた。舞い降りた花びらが池の水面に音も無く浮かび、遅い神山に春の到来を告げていた。
「綺麗ですね」
 えるが俺の肩に手を置いて肩越しに眺めていた」
「さて、着替えたら風呂に入ろうか? お義父さん達はもう入ったのかな?」
 俺の疑問にえるは
「一足早く帰ったのでもう済んでいると思いますが、訊いて来ます」
 そう言って部屋を後にした。僅かな間の後で部屋に帰って来て、
「既に済んでいるそうです」
「そうか、じゃ入るかな? 先に入るか?」
 俺が風呂に入る順番を尋ねると、えるは
「あのう……未だ言っては居なかったのですが、千反田家の家訓と言うものがありまして、先祖代々皆が守って来た事があるのです」
 ああ、そう言えば先程、家訓の事をお義父さんも言っていたと思いだした。
「家訓って一体何なのだ?」
 俺の何気ない質問にえるは
「それは、千反田の家を継ぐ夫婦は、特別な事情が無い限り、揃っていれば常に一緒にお風呂に入る事。と言う事なのです」
 何だ、そんな事なのかと口に出そうとして驚いた。
「おい『特別な事情』とは何だ?」
 俺の質問にえるは戸惑いながらも
「それは夫婦に用事があり時間的な都合で一緒に入れない事です」
 じゃあ通常は常に一緒に入ると言う事じゃないか。京都のアパートは無理をすれば二人で入れない事もないが、まずは一人ずつ入っている。それが自然だと思った。千反田家の風呂は総檜造りの湯船でしかも二人から三人は入れる広さで、床と壁はセラミック製の黒いタイル張りになっている。そこに二つの洗い場が用意されており明かりは昼光色の防水のランプが壁に幾つか取り付けられている。かなりお洒落な雰囲気だとは知っていた。あの空間にえると二人だけで過ごすのかと思うと、男として正直、口角が上がってしまう。
「この家に居るならばと言う事です。京都での事は入っていません」
「じゃあ今日から、こっちに居る間は一緒に入る事になるのだな」
「そうですね。夫婦で喧嘩をしても困った事があっても二人でお風呂に入れば何事も上手く行く。と言うのが家訓なんだそうです」
 確かに、それは言えるのかも知れない。結局は男と女に違いは無いと言う事だと納得する。
「じゃあ、一緒に風呂場に行くか?」
「そうですね。そうしましょう」
 えるが二人の下着と浴衣を揃えて、俺が二人分のタオルとバスタオルを持って風呂場に行く。
 脱衣場には違い棚があり、そこに着替えや脱いだ衣類を置く事になっていた。この風呂自体は以前も入った事があるから戸惑いは無かった。尤もその時は一人で入ったのだが。
 シャツを脱いでズボンも脱ぎ下着だけになる。見ると、えるも下着姿になっていた。すると俺に背を向けて背中のホックを外すし、そのまま下も脱ぐとタオルを持って
「先に入っていますね。湯加減を見ておきます」
 そう言って脱衣場と風呂場の境の扉を開いて中に入って行った。俺の目には形の良い、えるの白いお尻とくびれが焼き付いていた。俺もパンツを脱いて後に続く。
 風呂場に入るとえるが湯船に沿って片膝を着いて片手で湯の加減を調べていた。
「ちょうど良い加減ですよ」
 かけ湯をして躰を流すと一緒に湯船に入る。暖かさが全身の皮膚を通して伝わって行く。俺は湯船の長方形の短い方を背にして手足を伸ばし、反対側に居るえるに「おいで」と声を掛けると、えるが後ろ向きで俺の懐に入って来た。自然と手がえるの前に回り、その豊かな胸をまさぐるようになる。確かに喧嘩をしても、一緒に湯に入れば嫌な事も忘れると思った。
「あん、奉太郎さん……後でわたしが奉太郎さんの躰を洗ってあげますからね」
 えるがそんな事を言って躰を俺に預けて来た。今はこの感触を楽しむ事にする。つくづく良いものだと思った。
 その後、二人でお互いの躰の隅々まで洗った。お互いに躰を洗う行為があんなにも興奮するとは思ってもいなかった。無論その夜はお互いに激しく求め合った。
