夜の調理室 6 酒の味

「もう一件行きましょう!」
 飯岡さんが空になった焼酎の瓶を確かめながら言うと門倉さんも
「そうよね。時間的にまだ早いしね」
 そう言って賛成した。節子さんは時間を確認しながら
「少しならいいか」
 やはりそう言って賛成した。僕は酔もあり帰りたかったのだが、正直立ち上がってマトモに歩ける状態じゃなかった。
「次は日本酒の美味しいところが良いな。この辺りに無いかな?」
 門倉さんは、飯岡さんにリクエストしている。節子さんは僕の耳元で
「大丈夫? 一人で帰れないなら、私の部屋に泊まって行けば良いわよ」
 何と、そんな事を言ってニッコリとするのだった。泊まれって、それって……早くも卑猥な考えが酔った脳内を駆け巡る。でも、それより、前に歩けるかが問題なのだった。
「じゃあ、とっておきの店に行こうか。そこは親爺さんが一人でやってる店でね。おつまみが少し置いてあるだけで他に食べ物は無いんだ。そこかわり色々な日本酒があるよ」
「素敵! そこ連れて行って!」
「よし! じゃあ行こうか」
 そう言って飯岡さんと門倉さんは立ちあがって会計をした。割り勘と言っていたが僕は少ししか食べたり飲んだりしなかったので、まけてくれた。
 立ちあがって歩き始めるとまっすぐ歩けない事が判った。これは不味いと思っていると節子さんが僕の躰を支えてくれて、左の腕を掴んでくれている。
「翔太くん平気?」
 門倉さんも少し心配してくれているが、きっと本気ではない。目が店の外に向いているからだ。
「場所と店の名を書いて秋山さんに渡しておくから、ゆっくり来れば良いよ」
 飯岡さんがそう言って自分のメモ用紙に何か書いて節子さんに手渡した。それを覗き込むと店の名「雪舟」と電話番号と簡単な地図が書かれてあった。それを見て節子さんも、ここから遠くないと判ったみたいだった。
「ああ、あそこの傍ね。判った。後で連れて行くわ」
「じゃあ、先に行ってます」
 飯岡さんはそう言うと門倉さんの腕を取って店を出て行った。残された僕と節子さんは、店員さんに水を持って来てもらって、それを口にする。
「まさか、お酒飲んだの初めて?」
 節子さんが殆ど顔をくっつけるような距離で囁くように言う
「まさか、でも強くないのは確かです。それでもこれぐらいで酔う事なんて無かったのですけどね」
「お腹空いていたのね。それで回ってしまったのね。ゆっくりで良いから歩ける?」
「何とか大丈夫かと」
 節子さんは僕の腕を取ってそれを自分の躰に当てて僕を支えてくれた。僕の肘のあたりに柔らかい感触を感じた。見ると僕の腕の一部分が節子さんの胸のあたりに触っていたのだった。以外なボリューム感に戸惑う。節子さんは着痩せするんだと思った。
 店の外に出ると、夜の冷たい風が頬に当り、少しずつ酔が冷めて行く感じがする。でも、人が見たら、若い男が酔ってふらついているだけにしか見えないだろう。
「今夜はウチに泊まりなさい。布団別にあるから翔太くんの分もあるわよ」
「え、でも……僕一応これでも男ですから……」
 正直、今のままなら朝まで何も起きないと思ったが、これで酔が冷めれば。正直、どうなるか判らないと思った。
 街の灯りがやけに綺麗に感じていて、僕は今見えている光景がお酒のせいなら、酔うと言う行為も悪くないと思った。
「ちゃんと歩ける?」
 節子さんが心配してくれている。こんな綺麗な女性に面倒を見て貰えて僕は幸せ者だ。本当なら
「あなたは帰りなさい」
 と言ってタクシーに僕を乗せて終わりのはずだった。多分、それが殆どの人がやる行為ではないだろうか。それとも考え過ぎだろうか、酔って思考の鈍った頭ではそれ以上考えられなかった。
「もうすぐだから頑張って」
 節子さん本当にすいません。僕みたいにだらしない男に関わったばかりに、介抱するはめになってしまった。本当に申し訳なく思っていますよ。そう頭では考えていたが、口から出た言葉は
「すいません。大丈夫です」
 そんな当たり障りのない言葉だけだった。
「ほら、あそこ」
 節子さんが差した指先には、路地の奥にぽつんと灯りが灯った小さな店だった。確かに看板に「雪舟」と書かれていた。
「連れて来たわよ」
 一間あまりの引き戸を開けて暖簾をくぐると、飯岡さんと門倉さんはもうお酒を飲み始めていた。カウンターに座った二人の前にあるのは、銀の器に氷を満たし、その中に置かれているガラスの瓶だった。
「冷酒飲んでいるのね。冷酒は後から効くと言うけど大丈夫?」
 節子さんが門倉さんの隣に座る。僕は更にその隣だ。
 するとひとり置いて門倉さんの向こうから飯岡さんが小さなグラスを節子さんに渡した。僕はもう飲めないので断った。
「じゃあ枝豆でも食べていて」
 門倉さんはそう言って僕に大きめのお皿に盛られた枝豆を渡してくれた。
「これは茨木の『一人娘』という名の酒だよ」
 飯岡さんがそう言って節子さんのグラスにお酒を注いで行く。
「美味しい! 優しい味ね。飲みやすいわね」
 節子さんはそう言って二口目で飲み干してしまった。飯岡さんは更に
「親父さん『住吉』はある?」
 飯岡さんに尋ねられたカウンターの向こうに居る親父さんは小柄な躰を背一杯背伸びして棚から一升瓶を取り出した。その瓶にはラベルに「住吉」と書かれてあった。
「どれほどかね?」
 親父さんの質問に飯岡さんは
「三人に波波と注いで飲もうと思っているんだ」