 籍は既に入れていたが、今までは何処か恋人の延長気分だったが、この夜から夫婦としての自覚が出て来たと思った。こうした事まで考えていたのだろう。さすがご先祖様だと思った次第だ。


                         <了>

テケツのジョニー 6

 オイラは場末の寄席のテケツに住むジョニーと言うサバトラの猫さ。オイラの飼い主は寄席で切符を売っている姉さんなんだ。オイラにはとても優しくてオイラも大好きなんだ。

 暑かった夏も過ぎ去り秋本番となった。噺家協会や、噺家芸術協会では通常春と秋に真打昇進披露興行が行われる。春に噺家協会が行えば、秋には噺家芸術協会が行うと言う住み分けが出来ている。
 オイラの居るこの場末の寄席は、両方の協会が十日交代で興行を行っている。だから色々な噺家がやって来るのだ。
「ああ、今日から噺家協会の真打披露なのに、よりによってアイツが顔付けされているんだ」
 親爺さんが顔付けの噺家の名前が書かれた木の札を表の看板に嵌めて行きながら呟いていた。
「え、だあれ?」
 姉さんがテケツから出て来て尋ねている。親爺さんは
「ほら登柳だよ」
 姉さんもその名前を聞いて
「ああ、でも何でわざわざ顔付けしたのよ」
「いや、俺からじゃなくて、頼まれたんだよ。あいつの師匠の柳生師匠からさ」
 ここまで聞いてさすがの俺も事情が判って来た。登柳は香盤順ならこの昇進で真打になれたはずだったのだ。何でも師匠が昇進に反対したらしい。理由はよくわかっていない。この世界は師匠の言う事が絶対だ。言いつけに背く事は破門を意味し、落語の世界からの永久追放となる。のんびりとした猫の世界とは大違いだぜ。
「でも、昼の部じゃないんでしょう?」
 姉さんの質問に親爺さんはため息をつきながら
「でも、夜の部のさら口だ」
 親爺さんの言った「さら口」とは、昼の部が終わり十分ほどの休憩の後、夜の部の前座が上がる。この時はお客が入れ替えの時間だ。それが大体十分ほど、そして正式に夜の部が始まるのだが、その一番最初の出番が「さら口」なのだ。多分登柳が楽屋入りした時刻には昼の真打披露のトリの新真打や関係者が居る時間だ。恐らく、高座に上がる寸前だろうと、俺でも判る。つまり、師匠の柳生師は弟子の登柳にとって辛い経験をさせようとしていると言う事なのだ。
 同期で前座修業をして同時に二つ目になって、同時に真打になれると思っていた矢先に自分だけ真打になれないと知らされた時、登柳はどんな思いをしたのだろうか? 姉さんは恐らくそんな事を思っているに違いなかった。

 真打披露興行の時は普段特別な飾り付けをしない寄席でも、花や色々な贈り物を飾って華やかな感じになる。今日も、昨夜からの飾り付けで、この場末の寄席も華やいだ感じになった。
 今回昇進するのは三人で、それぞれが交代でトリを務める。正直言うと、朝から晩まで姉さんの膝の上や二階の隅っこで落語を聴いているオイラからすれば、今回の三人はそれほどでもない。今の時点では、修行の年月が来たから自動で昇進させて貰える程度の実力しかない。むしろ登柳の方が将来性を感じるとオイラは思っている。それなのに今回は昇進させなかったのにはきっと訳があると思っているんだ。
 初日と言う事もあり昼の部は本当に良くお客が入った。オイラも姉さんの膝の上ではなく楽屋の隅で寝ることにした。忙しい姉さんの邪魔をしたくないからだ。そんな中でも番組は進み、トリが近づいて来た。そんな時刻に登柳が楽屋入りして来た。入るなり
「喜多七師匠、本日はおめでとうございます!」
 そう言って挨拶をした。昨日までは「お前」「俺」で呼び合っていた仲だ。でも今日からは真打と二つ目と言う身分差が存在するのだ。
「ありがとう! でも、喜多七師匠はよしてくれよ」
 そんな事も言っているがどこまで本気なのかは判らない。真打は披露興行中はその日の出演者の弁当を用意したり楽屋で摘める寿司を頼んだりもする。終われば打ち上げがある。その費用も一切が真打持ちなのだ。楽では無いと思う。キャットフードで満足するオイラとは大違いだぜ。
 そんなやり取りをしているうちにトリの真打の出囃子が鳴り出した。その出囃子に乗って喜多七が出て行く。
「まってました!」
 とか
「たっぷり」
 と声が掛かる。アイツも自分の後援会を総動員しているのだろう。必死なのだ。無様な高座は見せられないと、いうことだ。その様子を登柳が高座の袖から見つめている。どんな思いなのだろうかと考えるが、オイラには良くわからない。それは登柳しか判らない事なのだ。
 夜の部になり昼の客の殆どが出て行ってしまって、空きが目立つ客席を前にして登柳が高座に出ていた。オイラは高座の袖からそれを見ている。いい出来だと思った。昼のトリの真打よりよほど良い出来だった。その高座を見てオイラは
「こいつは将来は大物になるかも知れない」
 そんな事を思った。今は真打と二つ目となってしまったが、実力はむしろ上だと思った。
ガラガラの客席でこの高座に出会えた客は幸せだと思った。この高座に登柳の思いの丈が込められているのだと感じた。
 高座を終えたら、売れっ子の噺家は着替えて直ぐに次の仕事先に向かう。でも登柳は着替えてもそのまま楽屋に居た。その訳が直ぐに判った、登柳の師匠の柳生師が出番が変わって今日はこの寄席に出る事になったからだ。代演と言う事さ。だから登柳は師匠を待っているのだった。
 やがて柳生師が楽屋入りした。登柳は師匠の世話をしながらも何故か嬉しそうだ。そのあたりの感覚はオイラには良くわからない。
 柳生師は高座が終わると登柳に「帰っても良いよ」と言って自分は親爺さんの部屋に向かった。オイラは天井裏からその様子を覗く事にした。いったい柳生師が親爺さんに何を言うのか興味があったからだ。
 親爺さんは柳生師にお茶を入れると
「登柳は良い出来だったよ。さぞ辛かったと思うけどね」
 そう言って登柳の事を口にした。柳生師は親爺さんが入れてくれたお茶を一口飲むと
「真打昇進は言わば、自分の元から離れて独り立ちする事です。これからは全ての責任を一人で背負って行かなくてはならない。だから店で言うと『新規開店』じゃ無いですか。売り物は多い方が良い。だから私は登柳の昇進を一年遅くしたのです。今の一年はきっとアイツにとって無駄にはならない。そう考えています」
 そう言って二口目を啜った。
「そう言えば、師匠が昇進する時も、色々あったねえ」
 親爺さんはそう言って遠い目をした。
「昔の話です」
「あの時は協会全体が揺れたなぁ」
「あの時、お席亭が私の後ろ盾になってくれたお陰で確かリました」
「なに、当然の事をしただけさ」
 オイラには二人の会話の意味が良く理解出来なかった。でも後で姉さんが教えてくれた。と言うより姉さんと親爺さんの会話を聞いて判ったのだが、その昔、噺家協会では真打昇進の際に「真打昇進試験」と言うものをやっていたらしい。その試験は色々と問題があったのだが、何回目かの試験の時に柳生師が受けて、何と落ちてしまったそうなのだ。その当時二つ目で一番と言われていて、試験に落ちる事なぞ思ってもいなかった事だったそうだ。落ちた理由は、柳生師の師匠と仲が悪い噺家が審査員に揃っていて、嫌がらせをしたのだと言う。この事は噺家協会は元より、マスコミも騒がせ、問題になったそうだ。その結果「真打昇進試験」は無くなり、柳生師は昇進出来る事になったのだが、師は昇進を一年送らせて欲しいと言ったのだった。遅れたその一年、必死に稽古して、晴れて昇進した高座では圧倒的な出来に皆が驚いたそうだ。