 そう言うと親父さんは別の小さな瓶に移し替えた。目分量だが三合ほどもあっただろうか
「これも素晴らしいお酒だから飲んでごらん」
 飯岡さんが三つの小さめのスリムなグラスにそれを注いだ。門倉さんが真っ先に口に運ぶ
「う~ん深い味ねえ。杉の香りがする」
「そうなんだ。杉の木の香りと飲みごたえのある芳醇な辛口が特徴なんだ」
 飯岡さんがそう言って解説をすると親爺さんが
「一度のこの酒にはまってしまった方はこればかりになってしまうケースが多く、店でも品切れが許されないお酒の一つですよ。黄みがかかった酒は炭素濾過をしていない酒の証なんです」
「他のお酒は炭素濾過をしてるから透明なんですね」
 節子さんがそんな感想を言いながらグラスを口に運ぶ
「このお酒が少し黄色いのは、そのせいなんですね。昔ながらの作り方なんですね」
 その飲み方はお酒を慈しむように感じた。節子さんの向こうを見ると飯岡さんと門倉さんは別なお酒も頼んでそちらも飲んでいる。考えたら二人共かなり飲んでいると思った。本当に二人は強いのだと感じた。
 その店にどのぐらい居ただろうか、店を出た時はかなり遅くなっていた。さすがに門倉さんは酔っている感じで、足取りも怪しくなっていた。飯岡さんは少し酔っていると思うが、未だ飲めそうな感じだ。僕は飲んでいなかったので酔いは冷めていた。節子さんも少ししか飲んでいなかったので、平常に近かった。
 節子さんが時計を確認すると
「あら、終電間に合わないわよ」
 いつの間にかそんな時間になっていた。
「何処かねぐらを探さないとな」
 飯岡さんがそんな事を言って辺を眺めている。
「ちょうど四人だからラブホテルにでも泊ますか?」
「男女二組に別れて?」
 節子さんがそう言って半分笑っている。
「いや男同士、女同士で」
 飯岡さんはかなり真面目そうに考えているみたいだが、所詮酔った頭だ。思考が及んでいない。
「いいわ。ウチならここからタクシーでも幾らも掛からないから、今夜はウチに泊りなさい。雑魚寝すれば良いでしょう」
 節子さんの提案に飯岡さんは
「良いの? さすがに不味いんじゃない?」
「あら何か不味い事しようと思っているの?」
「いや、そんな訳は無いけど、秋山さんに迷惑がかかるかと思って」
「いいの。そんなに気にしないから」
「それじゃ……」
 そんな訳で僕と門倉さん。それに飯岡さんの三人は節子さんのへやにで一泊する事になった。
 タクシーを捕まえて飯岡さんと門倉さんそれに節子さんが後ろに座り、僕が助手席に座った。
「〇〇町までお願いします」
「かしこまりました」
 メータを倒して車が走り出した。タクシーは十分ほど走って停まった。
「この先が部屋だから」
 節子さんが先頭に立って歩き出す。門倉さんの足が怪しいので僕が躰を抱えて一緒に歩き出す。飯岡さんは自分が歩くので精一杯みたいだ。
「ここよ、二階だから上がって」
 アパートの階段を節子さんが登って行く。僕は一度来ているが、まさかそんな事は口には出せない。
 この前は言わなかったが、部屋は六畳二部屋に風呂とトイレ、それに台所が付いた間取りだった。
「さあ入って頂戴」
「おじゃまします」
口々にそんな言葉を言って上がらせて貰う。相変わらず華やかで綺麗な部屋だった。
 節子さんは隣の部屋から布団を一組出して来ると
「雑魚寝で良いわよね。マクラも一つしか無いけど適当に使って」
 そう言って布団を敷いて門倉さんに
「さあ寝たほうが良いわよ」
 そう言って上着を脱がせ、下着姿になると横にならさせた。その姿に思わず目が行きそうになるのを堪える。
 横になった門倉さんに毛布を掛けた。
「さあ、飯岡さんも横になって」
 飯岡さんも上着を脱いでワイシャツとズボンになると門倉さんの隣に横になった。
「電気消しますからね」
 節子さんの声がしたかと思ったら暗くなった。その途端
「私たちはこっち」
 見るとこの前は閉まっていた襖が開いていて、シングルのベッドが見えていた。
「え、一緒に?」
「そうよ。他に何処に寝るの。私、翔くん以外が私のベッドに入るのは正直嫌」
「何も無いですよね」
 僕の言葉に節子さんは笑い声で
「当たり前でしょう。本当にお子様なんだから」
 そう言って嬉しそうな表情を見せてくれた。
 僕も上着を脱いでシャツとズボンになる。汚れてはいないが、このままベッドに潜り込むのは申し訳ない。
「男は細かい所は気にしないのよ」
 節子さんは僕の考えている事を判ったのだろうか? でも言われた通りにベッドに入らせて貰う。何とも言えない良い匂いがした。この香りは節子さんの匂いだろうか? そんな下らない事を考えていたら節子さんが入って来た。なんと節子さんはスリップ姿だった。
「ちょ! そんな!」
「大丈夫よ。裸じゃ無いから。何も無いわよ。さあ寝ましょう」
 節子さんがそう言って部屋の灯りを消した。僕は最初、節子さんと背中を合わせていたが
「こっち向いて寝ない?」
 そんな事を言われたので寝返りを打って節子さんと向き合う形になった。
「こうすればお話が出来るじゃない」
 この時、僕はこの先理性を保っていられるか自信が無かった。
 そんな時だった、突然隣の部屋の隣の布団からすすり泣く声が聞こえて来た。
「うう~んうう~ん。わたし騙されたのよ。あんあんあん」
 段々声が大きくなって来た。隣の飯岡さんはイビキをかいて寝ていて起きそうも無い。これは嫌な予感しかしなかった。僕と節子さんは至近距離で見つめ合うのだった。