 きっと柳生師は自分の経験から、昇進する時は充分に準備が出来てからでも遅くないと言う事を教えたかっただと思った。
「アイツは出来る奴です。名前を見て下さい」
 親爺さんはそれを聴いて
「登る柳だからな。師匠をやがて超えるかもね」
「そうあって欲しいし、そうなるはずです」
 柳生師はそう言って嬉しそうな顔をした。

評価二次創作「折木奉太郎の資質」 その3

「行方不明……ですか?」
 驚いて思わず声が出てしまったわたしと違い、折木さんはあくまでも冷静でした。
「それは何時判ったのですか?」
 万人橋さんはこの前とは違い俯いています。背の大きな人が俯いているのは正直余り格好の良いものではありません。特に万人橋さんには似合っていないと感じました。折木さんの質問に直ぐには答えられない万人橋さんの代わりに、入須さんが答えます。
「それが先週らしいのだ。直ぐにわたしに言えば良いものを自分だけで何とかしようと考えていたらしい。そんな時にわたしが折木くんに千反田の事で頼み事をしたものだから、怪しまれないように、あのような高圧的な態度に出てしまったそうだ」
 正直、それも理解出来ますが万人橋さんは、いつもあの様な態度をされる事が多い気がします。
「そうですか、まあ何か無理をしてる気はしました。でも、その個人の資質も環境に左右される持論は前からですよね」
 折木さんの問いかけに万人橋さんは
「それは確かにあると考えている。理想はその二つが揃っている事だ」
 そう言って自分の考えを肯定します。
「まず、会費が行方不明になった時の事を詳しく教えて下さい」
 わたしは二人を座らせ、お茶を入れてだしました。それを一口飲んだ入須さんは
「これは千反田家で出してくれるお茶と同じ味……。家から持参しているのか?」
 驚く入須さんにわたしは
「はい、古典部は全部で五名ですから幾らも必要としません」
 私の返事を聴いて入須さんは
「良家の子女はかくありたいものだな」
 そう言って万人橋さんを見ました。彼女は記憶を整理するかのように少し考えていましたがやがて
「先週の金曜日が集金の日だった。各学年の代表がそれぞれ放課後にわたしの所に持って来るのが常だった。あの日も二年の千反田、一年の遠垣内が纏めて持って来てくれた。その二つの袋にわたしが集金した三年生の分を足して自分のロッカーにしまったのだ。下校時に銀行のATMに通帳と一緒に投入すれば良いと思っていた。何時もの事だから、それで問題は無いと考えていた。ところが、下校時に確認すると確かにしまったはずの集金袋が無い。記憶違いかと思い他を探したのだが結局無かった」
 万人橋さんは所々記憶を確認するかのように話しました。
「結局見つからなかった訳ですよね。お金は決められた日に入金しなくては、ならないのでは無いですか?」
「確かにその通りだ。だから……」
「立替えて自分の懐から払ったのですね」
「それも、その通りだ。何故判った?」
 折木さんが見破ってしまった事を不思議に思っている様でした。
「先日のやり取りから考えれば、先輩は人に弱みを見せたくない傾向にあると思いました。だから何かあっても表面上は何事も無かったかの様に振る舞うと思ったのです。そこから導かれる結論は、黙って立替えておいて、後から真相を突き止める。と考えました」
 折木さんの言葉に万人橋さんは驚き
「あれだけのやり取りで、そこまで判ってしまうものなのか……わたしは重大な勘違い、いや考え違いをしていたみたいだ」
 さすがに驚いているみたいですが、わたしや入須さんは慣れた事なので万人橋さんの表情の変化を楽しんでいます。
「それで今日までに何か判った事はありますか?」
「それが……特に思い出せんのだ」
 万人橋さんが困った表情を見せます。折木さんは鞄から一枚の紙を出して、横にして右の一番上に金曜の金と書き込みました。