夜の調理室 5 飲み会

 週末の事だった。金曜日の授業が終わると飯岡さんが僕と節子さん、それに門倉さんに
「呑んでいきませんか? 明日仕事ですか?」
 そう提案した。僕は特別用事は無かったし、家の仕事も明日は暇なことを確認していた。節子さんも
「明日は事務所休みだから良いわよ」
 そう返事をした。門倉さんは少し考えてから
「まあ、いいか。私が店に出なくてもスタンドは回るでしょう」
 そんな事を言って結局四人とも一緒に呑みに行くことが決まった。
「何処に行くの? 飯岡さん良い店知ってるの?」
 門倉さんが興味深そうに尋ねると
「そうだな。新しい居酒屋形式の店が出始めたんだよ。今日はそこに行って色々と参考にしようと思ってね」
 この頃、今ではすっかり定着している居酒屋がチェーン店化し始めた事だった。
「それは面白そうね」
 節子さんがすぐに賛同した。
「翔太くんは?」
「僕は何も知らないから、何処でも良いです。皆さんにお任せします」
 そう言って、繁華街でもある隣の街に歩いて行くことになった。電車に乗れば返って時間が掛かるからだ。 
 十分ほど歩くと小綺麗な黄色い看板の店が見えてきた。
「あそこですよ」
 飯岡さんの言葉に節子さんが
「何がお薦めなの?」
 食べ物の事を尋ねる。すると飯岡さんは
「大抵のものならメニューに乗っていますよ。それに、そこでは酎ハイがあるんですよ」
「酎ハイ? なぁにそれ?」
 さすがに門倉さんも知らないみたいだ。
「焼酎を炭酸で割ってレモンのスライスを入れたものです。飲み口が良く飲みやすいんですよ」
 今でこそ、何処の店でもあるが、この頃は焼酎とかホッピーは皆が知っている飲み物とは言えなかった。ビール、日本酒、それにウイスキー等が主流で焼酎は安酒場で呑まれるお酒と言う感覚だった。
 それが、焼酎に色々な風味の飲料を混ぜる事で飲みやすさが受けて、次第に広まって行った。
 店に入ると週末だからか結構混んでいた。飯岡さんは常連らしく店の人に片手で指を四本立てて見せていた。すると店長らしき人が
「奥の席が空いてますから」
 そう言って店の奥の仕切られた一角を指差した。
「丁度よい場所が空いていたね。あそこは個室みたいなものだから邪魔が入らないから丁度よいよ」
 僕と節子さんと門倉さんは飯岡さんに従って奥の一角に陣取った。すぐに店員がお通しを持って注文を訊きに来た。
「俺は酎ハイかな。皆は何にする?」
 飯岡さんが尋ねると門倉さんが
「じゃあ私もそれを飲んでみるわ」
 そう返事をして節子さんも
「私も試しに飲んでみる」
 そんな事を言ったので僕だけ生ビールとは言い難くなってしまった。
「じゃあ僕もそれで」
 結局四人が酎ハイを飲む事になった。すぐに運ばれて来たのはビールの中ジョッキに透明な液体とレモンのスライスが浮かべられたものだった。炭酸が入っているらしく細かい泡が立っていた。
「それじゃお疲れ様。カンパイ!」
 それぞれがジョッキを握った手を伸ばして軽く重ねた。
「ああ、美味しい。飲みやすいわね」
 門倉さんが真っ先に感想を言うと節子さんも
「ホント、飲みやすいわね」
 そんな事を言って結構な量を喉に流し込んだ。僕はと言うと元々お酒は飲めない方なのだが、これは飲めそうだった。
「確かに僕でも飲めそう」
「だろう。これからはこれが主流になるよ。将来は俺の店でも出すつもりなんだ」
 飯岡さんはもう自分の店を開く事を考えているみたいだった。
「さて何を食べるかな」
 テーブルに置かれたメニューには本当に色々なモノが載っていた。少しでも飲食業を知っている僕からすると、こんなに多くのメニューは仕込むのが大変だろうと思った。
「私、おでんがいいな。大皿で取って皆で突けば良いしね」
 早速、門倉さんが注文をする。飯岡さんはやはり焼き鳥だ。節子さんは少し迷って半片のチーズ焼きを頼んだ。僕は唐揚げにした。それと皆でつつくのに野菜サラダを注文した。
 最初のジョッキを直ぐに飲み干した飯岡さんと門倉さんは、二杯目の酎ハイを頼んだ。飯岡さんはホッピーも注文した。飯岡さんは濃いのを注文した様だった。ホッピーで割るのだろうか。少し飲み方が気になった。
 話が弾んで楽しい雰囲気となった。僕も節子さんも二杯目を頼んでいた。
「もう少し何かお腹に入れた方が良いよ」
 飯岡さんが注意をしてくれた。確かに空腹にいきなりお酒を入れたからだ。その言葉に従って厚揚げ焼きを注文した。厚揚げにかつを節がたっぷりと乗せられているやつだ。
 二杯目も半分ぐらい減った時だった。何だかテーブルが自分の座っている場所からやけに遠く感じるようになった。隣の節子さんも先程までは僕にくっつく様に座っていたのに今は手を伸ばさないと届かない所に座っている。
『これはおかしい』
 とすぐに感じた。酔っているのだろうか。正直僕は、お酒なんか余り飲んだ事が無いのだ。酔うと言う事は楽しい事だと僕の先輩諸氏は言っていたけど、正直僕は余り楽しくは無い状態だった。躰も何かフラフラしている気がするし、皆の声も遠い所で話している感じがした。この時僕は自分が酔ってる状態だと把握した。
「どうした風間ちゃん」
 その声をした方に振り向くと、飯岡さんが彼方の方角で僕の事を心配していた。でもその質問にすぐには答えられない僕。
「翔太くん大丈夫? 何だかおかしいわよ」
 節子さんも心配してくれる。門倉さんが遠くからグラスに入った水を差し出してくれた。
「ほら水飲んで」
「ありがとうございます。何だか皆さんが遠くに居る感じがして……」
 やっとそれだけを口にして門倉さんが出してくれた水を飲んだ。誰かが「酔い覚めの水値千金」と言ったが、酔い覚めでは無いものの、確かに酔った時の水は美味しかった。
「少し横になった方が良いよ」
 飯岡さんがそう言って場所を開けてくれた。
「すいません。二杯しか飲んでいないのに」
「二杯じゃないわよ。未だ残っているわよ。それより変な心配しないで休んでいなさいね」
 門倉さんに言われて確かにその通りだと実感した。実に情けないと思った。その後は眠ってしまったのだろう。暫くして、顔に冷たいものを感じて気がついた。
「あ、起こしちゃった?」
 節子さんが冷たいおしぼりを額に乗せてくれたのだった。
「ありがとうございます。本当に申し訳ないです」
「いいのよ。そんなこと気にしなくて」
 節子さんはそう言って、僕の頬を右手で撫でてくれた。柔らかい感触が僕を少し現実に戻してくれた。
「二人は?」
 門倉さんと飯岡さんの事が気になった。確か二人共お酒に強いと記憶していた。
「もう二人で盛り上がって大変」
 節子さんが、そう言って二人の方角に視線を移した。僕は節子さんに手伝って貰って起き上がって二人の様子を見ると、お互い陽気な声で何かを話している。どうやら飯岡さんの故郷の静岡の話らしかった。
「静岡も秘境があるんだよ」
「へえ~何処なの?」
「静岡は県の北部が南アルプスに掛かっているから、井川だとか山の方は本当に秘境なんだ。熊も出るしね」
「へえ~そこは温泉あるの?」
「ああ、あるよ。井川温泉って言って素晴らしい温泉があるんだ」
「今度皆で一緒に行こうよ」
「そうだね」
 二人の間では旅行の計画も進んでいるみたいだった。飯岡さんは門倉さんに酎ハイを勧めている。どうやら僕が眠っている間に焼酎をボトルで取って、飯岡さんはホッピーで、門倉さんはサワーで割って飲んでいるみたいだった。
「ね、盛り上がってるでしょう。私だけ残されてしまったのよ。翔太くんが居なかったから」
 節子さんはそう言って僕に怪しい視線を向けるのだった。飲み会はこの後更に盛り上がり、最後は大変な事態になる事を僕も他の皆も未だ知らない。