「全部の集金が集まったのが金曜の放課後なのですね。それは確かですね。それでロッカーにしまって鍵を掛けた」
 折木さんの問いかけに万人橋さんはうなずきます。折木さんはその事を書き込みます。
「それで、下校時に確かめたら無かったのですね」
「そうだ」
「それは何時か覚えていますか?」
「ああ、銀行に入金しなくてはならないので下校時間の十七時半前の十七時過ぎだったと記憶している」
 折木さんは更に質問をします
「では、遠垣内や千反田がお金を持って来たのは何時頃ですか」
「あの日は全学年六時限だったから一五時半を少し回った頃だった」
「四十分ごろとか? 千反田、どうだ?」
 折木さんがわたしに尋ねます。わたしは記憶を手繰りながら
「そうですね。万人橋さんに集金したお金を渡して、二年H組に帰って来て時計を見たら、四十五分を少し過ぎていましたから、そんなものだと思います」
「そうか、では犯行は十五時四十分過ぎから十七時過ぎの間ですね。先輩、この時間は何をなさっていたのですか?」
「その時間は部活動に顔を出していた」
「何部ですか?」
「手芸部だ」
 万人橋さんが手芸部とは思ってもいませんでした。
「その日は福部里志はいましたか?」
 いきなり関係ない質問に及んだので、万人橋さんは驚いたようですが、
「福部……ああその日は確かに参加していた。文化祭が近いからな。作品を仕上げなくてはならないから皆必死なのだ」
 折木さんはきっと何かあった時に福部さんの証言も欲しいのだと思いました。万人橋さんが嘘を言っている可能性は乏しいとは思いますが、証言をする者は一人でも多い方が良いですから。
「ここだけの話ですが、先輩は何時も集金したお金は銀行に振り込む前は自分のロッカーにしまって置くのですか?」
 折木さんの質問に万人橋さんは小さな声で
「本当は集金したら常時身につけていなくてはならないのだが、毎月の事で今まで何も無かったから油断していたのだ」
「恐らく犯人はその事を知っていたと思われます」
 折木さんのその言葉に入須さんが
「では犯人は『神山令嬢倶楽部』の者だと?」
 そう言って折木さんに詰め寄ります
「そうは言っていません。一般の生徒でも、『神山令嬢倶楽部』の事を知っている者は居るでしょう」
「では容疑者は一般の生徒にも及ぶと言う事か?」
 万人橋さんが机から身を乗り出して驚いています。
「可能性の問題ですよ。一般の生徒で『神山令嬢倶楽部』の事を知ってる者なら限られるでしょう。数は多くはありませんよ」
 折木さんはあくまでも冷静に物事を考えます。さすがです。
「では誰なのだ?」
 今度は入須さんが折木さんに詰め寄ります
「結論から言えば、万人橋先輩が集金したお金を一時自分のロッカーにしまう事を知って居る者となるでしょうね」
「それはそうだろう」
 半分呆れる入須さんに向かって折木さんは
「あの日だけではなく、毎月あそこにしまってる事を知っている者。それに何らかの方法で万人橋先輩のロッカーを開ける事が出来る者ですね」
「それは……つまり……」
 万人橋さんが判ったかのような表情を見せました。
「マスターキーを持っているか、もしかして……」
「そう、同じ番号の鍵のロッカーを使ってる人物となります。神山高校の生徒は千人です。生徒が使っているロッカーですが千種類以上も鍵があるとは思えません。犯人は偶然に自分のロッカーと万人橋先輩のロッカーが同じ鍵だと気がついてしまったのでしょう」
「そうか、鍵の番号か!」
「そうです! それを知りうる人物が犯人でしょう」
 折木さんがそこまで言った時でした。折木さんは地学講義室の扉の方向に向かって言いました
「さっきからそこで立っている君、入ったらどうだ」
 わたしも入須さんも万人橋さんも全く気が付きませんでした。
「判っているんだ。君は遠垣内さんだろう」
 折木さんに言われて一人の一年生が顔を出しました。折木さんが遠垣内と言った通り遠垣内先輩の妹さんの遠垣内明美さんでした。『神山令嬢倶楽部』神山高校支部の一年生の纏め役をやっています。そうです万人橋さんが次期の支部長に押す人物です。
「遠垣内! どうしてここに!」
 驚く入須さんと万人橋さん。その二人に向かって遠垣内さんは袱紗に包まれたものを差し出しました。
「まさか……お前が」
 驚く万人橋さんは受け取った袱紗を開きます。出て来たのは「神山令嬢倶楽部」の会費を集金した袋でした。
「申し訳ありません。わたしが万人橋先輩のロッカーから盗みました。先輩がいつもロッカーにしまっている事は以前から知っていました。そして先輩のロッカーの番号と自分が使っているロッカーの番号が同じと気が付き、同じ鍵では無いかと思ったのです。確かめて見ると私のロッカーの鍵で先輩のロッカーも開きました。でも、その時はこんな事をしようとは思ってもいませんでした」
 立ち尽くす遠垣内さんに折木さんは
「座ったらどうだ。立っていると疲れるぞ」
 そう言って椅子に座る事を進めます。遠垣内さんは色白で、細く華奢な感じがします。細い肩にショートカットの髪が似合います。
「どうしてこんな事をしたのだ?」
 万人橋さんが驚いて遠垣内さんに尋ねます。暫く黙っていましたが、折木さんが助け船を出しました。
「嫌だったのだろう。来年、支部長になるのは?」
 折木さんの言葉に黙って頷きました。
「嫌だった……何故?」
 不思議そうに顔を傾ける万人橋さんに遠垣内さんは
「わたしの家は代々教育者が巣立っています。父も叔父も皆教育者です。教育者はその知識と志で皆を導かなくてはなりません。そんな使命を持って生まれて来た家の者が、間違った事をしてはならないのです。
 千反田家がこの神山で江戸時代以来どのように皆を導いて来たかを知れば、わたしなぞが千反田先輩を差し置いて支部長になるなぞ、あってはならないのです。教育者の家とはそのようなものなのです。それを守る為に兄も非行的な遊びは親に隠れてやっていました。兄は『今だけだ。卒業したら辞める。一時の遊びだ』
 そう言っていました。その時はわたしは兄の言葉を本気にしていませんでした。大学に進学した兄は悪い遊びは一切辞めて勉学に励んでいます。兄は本気だったのです。それが教育者の家の者の努めなのです。ならば、わたしもそれに相応しい事をしなくてはならないと思ったのです。そこで悪い事だと判っていても万人橋先輩に判って欲しかったのです。本当に申し訳ありませんでした」
 遠垣内さんはそう言って深く頭を下げました。
「判った。申し出てくれた事で無かった事にしよう。でも、お前がそこまで考えていたとは……」
 万人橋さんはそう言って深い溜め息をつきました。それを見て入須さんが
「しかし、折木くんはどうして判ったのだ」
 そう言って不思議そうな顔をします。それに折木さんは
「先ほど言った通りですよ。同じロッカーだと気がつくほど何回も万人橋先輩の教室に行っている者。会費を扱っている者。それは二人しかいません。そのうち千反田は外れます。残った者は彼女しか居ないと言う事です」
「どこで判ったのだ?」
 今度は万人橋さんが尋ねます
「ロッカーにお金をしまったと聞いた時に、何となくと思いました」
「まさに鬼神の如しだな。素晴らしい資質だ。君が女子なら是非とも入会して欲しい所だ。男子なのが惜しい」
 万人橋さんはそんな冗談を言って困らせます。
「そんな折木さんが女子なら困ります」
「どうして千反田が困るのだ?」
 不思議がる万人橋さんに入須さんが耳打ちします。そこで納得した様です。入須さんは何を言ったのでしょうか? 気になります!