夜の調理室 4 最初の調理実習

 調理実習と言っても生徒の殆どは僕も含めて調理初心者なので、最初の実習はそんなに大したものは作らない。調理台の上の籠に乗せられていたのは、胡瓜、人参、キャベツ、玉葱と言った野菜だけだった。教壇に立っていたのはマスコミで見た記憶のある大柄の先生だった。

「え~玉城と申します。良くテレビで見ていると言う人もいるでしょうが、本物です」

 そう言って生徒から笑いを取った。

「今日から、日本料理、フランス料理、中華料理、そして製菓と順番に実習をしていきます。今日は最初なので包丁の使い方を学んで行きます。要するに切り方ですね。それでは各自、前へ出て来てください」

 教壇には生徒が使う調理台と同じものがセッテイングされていて、おまけに上には鏡まで貼ってあるので後ろに並んだ生徒も先生の手元を見られるように工夫されている。

 その後ろの黒板には今日使う野菜の種類と量が書かれている。勿論生徒はそれらをノートに書き写している。玉城先生は生徒が調理台を囲んだのを確認すると

「それでは切り方の基本を実際にやって見ます。見て覚えて良く練習して下さいね。今日やるのは基本中の基本ですからね」

 玉城先生はそう言うと柄の先に長方形の刃がついた包丁を取り出した。

「これは薄刃と言う包丁で日本料理では野菜を切る時に使います。これで大根の桂剥きもやります。桂剥きは卒業試験になりますので、それまで各自課題をマスターしておいて下さいね。出来ないと卒業させません」

 ちなみに、その課題とは五分で二メートルの長さの桂剥きをする事。まな板の上に並べた時に透き通っていて下が透けて見える事。だった。これは地道に練習しないと出来ない。

 玉城先生はその大柄の躰に似合わず素晴らしい技を僕たち生徒に披露してくれた。基本的な切り方や特殊な切り方も見せてくれた。女性徒の殆どは目を輝かせて見ていた。

 最後に先生はその中でも更に特殊な「剥き物」と呼ばれる技も披露してくれた。口々に

「日本料理もいいな」

 そんな声が聞える。

 実際の僕たちの実習は先程の野菜を千切りにして行く事だった。各自相談して分担を決める。

「私、玉葱苦手だから……」

 門倉さんがそう言うので僕が

「じゃあ僕が切りますよ。これだけがスライスですから」

「そう風間ちゃんに頼んじゃおうかしら」

「任せて下さい。他の人もそれで良いですか?」

 全員玉葱には触りたく無いみたいだった。了解を得られた。

 相談した結果、飯岡さんと門倉さんが一番大変なキャベツを。相葉さんが人参を、そして菊池さんが胡瓜を切る事になった。早速作業に入る。門倉さんと飯岡さんが

「どうする? 一枚一枚剥がして包んでから切るかい? それとも四分の一に切り、繊維に沿って切るかい」

そんな相談をしている。門倉さんは

「他の班はどうしてるのかしら」

 そう呟いて周りを見渡した。

「半々みたいだね」

 飯岡さんが観察すると

「じゃあ、私とあなたでそれぞれでやりましょうよ。あなたはどっちが得意なの?」

 門倉さんはそう言って面白い提案をした。

「そうだね。そうしよう」

 結局、門倉さんが一枚ずつ包んだ方、飯岡さんが繊維に沿って切るやり方になった。最初に門倉さんが芯を抜いて、キャベツの葉を剥がして行く。大体半分ぐらいになったら飯岡さんに渡した。彼はそれを四半分に切り、繊維に沿って切り始めた。僕も見ていられないので作業に掛かる。

 茶色い外皮を剥いて行く。先生のやった通り、包丁で頭を切り、下の根の部分をえぐって行く。その後包丁を使い皮を剥いて行く。僕は幼い頃から玉葱は平気だった。玉葱のガスが目に滲みたと言う事は経験したことがなかったのだ。

 教室には先生の他に助手の人が二名居て、各調理台を回りながら、注意や指導をしてくれる。判らない生徒には見本も見せてくれる。今日は切った野菜に先生たちが作ったドレッシングをかけて食べるのだそうだ。僕の玉葱だけはスライスだが、切ったものをボールに水を張って晒すのだ。そうしないと玉葱なんて通常は生で食べられない。

「あんた本当に不器用ねえ」

 作業に週中していたら不意に門倉さんの声が響いた。顔を上げると菊池さんの手が止まっていた。見ると他の野菜はかなり進んでいるのに胡瓜だけは殆ど切れていなかった。

「あんた今までやった事ないの?」

 門倉さんに言われた菊池さんは少し怯えながら

「包丁なんて握ったの今日が生まれて初めてですよ。結婚前は母親が、結婚してからは妻が料理を作ってくれますからね。必要無かったんです」

 菊池さんの言葉に門倉さんは

「じゃあ、何故ここに来たの?」

 そう尋ねた。彼女にしてみれば不思議なのだろう。

「業務命令ですよ。資格を取って来いと言う」

 そう言った菊池さんに対して門倉さんは

「私と同じかぁ。ウチも今度ガソリンスタンドに喫茶軽食を併設する事になったから、私が資格を取りに来たのよ」

「へえ、イートインか、最先端だね」

 そう言ったのは飯岡さんだ

「イートイン?」

「そう、アメリカなんかじゃそう言うらしいよ。向こうではガソリンスタンドで何か食べられるのは昔からあったらしいからね」

 飯岡さんはそう言ってアメリカの自動車事情を話し始めた。二人共既にキャベツは切り終わっていて、一番大きなボールにうず高く積まれていた。

 結局、中々進まない菊池さんを門倉さんが手伝って全てが切り終わった。その切った野菜を玉城先生が見て廻って色々と注意や感想を言ってくれている。僕たちの班に来た時は

「ほお~中々じゃないか。よく均一に切れているね。一番大事なのは太さや大きさが揃っていること。揃っていればお客さんに出せる。不揃いならばそれは未熟か失敗作だと判ってしまうからね」

 そう言って、一番大事な事を教えてくれたと思った。それを聴いて飯岡さんは後で

「ああいう言葉が大事なんだよね。現場を知っている人からしか出て来ない言葉さ」

 そんな事を言っていた。

 最後は各自切った野菜を混ぜ合わせ、先生が作ったドレッシングを掛けて試食して授業は終了した。勿論、ちゃんと片付けたのは言う間でもない。


 帰りに先程玉城先生が言った事を節子さんにも教えてあげた。

「ああ、そうか。そうなのよね。それって大事だわ」

「でしょう! 良い事言うわよねえ」

 そう言ったのは門倉さんだった。調理実習の関係で僕と飯岡さんと一緒に帰る事になってしまったのだった。

「風間ちゃんと秋山さんて最初から仲が良かったわよねえ。既に恋人同士で受験に来たのかと思っていたわ」

 門倉さんがとんでもない事を言う。

「あら、私と翔太くんは只の同級生よ」

 節子さんがそう返事をすると

「あら翔太くんって呼んでいるんだ。良いな~私も良い?」

 僕が頷くと飯岡さんは

「俺は風間ちゃんでいいな」

 そう言って笑った。願わくば僕もその方が良い。

 駅で飯岡さんと別れる。門倉さんは同じ方向なので一緒の電車で帰る。節子さんが降り、その次の駅で門倉さんが乗り換えるのだ。二人だけになると

「私の家日暮里なのよね。三人では一番遠いかしら」

「いや、僕もこの先ですから同じぐらいですよ」

「でもさ、節ちゃんとあなたは完全に恋人同士だと思っていたわ」

「とんでもないですよ。あの日初めて逢ったのですから」

「その割には喫茶店なんか一緒に行っていたわよね」

「見ていたのですか?」

 まさか見られていたとは思わなかった。

「だって彼女目立っていたじゃない。私なんかとは大違い」

「そりゃ目立ちますよ。節子さんミス栃木だったのですから」

 僕は本当の事を教えた。すると門倉さんは

「やっぱりね。オーラが違っていたものね」

「オーラが見えるんですか?」

「そんな気がするのよ」

 そんなものなのかと思う事にする。

「何か違うのよね。ああゆう人って。私なんかとは違うのよね」

 そう自分を卑下する門倉さんに僕は

「飯岡さんがお嬢様だって言っていましたよ」

 そう暴露すると彼女は

「お嬢様って言ったってしがないガソリンスタンドの娘よ」

 そう言って笑った。僕の目から見て、確かに門倉さんは特別な美人では無いかも知れない。僕は美人には二通りあると思っている。最初はとんでもない美人に思っていて、付き合ったりしていると段々慣れて来て、親しみを感じる顔。もうひとつは最初は特別美人と思わなくても次第にその美しさに気がつく顔。でも門倉さんはそのどちらでもないと思った。しいて言えば彼女は肉体派だろうか?