「でも大日向さんが言っていた通りですね。折木先輩は凄いです!」
 今度は遠垣内さんまでも言うので折木さんは
「よしてくれ、たまたまだ。偶然の産物だよ!」
 そう言って困った顔をします。
「さあ問題が解決したらお引き取り願おう。読みかけの本が良いところだったんだ」
 折木さんはそう言って鞄から文庫本を出して読み出すのでした。
 その声に三人が仕方ないと帰ります。外を見ると、もうすぐ夕日が沈もうとしています。文化祭が終わると冬はもうすぐです。そしてわたしたちの進路も決めなくてはなりません。でも、今日はこのまま下校時間まで一緒に居たいと思うのでした。



                                                                          <了>

氷菓二次創作「折木奉太郎の資質」 その2

 三年G組での起こった出来事を話しますと、今日、入須さんが手配してくれたお陰で、教室には万人橋さんが居ました。わたしは家の用事や「神山令嬢倶楽部」の事でお会いしていますが、折木さんは初対面です。そこでわたしは二人を紹介しました。
「万人橋さん。こちらが折木さんです。わたしと同じ古典部です。折木さんこちらが入須さんが仰っていた『神山令嬢倶楽部』の支部長の万人橋さんです」
「折木奉太郎です。今日は入須先輩に頼まれてやって来ました。話だけでもさせて下さい」
 折木さんは、そう言って万人橋さんに近づきました。万人橋さんは女子では背の高い方です。わたしや入須さんよりも高いので恐らく百六十五センチはあると思われます。また、わたしと同じぐらいの長い髪の毛をしていてるのも特徴です。交渉事では、大柄で長い髪をなびかせて立ち回るので、大抵の人は、その迫力に負けてしまいます。
「ようこそ。君が入須の言っていた折木くんか、とりあえず話だけは聞こう。君の意見が尤もなことなら変えても良いと思っている。まあ、座り給え」
 万人橋さんはそう言って自分も教室の教壇にある椅子に座りました。折木さんは教室の中ほどにある席に座りました。わたしもその隣に座ります。
「まず、『神山令嬢倶楽部』と言う親睦会があるのを今日初めて入須先輩から伺いました。何でも二十歳以下の神山の良家の子女が入会しているとか……。そこには入須先輩を始め、同じ古典部で活動している千反田も入っていると聞きました。そこで次期の人事について問題が起きてると伺いました」
 折木さんは座りながら今までの経緯を説明します。すると万人橋さんが
「まあ、君のような家柄の者には『神山令嬢倶楽部』の事なぞ知るまい。それは仕方ない事でもある」
「『神山令嬢倶楽部』では家柄が全てだと伺いましたが、それに間違いはありませんか?」
「そうだな。原則としてそうなっている。例外はあるがな」
「それは?」
「今回の事もそうだが、その人物の資質に著しい問題がある場合だな」
「著しい問題ですか……素行とか色々ですね」
「さすがだな。そう、色々な事も含む」
「次の神山高校支部の支部長は本来なら千反田がなると決まっていたそうですが、何故、それが変更されようとしているのですか?」
「それは入須が説明したのでは無いのかな? 千反田えるは家を継ぐ地位から外されてしまったのだ。それがどのような意味を持つか、君なら理解出来るだろう」
「それはおかしな話では無いのでしょうか? 千反田は他に兄弟がいませんが、これが妹がいたら事情は変わりませんか」
 折木さんは私に妹が居たら、どうなるのか尋ねているのです。万人橋さんは少し考えてからおもむろに
「それは仮定の話だな。その場合は、一家に複数の会員が存在した場合、重要な役職に就くのは長子と決まっている。この場合もその長子に問題があれば次女となるがな」
「では千反田は長子です。問題が無いではありませんか」
「だから、長子でも家を継ぐ権利を放棄させられた子であるから、重要な役職に就くのは問題があると言う事なのだ。判りやすいだろう」
 折木さんは、小さくわたしにだけ判るぐらいの声で
『全く話にならないな』
 そう言ってわたしの方を少し見てから
「それは差別にあたるのでは無いですか?」
 そう言って立ち上がりました。
「差別……面白い事を言う子だな君は。差別と言えばそうなるのだろうが、『神山令嬢倶楽部』は本来それを超越している。会員のメンバーを選別するのもそうだし。内部での人事もそうだ。そこには庶民の家の者には判らない事情があるのだ」