 スタイルは悪くない。節子さんタイプでは無いが、胸も豊かだし、ウエストも締まっていてヒップも悪くない感じだ。殆どの男は彼女に言い寄られた簡単に落ちると思う。肩までの髪に大きな瞳と少し厚めの唇。良く、厚い唇の女性は情に厚いと言うがこの後、彼女がまさにその通りだと実感する事になるとは思わなかった。

「歩く時に胸が揺れるのは見ていて男として嬉しいです」

 思わずそんな事を口にしてしまった。

「いやぁ~ねえ。翔太くん、そんな所見ているの?」

「いや、見ていると言うより門倉さんが目に入ると、どうしても見えてしまうでしょう」

 僕の言葉なぞ判っていたと言う感じで

「私もね、口を開かないといい女ってたまに言われるんだけど、口を開いたら台無しだって言うのよ皆。酷いと思わない」

 確かに彼女は下町の言葉そのままだけど僕は決して嫌ではない。

「その事も含めて門倉さんの魅力じゃ無いですか」

 僕の本音だった。それを聴いた門倉さんは少しの間黙っていたが

「節ちゃんの前では言えない言葉でしょう? 今の事は黙っておいてあげるわね」

 そう言って楽しそうな表情をした。 

夜の調理室 3 深夜のコーヒー

 未だ終電には間があった。僕はラーメン屋から駅に行くつもりだったが、節子さんが
「ウチ近くだから少し寄って行く? コーヒーぐらい入れてあげるわよ」
 何時もと違う口調でそんな事を言った。恐らくアルコールが入っているせいだと思った。
「え、でも……」
 僕が返事を戸惑っていると節子さんは笑いながら
「何勘違いしているの! 何も無いわよ。いらっしゃい」
 そう言って口を押さえいる。その目が完全に笑っていた。
「いや、そんな事考えていないですよ。でも、女性の部屋にお邪魔するのは僕には覚悟が必要だと考えたのですが、そうですよね考え過ぎですよね」
 正直な想いを口にした。
「翔太くんは正直過ぎるわよ。冗談でももっとワイルドな事言っても良いのよ」
 節子さんの言葉が何処まで本音なのかは今の僕には判断出来なかった。
 大通りから路地に入った一角に、節子さんのアパートがあった。
「狭いけど上がって」
 二階の突き当りのドアを開き壁の灯りのスイッチを入れると、女性の部屋らしく華やかな雰囲気の部屋が現れた。
「お邪魔します」
 形ばかりの言葉を言って靴を脱ぐ。節子さんは鞄を置くと、台所に行き薬缶でお湯を沸かし始めた。
「炬燵の所の座布団に座って」
 部屋には小さめの炬燵があり明るい色のカバーが掛かっていた。隣の部屋の境の襖が少し開いていて、そこから次の部屋にあるベッドが覗いていた。僕は見ないようにと思ったが、それは無理な事だった。
 この頃はLEDなぞ未だ無いので、天井には蛍光灯に白いカバーが掛かった灯りがあり、そこから白い光が部屋を照らしていた。
 座布団を敷いて座って部屋を観察していると箪笥の上の写真に目が行った。立ち上がってその写真立てを手に取る。
 写真に写っているのは一人の女性だった。正確には今の僕と同じぐらいの歳の女性が王冠を頭に乗せて写っていた。ワンピースの水着ぽいものを身に付け、肩にはガウンを纏っていてた。何かのコンテストの優勝者の写真だと思った。
「もう七年も前の事よ」
 振り返ると節子さんがお盆にコーヒーカップにコーヒーを入れて運んで来てくれていた。
「この写真の人、もしかして節子さん?」
「そうよ。十九歳の時でね。ミス栃木になった時の写真よ」
 炬燵のテーブルの上にコーヒーを置きながら、何事も無いように說明してくれた。
「ミス栃木!」
「そう。友達が勝手に応募したの。どうせ書類審査なんかで落ちると思っていたら、あれよあれよと言う間に優勝してしまったの」
「じゃあ、ミス日本の大会にも出たの?」
「出たわよ。落ちちゃったけど」
 優勝していたら世界大会に日本代表で出ていた事になる。そうなったら今ここで僕とコーヒーを飲もうとしてる事実はない。
 節子さんが大勢の中で何か目立っていたのは、そのせいだったと思った。
「実は僕、一番最初に節子さんが目についたんだ。とても惹かれたのは本当なんだ」
 僕の本音を聴いて節子さんは
「男の子は女性の前であからさまに本音を言うものではないわ。でもとても嬉しい」
 そう言って嬉しそうな顔をした。
 都内のあるアパートの一室で僕は美しい女性と二人で夜のコーヒーを飲んでいる。でも、それだけだった。それ以上の事は起こりそうもなかった。
 明日も仕事があるし、僕も家の手伝いが待っていた。少なくとも終電に乗らなければならなかった。
「そろそろ帰らないと」
「そうね。子供は夜更かししちゃ駄目よ」
 節子さんは冗談とも本音ともつかぬ言葉を口にした。
「駅まで判る?」
 僕は判っていたが、敢えて嘘を言った。
「良くわからない」
「仕方ないわね。送って行ってあげる」
 節子さんはそう言うと
「着替えるから待っていて」
 隣の部屋に入って行って襖を完全に閉めた。隣の部屋の灯りの点く音がした。僕はコーヒーの残りを口に流し込む。そしてもう一度箪笥の上の写真立てを手に取り、眺める。十九歳の節子さんは「ミス栃木」とか関係なくとても綺麗で、今の僕とは釣り合いが取れないと感じた。同世代でこれだけの美人には僕は逢った事がない。
「お待ちどうさま」
 襖が開いて節子さんが現れた。それまで着ていたブラウスに膝までの紺のスカートでは無く、スリムのジーンズに躰の線が判るような、ピタッとした薄緑色の長袖のTシャツに着替えていた。こんな格好をするとスタイルの良さが露わになる。
「スタイル良いですね。さすがだ」
「あら、お世辞? でも褒められて嫌な気持ちはしないわね」
 節子さんは僕の手を取ると、炬燵の上の時計を眺め
「そろそろ行かないと間に合わないかも知れないわ」
 そう行って僕を部屋の外に連れ出した。僕と節子さんは手を繋ぎながら駅まで歩いて行った。駅の近くまで来ると節子さんは繋いでいた手を解き、腕を僕に絡ませて来た。そして頭を僕の肩にのせる。
「一度、男の人とこうして歩いてみたかったの」
 何処まで本気か判らぬまま駅に着いた。
「それじゃここでね」
「今日は色々ごちそうさまでしたでした」
「良いのよ。また明日、学校でね」
「また明日」
 改札を抜けるとホームに電車が入線して来た。
「ほら、急がないと」
 その声に急いでホームに上がり電車に乗った。窓の外では改札で節子さんが手を振っていた。僕もそれに応えて手を上げた。電車がスピードを上げて景色が流れて行った。それを眺めながら僕は、節子さんは箪笥の上の写真を僕に見せたくて自分の家に寄らせたのではないかと考えた。と言うより、未熟な僕には、それしか思い付かなかった。

 調理師学校なので通常の授業。例えば栄養学、食品衛生、公衆衛生、母子栄養等の机の上の授業の他に調理実習がある。ひとクラス五十人を五人ずつ十の班に分けて調理実習室で実習をするのだ。
 僕の班には名簿順で飯岡さんが入った。節子さんは次の班になってしまった。僕の班に入って来たのは、門倉さんという二十代中頃の女性。それに相葉さんという昼はパートをしていて本業は主婦だという三十代の人。それに、菊池と言う三十少し前の男の人だった。 
 飯岡さんは知り合いの焼き鳥屋を手伝っているくらいだから手際良かった。相葉さんは主婦なのである程度は調理が出来ていた。全く出来ないのが菊池さんだった。おぼつかない手で包丁をいじっている菊池さんに門倉さんが
「あんた。そんなに恐恐してると手を切るわよ」
 そう言って見ていられないと言いたげだった。彼女は肩までの紙を三角巾に包み、大きな目に少し厚めの唇をした派手な顔をしていた人だった。何でも実家は油問屋をやっているのだそうだ。
「油問屋なんて今時、商売にならないので本業はガソリンスタドをやってるのよ。わたしこれでも、危険物取扱の資格は持っているのよ」
 そう自己紹介をしたのを思い出した。飯岡さんが
「要するに下町のお嬢様と言う事だよ」
 そう僕に耳打ちしてくれた。
「下町なんですか?」
「だって日暮里だって言っていたよ」
 日暮里は確かに下町だと思った。
「お嬢様って?」
「ガソリンスタンドを幾つも経営してるそうだよ。お嬢様だろう」
 確かにそうだと思った。
「それにあの派手な顔立ちや仕草。全てがお嬢様ぽいじゃないか」
 その日から僕と飯岡さんの間では門倉さんのあだ名は『お嬢様』と決まった。

夜の調理室 2 焼鳥と生ビール

 入学手続きを済ませると次は授業で使うものを購入しなくてはならない。予め日にちが決められていて、昼間部の栄養士科と調理師科の生徒は二日間。夜間部の調理師科の生徒はそれに加えて夜間の日も用意されていた。
 基本的には調理師科なら昼間も夜も買うものは変わらないのだが、唯一違うのは、昼の生徒には制服を作る事が決められていると言う事だった。夜間の生徒にはそんなものは無かった。僕はこれだけでも夜間に変更させられて良かったと感じた。中学高校と六年間も制服を着たのだ。そろそろ卒業したかった。
 買うものは教科書の他に白衣、前掛け、帽子や三角巾それに包丁のセット。加えて何故か簡易オーブンも買わされた。これはガス台の上に乗せて簡易的にオーブンとして使える道具だった。これを生徒が買う目的は、後で判った。
 結構な荷物になったが、何とか一人で持ち帰る事が出来た。秋山さんと逢うかもと少し期待していたが空振りに終わった。
 四月になり昼間部の生徒と一緒の入学式があり、そこでクラス分けが発表された。クラスは二つあり、ボクはB組だった。
張り出された紙を見ていると、その中に秋山節子と言う名前を確認した。少し嬉しかった。少しでも知った人がいるのは安心出来ると思った。そして、次の日から授業が開始された。
 教室に行って見ると、席を書いた紙が張り出されていて、それによると僕は出席番号三で、席も前から三番目だった。驚いた事に僕の隣は秋山さんだった。基本的に男女が組み合わされて席が決められていたみたいだった。
「隣になって嬉しいわ」
 秋山さんはそう言って喜んでいた。僕も正直嬉しくて
「この前入学式で同じクラスになって喜んでいたら、まさか隣の席とは」
「あら、そんな事言って、本当はもっと若い子の方が良かったのでしょう?」
 クラスを見渡すと確かに僕と同じ位か、若い子がかなり居た。その子らの殆どは品川に本社がある某大手のメーカーの社員で、皆寮住まいだと後で判った。
「そんな事ないですよ。本当に嬉しく思っているんですよ」
 これは本音だった。中学高校と男子校で過ごした僕は女子に対して接し方が良く判っていなかったからだ。だから、昨年一年間、予備校で同年代の女子と同じ教室で過ごした事は刺激的でもあったのだ。
 たまにだが、女子から授業の内容について質問を受けた時などはドキドキしてしまった事もあった。満員電車以外でこんなに身近に女子が近くに居た事なぞ無かったからだ。
「まあでも、私は本当に嬉しい。何か縁を感じるの。だって入学試験の時に初めて逢って、話をして、普通ならそれきりになるはずなのに、今はこうして隣に座ってる……これって何かあると言う事だと思うでしょう?」
 何とも大胆な考えだと思ったが、正直、あの受験会場で秋山さんが一番目だっていた。正直僕は、強く惹かれたのは事実だった。
 最初の日はクラスの役員を選んだり、授業のオリエンテーリングをして終わった。クラスの委員に選ばれたのは僕の前の席に座っていた飯岡と言う二十代後半のサラリーマン風の人と、少し離れた席に座っていた鈴木と言う二十歳を少し過ぎた年頃のメガネを掛けた真面目そうな美人だった。
 飯岡さんは社交的で周りの席の人によく話し掛けていた。自己紹介によると、名前を聞けば誰でも知っている大手の保険会社の社員で、後で判ったが大学も一流を出ていた。そんな大手の社員が何故ここに来たのかを質問したら
「将来は焼き鳥屋をやりたいんだ。今の会社に入ったのも給料や福利厚生が良かったからで正直、保険会社なんて生涯勤務する様な会社じゃないよ。お金を貯めて自分の店を開くのが夢なんだ。だからここに通って調理のノウハウを覚えるんだよ」
 そんな事を聞いたのはその日の帰りに一緒に寄った酒場での事だった。本当は授業が終わるのは二十一時半なのだが、今日に限っては二十時半に終わってしまったのだ。腕時計を確認しながら飯岡さんが後ろを振り返り、僕と秋山さんに向かって
「少し寄って帰りませんか? 一時間ぐらいならどうですか?」
 そう言って誘ってくれたのだ。