 万人橋さんも折木さんに釣られて立ち上がります。
「選民思想ですか?」
 折木さんの言葉に万人橋さんは薄笑いを浮かべて
「わたしたちはユダヤ教ではない。古くからある家柄の者は普通の家とは違い、いろいろな決まり事がある。それらは他の家の者から見れば意味の無い事かも知れんが、その家にとっては重要な意味があるのだ。それを理解出来る者だけで会を構成しているのだ。だから家を継ぐ必要が無くなった言う事は、その家の重要な行事から外されると言う意味でもあるのだ。だから会員であっても重要な地位を占める事には相応しくないと言っているのだ。会員でもこの考えに賛同する者は多い」
 万人橋さんは「どうだ」と言う表情で教壇の上から折木さんを見下ろしました。
「俺は、大した家の生まれではありませんが、今時、この二十一世紀の神山にそんな思想の会が存在していると言う事が驚きですよ。しかも普段から同じ部活動をしている千反田がソノメンバーだなんて……。でも、急にそんな事をして一旦決まっていた事を翻意するなぞ今後に影響が及びませんかねえ」
 折木さんの言った事に対して
「君は個人の資質としてはかなり素晴らしいものを持っているようだ。入須が頼み込んだだけの事はある。だが所詮は旧家良家の事情には疎いと言う事だ」
 それを聴いて折木さんが言ったのがあの言葉なのです。


「どうしましょうか?」
 古典部の部室でわたしは折木さんに語りかけます。折木さんは自分の鞄から文庫本を取り出しながら
「どうしようもしない。第一、お前が次の支部長になるのには乗り気ではないのだろう?」
 そうわたしに尋ねます。わたしは自分の想いを伝えます。
「この前も言いましたが、他に相応しい方が居るなら、その方がなれば良いと思います。今のわたしには正直『神山令嬢倶楽部』の事はどうでも良いのです。今は新しく自分に与えられた翼をどうするかが大事なのです」
「そうか、あんなお嬢様の集まりには興味は無いと言う事か」
「と言いますか、余裕が無い状態ですね。もうすぐ最初の進路相談もありますし、それまでは大凡の方向も決めておかねばなりません」
 わたしは、自分の事だけで精一杯なのかも知れません。以前のように農業の方に進むのか、あるいは新たな道を探るのか決めなくてはなりません。『神山令嬢倶楽部』の支部長になってもそれほどの仕事がある訳ではありませんので、支部長になってもならなくても構わないのです。でも、将来、わたしが折木さんと一緒になるなら、またそれは違って来ます。わたし個人の問題では無くなるからです。
「兎に角、お前が次の支部長にならないと、将来の『神山令嬢倶楽部』に関わって来ると言う事なのだな」
「多分そうなのだと思います。所謂、秩序ですか、入須さんは、それが崩れる事を心配しているのでしょう」
「まあ、少し間を置いてからもう一度行ってみるさ」
 折木さんはそう言って文庫本を読み始めました。わたしも手持ち無沙汰なので、鞄から読みかけの本を出して読み始めます。

 問題が起きたのはそれから二日後でした。放課後の地学講義室に入須さんがやって来たのです。それも万人橋さんを連れて……。
 地学講義室の扉の前で入須さんの声がしました
「入須だ。折木くんは居るかな?」
 今日はある程度落ち着いているみたいです。
「いますよ」
 折木さんが面倒くさそうに答えます。
「入るぞ!」
 その声と同時に扉が開かれ入須さんが入って来ました。
「どうした」
 誰か居るのでしょうか、後ろを気にしています。その声に恐る恐る入って来たのは万人橋さんでした。
「入須先輩に万人橋先輩。いったいどうしたのですか?」
 折木さんの質問に万人橋さんは困った表情をして
「実は困った事が起きたのだ。こんな事を頼める関係では無いのだが、無理を利いて欲しいと思って入須に頼んで連れて来て貰ったのだ」
 先日とは打って変わって生彩の無い表情をしています。気のせいか幾分か小さく感じます。
「何があったのですか。説明をしてくれないと判りませんよ」
 折木さんはわたしが思ったより冷静な感じです。いつもの少しやる気の無い表情をした折木さんです。折木さんのその言葉に促されるように入須さんが
「実は『神山令嬢倶楽部』の集金した会費が行方不明になったのだ」
「えっ!」
 思わず声が出てしまいました。
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