「ああ旨いな! 焼き鳥と生ビールは黄金の組み合わせですよね」
 上機嫌で飯岡さんが持論の同意を求める。僕はそれほどアルコールに強くないので大人しく飲んでいる。秋山さんも決して嫌いな方では無いようで早くもジョッキを開けてしまいお代わをした。ちなみに飯岡さんは三杯目が終わりそうだ。
「でも、一流の会社だから辞めちゃうのは勿体無いじゃないんですか?」
 僕は疑問を飯岡さんにぶつけると彼は
「所詮、宮仕えですよ。男なら一国一城の主じゃ無いですか!」
 その答えに秋山さんが
「よく脱サラでラーメン屋なんて聞きますけどね。大体失敗してるわね」
 そう言って話に乗って来た。
「ラーメン屋は正直、素人がやるにはリスクが大きいですよ。だから僕は焼き鳥屋なんです。今でも土日とか休みの日には知り合いの店で無償で手伝っているんですよ」
「無償で?」
「そうですよ。だって色々なノウハウを教えて貰うのですから当然ですよ」
 飯岡さんはそう言って三杯目を開けて四杯目を注文した。今なら酎ハイなのだろうが、この頃焼酎は未だ一分の人の飲み物で留まっていた。
「今だから言いますけどね。試験の日、あの時秋山さんと風間君は目立っていたよね」
 飯岡さんが何故か嬉しそうにニヤニヤしながら言う
「僕もあの時居たのですよ。でもあの場で誰かと会話するなんて考えも依らなかったから、驚きでしたよ」
「あら、そうでもないと思ったけど」
 秋山さんが答える。僕も
「偶然ですよ」
 そう嘘をつく。本当はあの場でとても目立っていた秋山さんが気になって仕方なかったのだ。
 「まあ、明日からよろしくお願いします!」
 三人で握手をしてその日は打ち上げた。飯岡さんは反対方向なので駅で別れた。僕と秋山さんは帰る方向が同じなので同じホームに立っていた。見ると反対側のホームに飯岡さんが立っていて僕たちを見つけて手を振っていた。酒が入っているとは言え、社交的な人だと思った。クラス委員に指名されたのも面接でその辺りを読み取ったからだろうか? 飯岡さんに手を上げながらそんな事を思っていた。
 先に反対側の電車が来て飯岡さんの姿は車中の中に消えた。そして電車が過ぎ去って僕と秋山さんが残された。
「お腹空かない?」
 そう言えば先程の酒場で焼き鳥を数本食べただけだった。授業が始まるのが十八時なので夕食は食べていなかった。満腹で授業は受けたくなかった。
「少し空いていますね」
 そう答えると秋山さんは
「私の家の傍に美味しいラーメン屋さんがあるの。行かない?」
 秋山さんの降りる駅は僕の降りる駅より数駅手前だった。時間的には終電には未だ充分な間がある。
「いいですね。秋山さんがお薦めのラーメンが気になりますね」
 空いたお腹と邪な期待で笑顔を作った。 

「本当に美味しいですね」
 細い麺を啜りながらラーメンの感想を言う
「でしょう? これなら飯岡さんにも食べさてあげたかったかな」
 そんな冗談めいた事を呟くと秋山さんは
「翔太くんだから連れて来たのよ」
 そう言ってラーメンを食べる手を止めた。僕は回らない頭で言われた意味を考えていた。
「あの時、教室を見回して一番最初に君が目についたの。その姿に凄く惹かれたの。だから昼間部希望と訊いてがっかりしたのよ。でも神様っていると思った。だって、まさか翔太くんが夜間部に移って来るなんて信じられない事が起きたと思ったわ」
 いきなり下の名前で呼ばれ、そんな文句はラーメン屋で言う言葉では無いと思いながらも周りの客は全く気にして居なかった。
「僕は、正直秋山さんだけしか目に入りませんでした」
 心の丈を正直に言ってしまう
「本当? わたし、あなたより七歳も年上なのよ。こんなオバサン興味無いでしょう。今日のクラスにだって同じぐらいの歳頃の娘が沢山居たし。皆可愛くて綺麗な娘ばかりだったわ」
 確かに綺麗な娘が多かったとは僕も思った。
「でも心に残ったのは秋山さんなんです」
「お世辞でも嬉しい。今日から二人だけの時は名前で呼んで。『せつこ』って」
 その日から僕は二人だけの時には、秋山さんの事を「節子さん」と呼ぶようになった。
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